月夜の猫屋

短編

放課後

「うわー、もう真っ暗じゃないか」　
　部活後、忘れ物を取りに戻った俺は、教室の電気をつけた。どこからか、猫の鳴き声が聞こえる。
「あれ？　遅いね、部活？」
「うわああぁっ」
　誰もいないと思い込んでいたから、馬鹿なくらいに驚いてしまった。
「大丈夫？」
「大丈夫って、突然声かけるから」
「あははははは。ごめん」
　全く悪びれない声だ。しかも、どう見ても小学生。ここ、高校だぞ？
「忘れ物、取りに来たんだよ」
「…兄ちゃんか姉ちゃんの？」
「そんなところかな」
　小さな子が一人で来るくらいだから、家は近いんだろうけど……なんて無責任なんだろう。人事ながら、腹が立つ。忘れ物くらい自分で取りに来い、と言いたくなる。俺には関係のないことなのに。
「吹奏楽部？」
「ああ、うん。――あれ、どうして…？」
「クラリネットのケース持ってるから、そうかなって。大変だね、こんな時間まで」
「うん…」
　頑張ってはいるけど、どんどんみんなとの差が広がって行くのを感じる。時々、ひどくつらくなる。
　気付くと、あの女の子がじっと俺を見ていた。
「嫌いなの？　部活」
「いや、そうじゃないけど･･･」
「けど？」
　じいっと見上げてくる瞳に、つい最近まで飼っていた猫を思い出した。
　気まぐれで、数日帰ってこないかと思えば、俺が眠っているところをたたき起こし、得意げにどんぐりやムカデの死骸なんかの「お土産」を押し付けて、自分はさも当然とばかりに人の寝床にもぐりこむ、ということも度々だった。
　この子は、あの猫に似ている。
「なんでこんなことしてるんだろうって、こんなの何にもならないじゃないかって思うことがあるんだ」
　自分で言った一言に驚いた。それに、まさか見ず知らずの女の子にこんなことを言うとは、思ってもみなかった。あの猫に似ているからだろうか。
　――いつも、あいつには愚痴を聞いてもらっていた。
「俺より上手な奴なんてたくさんいるから…俺なんていなくてもいいかなって、思うよ。わざわざつらい思いをして、無駄なことしてるだけじゃないかって…」
　あいつは、車にひかれて死んだ。
　いつものようにいなくなって数日後、家の近くの道路であいつを見つけた。それは、既にぼろぼろの「物」と化していて、本当にあいつかはわからなかった。わからなかったのに、何故か俺はあいつだとわかって、でも、認めたくなくて…。
　だけど。
　あいつはまだ帰ってこない。
「そんなに焦らなくて良いよ」
　その声に我に返ると、いつのまにか蛍光灯は消えていて、女の子は窓を背にして立っていた。その後ろには、いつもより大きな月が出ている。
「そうやって悪い方向にばっかり考えるの、新あらたの悪い癖だよ。優柔不断なのに勢いで決めるから、いっつも後で落ち込んで。他人の言うことには振り回されるし、考えても仕方ないことばっかり悩んで。まるで、ぱっとしない人の見本市だよね」
　女の子は、こともなげにそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「だけど、少なくともあたしは応援してるよ。クラリネットが吹いてみたいからって入部して、お母さんを必死で説得して、それ持って馬鹿みたいにはしゃいじゃってさ。やりたいから始めたんでしょ。やれるだけはやってみなよ」
　まさか。有り得ない、そんなこと…。
「やめるのはいつでもできるんだしさ。何やったって、完全な無駄にはならないんだよ。頑張ってね」
　どのくらい突っ立っていたのか、もう、あいつはいなくなっていた。俺は、一人暗い教室で満月を見上げていた。
　全く、お節介な奴だよな。
　あしたはクラリネットを吹こう。窓を開け放して、あいつの墓が見えるところで。
　俺は、しばらく月を見続けた。 　

　大きな満月の夜、高校の校舎の屋上には、十前後の少女と小柄な三毛猫がいた。
「君の友達も大変みたいだね。ところでさ、君の言葉は伝えたよ。あれで良かったんだよね？」
　訊かれた猫は、肯くように一声鳴くと、少女の腕に滑り込み、その瞳をじいっと見上げた。
「…うん、送らせてもらうよ」
　少女は猫を強く抱くと、自分の目の高さまで抱き上げ、笑顔で言った。
「もし機会があったら、いつでも来てね。『月夜の猫屋』は、いつでもどこでも誰にでも開かれてるから。――じゃあ、また、ね」
　少女が猫を空中に差し伸べ、何か呟くと、その手から猫は消えた。
　月光のもと、一瞬だけつらそうな表情をした少女は、すぐに微笑を浮かべ、どこかへ消えていった。
　天空には、大きな月が輝いていた。