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梅雨
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家の前に誰かいるな、と気付いたときには遅かった。こちらもほぼ同時に発見されてしまい、無視をするのが困難になる。雪季は、極力表情を殺して、さわやかに見える笑顔を受け流す。
「よかった、誰も出てこないからもう帰ろうかと思ってた」
「家主なら旅行中。どうぞそのままお帰りください」
「えー。体冷えたし、傘壊れて濡れたし、タオルくらい貸してくれても罰は当たらないんじゃない? 同級生のよしみで。覚えてないけど」
ここで追い返す手間暇を考えるだけで頭痛がしそうで、雪季は、ため息を落として玄関のかぎを開けた。先に立って入る。ここで気兼ねして帰ってくれるようならありがたいが、そんな相手なら、あの英が手を焼いてはいないだろう。
遠慮なく続く足音と背後で閉まった戸に、もう一度ため息をこぼす。
「あっ、感じ悪っ、わざとだろそのため息」
「タオル取って来るから、そのままで」
そうは言っても上がり込むかと思ったが、バスタオルを手に戻ると、予想外にそのままの状態で立っていた。
「ありがと」
「…どういたしまして。傘、適当に持って行ってくれていいから」
「いやいや自然な流れで追い返すなよ。お土産持ってきたし、ほら」
そう言って手渡された赤福餅。三重の銘菓だ。李がくれたサブレを思い出す。あれも、伊勢神社の近くと言っていたから三重のはずだ。
英の疫病神の篠原は、多くて月に二度ほど、雪季の知る限りでは最大で三月ほどを開ける程度で各地の銘菓を手土産に訪って来る。警察関係者は、それほどに出張があっただろうか。単に旅行が趣味で国内制覇でも目指しているのかもしれないし、ただの口実作りのためにせっせとアンテナショップにでも通っているのかもしれない。
訊けば答えるのかも知れないが、それほどに興味もない。
「上がるよ?」
「お断りします」
「お邪魔しまーす」
邪魔とわかるなら帰ってほしい。
雪季を押しのける勢いで上がり込んだ篠原にまたため息をこぼし、半ば力づくとはいえ、英はよくこの男を追い返せていたなとうっかりと感心してしまう。今気にすべきは、そこではない気がする。
追いかけてリビングにたどり着くと、勝手に椅子に座っている。
「お茶とか出ないの? ほら、お持たせで悪いけどとか赤福開けてもいいから」
「…インスタントコーヒーとほうじ茶と緑茶ならどれが」
「いれてくれるんだ」
「いらないなら」
「いるいる、コーヒー」
とりあえず持ち帰った缶詰類を適当に置いて、薬缶を火にかける。その間、隠すつもりもないらしい篠原の視線が突き刺さる。
こちらから何か言った方がいいだろうかと思うが、下手に会話を弾まされると厄介な方向に向かう未来しか思い描けない。雪季とて対象の情報集めや信頼づくりのために好まれるような話し方や話題を仕込んだりはしたが、英のような人脈の拡げ方は到底真似できない。篠原は多分、英の側の人間だ。
黙々と自分のための緑茶を淹れて、篠原には空のカップとスプン、インスタントコーヒーの瓶やフレッシュミルク、砂糖をまとめて渡す。あとは、本当に赤福餅を食べるつもりがあるのかは知らないが、小皿。
「雑なんだかマメなんだか。っていうか、普通こっちに座らない?」
キッチンカウンター内に折りたたみイスを広げて座り込んだ雪季に、笑うような不満を表すような笑みを向ける。
「客ではないと判断したので」
「それは、アキラからのお達し? 結局二人の関係って何なの?」
「雇用主と被雇用者」
「上司と部下?」
肯いておく。ふうん、と含みを持たせた反応は、予想の範囲内だ。
「一度、ちゃんと話してみたかったんだ。アキラがいないのはラッキーだったかも。英がいると、すぐ上に引っ込んじゃうもんな」
篠原が来訪すると、追い立てられるように二階の英の部屋にこもる羽目になる。そこが一番リビングの会話が拾いやすいからだが、完全な盗み聞ぎなので、毎回、何をやっているのかと疲れた気分になってしまう。
その元凶に直に絡まれて、これはこれで面倒くさい。
「でもさあ、上ってアキラの部屋しかないんじゃなかった? 前にここで社員さんの飲みに混ざったときにそんなこと言ってた気がするけど」
「さあ。俺はその頃の部屋割りは知らないから」
飲みに混じっていたと聞いて、引っ越してすぐの点検で誰が持ち込んだのかもわからない缶詰に細工がしてあったことを思い出したが、さすがに違うだろう。盗聴器はともかく、薬や毒を仕込んだところでつるむ相手がいなくなるだけだ。
ゆっくりとお茶をすすりながら、さっさと帰ってくれないかと思うが、赤福餅の包装を解き始めてしまった。
「これ、賞味期限短いんだな。明日みたいなんだけど、アキラは間に合う?」
「多少過ぎたところで、気にするような奴じゃないだろう」
「ふーん」
「…何か?」
「本当のところ、付き合ってる?」
にやにやとした顔を見据える。睨まれたと受け取られただろうが、一切動じる気配はない。それはそうだろう。
こうも疑われるのは、英の性指向が男女関係ないからなのか、普段の行いのせいなのか。確実に後者だなと勝手に断じて、雪季は深々と息を吐いた。
「ない」
「全然動じないなあ、面白くなーい」
「つまらないなら、どうぞお帰りを」
「随分とアキラの生活が健康的になった気がするんだよねえ、えーと…ナカハラ、が、来てから。そもそも、アキラとの共同生活が半年以上も続いてるのもびっくりだし? 秘書でしょ? ほとんど一日中一緒にいて、ただの部下って言われても本当かなって感じなんだけど」
「そんなことを言いだしたら、昔気質の師匠と弟子や試合前のコーチと選手とか寮生活の学生だって全部ただならぬ関係ということにならないか」
「相手がアキラじゃなかったらね。あいつ、あれで気難しいだろ? にこやかにするっと人の懐に入ってくる癖に、自分の胸の内には踏み入らせない。はっきりと悟られるようなことは少ないだろうけど、そういうとこに勘付かれて、深くて長い人間関係なんて築けてなかった」
選択を誤ったなと、雪季はため息を押し殺した。家に上げたのはともかく、まともに会話をすべきではなかった。あるいは、徹底して客扱いをした方がまだましだったかもしれない。
ひたと、瞬きの少ない目が雪季をとらえる。
「何をやって、英の気を惹いた?」
「…その評が妥当なのかも知らないが、もしもその通りで俺の何かをあいつが気に入ってるんだとしても、そんなもの本人に訊いてくれ。知るわけないだろう」
「特別扱いはあくまでアキラからのものであって、何も知らないって言い張るわけか」
いっそこいつは、英に恋をしているのではないだろうか。
先ほど自分に投げられたのと似たような疑惑を思い浮かべて、なるほどいろいろと疑われるのも当然の流れなのかも知れないと、雪季は胸の内で嘆息した。人の感情で、色恋はまだ説明や想像が容易い。
そして、きっかけはわかっているが執着の理由を知りたいのは雪季も同じなのだが。
飲み干した緑茶を新しく淹れて、雪季はもう一度ため息をついた。
「生憎と、テレパスでも誇大妄想家でもないから、知らないものは知らないとしか言いようがない。どういう付き合いがしたいんだか知らないが、本人にぶつけろ」
「ぶつけても返してくれないから散々苦労してるんだけどー」
「知るか。…今日は戻らないはずだから、そろそろ帰ってもらえるとありがたいんだが」
「うわーそういうこと言う。面と向かって」
どこまでも明るく軽く、甘い調子を崩さない。果たしてこれが素なのか、あくまで「演技」を行っているのか、雪季にはわからない。わからないが、知りたくもない。英に関しても知りたくはなかったのだから、似たようなことを繰り返したくはない。
再度緑茶を飲み干して空の湯飲みを流しに置いた雪季は、篠原を見てわずかに首を傾げた。
「目的の相手もいないのに居てもどうしようもないだろう。戻るまで居座るというなら、居座り料に家事を手伝ってもらうことになるが」
「家事?」
「掃除と洗濯、整理整頓」
料理の作り置きもしたいところだが、それをこの男の前でするつもりはない。
篠原は、せっかくの整った顔に間抜けな表情を浮かべ、数秒固まった。そうして、ゆっくりと首どころか体ごと傾ける。
「家政夫?」
「そこまでプロじゃない。共用部分と自分の部屋だけだ。誰がやってくれるわけでもないんだから、自分のことは自分でするしかないだろ」
「ここ、ハウスクリーニング入ってなかったっけ、定期的に」
「だから、簡単に。それでもそこそこ時間取られるから、人手があれば遠慮なく使わせてもらう」
「うん、そろそろ帰ろっかな」
するりと椅子から立ち上がり、足早というわけではないのに呼び止める間もなく玄関へと向かう。止める必要もないのでキッチンカウンターの中から見送って、念のため出ていくまで確認した方がいいかと後を追う。ついでに、鍵もかけなくては。
うわ湿ってる、とぼやきながら靴を履いていた篠原は、振り返ることもなく雪季に声をかけた。声の調子は変わらない。
「同窓会の頃には梅雨も明けてるかな?」
「…同窓会?」
「あれ? 葉書来てない? 高校一緒だったんだよね?」
高校の同窓会が開かれるのか。卒業からは九年、入学から十一年。中途半端な年だなと思う。来年の方が、卒業から十年で丁度いい区切りになったのではないのか。
「引っ越し続きだったから、行方知れずになってるんだろう」
「へー? 現住所ここでいいんだったら、俺から連絡しとこうか?」
「遠慮しておく」
「なんで?」
上体をひねって、真っ直ぐに見つめてくる。ただ好奇心だけしかないかのようで、実際のところはどうだろうか。
「どのみち同窓会に行くつもりはないし、ここも引っ越すかもしれないし」
「ふーん?」
立ち上がった篠原は、上がり框に立っている分雪季の方が見下ろす形になるにも拘らず、余裕たっぷりに見つめてくる。覗き込むようなまなざしは、無邪気というには強すぎる。
「幹事と話す機会があって、訊いてみたらナカハラも出席になってるって言ってたんだけどな」
「…中原違いじゃないか?」
「いや、うちの学年他にナカハラっていなかった」
「…俺は何を疑われてるんだ」
にこやかに、篠原は笑みを形作る。よくできました、と褒める教師のようで正直苛立たしい。
「疑うなんてとんでもない。ただ、聞いてないんだなと思って」
反応を待ってだろう間を置く。雪季は、黙って見返す。篠原の眼は、観察する醒めたものだ。
ふと、思いつく。
もしかすると篠原は、嬉しかったのだろうか。同類を見つけて。周囲とは何か違うという違和感を抱いていて、初めて見つけた同類に、親しみを持ったとすれば。その周囲に違うものがうろちょろしていれば、目障りにも思うのだろうか。
「アキラがナカハラの分も出席の返事してたって聞いたんだよ。今うちで働いてるからって」
「………聞いてない」
「うん。さっきの反応からすると、日程も聞いてないよね? 予定大丈夫?」
「…後で確認しておく」
あの馬鹿、と雪季が肚の内で吐き捨てている間に、篠原はさわやかに立ち去って行った。
何やら勝手なことをしていた英に腹は立つが、面白いおもちゃ扱いでもされていると思って、篠原の注意が逸れるならそれでもいい。気になればすぐにでも雪季の来歴くらい洗い出してしまうだろう。特に妙なものは引っかからないはずだが、注意を引かないにこしたことはない。
鍵をかける前に一度引き戸を開けると、外ではまだ、静かな雨が降り続いていた。
「よかった、誰も出てこないからもう帰ろうかと思ってた」
「家主なら旅行中。どうぞそのままお帰りください」
「えー。体冷えたし、傘壊れて濡れたし、タオルくらい貸してくれても罰は当たらないんじゃない? 同級生のよしみで。覚えてないけど」
ここで追い返す手間暇を考えるだけで頭痛がしそうで、雪季は、ため息を落として玄関のかぎを開けた。先に立って入る。ここで気兼ねして帰ってくれるようならありがたいが、そんな相手なら、あの英が手を焼いてはいないだろう。
遠慮なく続く足音と背後で閉まった戸に、もう一度ため息をこぼす。
「あっ、感じ悪っ、わざとだろそのため息」
「タオル取って来るから、そのままで」
そうは言っても上がり込むかと思ったが、バスタオルを手に戻ると、予想外にそのままの状態で立っていた。
「ありがと」
「…どういたしまして。傘、適当に持って行ってくれていいから」
「いやいや自然な流れで追い返すなよ。お土産持ってきたし、ほら」
そう言って手渡された赤福餅。三重の銘菓だ。李がくれたサブレを思い出す。あれも、伊勢神社の近くと言っていたから三重のはずだ。
英の疫病神の篠原は、多くて月に二度ほど、雪季の知る限りでは最大で三月ほどを開ける程度で各地の銘菓を手土産に訪って来る。警察関係者は、それほどに出張があっただろうか。単に旅行が趣味で国内制覇でも目指しているのかもしれないし、ただの口実作りのためにせっせとアンテナショップにでも通っているのかもしれない。
訊けば答えるのかも知れないが、それほどに興味もない。
「上がるよ?」
「お断りします」
「お邪魔しまーす」
邪魔とわかるなら帰ってほしい。
雪季を押しのける勢いで上がり込んだ篠原にまたため息をこぼし、半ば力づくとはいえ、英はよくこの男を追い返せていたなとうっかりと感心してしまう。今気にすべきは、そこではない気がする。
追いかけてリビングにたどり着くと、勝手に椅子に座っている。
「お茶とか出ないの? ほら、お持たせで悪いけどとか赤福開けてもいいから」
「…インスタントコーヒーとほうじ茶と緑茶ならどれが」
「いれてくれるんだ」
「いらないなら」
「いるいる、コーヒー」
とりあえず持ち帰った缶詰類を適当に置いて、薬缶を火にかける。その間、隠すつもりもないらしい篠原の視線が突き刺さる。
こちらから何か言った方がいいだろうかと思うが、下手に会話を弾まされると厄介な方向に向かう未来しか思い描けない。雪季とて対象の情報集めや信頼づくりのために好まれるような話し方や話題を仕込んだりはしたが、英のような人脈の拡げ方は到底真似できない。篠原は多分、英の側の人間だ。
黙々と自分のための緑茶を淹れて、篠原には空のカップとスプン、インスタントコーヒーの瓶やフレッシュミルク、砂糖をまとめて渡す。あとは、本当に赤福餅を食べるつもりがあるのかは知らないが、小皿。
「雑なんだかマメなんだか。っていうか、普通こっちに座らない?」
キッチンカウンター内に折りたたみイスを広げて座り込んだ雪季に、笑うような不満を表すような笑みを向ける。
「客ではないと判断したので」
「それは、アキラからのお達し? 結局二人の関係って何なの?」
「雇用主と被雇用者」
「上司と部下?」
肯いておく。ふうん、と含みを持たせた反応は、予想の範囲内だ。
「一度、ちゃんと話してみたかったんだ。アキラがいないのはラッキーだったかも。英がいると、すぐ上に引っ込んじゃうもんな」
篠原が来訪すると、追い立てられるように二階の英の部屋にこもる羽目になる。そこが一番リビングの会話が拾いやすいからだが、完全な盗み聞ぎなので、毎回、何をやっているのかと疲れた気分になってしまう。
その元凶に直に絡まれて、これはこれで面倒くさい。
「でもさあ、上ってアキラの部屋しかないんじゃなかった? 前にここで社員さんの飲みに混ざったときにそんなこと言ってた気がするけど」
「さあ。俺はその頃の部屋割りは知らないから」
飲みに混じっていたと聞いて、引っ越してすぐの点検で誰が持ち込んだのかもわからない缶詰に細工がしてあったことを思い出したが、さすがに違うだろう。盗聴器はともかく、薬や毒を仕込んだところでつるむ相手がいなくなるだけだ。
ゆっくりとお茶をすすりながら、さっさと帰ってくれないかと思うが、赤福餅の包装を解き始めてしまった。
「これ、賞味期限短いんだな。明日みたいなんだけど、アキラは間に合う?」
「多少過ぎたところで、気にするような奴じゃないだろう」
「ふーん」
「…何か?」
「本当のところ、付き合ってる?」
にやにやとした顔を見据える。睨まれたと受け取られただろうが、一切動じる気配はない。それはそうだろう。
こうも疑われるのは、英の性指向が男女関係ないからなのか、普段の行いのせいなのか。確実に後者だなと勝手に断じて、雪季は深々と息を吐いた。
「ない」
「全然動じないなあ、面白くなーい」
「つまらないなら、どうぞお帰りを」
「随分とアキラの生活が健康的になった気がするんだよねえ、えーと…ナカハラ、が、来てから。そもそも、アキラとの共同生活が半年以上も続いてるのもびっくりだし? 秘書でしょ? ほとんど一日中一緒にいて、ただの部下って言われても本当かなって感じなんだけど」
「そんなことを言いだしたら、昔気質の師匠と弟子や試合前のコーチと選手とか寮生活の学生だって全部ただならぬ関係ということにならないか」
「相手がアキラじゃなかったらね。あいつ、あれで気難しいだろ? にこやかにするっと人の懐に入ってくる癖に、自分の胸の内には踏み入らせない。はっきりと悟られるようなことは少ないだろうけど、そういうとこに勘付かれて、深くて長い人間関係なんて築けてなかった」
選択を誤ったなと、雪季はため息を押し殺した。家に上げたのはともかく、まともに会話をすべきではなかった。あるいは、徹底して客扱いをした方がまだましだったかもしれない。
ひたと、瞬きの少ない目が雪季をとらえる。
「何をやって、英の気を惹いた?」
「…その評が妥当なのかも知らないが、もしもその通りで俺の何かをあいつが気に入ってるんだとしても、そんなもの本人に訊いてくれ。知るわけないだろう」
「特別扱いはあくまでアキラからのものであって、何も知らないって言い張るわけか」
いっそこいつは、英に恋をしているのではないだろうか。
先ほど自分に投げられたのと似たような疑惑を思い浮かべて、なるほどいろいろと疑われるのも当然の流れなのかも知れないと、雪季は胸の内で嘆息した。人の感情で、色恋はまだ説明や想像が容易い。
そして、きっかけはわかっているが執着の理由を知りたいのは雪季も同じなのだが。
飲み干した緑茶を新しく淹れて、雪季はもう一度ため息をついた。
「生憎と、テレパスでも誇大妄想家でもないから、知らないものは知らないとしか言いようがない。どういう付き合いがしたいんだか知らないが、本人にぶつけろ」
「ぶつけても返してくれないから散々苦労してるんだけどー」
「知るか。…今日は戻らないはずだから、そろそろ帰ってもらえるとありがたいんだが」
「うわーそういうこと言う。面と向かって」
どこまでも明るく軽く、甘い調子を崩さない。果たしてこれが素なのか、あくまで「演技」を行っているのか、雪季にはわからない。わからないが、知りたくもない。英に関しても知りたくはなかったのだから、似たようなことを繰り返したくはない。
再度緑茶を飲み干して空の湯飲みを流しに置いた雪季は、篠原を見てわずかに首を傾げた。
「目的の相手もいないのに居てもどうしようもないだろう。戻るまで居座るというなら、居座り料に家事を手伝ってもらうことになるが」
「家事?」
「掃除と洗濯、整理整頓」
料理の作り置きもしたいところだが、それをこの男の前でするつもりはない。
篠原は、せっかくの整った顔に間抜けな表情を浮かべ、数秒固まった。そうして、ゆっくりと首どころか体ごと傾ける。
「家政夫?」
「そこまでプロじゃない。共用部分と自分の部屋だけだ。誰がやってくれるわけでもないんだから、自分のことは自分でするしかないだろ」
「ここ、ハウスクリーニング入ってなかったっけ、定期的に」
「だから、簡単に。それでもそこそこ時間取られるから、人手があれば遠慮なく使わせてもらう」
「うん、そろそろ帰ろっかな」
するりと椅子から立ち上がり、足早というわけではないのに呼び止める間もなく玄関へと向かう。止める必要もないのでキッチンカウンターの中から見送って、念のため出ていくまで確認した方がいいかと後を追う。ついでに、鍵もかけなくては。
うわ湿ってる、とぼやきながら靴を履いていた篠原は、振り返ることもなく雪季に声をかけた。声の調子は変わらない。
「同窓会の頃には梅雨も明けてるかな?」
「…同窓会?」
「あれ? 葉書来てない? 高校一緒だったんだよね?」
高校の同窓会が開かれるのか。卒業からは九年、入学から十一年。中途半端な年だなと思う。来年の方が、卒業から十年で丁度いい区切りになったのではないのか。
「引っ越し続きだったから、行方知れずになってるんだろう」
「へー? 現住所ここでいいんだったら、俺から連絡しとこうか?」
「遠慮しておく」
「なんで?」
上体をひねって、真っ直ぐに見つめてくる。ただ好奇心だけしかないかのようで、実際のところはどうだろうか。
「どのみち同窓会に行くつもりはないし、ここも引っ越すかもしれないし」
「ふーん?」
立ち上がった篠原は、上がり框に立っている分雪季の方が見下ろす形になるにも拘らず、余裕たっぷりに見つめてくる。覗き込むようなまなざしは、無邪気というには強すぎる。
「幹事と話す機会があって、訊いてみたらナカハラも出席になってるって言ってたんだけどな」
「…中原違いじゃないか?」
「いや、うちの学年他にナカハラっていなかった」
「…俺は何を疑われてるんだ」
にこやかに、篠原は笑みを形作る。よくできました、と褒める教師のようで正直苛立たしい。
「疑うなんてとんでもない。ただ、聞いてないんだなと思って」
反応を待ってだろう間を置く。雪季は、黙って見返す。篠原の眼は、観察する醒めたものだ。
ふと、思いつく。
もしかすると篠原は、嬉しかったのだろうか。同類を見つけて。周囲とは何か違うという違和感を抱いていて、初めて見つけた同類に、親しみを持ったとすれば。その周囲に違うものがうろちょろしていれば、目障りにも思うのだろうか。
「アキラがナカハラの分も出席の返事してたって聞いたんだよ。今うちで働いてるからって」
「………聞いてない」
「うん。さっきの反応からすると、日程も聞いてないよね? 予定大丈夫?」
「…後で確認しておく」
あの馬鹿、と雪季が肚の内で吐き捨てている間に、篠原はさわやかに立ち去って行った。
何やら勝手なことをしていた英に腹は立つが、面白いおもちゃ扱いでもされていると思って、篠原の注意が逸れるならそれでもいい。気になればすぐにでも雪季の来歴くらい洗い出してしまうだろう。特に妙なものは引っかからないはずだが、注意を引かないにこしたことはない。
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