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結婚
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階段を上ると、一番手前の部屋の戸が開いたままになっていた。二階で主にというか、下手をすれば唯一使われている英の寝室だ。覗き込むと、パイプベッドに英が腰かけていた。
どこか既視感のある光景だと思ったら、豪華客船の時の一コマだった。
あの時もこうやってベッドに腰かけて、肘に膝を置いて組んだ指の顎を置いて、雪季をまっすぐに見ていた。あれからまだ半年も経っていないというのが不思議な気分になる。
「閉めて」
戸を開け放っていれば、階下の音が案外はっきりと聞こえる。逆を言えば、この部屋の音も階下に届きやすいということだろう。
閉めた扉を背に、雪季はそこに立った。英の放つ冷ややかな威圧感のせいか、不用意に近付く気になれない。誤魔化すように、頭を下げる。
「すみませんでした」
「…それ、やめろよ。家の中でまでそんな対応されたくない」
「ですが、仕事の話でしょう」
「やめろって言ってるだろ」
顔を上げるついでに、ため息を呑み込む。
「どっちにしたって、真似事だろう」
「…何だって」
「秘書も護衛も、本当に必要なわけじゃないだろう。だから、俺に割り振れた。ごっこ遊びでいいから。そうまでしてこだわる理由は何だ」
「何度も言った」
「そんなに執着するほどの何も、俺は持ってない」
雪季に向けられた英の顔からも眼からも、驚くほどに感情が抜け落ちている。そこからは何も読み取れず、果たして言葉が届いているのかすら、不安になる。
雪季は気付かないうちに、扉に背をつけていた。少しでも、距離を取りたかったのかもしれない。
「それはさ、必要としてほしいって話? 俺がどれだけ雪季を必要としてるかを言えばいいってこと?」
「そう――」
そうではなくて、と言おうとして、途中で気付いてしまって言葉が止まる。その通りだ。必要とされる意味が分からないから、足場が安定しないようで不安になっている。では、理由があれば。
雪季は、頭を抱えたくなった。頭を抱えてしゃがみ込んで、さっき言ったことをなかったことにしてほしい。
「二回目」
呟くように落とされた言葉に、どうにか視線を向ける。
「今日も、あの子のところに行ってたのか」
「…ああ」
「やっぱり葉月、隠してて。レポート読んだ。ストーカー撃退三回ってなんだよ。よっぽど護衛やってるだろ。それともナイトとか、そういうつもりか?」
「そういう…わけじゃ、ない…」
「どうだか。結局、ご飯作りに行くのだって役に立ってるって思いたいからだろ。俺の面倒見てるのだって、そういうことでさ。必要とされてるって思いたいんじゃないのか」
遠いとは言わずとも距離があるのに、英の言葉はくっきりと届く。逃れられない。耳を塞ぐような気力すら、湧いてこない。
「雪季はさ、俺とあの子が溺れてたらどっちを助ける?」
「………は…?」
思わず、俯けていた視線が跳ね上がる。英の様子は、つい先ほどと変わらない。しかしその質問は、何と言うか…仲の良さを比べる小学生か。
雪季は片手でまぶたを覆い、背にした扉に体重を預けた。
「お前…どれだけ飲んだ」
階下はアルコールの匂いが充満していたのでそれほどとは思わなかったが、かなり呑んでいるのではないだろうか。何故この男は酔うと余計なことを言うのだろうと、八つ当たりを込めてペットポトルを投げつけた。
英は難なく受け取って、当たり前のようにキャップを捻って口をつける。
「…せめてもっとわかりやすく酔ってくれよ…」
「質問に答えてもらってない」
「あ゛あ゛? そんなの、真柴助けるに決まってるだろ」
「えええー」
「お前がそのくらいでくたばるもんか。真柴を助けた後でも余裕で間に合うだろ」
「…それはそれで信頼されてるってことでいいのかな…?」
「知るか」
一息に飲み干したペットボトルを転がし、英は半眼で雪季を見る。相変わらず表情はないが、ただ眠たげなようにも見えなくはない。
改めて考えると、社員を集めたのも、中途半端な口止めも、雪季を引き止めようとしてのもののような気がしてくる。必要さの説明は、既に始まっていたということだろうか。本当に、その執着がわからなくて厭になる。
不安になると、素直に認めるのは少し悔しい。
「どれだけ飲んだ。ちゃんと何か腹に入れてから飲んだんだろうな」
「えー…? あー…そういや何も食べてないかも。李さんとケーキ食べたのが最後?」
「…水もう一本持って来る。何か食べるものも…下行った方が早いか。歩けるか?」
座ったままベッドに仰向けに寝転んで、英は手を振った。
「雪季いて気が緩んだ。真面目な顔してユーキ先輩とかと話すとか無理」
「…持って来る」
英の余計な発言は、酔っ払いのたわごとというわけではない。普段であれば、何かの時に切り札にしようとするのか単に恥ずかしいのかで言うつもりのなかったことを口にしてしまうというだけで。つまり見抜かれていたのかと、深々とため息を落とす。
階下に戻ると、こちらはこちらで溜息をつきたくなった。
「…ここで倒れてる人、寝てるんですかまさか」
中原が床に寝そべっていた。しかも、座っていたローテーブルのあたりではなく、何故か階段のすぐそばで。危うく踏みつけるところだった。誰がかけたのか、毛布にくるまっている。
「水取りに行って、ふらふらっとそこに」
「お酒弱いんですか?」
「弱いけど好きらしいな」
こちらは、真っ直ぐに立ってテーブルのペットボトルから水を注いでいた四十万が淡々と言葉を返す。女性陣は三人で会話が弾んでいるようだから、居づらくなったのかもしれない。
「河東、何だって?」
それなりに飲んでいるだろうに乱れない三浦が、やはり少し心配そうに声をかけて来る。雪季は、ゆるりと首を振った。
「酔っぱらってるんで、まともな話は明日になるんじゃないですか」
「酔ってる? あいつが?」
「弱くはないけど強くもないですよ、多分」
男二人の意外そうな顔に、雪季もやや意外に思いながら返す。
「ところで今更ですけど、三浦さんは帰るとして、他の人たちはみんなここから出勤でいいんですか? まとまって出るなら、適当な時間にたたき起こしますけど」
「あ。雪季君、明日休みだから!」
「え?」
ソファーからの笹倉の声に、視線を向ける。たしかに誰もそれほど予定は入っていない日ではあったが、それでも完全に用事がないことはなかったはずだ。
「次の日曜、ほとんどが出勤だったでしょ? いっそ平日休みにしようかって言ってたじゃない。それが明日」
たまに浮上しては立ち消えている案だ。それが何故実現したかといえば。
「…ありがとうございます」
「せっかくの家飲みだからねー」
からからと笑う笹倉たちに頭を下げる。
二階から下りて来てからずっと山本の視線が痛いのは黙殺しておく。BL小説を書くことが趣味だという彼女が何を考えているのかは、知りたくない。できることなら、そこに勘付きたくもなかった。
そろそろ、と三浦と四十万が席を立ち、雪季が運転しようかとの申し出を断られて玄関まで見送ってから戻ると、中原は変わらず転がっていた。
部屋まで運ぶべきか迷ったが、そのためには女性陣の前を引きずっていくことになるのでとりあえず放置しておくことにする。
キッチンのスープ鍋を確認すると、コーンスープは半分ほど、かきたま汁は一人分にはやや多いくらい残っている。かきたま汁の残りをもう一度火にかけて、卵が被るが落とし卵にするかと冷蔵庫を開けて、しまった、と声が漏れる。
ケーキが収まった真っ白な箱が、雪季が押し込んだままに鎮座していた。もう少し早く気付けば、三浦にも食べてもらうか持って帰ってもらうかできただろうに、すっかり忘れていた。ナマモノだから、明後日会社に持って行くのは嫌がらせに近いだろう。
「忘れてましたけど、ケーキ、どうします? 今食べますか? 明日?」
「食べる!」
葉月が勢いよく挙手して、他二人もやや躊躇しながらも手を上げる。四十万は、戻ってから訊けばいいだろう。
「じゃあ、紅茶か珈琲。他の飲み物が良かったら勝手に出してください。どっちにします?」
笹倉だけが珈琲で他の二人が紅茶。とりあえずヤカンを火にかける。
かきたま汁が温まったので卵を割り落とし、蓋をする。合間に棚を開けて、水とスポーツドリンクのペットボトルを一本ずつ。もう少し腹に溜まる食べ物もいるかと考えるが、ほしければ自分で探して食べるだろう。
これだけ用意しておいて今更だが、二日酔いになろうと知ったことではない。
ケーキの皿とカップをとりあえず五セット引っ張り出して、冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。カウンターに、女性たちが集まってきた。
「これ買い過ぎじゃないですか?」
「いーやん、余ったら明日食べたら」
「葉月ちゃん、若い…」
「ちょっとー、真紀ちゃんも充分若いでしょ、やめてよー」
楽し気な三人は、箱の中の目にも鮮やかなケーキを前におしゃべりが止まらない。元々人数分よりは多く買っていたようで、もしも今起きている面子だけで片付けるなら一人二個当たる。
「珈琲、よくわからないからインスタントでもいいですか? 使えるなら、淹れてもらっていいんですけど」
「いいいい。そこまで上等の舌してないから」
一人珈琲を希望した笹倉にインスタントの瓶を渡し、紅茶の茶葉を出したところでかきたま汁の火を止める。少し量が多いのでスープ皿に移して、スプンとペットボトル二本を手に、キッチンを出る。
「ちょっと上行ってきます」
「社長は降りて来ーへんの?」
「さあ」
やはり刺さるような山本の視線を無視して、階段を上る。閉めていた扉を開けると、英が先ほどと変わりなくベッドにひっくり返っていた。
「起きてるか」
「んー…。いいにおい…」
「食べられるなら食べとけ」
スープ皿を渡そうとすると、もそもそと起き上がって、大人しく受け取ってスプンを手に取る。近くにペットボトルも置いて、背を向けた。
「雪季」
振り向くと、目が合った。穴倉の熊のようだなと、どこから出て来たイメージかを訝りながら、雪季は逸らさず見返した。野生の獣相手なら、立派な敵対表明だ。
「雪季がどう思ってるか知らないけど、俺は、雪季を手放すつもりはない」
「…お前の言葉にどれほどの重みが?」
「ええー…今それ言う…?」
「事実だろ」
「世界中で、例えば今この時に、どれだけの数の永遠の愛が誓われてると思う? そのうち、永遠とは言わなくてもせめてどちらかが一生を終えるまで続くものはどれだけある? 人の言葉や想いなんて、そんなものだ」
俺だけじゃない、と、否定するわけではなくどこか胸を張るように主張する。自分で自分の発言を軽くしてどうする。
「祇園精舎の鐘か」
「何?」
つるりと零れ落ちた言葉に、英が不思議そうに首を傾げる。雪季としても、どうしてここでそんなものが思い浮かんだのかがわからない。
中学だったか高校だったかで冒頭を暗記はしたが、だからといって日常でそう出てくるものでもない。そもそも、いまだに覚えていることにもびっくりする。
「平家物語。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。驕れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛きものもついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」
「…つまり?」
「全てのものは移り替わって、変わらず消え去らないものはない。短くまとめるなら、諸行無常」
ふうん、と初めて聞いたように肯く英は、学校でやらなかったのだろうか。ついそう考えてから、案外自分は真面目に授業を受けていたのだなと雪季は新たな発見をした。それが役立っているかどうかはともかく。
英が再びスプンを動かしたので話は終わりかともう一度踵を返した雪季は、足がつっかえて転びかけた。
おおよその予想がついて足元を見遣ると、英の足が、器用に雪季のズボンの裾を捉えていた。裾が長めのものを折って穿いていたのが仇になった。
「まだ、何か、用か」
「ずっと先のことは俺にもわからないけど、雪季が先に俺を置いて行くようなら、どこまでだって追いかけるから」
「…呪いの人形かお前は」
足を振り払い、さっさと退散する。戸を閉めるのも忘れずに。
そう言えば似たような言葉を真柴からも告げられたが、もしかすると自分の友人になりたがるような人物はどこか歪んでいるのだろうか、と、真っ直ぐでも単純でもない己の内を改めながら、雪季はそっと溜息をついた。
階下に戻ると、湯が沸いていた。
どこか既視感のある光景だと思ったら、豪華客船の時の一コマだった。
あの時もこうやってベッドに腰かけて、肘に膝を置いて組んだ指の顎を置いて、雪季をまっすぐに見ていた。あれからまだ半年も経っていないというのが不思議な気分になる。
「閉めて」
戸を開け放っていれば、階下の音が案外はっきりと聞こえる。逆を言えば、この部屋の音も階下に届きやすいということだろう。
閉めた扉を背に、雪季はそこに立った。英の放つ冷ややかな威圧感のせいか、不用意に近付く気になれない。誤魔化すように、頭を下げる。
「すみませんでした」
「…それ、やめろよ。家の中でまでそんな対応されたくない」
「ですが、仕事の話でしょう」
「やめろって言ってるだろ」
顔を上げるついでに、ため息を呑み込む。
「どっちにしたって、真似事だろう」
「…何だって」
「秘書も護衛も、本当に必要なわけじゃないだろう。だから、俺に割り振れた。ごっこ遊びでいいから。そうまでしてこだわる理由は何だ」
「何度も言った」
「そんなに執着するほどの何も、俺は持ってない」
雪季に向けられた英の顔からも眼からも、驚くほどに感情が抜け落ちている。そこからは何も読み取れず、果たして言葉が届いているのかすら、不安になる。
雪季は気付かないうちに、扉に背をつけていた。少しでも、距離を取りたかったのかもしれない。
「それはさ、必要としてほしいって話? 俺がどれだけ雪季を必要としてるかを言えばいいってこと?」
「そう――」
そうではなくて、と言おうとして、途中で気付いてしまって言葉が止まる。その通りだ。必要とされる意味が分からないから、足場が安定しないようで不安になっている。では、理由があれば。
雪季は、頭を抱えたくなった。頭を抱えてしゃがみ込んで、さっき言ったことをなかったことにしてほしい。
「二回目」
呟くように落とされた言葉に、どうにか視線を向ける。
「今日も、あの子のところに行ってたのか」
「…ああ」
「やっぱり葉月、隠してて。レポート読んだ。ストーカー撃退三回ってなんだよ。よっぽど護衛やってるだろ。それともナイトとか、そういうつもりか?」
「そういう…わけじゃ、ない…」
「どうだか。結局、ご飯作りに行くのだって役に立ってるって思いたいからだろ。俺の面倒見てるのだって、そういうことでさ。必要とされてるって思いたいんじゃないのか」
遠いとは言わずとも距離があるのに、英の言葉はくっきりと届く。逃れられない。耳を塞ぐような気力すら、湧いてこない。
「雪季はさ、俺とあの子が溺れてたらどっちを助ける?」
「………は…?」
思わず、俯けていた視線が跳ね上がる。英の様子は、つい先ほどと変わらない。しかしその質問は、何と言うか…仲の良さを比べる小学生か。
雪季は片手でまぶたを覆い、背にした扉に体重を預けた。
「お前…どれだけ飲んだ」
階下はアルコールの匂いが充満していたのでそれほどとは思わなかったが、かなり呑んでいるのではないだろうか。何故この男は酔うと余計なことを言うのだろうと、八つ当たりを込めてペットポトルを投げつけた。
英は難なく受け取って、当たり前のようにキャップを捻って口をつける。
「…せめてもっとわかりやすく酔ってくれよ…」
「質問に答えてもらってない」
「あ゛あ゛? そんなの、真柴助けるに決まってるだろ」
「えええー」
「お前がそのくらいでくたばるもんか。真柴を助けた後でも余裕で間に合うだろ」
「…それはそれで信頼されてるってことでいいのかな…?」
「知るか」
一息に飲み干したペットボトルを転がし、英は半眼で雪季を見る。相変わらず表情はないが、ただ眠たげなようにも見えなくはない。
改めて考えると、社員を集めたのも、中途半端な口止めも、雪季を引き止めようとしてのもののような気がしてくる。必要さの説明は、既に始まっていたということだろうか。本当に、その執着がわからなくて厭になる。
不安になると、素直に認めるのは少し悔しい。
「どれだけ飲んだ。ちゃんと何か腹に入れてから飲んだんだろうな」
「えー…? あー…そういや何も食べてないかも。李さんとケーキ食べたのが最後?」
「…水もう一本持って来る。何か食べるものも…下行った方が早いか。歩けるか?」
座ったままベッドに仰向けに寝転んで、英は手を振った。
「雪季いて気が緩んだ。真面目な顔してユーキ先輩とかと話すとか無理」
「…持って来る」
英の余計な発言は、酔っ払いのたわごとというわけではない。普段であれば、何かの時に切り札にしようとするのか単に恥ずかしいのかで言うつもりのなかったことを口にしてしまうというだけで。つまり見抜かれていたのかと、深々とため息を落とす。
階下に戻ると、こちらはこちらで溜息をつきたくなった。
「…ここで倒れてる人、寝てるんですかまさか」
中原が床に寝そべっていた。しかも、座っていたローテーブルのあたりではなく、何故か階段のすぐそばで。危うく踏みつけるところだった。誰がかけたのか、毛布にくるまっている。
「水取りに行って、ふらふらっとそこに」
「お酒弱いんですか?」
「弱いけど好きらしいな」
こちらは、真っ直ぐに立ってテーブルのペットボトルから水を注いでいた四十万が淡々と言葉を返す。女性陣は三人で会話が弾んでいるようだから、居づらくなったのかもしれない。
「河東、何だって?」
それなりに飲んでいるだろうに乱れない三浦が、やはり少し心配そうに声をかけて来る。雪季は、ゆるりと首を振った。
「酔っぱらってるんで、まともな話は明日になるんじゃないですか」
「酔ってる? あいつが?」
「弱くはないけど強くもないですよ、多分」
男二人の意外そうな顔に、雪季もやや意外に思いながら返す。
「ところで今更ですけど、三浦さんは帰るとして、他の人たちはみんなここから出勤でいいんですか? まとまって出るなら、適当な時間にたたき起こしますけど」
「あ。雪季君、明日休みだから!」
「え?」
ソファーからの笹倉の声に、視線を向ける。たしかに誰もそれほど予定は入っていない日ではあったが、それでも完全に用事がないことはなかったはずだ。
「次の日曜、ほとんどが出勤だったでしょ? いっそ平日休みにしようかって言ってたじゃない。それが明日」
たまに浮上しては立ち消えている案だ。それが何故実現したかといえば。
「…ありがとうございます」
「せっかくの家飲みだからねー」
からからと笑う笹倉たちに頭を下げる。
二階から下りて来てからずっと山本の視線が痛いのは黙殺しておく。BL小説を書くことが趣味だという彼女が何を考えているのかは、知りたくない。できることなら、そこに勘付きたくもなかった。
そろそろ、と三浦と四十万が席を立ち、雪季が運転しようかとの申し出を断られて玄関まで見送ってから戻ると、中原は変わらず転がっていた。
部屋まで運ぶべきか迷ったが、そのためには女性陣の前を引きずっていくことになるのでとりあえず放置しておくことにする。
キッチンのスープ鍋を確認すると、コーンスープは半分ほど、かきたま汁は一人分にはやや多いくらい残っている。かきたま汁の残りをもう一度火にかけて、卵が被るが落とし卵にするかと冷蔵庫を開けて、しまった、と声が漏れる。
ケーキが収まった真っ白な箱が、雪季が押し込んだままに鎮座していた。もう少し早く気付けば、三浦にも食べてもらうか持って帰ってもらうかできただろうに、すっかり忘れていた。ナマモノだから、明後日会社に持って行くのは嫌がらせに近いだろう。
「忘れてましたけど、ケーキ、どうします? 今食べますか? 明日?」
「食べる!」
葉月が勢いよく挙手して、他二人もやや躊躇しながらも手を上げる。四十万は、戻ってから訊けばいいだろう。
「じゃあ、紅茶か珈琲。他の飲み物が良かったら勝手に出してください。どっちにします?」
笹倉だけが珈琲で他の二人が紅茶。とりあえずヤカンを火にかける。
かきたま汁が温まったので卵を割り落とし、蓋をする。合間に棚を開けて、水とスポーツドリンクのペットボトルを一本ずつ。もう少し腹に溜まる食べ物もいるかと考えるが、ほしければ自分で探して食べるだろう。
これだけ用意しておいて今更だが、二日酔いになろうと知ったことではない。
ケーキの皿とカップをとりあえず五セット引っ張り出して、冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。カウンターに、女性たちが集まってきた。
「これ買い過ぎじゃないですか?」
「いーやん、余ったら明日食べたら」
「葉月ちゃん、若い…」
「ちょっとー、真紀ちゃんも充分若いでしょ、やめてよー」
楽し気な三人は、箱の中の目にも鮮やかなケーキを前におしゃべりが止まらない。元々人数分よりは多く買っていたようで、もしも今起きている面子だけで片付けるなら一人二個当たる。
「珈琲、よくわからないからインスタントでもいいですか? 使えるなら、淹れてもらっていいんですけど」
「いいいい。そこまで上等の舌してないから」
一人珈琲を希望した笹倉にインスタントの瓶を渡し、紅茶の茶葉を出したところでかきたま汁の火を止める。少し量が多いのでスープ皿に移して、スプンとペットボトル二本を手に、キッチンを出る。
「ちょっと上行ってきます」
「社長は降りて来ーへんの?」
「さあ」
やはり刺さるような山本の視線を無視して、階段を上る。閉めていた扉を開けると、英が先ほどと変わりなくベッドにひっくり返っていた。
「起きてるか」
「んー…。いいにおい…」
「食べられるなら食べとけ」
スープ皿を渡そうとすると、もそもそと起き上がって、大人しく受け取ってスプンを手に取る。近くにペットボトルも置いて、背を向けた。
「雪季」
振り向くと、目が合った。穴倉の熊のようだなと、どこから出て来たイメージかを訝りながら、雪季は逸らさず見返した。野生の獣相手なら、立派な敵対表明だ。
「雪季がどう思ってるか知らないけど、俺は、雪季を手放すつもりはない」
「…お前の言葉にどれほどの重みが?」
「ええー…今それ言う…?」
「事実だろ」
「世界中で、例えば今この時に、どれだけの数の永遠の愛が誓われてると思う? そのうち、永遠とは言わなくてもせめてどちらかが一生を終えるまで続くものはどれだけある? 人の言葉や想いなんて、そんなものだ」
俺だけじゃない、と、否定するわけではなくどこか胸を張るように主張する。自分で自分の発言を軽くしてどうする。
「祇園精舎の鐘か」
「何?」
つるりと零れ落ちた言葉に、英が不思議そうに首を傾げる。雪季としても、どうしてここでそんなものが思い浮かんだのかがわからない。
中学だったか高校だったかで冒頭を暗記はしたが、だからといって日常でそう出てくるものでもない。そもそも、いまだに覚えていることにもびっくりする。
「平家物語。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。驕れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛きものもついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」
「…つまり?」
「全てのものは移り替わって、変わらず消え去らないものはない。短くまとめるなら、諸行無常」
ふうん、と初めて聞いたように肯く英は、学校でやらなかったのだろうか。ついそう考えてから、案外自分は真面目に授業を受けていたのだなと雪季は新たな発見をした。それが役立っているかどうかはともかく。
英が再びスプンを動かしたので話は終わりかともう一度踵を返した雪季は、足がつっかえて転びかけた。
おおよその予想がついて足元を見遣ると、英の足が、器用に雪季のズボンの裾を捉えていた。裾が長めのものを折って穿いていたのが仇になった。
「まだ、何か、用か」
「ずっと先のことは俺にもわからないけど、雪季が先に俺を置いて行くようなら、どこまでだって追いかけるから」
「…呪いの人形かお前は」
足を振り払い、さっさと退散する。戸を閉めるのも忘れずに。
そう言えば似たような言葉を真柴からも告げられたが、もしかすると自分の友人になりたがるような人物はどこか歪んでいるのだろうか、と、真っ直ぐでも単純でもない己の内を改めながら、雪季はそっと溜息をついた。
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