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昨日の未来
三日目
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「じゃあ、行って来ます。薫をいじめないでよ?」
「なんで俺だけに言うんだよ」
「だって、霧夜君がいじめるわけないじゃない。あ、そろそろ食べるものなくなってきたから、帰りに買って来るわね」
そう言って秋衣は、一日ぶりに出掛けて行った。行く先は近所の食堂で、秋衣はそこで働いている。昨日は薫のことがあって急遽休み、今日も休むつもりでいたのだが、薫はすっかり落ち着いているし、羽澄と霧夜が残るということで、出勤することにした。
そんな秋衣を食堂まで送って部屋に戻ると、空気が張り詰めていた。
羽澄は変わりないのだが、薫が緊張しているのが明らかに判る。霧夜は、わずかに苦笑した。
「もう少しだけ、待ってもらえる?」
反射的にか、びくりと身をすくめた薫が、おずおずとではあるが肯いたのを確認して、薬缶を火にかける。戸棚から紅茶の葉を取り出して、カップも三つ、用意する。
「先に言っておくけど、僕たちはもう廃業したんだ。だから、遠夜や弓月という名も捨てた。それをわかった上で話してほしい。当然、頼まれたからといって、期待通りのことをできると思われては困る。いいね?」
やんわりと、拒絶しているとも取れる言葉だった。
それから、お茶を淹れた霧夜が椅子に座るまでの間、空間は沈黙で満たされていた。
「それで?」
湯気の上がるカップをちらりと見て、羽澄は声を出した。だが、返事はない。
「三谷薫ちゃん。俺らが廃業したってことで何を話せばいいのか判らなくなってるなら、とりあえず全部話せばいい。秘密は守る。その要求を断るかもしれないとだけ、理解していてほしい。仕事をしないなら話せないというなら、それはそれでいいと思う。他の奴の紹介くらいならできるぜ?」
うつむいて黙っている薫に、羽澄は、紅茶を飲んで続けた。
「ついでに言うと、探されてるぜ、薫ちゃん。親父さんは頑張ってるみたいだな」
「…何を…知ってるの…?」
「俺は、情報扱ってるからな。身内に係るものなら、調べないはずがないだろ。どう転ぶかも判らない異分子なら、当然」
「イブンシ…」
幼い顔が、更に青ざめる。
羽澄は、嘘はついていないが、全てを真正直に告げているわけではない。昨日一日、ほとんど霧夜に張り付いていたようなものなのだから、何か使えないかと、漠然と手に入れていた噂程度のものががほとんどでしかない。ただ、手持ちの札を入れ替えて示して見せる。それだけのことだ。
霧夜は、貼り付けた笑顔を崩さない羽澄を、ちらりと盗み見た。
一時的にでも傷つけずにすむ言葉を知りながら、敢えてその逆を択ぶ。それは、羽澄の自他への厳しさと強さ、それと弱さとをまとめてさらけ出す行為で、いつも霧夜は、胸を押さえつけられるような、無形の圧迫感を覚える。それが何に起因するのかは、未だに解らないのだけれど。
話運びは羽澄に任せ、決定は霧夜に委ねる。それが今回、羽澄が協力する条件だった。
本来なら振り払わなければならない手を取ってしまったのは、甘えと知っていた。
「…それなら」
ぽつりと呟くように言葉を押し出して、薫は顔を上げた。翠の瞳は、意を決した者特有の光を帯びている。
「わたしが知ってるだけぜんぶ、話します。それで、私と父の命を、助けてもらいたいんです。むりなら、誰か紹介してもらえますか」
「いいんだな?」
「はい」
羽澄は、きっぱりと言ってのけた薫の、手元で小さく波立つ紅茶の表面を、面白そうに見やる。霧夜もそれに気付き、口元がわずかに緩んだ。この少女は、強い。
促されると、こくりと頷いた薫は、話をはじめた。
話は、数日前へと遡る。
その日の朝、薫はとりあえず二人分の食事を用意して、一人で朝食をとっていた。夜のうちに父が戻った様子はなかったが、それでも、日に一度は食事に戻るため、二人分を用意するのが常だった。不用であれば、別の機会に回せばいいだけのことだ。
しかしその日、帰ってきた父は、いつもとは違っていた。
『いいか、薫。東地区の梧桐という家に行きなさい。名前を言えば、わかってもらえる。二度と、ここには戻るんじゃない。できるな?』
薫が理解するよりも先に、父は小さなカバンを手渡した。そのときになってようやく思考を再開した脳が、何故と疑問を紡ぎ出す。
『――私は、もう足を洗うつもりだ。薫、お前を愛しているよ』
それが別れの言葉だと気付いたのは、どうやってか言われた場所にたどり着いた後のことだった。
東地区で待っていたのは、この西区とは中央区を隔て、比較的治安のいい場所に暮らす、温和な初老の夫婦だった。昔、父に命を救われたのだと感謝する二人は優しかったが、薫は、そこを抜け出した。
二人が話すのを漏れ聞いた。父が何かを盾に金を要求し、そしてそれは、自分のためなのだと。
そこまで話すと、薫は、再び口をつぐんだ。
それは、霧夜が出会ったときにうわ言のように呟くものを漏れ聞いた内容と、大差ない。羽澄としても期待したものは得られなかったようだが、淡々と、どうすると、目線を向けて来た。
一度、それを遮るようにゆっくりと、瞬きをする。
「わかった。僕らにできるだけのことをしよう」
「それじゃあ――」
「ただし、いくつかの条件を飲んでもらう。それができないようなら、僕らは動かない。いいね」
「はい」
肯く薫は半ば涙ぐんでいて、霧夜は、重く息を吐いた。呆れ顔の羽澄も視界にあるが、敢えて無視を決め込む。
「まずは、君はすぐにここを出ること。東地区まで連れて行くから、とりあえずは、そこで身を隠しているように」
「はい」
「次に、時間がかかることをわかってほしい。一月や二月はかからないかも知れないけど、今日明日で片のつくことじゃない」
「…はい」
「それと、君のお父さんの命を助けられたとして、君と再会できるのかはわからない」
さっと、表情の消えた顔を一瞥し、霧夜は先を続けた。
「助かったところで、金城からは追われるだろう。君がいれば、足手まといになる。それぞれが生き延びることを考えれば、分かれた方がいい。判断は、三谷さん――君のお父さんに任せる。それでいいなら、依頼を受けよう」
そう告げると、少しの間、沈黙が下りた。
「なんで俺だけに言うんだよ」
「だって、霧夜君がいじめるわけないじゃない。あ、そろそろ食べるものなくなってきたから、帰りに買って来るわね」
そう言って秋衣は、一日ぶりに出掛けて行った。行く先は近所の食堂で、秋衣はそこで働いている。昨日は薫のことがあって急遽休み、今日も休むつもりでいたのだが、薫はすっかり落ち着いているし、羽澄と霧夜が残るということで、出勤することにした。
そんな秋衣を食堂まで送って部屋に戻ると、空気が張り詰めていた。
羽澄は変わりないのだが、薫が緊張しているのが明らかに判る。霧夜は、わずかに苦笑した。
「もう少しだけ、待ってもらえる?」
反射的にか、びくりと身をすくめた薫が、おずおずとではあるが肯いたのを確認して、薬缶を火にかける。戸棚から紅茶の葉を取り出して、カップも三つ、用意する。
「先に言っておくけど、僕たちはもう廃業したんだ。だから、遠夜や弓月という名も捨てた。それをわかった上で話してほしい。当然、頼まれたからといって、期待通りのことをできると思われては困る。いいね?」
やんわりと、拒絶しているとも取れる言葉だった。
それから、お茶を淹れた霧夜が椅子に座るまでの間、空間は沈黙で満たされていた。
「それで?」
湯気の上がるカップをちらりと見て、羽澄は声を出した。だが、返事はない。
「三谷薫ちゃん。俺らが廃業したってことで何を話せばいいのか判らなくなってるなら、とりあえず全部話せばいい。秘密は守る。その要求を断るかもしれないとだけ、理解していてほしい。仕事をしないなら話せないというなら、それはそれでいいと思う。他の奴の紹介くらいならできるぜ?」
うつむいて黙っている薫に、羽澄は、紅茶を飲んで続けた。
「ついでに言うと、探されてるぜ、薫ちゃん。親父さんは頑張ってるみたいだな」
「…何を…知ってるの…?」
「俺は、情報扱ってるからな。身内に係るものなら、調べないはずがないだろ。どう転ぶかも判らない異分子なら、当然」
「イブンシ…」
幼い顔が、更に青ざめる。
羽澄は、嘘はついていないが、全てを真正直に告げているわけではない。昨日一日、ほとんど霧夜に張り付いていたようなものなのだから、何か使えないかと、漠然と手に入れていた噂程度のものががほとんどでしかない。ただ、手持ちの札を入れ替えて示して見せる。それだけのことだ。
霧夜は、貼り付けた笑顔を崩さない羽澄を、ちらりと盗み見た。
一時的にでも傷つけずにすむ言葉を知りながら、敢えてその逆を択ぶ。それは、羽澄の自他への厳しさと強さ、それと弱さとをまとめてさらけ出す行為で、いつも霧夜は、胸を押さえつけられるような、無形の圧迫感を覚える。それが何に起因するのかは、未だに解らないのだけれど。
話運びは羽澄に任せ、決定は霧夜に委ねる。それが今回、羽澄が協力する条件だった。
本来なら振り払わなければならない手を取ってしまったのは、甘えと知っていた。
「…それなら」
ぽつりと呟くように言葉を押し出して、薫は顔を上げた。翠の瞳は、意を決した者特有の光を帯びている。
「わたしが知ってるだけぜんぶ、話します。それで、私と父の命を、助けてもらいたいんです。むりなら、誰か紹介してもらえますか」
「いいんだな?」
「はい」
羽澄は、きっぱりと言ってのけた薫の、手元で小さく波立つ紅茶の表面を、面白そうに見やる。霧夜もそれに気付き、口元がわずかに緩んだ。この少女は、強い。
促されると、こくりと頷いた薫は、話をはじめた。
話は、数日前へと遡る。
その日の朝、薫はとりあえず二人分の食事を用意して、一人で朝食をとっていた。夜のうちに父が戻った様子はなかったが、それでも、日に一度は食事に戻るため、二人分を用意するのが常だった。不用であれば、別の機会に回せばいいだけのことだ。
しかしその日、帰ってきた父は、いつもとは違っていた。
『いいか、薫。東地区の梧桐という家に行きなさい。名前を言えば、わかってもらえる。二度と、ここには戻るんじゃない。できるな?』
薫が理解するよりも先に、父は小さなカバンを手渡した。そのときになってようやく思考を再開した脳が、何故と疑問を紡ぎ出す。
『――私は、もう足を洗うつもりだ。薫、お前を愛しているよ』
それが別れの言葉だと気付いたのは、どうやってか言われた場所にたどり着いた後のことだった。
東地区で待っていたのは、この西区とは中央区を隔て、比較的治安のいい場所に暮らす、温和な初老の夫婦だった。昔、父に命を救われたのだと感謝する二人は優しかったが、薫は、そこを抜け出した。
二人が話すのを漏れ聞いた。父が何かを盾に金を要求し、そしてそれは、自分のためなのだと。
そこまで話すと、薫は、再び口をつぐんだ。
それは、霧夜が出会ったときにうわ言のように呟くものを漏れ聞いた内容と、大差ない。羽澄としても期待したものは得られなかったようだが、淡々と、どうすると、目線を向けて来た。
一度、それを遮るようにゆっくりと、瞬きをする。
「わかった。僕らにできるだけのことをしよう」
「それじゃあ――」
「ただし、いくつかの条件を飲んでもらう。それができないようなら、僕らは動かない。いいね」
「はい」
肯く薫は半ば涙ぐんでいて、霧夜は、重く息を吐いた。呆れ顔の羽澄も視界にあるが、敢えて無視を決め込む。
「まずは、君はすぐにここを出ること。東地区まで連れて行くから、とりあえずは、そこで身を隠しているように」
「はい」
「次に、時間がかかることをわかってほしい。一月や二月はかからないかも知れないけど、今日明日で片のつくことじゃない」
「…はい」
「それと、君のお父さんの命を助けられたとして、君と再会できるのかはわからない」
さっと、表情の消えた顔を一瞥し、霧夜は先を続けた。
「助かったところで、金城からは追われるだろう。君がいれば、足手まといになる。それぞれが生き延びることを考えれば、分かれた方がいい。判断は、三谷さん――君のお父さんに任せる。それでいいなら、依頼を受けよう」
そう告げると、少しの間、沈黙が下りた。
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