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女子会
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人の気配で目が覚めた。
廊下の足音が、かすかながら聞こえたのだろう。誰か水でも飲みに来たのかと思ったが、雪季が使っている部屋の前でぴたりと止まった。向かいの図書部屋に来た可能性は、短いノックですぐに否定された。
一度きりで、思ったよりも音が響いたと思ったのか、囁くような声があとを次いだ。
「せっくん、話、いい?」
「葉月さん。こんな時間に男の部屋を訪ねるべきじゃないと思う」
「ぇえ起きてるん?!」
「寝てたらどうしたんだ一体」
とりあえず、部屋の鍵を開けて招き入れる。雪季自身が口にした忠告ではあるが、こちらは何をするつもりもない。それでも、戸は明けたままにしておいた。
豆電球はついているが薄暗いので、明かりをつけようとしたら止められた。
「その…話したいことがあるんやけど、話しにくいからこのくらいの方がいいなー、って」
「何?」
座布団もないので、葉月はそのまま畳に座り込んだ。膝を立てて、抱え込むように腕を回す。自分を守るようだと、雪季は思った。
「…せっくんって、ほんまに…人、殺してたんやんな…?」
「ああ」
英が雪季のことをいろいろと調べさせていた「情報部」は、会社の情報部そのものではなく葉月一人のことだった。今まで、葉月はそのことに触れはしなかったが、切り出しあぐねていただけだったのか。
次の言葉までしばらく待つ。
「…はじめの。はじめに殺した人のことって、覚えてる?」
「…ああ」
問題なくこなせていたと思ったのに、十年越しで目撃者がいたと当の本人から知らされた一件だ。
そんなことがなくても、覚えている。もちろんすべてではなく忘れていることもあるだろうが、あの日のことも、下調べでのあれこれも。
英に言い当てられたように、自分で手にかけた人たちのことを、雪季は覚えている。
「その人、妻と娘がおってな。あのあと娘は、大阪の親戚に引き取られて、施設に預けられた。母親は、あの人が死んだって聞いて、ふらぁとどっか行ってもた」
三崎新伍。娘の名は、莉奈。
妻子がいたことは覚えている。ただ、休日にはあまり外出することもなく、それならば狙うのは平日かと方針を決めたために、詳しく調べることはなかった。葉月というのは、母方の姓だろうか。
するりと思い出されたそれらの情報に、雪季は束の間眼を閉じた。忘れてはいなくても、気付けなかった。
目を開けても、葉月は膝を抱えたまま俯いていた。
「ウチは、お母さんもきっと、助かった、って思った。あの人が死んだって言われて、ああもうこれでいつ殺されるかって怯えんでいいんや、って。他の人に嘘ばっかついて隠して、殴られたりねちねち言われたりするために家に帰らんでいいんや、って。お母さんもおらんなってもたから家出なあかんかったけど、よかった、って思ったもん。あの人の名字捨てて、大阪弁覚えて、もうあの頃のあたしは捨てよう、って。でも、気になって色々調べて…せっくんを見つけて、社長にも会えて」
偶然、のわけがない。いくらなんでも、そんな偶然があってたまるものか。仕組んだとまでは言わずとも、雪季を調べて追いかけて、英は葉月のことも見つけ出したのだろう。そうして、使えると思った。
「せっくんが、あたしたちを助けるために殺してくれたんじゃないってことは、わかってる。でも、あたしたちはせっくんに助けられた。救われた。ずっと、ありがとうって言いたかった」
受け容れるべきなのか、拒むべきなのか、喜べばいいのか怒ればいいのか諭せばいいのか、何も浮かんでこない。
金のためだと、生きるためだと、ただの仕事だと割り切ってきた。だから感情も後悔も伴わせないと、決めていた。遺族に報復されることは考えないでもなかったが、それは仕方のない事だろうとも思っていた。
「昔のこと、蒸し返すみたいなことしてごめん。でも、どうしても言いたかった。――おやすみ、起こしてごめん」
「葉月さん」
立ち上がった葉月に、何を考えることもなく声をかけてしまった。自分の声を聞いて、何を話すつもりだと焦りが込み上げる。
まだ何も、受け容れられていないのに。
「俺、は…」
「何も要らんから。ありがとうもごめんも、ウチが言いたかっただけやから、朝になったらもう何も言わへんし、忘れてくれていいから。ホンマは、寝てると思ったから、独り言だけ言ってすっきりするつもりやった。…ごめん」
立ち上がれないまま、雪季ははっきりとは見えない葉月を見上げた。
彼女が何をどうやって乗り越えたのか、まだ乗り越えつつある途中なのか、踏み込むには雪季の覚悟は決まっていない。深く関わるつもりがなければ、踏み入ってはいけないと、思う。
「…おやすみ」
「うん。おやすみ」
今までに雪季が知るのとは違って、静かに去る葉月の後ろ姿を、何も言えないままに見送った。
足音とともに葉月の気配がすっかり遠のいてから、雪季は、のろりと立ち上がった。やることがあることに、救われた気がする自分を救えない、と思う。
そして、その「やること」は気分や事態を好転させるものではないだろうと知ってはいる。
部屋を出て、向かいの図書部屋の戸を開ける。雪季の部屋が引き戸なのに対して、ここは外開きのドアだ。
「河東」
「あ、ばれてた?」
電気もつけず闇の中から声だけが返る。目が慣れるにも光が必要で、この部屋は外観からすると窓はあるが本棚と本がすっかり塞いでしまっているために、やたらと濃い闇が横たわっている。
英が下りて来ていたのには気付いていたが、葉月と深夜に二人きりで、何をするつもりはなくとも念のため歯止め代わりにと放置していた。裏目とまでは言わないが、面倒くさい、とは思う。
闇の中からのびた手に、腕をつかまれた。
「っ」
部屋に引き込まれた上で軽く突き飛ばされ、おそらくは入口の真向いの辺だろう本棚にぶつかる。戸の閉まる音がした。
「何を」
「廊下で喋ってて、二人が起きてきたら困るだろ。ここなら、本が音を吸収してくれる」
言われてみればその通りで、それを英に指摘されたことが悔しくて歯噛みする。
雪季のそんな様子に勘付いたのか、英が笑った気配がした。電気のスイッチは入り口すぐ横の壁にあるはずだが、つけるつもりはないようだ。
「珍しい、動揺してるのか?」
「…聞いてたのか」
「予想はついてた。葉月は素直だし、いい子だから。俺や君と違って」
事実を口にしただけという風に、英が葉月を語る口調には温度がない。それは、自身や雪季に対しても同じだった。淡々と、乾いている。
それならば自分たちは彼女に関わらずにいるべきではないかと、雪季は思ったが口にはできなかった。
既に十分すぎるほどに関わってしまっていて、そして葉月は英を信頼している。もしかすると、得られなかった父や兄のように。雪季が接したのはほんの短い間だが、それでも感じられるほどに。
「雪季。嬉しい? 煩わしい?」
「…よく、わからない」
「葉月の中で、君はヒーローだ。とんでもない暴君だった父親をやっつけてくれた。命を救われた。君は、いいことをした」
「ただの仕事だ。金に引き換えるための作業だった」
「そうだ。君は、お金のために人を殺して、人を殺したから感謝された。矛盾だな。世の中、こんな矛盾はいくらでも転がってる。善悪だって簡単にひっくり返る。それなら、そんなもの必要かな。そこに縋る必要も、大切にする必要も、ないんじゃないのか」
いつの間にか、雪季は床に座り込んでいた。英は立ったままなのか、少し高いところから声が聞こえる。何も見えず、声だけが届く。
これは本当に今起きていることだろうかと、雪季は惑う。夢でも見ているのではないか。夢の中で自問自答しているだけなのではないか。
「でもまあ、そこで悪戦苦闘するのが人なんだろうな。俺にはよくわからないけど」
どこまでも淡々と、言葉を落とす。
英の言葉には、嘘が多い。何ら呵責を受けることなく嘘を口にする。それなのに雪季に向けられる言葉には、嘘が少ないような気がする。
それは思い込みだろうかと、絆されているのだろうかと迷う。
「雪季。大サービスで、真っ当なアドバイスをあげようか。葉月のあれは自己満足だし、あの子の中では君にお礼を言えたことで片付いてる。本当は、君が聞く必要もなかった言葉だ。悩むのがつらいなら、忘れてしまってもいいんだ」
「それはアドバイスじゃない」
「じゃあ何?」
「…悪魔の囁き」
気障な言い方だろうかというのは、口からこぼれ落ちた後に気付いた。
「悪魔か。なるほどね。…おやすみ、雪季」
扉の開く音がして、その隙間からするりと人が出ていくのが判った。俺も戻ろう、と雪季は思ったが、しばらくはぼんやりと暗闇を見つめていていた。
廊下の足音が、かすかながら聞こえたのだろう。誰か水でも飲みに来たのかと思ったが、雪季が使っている部屋の前でぴたりと止まった。向かいの図書部屋に来た可能性は、短いノックですぐに否定された。
一度きりで、思ったよりも音が響いたと思ったのか、囁くような声があとを次いだ。
「せっくん、話、いい?」
「葉月さん。こんな時間に男の部屋を訪ねるべきじゃないと思う」
「ぇえ起きてるん?!」
「寝てたらどうしたんだ一体」
とりあえず、部屋の鍵を開けて招き入れる。雪季自身が口にした忠告ではあるが、こちらは何をするつもりもない。それでも、戸は明けたままにしておいた。
豆電球はついているが薄暗いので、明かりをつけようとしたら止められた。
「その…話したいことがあるんやけど、話しにくいからこのくらいの方がいいなー、って」
「何?」
座布団もないので、葉月はそのまま畳に座り込んだ。膝を立てて、抱え込むように腕を回す。自分を守るようだと、雪季は思った。
「…せっくんって、ほんまに…人、殺してたんやんな…?」
「ああ」
英が雪季のことをいろいろと調べさせていた「情報部」は、会社の情報部そのものではなく葉月一人のことだった。今まで、葉月はそのことに触れはしなかったが、切り出しあぐねていただけだったのか。
次の言葉までしばらく待つ。
「…はじめの。はじめに殺した人のことって、覚えてる?」
「…ああ」
問題なくこなせていたと思ったのに、十年越しで目撃者がいたと当の本人から知らされた一件だ。
そんなことがなくても、覚えている。もちろんすべてではなく忘れていることもあるだろうが、あの日のことも、下調べでのあれこれも。
英に言い当てられたように、自分で手にかけた人たちのことを、雪季は覚えている。
「その人、妻と娘がおってな。あのあと娘は、大阪の親戚に引き取られて、施設に預けられた。母親は、あの人が死んだって聞いて、ふらぁとどっか行ってもた」
三崎新伍。娘の名は、莉奈。
妻子がいたことは覚えている。ただ、休日にはあまり外出することもなく、それならば狙うのは平日かと方針を決めたために、詳しく調べることはなかった。葉月というのは、母方の姓だろうか。
するりと思い出されたそれらの情報に、雪季は束の間眼を閉じた。忘れてはいなくても、気付けなかった。
目を開けても、葉月は膝を抱えたまま俯いていた。
「ウチは、お母さんもきっと、助かった、って思った。あの人が死んだって言われて、ああもうこれでいつ殺されるかって怯えんでいいんや、って。他の人に嘘ばっかついて隠して、殴られたりねちねち言われたりするために家に帰らんでいいんや、って。お母さんもおらんなってもたから家出なあかんかったけど、よかった、って思ったもん。あの人の名字捨てて、大阪弁覚えて、もうあの頃のあたしは捨てよう、って。でも、気になって色々調べて…せっくんを見つけて、社長にも会えて」
偶然、のわけがない。いくらなんでも、そんな偶然があってたまるものか。仕組んだとまでは言わずとも、雪季を調べて追いかけて、英は葉月のことも見つけ出したのだろう。そうして、使えると思った。
「せっくんが、あたしたちを助けるために殺してくれたんじゃないってことは、わかってる。でも、あたしたちはせっくんに助けられた。救われた。ずっと、ありがとうって言いたかった」
受け容れるべきなのか、拒むべきなのか、喜べばいいのか怒ればいいのか諭せばいいのか、何も浮かんでこない。
金のためだと、生きるためだと、ただの仕事だと割り切ってきた。だから感情も後悔も伴わせないと、決めていた。遺族に報復されることは考えないでもなかったが、それは仕方のない事だろうとも思っていた。
「昔のこと、蒸し返すみたいなことしてごめん。でも、どうしても言いたかった。――おやすみ、起こしてごめん」
「葉月さん」
立ち上がった葉月に、何を考えることもなく声をかけてしまった。自分の声を聞いて、何を話すつもりだと焦りが込み上げる。
まだ何も、受け容れられていないのに。
「俺、は…」
「何も要らんから。ありがとうもごめんも、ウチが言いたかっただけやから、朝になったらもう何も言わへんし、忘れてくれていいから。ホンマは、寝てると思ったから、独り言だけ言ってすっきりするつもりやった。…ごめん」
立ち上がれないまま、雪季ははっきりとは見えない葉月を見上げた。
彼女が何をどうやって乗り越えたのか、まだ乗り越えつつある途中なのか、踏み込むには雪季の覚悟は決まっていない。深く関わるつもりがなければ、踏み入ってはいけないと、思う。
「…おやすみ」
「うん。おやすみ」
今までに雪季が知るのとは違って、静かに去る葉月の後ろ姿を、何も言えないままに見送った。
足音とともに葉月の気配がすっかり遠のいてから、雪季は、のろりと立ち上がった。やることがあることに、救われた気がする自分を救えない、と思う。
そして、その「やること」は気分や事態を好転させるものではないだろうと知ってはいる。
部屋を出て、向かいの図書部屋の戸を開ける。雪季の部屋が引き戸なのに対して、ここは外開きのドアだ。
「河東」
「あ、ばれてた?」
電気もつけず闇の中から声だけが返る。目が慣れるにも光が必要で、この部屋は外観からすると窓はあるが本棚と本がすっかり塞いでしまっているために、やたらと濃い闇が横たわっている。
英が下りて来ていたのには気付いていたが、葉月と深夜に二人きりで、何をするつもりはなくとも念のため歯止め代わりにと放置していた。裏目とまでは言わないが、面倒くさい、とは思う。
闇の中からのびた手に、腕をつかまれた。
「っ」
部屋に引き込まれた上で軽く突き飛ばされ、おそらくは入口の真向いの辺だろう本棚にぶつかる。戸の閉まる音がした。
「何を」
「廊下で喋ってて、二人が起きてきたら困るだろ。ここなら、本が音を吸収してくれる」
言われてみればその通りで、それを英に指摘されたことが悔しくて歯噛みする。
雪季のそんな様子に勘付いたのか、英が笑った気配がした。電気のスイッチは入り口すぐ横の壁にあるはずだが、つけるつもりはないようだ。
「珍しい、動揺してるのか?」
「…聞いてたのか」
「予想はついてた。葉月は素直だし、いい子だから。俺や君と違って」
事実を口にしただけという風に、英が葉月を語る口調には温度がない。それは、自身や雪季に対しても同じだった。淡々と、乾いている。
それならば自分たちは彼女に関わらずにいるべきではないかと、雪季は思ったが口にはできなかった。
既に十分すぎるほどに関わってしまっていて、そして葉月は英を信頼している。もしかすると、得られなかった父や兄のように。雪季が接したのはほんの短い間だが、それでも感じられるほどに。
「雪季。嬉しい? 煩わしい?」
「…よく、わからない」
「葉月の中で、君はヒーローだ。とんでもない暴君だった父親をやっつけてくれた。命を救われた。君は、いいことをした」
「ただの仕事だ。金に引き換えるための作業だった」
「そうだ。君は、お金のために人を殺して、人を殺したから感謝された。矛盾だな。世の中、こんな矛盾はいくらでも転がってる。善悪だって簡単にひっくり返る。それなら、そんなもの必要かな。そこに縋る必要も、大切にする必要も、ないんじゃないのか」
いつの間にか、雪季は床に座り込んでいた。英は立ったままなのか、少し高いところから声が聞こえる。何も見えず、声だけが届く。
これは本当に今起きていることだろうかと、雪季は惑う。夢でも見ているのではないか。夢の中で自問自答しているだけなのではないか。
「でもまあ、そこで悪戦苦闘するのが人なんだろうな。俺にはよくわからないけど」
どこまでも淡々と、言葉を落とす。
英の言葉には、嘘が多い。何ら呵責を受けることなく嘘を口にする。それなのに雪季に向けられる言葉には、嘘が少ないような気がする。
それは思い込みだろうかと、絆されているのだろうかと迷う。
「雪季。大サービスで、真っ当なアドバイスをあげようか。葉月のあれは自己満足だし、あの子の中では君にお礼を言えたことで片付いてる。本当は、君が聞く必要もなかった言葉だ。悩むのがつらいなら、忘れてしまってもいいんだ」
「それはアドバイスじゃない」
「じゃあ何?」
「…悪魔の囁き」
気障な言い方だろうかというのは、口からこぼれ落ちた後に気付いた。
「悪魔か。なるほどね。…おやすみ、雪季」
扉の開く音がして、その隙間からするりと人が出ていくのが判った。俺も戻ろう、と雪季は思ったが、しばらくはぼんやりと暗闇を見つめていていた。
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