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来訪
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ソファーの隅で体を丸くしている三浦には、とりあえずタオルケットをかけた。
テーブルを、英と笹倉と雪季の三人で囲んでいる。他の四人はそれぞれ寝室に引き上げたが、こちらはだらだらと飲み続け、少し前に三浦が脱落したところだ。
「そろそろ寝るわ。ごちそうさま」
どこからどう流れたのだったかの冷凍マンモスからの復活プロジェクトの話が一段落ついたあたりで、笹倉が立ち上がる。立ったところで、ふらりと頭が揺れた。
「つかまってください」
「ありがとー」
手を差し出したのだが、肩をつかまれた。それはまあどちらでもいい。空いている方の手で、水のペットボトルを取る。
ふふっ、と、こぼれるような笑い声が聞こえた。
「雪季君やさしーい。やさしいついでに、ちょっと外でたいなー」
「え」
そろそろ寝ると言ったのは笹倉で、雪季も、玄関に一番近い葉月の部屋に送り届けるつもりでいた。思わず首を巡らせると、予想以上に顔が近くて慌てて戻す。
「…外、出たら暑いですよ」
室内だからこそ冷房も効いているが、今夜も熱帯夜だ。笹倉はこの家に着いてすぐに、汗が気持ち悪いと風呂に入っていたはずだが、外に出れば動かなくてもじっとりと汗ばむだろう。
いいのいいの、と、今度は腕をつかまれ、押し切られて外に出た。
やはり空気はまだ熱を持っていて、このまま下がることもなく朝を迎えるだろうことは容易に想像できて、うんざりとする。
そんな暑さに怯んだのか、密着するようにつかまれていた腕からするりと手が離れ、思っていたよりもしっかりと、笹倉が歩き出す。
「…足元、気を付けてください」
「だーいじょうぶ。酔ってるけど、そこまで酔ってないからー。少し、話したかっただけ」
ふわりとした足取りはやや心配ではあるが、確かにこけそうなほどに危なっかしくはない。笹倉の酔い覚ましにと持ってきたペットボトルをなんとなく手で転がしながら、それでも何かあれば支えられるような距離でついて行く。
夜道とはいえ、田舎のように真っ暗ではなく、どこかに何かしらの光源はある。
「あと、ひと月くらい?」
「…はい?」
「入社して一年。正直、ちゃんと続くとは思ってなかった。雪季君がどうこうというよりも、社長は秘書なんてにぎやかしくらいにしか思ってないんだろうなと思ってたから、別に人材を選ぶつもりはないんだろうな、って」
「…でしょうね」
いてもいなくても問題なく、いるとしても必要とされるのは仕事ではなく、ただ英の気を紛れさせさえすればいいのだろう。会社の創立前からの付き合いだという笹倉の読みは合っているだろうし、それは今も変わらないはずだ。
振り返った笹倉の顔には、苦笑が浮かんでいた。
「当の秘書がそれを認めちゃう?」
「実際、俺がいなくても問題なく回るでしょう。役立っているといえば、せいぜいお目付け役程度で」
「そのお目付け役が、どれだけ大変か。本人はそこのところわかってないみたいだけど」
「…成否が俺ではなくあいつの心情にのみ左右される以上、やはりただのお飾りでしょう?」
「…そこまでわかってて、よく傍にいられるわね」
「雇われているだけですから。ちゃんと見合っているかどうかは知りませんが、そこを決めるのは俺ではないので。真っ当に仕事してる皆さんには申し訳ないですが」
額に右の手のひらを当てて目をつむり、笹倉は立ち止まった。雪季も合わせて足を止める。
ややあって目を開けた笹倉は、いやにきびきびとした動きで雪季の腕をつかむと、無造作に河原へと続く斜面を降りていく。いつもの高いヒールの靴ではなく、少しだけの散歩だからと適当に転がっていたサンダルをひっかけてきた分ましだろうが、完全に酔いが醒めたわけではないだろうのでそこは気になる。
そして、河原にはさすがに光源が乏しいので、どうにかお互いの輪郭は判っても表情までは見えない。
「あのねえ雪季君。社長が…アキラ君がどういうつもりだったのかもどういうつもりなのかも知らないけど、あなたはちゃんと仕事してるし、ちゃんとした人よ」
川縁と言えども、むしろ水気が多いからか、いよいよ蒸す。たまに吹く風が、熱気を動かすだけとはいえまだ救いだ。
適当なところで腰を下ろし、つかまれた腕に引っ張られて少し距離を置いたあたりに座った雪季に、まるで気の進まない説教をするかのような口調で言う。
何事かと首を傾げてから、見えないかと口を開こうとしたところで、先を越される。
「歴代の使えない秘書と比べるまでもなく、専門知識を抜けば中原君よりも使える人材だし、対人能力で言ったらリナや真紀ちゃんなんて足元にも及ばないし。雪季君が入ってくれて、少なくともあたしは大分助かってる」
「…買いかぶりすぎでは?」
「あたし、自分を過信して仕事できるんですって思い込んでる人って嫌い。でも、ちゃんとできてるのにできてないって言ってる人も、見てて腹が立つ」
話の流れからするとどうも雪季が後者だと言っているような気がするが、据わりが悪い。
「自己肯定感が弱いっていうの? どんな生い立ちでどんな風に生きてきたかは知らないけど、そこをアキラ君に付け込まれていいように使われるのはもったいないんじゃない?」
「いえ、付け込まれているというよりは…利害の一致というか」
流されるように選んだとはいえ、殺人業など長く続けられる仕事ではないとわかってはいた。
それでもいいと思っていた。それが、流されるままの急流で不意に飛び込んできた丸太につい手を伸ばしたようなもので、英の人となりはどうかとは思うが助けられたのは雪季の方だろう。
たださすがにそのあたりを話すには、深入りが過ぎる。
「給与面で大分助けられてます」
「だからそれ。別に雪季君、不自然に多くもらってるとかないからね? まだ一年足らずなんだから完璧にできてるとかはないだろうけど、もらいすぎてるなんてことないのよ。ちゃんとわかってる?」
そうは言われても、結局雪季がやっているのは雑用がほとんどで、言ってみればバイトでも済むようなそれらで一人前の給料をもらっているのは、やはりもらいすぎではないのか。
何と言ったものかと悩んでいると、深々とため息をつかれた。
「根強い…」
「…そう言えば笹倉さんはどうしてあの会社に?」
「いくらなんでもあからさますぎるでしょ」
話題の逸らし方が露骨だと笑うが、ちゃんと乗ってくれるのだから成功だ。
「そうねえ…タイミングが良かったってところかな。そもそもうちのダンナとアキラ君が先輩後輩で、ああだから三浦さんの後輩でもあるんだけど、そのつながりであたしも飲み友達みたいなもので。転職考えてるって言ってたら、ちゃんと会社にしたいから入ってくれない、事務のエキスパートだよね、って声かけられて」
その時点で、笹倉はすでに結婚していたという。そうして、働く目的は生活のためというわけでもなく、かといって出世欲というわけでもない。単に、専業主婦は向いてないだろうなとの判断と、夫に何かあった時に途端に食い詰めるのは困るとの考えからだった。
贅沢と言えば贅沢な働き方ではある。
それだけに、当時の職場の人間関係にうんざりとして、転職か、一旦辞めて資格でも取ろうかと考えていた時に、折よく英が滑り込んだ。つくづく、そういった潮目を読むのが上手いし、居合わせるだけの運も持ち合わせている。
「全然エキスパートなんて言えるものじゃなかったんだけどね。でも、すぐに潰れちゃってもそれはそれでいいかなって。ほらアキラ君、人乗せるの上手いし。…まあ開けてみたら、ひどかったけどね。ちゃんと会社にしたいって意味をそこで悟ったわ。辞めた会社の人間関係のうんざりさ加減どころか突き抜けてていっそ面白くなっちゃったくらいよ。社員なんだか友達なんだか恋人なんだかよくわからないのがわらわらいて。まともなの三浦さんだけだったけど、あの人基本我関せずだし。リナは今より引きこもってたし、十近くも年下なのにあたしより頭いいくせに常識総無視するような子と何話せばいいのかわからないし」
「…仲いいですよね、お二人」
「今はね。もう、妹とか姪っ子みたいな感じ。むしろ、いきなりリナが懐いたことにびっくりしたわよ。先にネットで知り合いとかだった?」
「俺ですか?」
「そう」
「…河東が何か吹き込んでたんじゃないですか」
まさか、昔の殺害対象の娘だったとは、しかもそれを感謝されたとは、言えるはずがない。どう考えても、向けられることも受け取ることも非難されるような好意だ。
雪季の苦い思いには気付くこともなく、笹倉の話は葉月に移る。
「今日の養子がどうこうって話が出た時、もうリナを養子にしちゃえばいいのにって、ちょっと思ったのよね。実際、親子みたいなものでしょあの二人」
「…たしかに」
「ね? そもそも、会社作ったのだってリナのためみたいなところあるんじゃないかって気がしてるのよね」
「え?」
「…あの子の家庭環境とか、聞いてる?」
父親は死亡、母親は行方知れず。一旦は親戚に引き取られた葉月は、その後施設に預けられ、高校中退と同時に施設も出ている。
それらをわざわざ言いふらしたりはしないが、隠してもいないようで、それとなく探ると、社員たちはそれなりに知っているようだった。
雪季は短く、少し、とだけ答えた。
「あの子が働き始めた時ってまだ未成年だったから、いろいろとアキラ君が保証人になってたのよ。ああいうのって、赤の他人がやるとややこしかったりするらしいんだけど、勤め先の社長ってなったら割とすんなりいくみたいで。…まあ、二人とも見かけがあれだからぱっと見は水商売かと思われてそれはそれで微妙なことはあったみたいだけど。リナが騙されてるんじゃないかとか」
「ああ…」
見た目だけなら、ありそうな話だ。しかしそれでも、問題はなかったのだろう、結局は。言いくるめるのは英の十八番だ。
「でもまあ、どこかで何かが間違ってうっかり、あの二人がちゃんとしたお付き合いをする可能性もなくはないから急がなくてもいいとは思うけど」
「…さすがにまだ手は出してないですよね…?」
「…そのはずだけど」
なんとなく嫌な方向に話が流れてしまった。
それは別にしても、下手をすると河東家の遺産相続問題に巻き込まれそうなので、あまりお勧めはできない。それは、配偶者でも同じだろうが。
二人で、期せず揃えたように息を吐き、次いで苦笑がこぼれた。
「いっそ雪季君とアキラ君が結婚しちゃってリナを養子にもらったらいいんじゃない?」
軽い調子の言葉に、ため息がのどに引っかかる。
「………。笹倉さん」
「あ。ごめん、ほら、真紀ちゃんの小説っていうか…ごめん…忘れて」
山本が趣味で書いているという小説。葉月や笹倉も読んでいるというようなことは聞いてはいたが。
「…趣味で何を書こうと、発表しようと、どうこう言うつもりはないんですけど。実害が出るようならさすがに」
「だからごめんってば! 混同してない、しない、別にあれに書かれてるのがアキラ君と雪季君のことだなんて思ってないって!」
「…さっきの発言が出てくる時点で怪しい気がするんですが」
「だから忘れて! 酔ってるから、酔ってるのよ!」
慌てて上ずった声に、暗闇の中ではあるが、両手で頭を抱えているのか顔を覆っているのか、高い位置で手を頭ごと振り回しているのがわかる。
いつになく幼い行動に、なるほど、酔っているのだろう、とは思う。
ただ、酔っているときの発言は案外本音そのものだったりする。普段考えていて、ただ、いろいろな理由のもとにのみ込んでいたり浮上していなかったものがぽろりと零れ落ちたり。少なくとも、何一つ感じていなかったようなものは転がり出ない。
「…そろそろ戻りましょうか」
「そうね! …変な話ばかりしてごめんなさい」
「いえ。危ないので、手を」
「ありがと」
すんなりと差し出された手をつかむと、少し汗ばんでいた。雪季の手も同じだ。ぬるい空気がまとわりつく。
テーブルを、英と笹倉と雪季の三人で囲んでいる。他の四人はそれぞれ寝室に引き上げたが、こちらはだらだらと飲み続け、少し前に三浦が脱落したところだ。
「そろそろ寝るわ。ごちそうさま」
どこからどう流れたのだったかの冷凍マンモスからの復活プロジェクトの話が一段落ついたあたりで、笹倉が立ち上がる。立ったところで、ふらりと頭が揺れた。
「つかまってください」
「ありがとー」
手を差し出したのだが、肩をつかまれた。それはまあどちらでもいい。空いている方の手で、水のペットボトルを取る。
ふふっ、と、こぼれるような笑い声が聞こえた。
「雪季君やさしーい。やさしいついでに、ちょっと外でたいなー」
「え」
そろそろ寝ると言ったのは笹倉で、雪季も、玄関に一番近い葉月の部屋に送り届けるつもりでいた。思わず首を巡らせると、予想以上に顔が近くて慌てて戻す。
「…外、出たら暑いですよ」
室内だからこそ冷房も効いているが、今夜も熱帯夜だ。笹倉はこの家に着いてすぐに、汗が気持ち悪いと風呂に入っていたはずだが、外に出れば動かなくてもじっとりと汗ばむだろう。
いいのいいの、と、今度は腕をつかまれ、押し切られて外に出た。
やはり空気はまだ熱を持っていて、このまま下がることもなく朝を迎えるだろうことは容易に想像できて、うんざりとする。
そんな暑さに怯んだのか、密着するようにつかまれていた腕からするりと手が離れ、思っていたよりもしっかりと、笹倉が歩き出す。
「…足元、気を付けてください」
「だーいじょうぶ。酔ってるけど、そこまで酔ってないからー。少し、話したかっただけ」
ふわりとした足取りはやや心配ではあるが、確かにこけそうなほどに危なっかしくはない。笹倉の酔い覚ましにと持ってきたペットボトルをなんとなく手で転がしながら、それでも何かあれば支えられるような距離でついて行く。
夜道とはいえ、田舎のように真っ暗ではなく、どこかに何かしらの光源はある。
「あと、ひと月くらい?」
「…はい?」
「入社して一年。正直、ちゃんと続くとは思ってなかった。雪季君がどうこうというよりも、社長は秘書なんてにぎやかしくらいにしか思ってないんだろうなと思ってたから、別に人材を選ぶつもりはないんだろうな、って」
「…でしょうね」
いてもいなくても問題なく、いるとしても必要とされるのは仕事ではなく、ただ英の気を紛れさせさえすればいいのだろう。会社の創立前からの付き合いだという笹倉の読みは合っているだろうし、それは今も変わらないはずだ。
振り返った笹倉の顔には、苦笑が浮かんでいた。
「当の秘書がそれを認めちゃう?」
「実際、俺がいなくても問題なく回るでしょう。役立っているといえば、せいぜいお目付け役程度で」
「そのお目付け役が、どれだけ大変か。本人はそこのところわかってないみたいだけど」
「…成否が俺ではなくあいつの心情にのみ左右される以上、やはりただのお飾りでしょう?」
「…そこまでわかってて、よく傍にいられるわね」
「雇われているだけですから。ちゃんと見合っているかどうかは知りませんが、そこを決めるのは俺ではないので。真っ当に仕事してる皆さんには申し訳ないですが」
額に右の手のひらを当てて目をつむり、笹倉は立ち止まった。雪季も合わせて足を止める。
ややあって目を開けた笹倉は、いやにきびきびとした動きで雪季の腕をつかむと、無造作に河原へと続く斜面を降りていく。いつもの高いヒールの靴ではなく、少しだけの散歩だからと適当に転がっていたサンダルをひっかけてきた分ましだろうが、完全に酔いが醒めたわけではないだろうのでそこは気になる。
そして、河原にはさすがに光源が乏しいので、どうにかお互いの輪郭は判っても表情までは見えない。
「あのねえ雪季君。社長が…アキラ君がどういうつもりだったのかもどういうつもりなのかも知らないけど、あなたはちゃんと仕事してるし、ちゃんとした人よ」
川縁と言えども、むしろ水気が多いからか、いよいよ蒸す。たまに吹く風が、熱気を動かすだけとはいえまだ救いだ。
適当なところで腰を下ろし、つかまれた腕に引っ張られて少し距離を置いたあたりに座った雪季に、まるで気の進まない説教をするかのような口調で言う。
何事かと首を傾げてから、見えないかと口を開こうとしたところで、先を越される。
「歴代の使えない秘書と比べるまでもなく、専門知識を抜けば中原君よりも使える人材だし、対人能力で言ったらリナや真紀ちゃんなんて足元にも及ばないし。雪季君が入ってくれて、少なくともあたしは大分助かってる」
「…買いかぶりすぎでは?」
「あたし、自分を過信して仕事できるんですって思い込んでる人って嫌い。でも、ちゃんとできてるのにできてないって言ってる人も、見てて腹が立つ」
話の流れからするとどうも雪季が後者だと言っているような気がするが、据わりが悪い。
「自己肯定感が弱いっていうの? どんな生い立ちでどんな風に生きてきたかは知らないけど、そこをアキラ君に付け込まれていいように使われるのはもったいないんじゃない?」
「いえ、付け込まれているというよりは…利害の一致というか」
流されるように選んだとはいえ、殺人業など長く続けられる仕事ではないとわかってはいた。
それでもいいと思っていた。それが、流されるままの急流で不意に飛び込んできた丸太につい手を伸ばしたようなもので、英の人となりはどうかとは思うが助けられたのは雪季の方だろう。
たださすがにそのあたりを話すには、深入りが過ぎる。
「給与面で大分助けられてます」
「だからそれ。別に雪季君、不自然に多くもらってるとかないからね? まだ一年足らずなんだから完璧にできてるとかはないだろうけど、もらいすぎてるなんてことないのよ。ちゃんとわかってる?」
そうは言われても、結局雪季がやっているのは雑用がほとんどで、言ってみればバイトでも済むようなそれらで一人前の給料をもらっているのは、やはりもらいすぎではないのか。
何と言ったものかと悩んでいると、深々とため息をつかれた。
「根強い…」
「…そう言えば笹倉さんはどうしてあの会社に?」
「いくらなんでもあからさますぎるでしょ」
話題の逸らし方が露骨だと笑うが、ちゃんと乗ってくれるのだから成功だ。
「そうねえ…タイミングが良かったってところかな。そもそもうちのダンナとアキラ君が先輩後輩で、ああだから三浦さんの後輩でもあるんだけど、そのつながりであたしも飲み友達みたいなもので。転職考えてるって言ってたら、ちゃんと会社にしたいから入ってくれない、事務のエキスパートだよね、って声かけられて」
その時点で、笹倉はすでに結婚していたという。そうして、働く目的は生活のためというわけでもなく、かといって出世欲というわけでもない。単に、専業主婦は向いてないだろうなとの判断と、夫に何かあった時に途端に食い詰めるのは困るとの考えからだった。
贅沢と言えば贅沢な働き方ではある。
それだけに、当時の職場の人間関係にうんざりとして、転職か、一旦辞めて資格でも取ろうかと考えていた時に、折よく英が滑り込んだ。つくづく、そういった潮目を読むのが上手いし、居合わせるだけの運も持ち合わせている。
「全然エキスパートなんて言えるものじゃなかったんだけどね。でも、すぐに潰れちゃってもそれはそれでいいかなって。ほらアキラ君、人乗せるの上手いし。…まあ開けてみたら、ひどかったけどね。ちゃんと会社にしたいって意味をそこで悟ったわ。辞めた会社の人間関係のうんざりさ加減どころか突き抜けてていっそ面白くなっちゃったくらいよ。社員なんだか友達なんだか恋人なんだかよくわからないのがわらわらいて。まともなの三浦さんだけだったけど、あの人基本我関せずだし。リナは今より引きこもってたし、十近くも年下なのにあたしより頭いいくせに常識総無視するような子と何話せばいいのかわからないし」
「…仲いいですよね、お二人」
「今はね。もう、妹とか姪っ子みたいな感じ。むしろ、いきなりリナが懐いたことにびっくりしたわよ。先にネットで知り合いとかだった?」
「俺ですか?」
「そう」
「…河東が何か吹き込んでたんじゃないですか」
まさか、昔の殺害対象の娘だったとは、しかもそれを感謝されたとは、言えるはずがない。どう考えても、向けられることも受け取ることも非難されるような好意だ。
雪季の苦い思いには気付くこともなく、笹倉の話は葉月に移る。
「今日の養子がどうこうって話が出た時、もうリナを養子にしちゃえばいいのにって、ちょっと思ったのよね。実際、親子みたいなものでしょあの二人」
「…たしかに」
「ね? そもそも、会社作ったのだってリナのためみたいなところあるんじゃないかって気がしてるのよね」
「え?」
「…あの子の家庭環境とか、聞いてる?」
父親は死亡、母親は行方知れず。一旦は親戚に引き取られた葉月は、その後施設に預けられ、高校中退と同時に施設も出ている。
それらをわざわざ言いふらしたりはしないが、隠してもいないようで、それとなく探ると、社員たちはそれなりに知っているようだった。
雪季は短く、少し、とだけ答えた。
「あの子が働き始めた時ってまだ未成年だったから、いろいろとアキラ君が保証人になってたのよ。ああいうのって、赤の他人がやるとややこしかったりするらしいんだけど、勤め先の社長ってなったら割とすんなりいくみたいで。…まあ、二人とも見かけがあれだからぱっと見は水商売かと思われてそれはそれで微妙なことはあったみたいだけど。リナが騙されてるんじゃないかとか」
「ああ…」
見た目だけなら、ありそうな話だ。しかしそれでも、問題はなかったのだろう、結局は。言いくるめるのは英の十八番だ。
「でもまあ、どこかで何かが間違ってうっかり、あの二人がちゃんとしたお付き合いをする可能性もなくはないから急がなくてもいいとは思うけど」
「…さすがにまだ手は出してないですよね…?」
「…そのはずだけど」
なんとなく嫌な方向に話が流れてしまった。
それは別にしても、下手をすると河東家の遺産相続問題に巻き込まれそうなので、あまりお勧めはできない。それは、配偶者でも同じだろうが。
二人で、期せず揃えたように息を吐き、次いで苦笑がこぼれた。
「いっそ雪季君とアキラ君が結婚しちゃってリナを養子にもらったらいいんじゃない?」
軽い調子の言葉に、ため息がのどに引っかかる。
「………。笹倉さん」
「あ。ごめん、ほら、真紀ちゃんの小説っていうか…ごめん…忘れて」
山本が趣味で書いているという小説。葉月や笹倉も読んでいるというようなことは聞いてはいたが。
「…趣味で何を書こうと、発表しようと、どうこう言うつもりはないんですけど。実害が出るようならさすがに」
「だからごめんってば! 混同してない、しない、別にあれに書かれてるのがアキラ君と雪季君のことだなんて思ってないって!」
「…さっきの発言が出てくる時点で怪しい気がするんですが」
「だから忘れて! 酔ってるから、酔ってるのよ!」
慌てて上ずった声に、暗闇の中ではあるが、両手で頭を抱えているのか顔を覆っているのか、高い位置で手を頭ごと振り回しているのがわかる。
いつになく幼い行動に、なるほど、酔っているのだろう、とは思う。
ただ、酔っているときの発言は案外本音そのものだったりする。普段考えていて、ただ、いろいろな理由のもとにのみ込んでいたり浮上していなかったものがぽろりと零れ落ちたり。少なくとも、何一つ感じていなかったようなものは転がり出ない。
「…そろそろ戻りましょうか」
「そうね! …変な話ばかりしてごめんなさい」
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