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そうして、新学期は始まる
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リノリウムの廊下をスニーカーの底との摩擦を感じながら蹴り付け、十数段ある階段の、半ばほどでひらりと飛び降りる。
思った通りに体を動かせることが、こんなにも楽しい。病の癒えた人が健康をありがたがるように、そう思う。
「!」
駆け、急ブレーキをかけようと思っていた職員室の扉の前で、中から現れた人に衝突してしまった。
前のめりになっていたこともあり、肩を抱き止められなければ、思い切り顔を打っていただろう。
「…前方不注意」
頭上からの低い声に慌てて体勢を立て直し、誤魔化すように笑みを浮かべる。
目の前に立つのは、背の高い男の人だった。コートを腕にかけているのは、暖房の利いた職員室の中から出てきたところだからだろう。
「ごめんなさい、ありがとうございます。前は見てました。急すぎて止まれなかっただけで」
「言い訳はいい。はしゃぎすぎるな」
「はい。すみませんでした、名井コーチ」
コーチ、というところをわざと強調する。名井響は、教師ではない。弓道部と合気道部のコーチだ。
まだ大学生で通りそうな彼は、主には女子生徒からかなりの人気を誇っているけれど、その素性はあまり知られていない。
本職は会計士ということになっているものの、その肩書きも一部で、梨園学園を運営する理事長の財産管理や運用などを一手に担っていると、知る者は少ない。
私はその数少ないうちの一人だけれど、学内では基本的に、一部員と指導者としてのみ接しているつもりだ。
「どうしたんですか、こんなところに」
「年始の挨拶に来ただけだ。また、放課後に」
「はい。また」
ぺこりと一礼し、当初の目的である鍵を取りに職員室に入る。入ってすぐのところにある、学年とクラス順に並べられた鍵と日誌を掴むと、変に暖かい部屋を、そそくさと後にした。
実のところクーラーやヒーターの類は苦手で、大好きな学校生活のうち、廊下をのぞいてそれらが完備されているという点だけはいただけないと思っている。
そこだけは、公立の学校にするべきだったかと思うことすらある。
「コーウ」
「秋山先輩? 何かありました?」
廊下に既に響の姿はなく、代わりかのようにかけてきた声の主に、思わず首を傾げる。
黒のありふれた学ランにダッフルコートを重ねた秋山先輩は、左手をコートのポケットに入れたまま、ものぐさに右手を上げてこちらに向かっていた。眠たげな眼が、ゆるく笑っている。
やってきた方向には校長室と放送室があるけれど、そのどちらかに用があったのか、職員室前方の扉から出てきたのか。
まあ、そちらにも階段があるのだから、それだけには限らないのだけど。
「何かって何だ? 俺が早くに学校にいたらおかしいか? 天変地異でも起こるか?」
秋山先輩は、人の悪そうなかおをした。もっともこれは、この人の地顔かもしれない。どこか皮肉気な、悪ぶった感じが妙に似合う。
「そこまで言ってません。だけど、ナマケモノがすばやく動いたら、何が起きたのかって原因くらいは知りたくなるでしょう?」
「知ってるか。ナマケモノってやつは、結構俊敏なんだぞ。のろのろとしか動けないなんてのは、迷信だ」
「私、秋山先輩が始業前に登校できないなんて、一度として言った覚えはありませんよ?」
にっこりと、微笑んで見せる。逆に秋山先輩は、苦い顔をした。
異例ながらも、一年生だった去年から今に至るまで生徒会長を務めている秋山先輩。私が知り合ったのは、去年の高等部文化祭の成果だ。
思った通りに体を動かせることが、こんなにも楽しい。病の癒えた人が健康をありがたがるように、そう思う。
「!」
駆け、急ブレーキをかけようと思っていた職員室の扉の前で、中から現れた人に衝突してしまった。
前のめりになっていたこともあり、肩を抱き止められなければ、思い切り顔を打っていただろう。
「…前方不注意」
頭上からの低い声に慌てて体勢を立て直し、誤魔化すように笑みを浮かべる。
目の前に立つのは、背の高い男の人だった。コートを腕にかけているのは、暖房の利いた職員室の中から出てきたところだからだろう。
「ごめんなさい、ありがとうございます。前は見てました。急すぎて止まれなかっただけで」
「言い訳はいい。はしゃぎすぎるな」
「はい。すみませんでした、名井コーチ」
コーチ、というところをわざと強調する。名井響は、教師ではない。弓道部と合気道部のコーチだ。
まだ大学生で通りそうな彼は、主には女子生徒からかなりの人気を誇っているけれど、その素性はあまり知られていない。
本職は会計士ということになっているものの、その肩書きも一部で、梨園学園を運営する理事長の財産管理や運用などを一手に担っていると、知る者は少ない。
私はその数少ないうちの一人だけれど、学内では基本的に、一部員と指導者としてのみ接しているつもりだ。
「どうしたんですか、こんなところに」
「年始の挨拶に来ただけだ。また、放課後に」
「はい。また」
ぺこりと一礼し、当初の目的である鍵を取りに職員室に入る。入ってすぐのところにある、学年とクラス順に並べられた鍵と日誌を掴むと、変に暖かい部屋を、そそくさと後にした。
実のところクーラーやヒーターの類は苦手で、大好きな学校生活のうち、廊下をのぞいてそれらが完備されているという点だけはいただけないと思っている。
そこだけは、公立の学校にするべきだったかと思うことすらある。
「コーウ」
「秋山先輩? 何かありました?」
廊下に既に響の姿はなく、代わりかのようにかけてきた声の主に、思わず首を傾げる。
黒のありふれた学ランにダッフルコートを重ねた秋山先輩は、左手をコートのポケットに入れたまま、ものぐさに右手を上げてこちらに向かっていた。眠たげな眼が、ゆるく笑っている。
やってきた方向には校長室と放送室があるけれど、そのどちらかに用があったのか、職員室前方の扉から出てきたのか。
まあ、そちらにも階段があるのだから、それだけには限らないのだけど。
「何かって何だ? 俺が早くに学校にいたらおかしいか? 天変地異でも起こるか?」
秋山先輩は、人の悪そうなかおをした。もっともこれは、この人の地顔かもしれない。どこか皮肉気な、悪ぶった感じが妙に似合う。
「そこまで言ってません。だけど、ナマケモノがすばやく動いたら、何が起きたのかって原因くらいは知りたくなるでしょう?」
「知ってるか。ナマケモノってやつは、結構俊敏なんだぞ。のろのろとしか動けないなんてのは、迷信だ」
「私、秋山先輩が始業前に登校できないなんて、一度として言った覚えはありませんよ?」
にっこりと、微笑んで見せる。逆に秋山先輩は、苦い顔をした。
異例ながらも、一年生だった去年から今に至るまで生徒会長を務めている秋山先輩。私が知り合ったのは、去年の高等部文化祭の成果だ。
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