夜の底を歩く

来条恵夢

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三、知っている人と知らない人

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 半ば駆け出すようにして、つかさは病室を後にした。驚いたルナの声が聞こえた気がしたが、無視して、中庭に走り出て、片隅の陰になっているところにうずくまるように膝をつく。あまり目立たず、人が来ることもないだろう。
 そこが当初の目的の桜の木の下だと、気付く余裕もなかった。
「――馬鹿だ。どうしようもなく、途轍とてつもなく、馬鹿だ――!」
 つぶやきが、震える。
 どうしてこんなにも、弱いのだろう。弱さは、火月カゲツで切り捨てたはずだった。それなのに、どこまでもついて来る。
 『夢戦ユメイクサ』は、掌編しょうへんとも呼べそうな短い話をかき集めた本だ。 
 幕末の、少しでも知識があればこの集団と特定できる、そんな彼らを好き勝手に空想したような、そんな話。むしろ、断片と呼んでもいい。
 ただの夢想だ。
 もしかすると、実際に存在した彼らを侮辱するかもしれないと、そう思って、司はどうしてもその集団の名を書けなかった。今でも、どうして賞を取れたのか、出版され、今でも少しずつでも読まれているのかが、わからない。
 自分のやったことを仮託かたくして、ただ吐き散らしたかっただけだ。
 『夢戦』を書いてしまった自分を、司は、振り切るすべを持てずにいる。ルナに対しても、宮凪みやなぎえて傷つけるように遠ざけようとしたように、同じようにするべきだったのに。
「なんで…ッ!」
 強くりたかった。一人きりでも立っていられるように、強く。
 一人きりの強さは本当の強さではないと言うなら、誰かを守る強さこそが本物だと言うなら、本物を得ようとして失った人に、何をどうやってつぐなえばいいというのか。偽者にせものひとがりでも、誰も失わずに済むのなら、失うのが自分だけで済むなら、その方がいい。
 自分がほふったものを振り返り、失ってしまった人を泣き暮れるのであれば、はじめから、火月を手に取るべきではなかった。
 それでも司は、何度あのときに戻っても、りょうを探し、火月を振るうだろう。人とあやかしの血で濡れた、今の道を選び取るに違いない。司の祖母を殺しいつわろうとした妖を許すことはできず、そのためにおとうとを見捨てかけたことをなかったことにはできず、目をらすために罪をおかし続ける。
 そんなことはわかっているのに、わかりきっているのに、心が揺らぐ。その上に、どうして『夢戦』がちらつくのか。
「司」
「え…?」
 呼びかけられて顔を上げた司の口から、勝手に言葉が漏れていた。
「なんで…? なんで…ゆき、さん…」
 母の親友。太郎の親友で、司の通った小学校の養護教諭だった。母のように、あるいは姉のように、したっていた人。
 由紀ゆきは、悪戯いたずらっぽさの混じった笑みを浮かべた。
「どうしたの、お化けでも見たようなかおして」
「だって…」 
 この手で、命を絶った人。
 小学校の最終学年の、秋の手前。春に狩人かりゅうどになり、夏に要がアメリカにち、運動会と音楽会の間の時期。そのときに司は、母の親友に刃を向けた。彼女の中には、人を喰らうことに染まった妖が根を張っていたから。妖と彼女を分離するには、気付くのが遅すぎた。
 ――ねえ司、あたしを殺すの?
 由紀は、そう言って微笑んで見せた。お腹すいた何か作って、と、ねだったあの時のように。断らないよねそんなことしないよねと、期待を目一杯にじませて。
 由紀の職場でもあるはずの小学校の校庭で、真夜中に子どもの亡骸なきがらを挟んで対峙たいじしているなんて、まるで嘘のようだった。嘘であればいいと、気付けば願っていた。
 それでも。
 その唇は、血に染まっていて。
 その爪も髪も服も、赤に染まっていて。
 ――ゆき、さん…。
 ――そんなかおしないで。いいじゃない。ちょっと目をつぶっててくれれば、それでいいの。大丈夫、上手くやるわ。ばれなきゃいいでしょ? ねえ、あたしを見捨てたり、しないよね?
 そこにいるのは確かに由紀で、悪戯っぽく微笑むのも、ちょっとくらい道を外れたほうが楽しいのよとそそのかすのも、由紀そのものだった。
 妖は、由紀に成りすましているのでも寄生しているのでもなく、同化しているのだ。人の姿をしていれば、ましてや、誰にでも好かれるような性格であれば、怪しまれにくいと考えて。そして、狩人の身内であれば、刃も鈍ると考えて。
 いっそ、そこに一片も由紀が残らずに妖がふりをしているだけであれば。
 ――ゆきさんは…それで、いいの…?
 ――決まってるでしょ? ねえ司、これからもずっと、仲良くしましょ? 親友の忘れ形見だもの、あたしにとっても子どもみたいなものだわ。
 ――…太郎さん、怒るよ。
 ――ばかろー? 黙ってればわからないわよ、あいつ鈍いしへたれだし。
 由紀が知る太郎は、人として振舞う姿だけだ。由紀は、太郎の妖の姿を知りはしない。だからかその身に同化した妖も、まだ知りはしない。
 それでもいつかは知るだろう。そしてそれよりも早く、太郎が血の臭いに気付くに違いない。
 だから司は、選ばなければならなかった。
 ――ゆきさん。
 ――何?
 ――ごめんなさい――
 そのときの感触を、司は今でも夢に思い出す。忘れようとしているはずなのに、決して忘れてはいない、実は忘れてはならないと戒めている、その手ごたえ。
 だから今目の前にいるのは、本当に、お化けでしかない。
「ゆきさん…?」
「何よ、もう。ちょっと頑張りすぎてるんじゃないの? ほどほどに手を抜かなきゃ、人生長いのよ、やってらんなくなるわよ~?」
「…うん」
 由紀ははいつの間にか闇に侵食され始めた空を背負い、ほがらかに微笑んだ。
「ほら、少し休みましょう?」
「ゆきさん」
 手を差し出され、ふうっと、司は立ち上がった。
 ごめんなさい、と、司のどこかがつぶやいた。
 ごめん、ゆきさん。ごめんなさい。ゆきさんは、あたしに関わっちゃいけなかったんだ。あたしは、ゆきさんに関わるべきじゃなかった。いつだって、あたしのために。でもそうだね。少し、疲れた。高校に入ってほんの数日なのに、いろいろとありすぎて、疲れたよ。少しだけ――休んでもいいかな。
「ね」
 示されて見上げた先には、薄暗くなってきた中でもわかる、満開の桜。あでやかに咲き誇った花があった。
「きれいでしょう?」
「うん――」
「司!」  
 電撃でも浴びたかのように、びくりと司は、身を震わせた。
 そうして見つめる先には、蒼白な顔をした諒がいる。その普段にない顔色にも驚いたが、どうにもおかしい。何だって諒を見下ろしているんだ、と気付いた司は、今度こそ本当に、我に返った。
 どうやったものか、司は、かたくなに花を開こうとはしない桜の木の幹に腰掛けていた。今にも、ひょいと飛び降りそうな、そんな格好だった。それほどの高さはないが、いつの間にか枝かられ下げられている縄を見ると、首でもくくろうとしていたのかと思う。
「…あれ」
「司、降りて来い!」
「えーと、うん、ちょっとのいて」
 とりあえず縄を外して投げ落とし、飛び降りる。諒は、何かを見極めるように司を見据えた。
「あのー、諒?」
「単独行動、禁止」
「そんなこと言ったら、日中身動き取れないじゃない。大体司書教諭なんて枠狭いんだから、真っ当に生きて望んでる人に譲り渡せ」
「お前それ、心配してる奴に言う言葉か?!」
 いつも通りな諒とのやり取りに安堵して、司は、ただ一本花をつけていない桜の木を見上げた。
 幻か、と、声に出してつぶやく。にぶく痛んだ胸に、その言葉を飲み込む。
「…何、見たんだ?」
「内緒。警告、出してるんだよね?」
「司」
「訊いたことには、答えてもらえないの?」
 互いに、半ば睨み合う。
 中庭には人は居ないが、建物の中はざわついていた。内容までは聞き取れない、人の声。子どもの泣き声は、小児科だろうか。
 見舞いの時間は終わりで、司たちは見つかれば追い出されるだろう。
 桜の木に片手を置いた司は、諒を見据えた。
「訊いてるんだ、諒。説教を垂れてくれとは、頼んでない」
「…。出してる。もっとも、植物は難しいからな。意思が通じてるかどうかはわからん」
「いい加減だなあ」
 苦笑した司は、もう睨みつけてはいない。諒も同様で、肩をすくめた。
 春風が二人をぜて行き、他の木の花びらを散らした。桜花の見頃は過ぎ、既に青葉ののぞいている木も多い。もう少しすれば、毛虫の盛りになるだろう。
「何か、妙な感じがするんだけどなあ」
「どんな?」
「うーん…諒も、感じてるんじゃない? 命をかすめ取ってるにしては、生臭さって言うか…何か、そういうのが感じられない。狂ってるようには思えないんだ。…ちょっと保留、していい?」
「そりゃあ、俺はお前に従うけど。どうするんだよ、その間にまた誰か引き込んだら」
「えーと、諒が四六時中見張るとか」
「はい無理」
「冗談です。結界、張っといてくれる? 封じ込めるやつ」
「あーはいはい、了解。下がってろ」
 手を上下させて追い払う仕草しぐさを見せ、諒は、桜の根元に膝をついた。司には意味の取れない文言を唱え、幹に手を当てる。
 しばらくそうして、立ち上がって膝についた土を払い落とす。もっとも草地で、それほどではないのだが。
「で、どうすんだ?」
「病院で聞き込みとかできたらなーって思うけど…」
 笑い声、注意するような声、泣き声、男も女も、子どもも高齢者も、赤ん坊も。建物の中からは、ざわめきが伝わってくる。見舞いを受け付けている時間ならよかったのだが、今となっては無理がある。
「出ようか」
「だな」
「あーあ、土日寝倒した分、今日でどうにかならないかと思ったんだけどな」
「無茶するなよ」
 合宿先での助太刀すけだちは、思ったよりも司の体に負荷をかけていた。合宿の最終日など、半ば意識が朦朧もうろうとしていて、平静を装うだけに手一杯でほとんど何があったのか覚えていない。
 そして家に帰るなり倒れこみ、眼が覚めたのは月曜日の午前零時。空腹に食事を詰め込むと再び寝てしまい、明ければ学校だ。
 さすがに二日間寝倒したのはそうはない体験で、眼が覚めたときの、強張った体にはぎょっとした。土曜も日曜も、諒もそうも様子を見に来てくれていたらしいのだが、その間司は、ぴくりとも動かなかったらしい。
「玄関先で見つけたときの、あの驚き。とうとう死体になったかと思ったぜ」
 とりあえず施錠はされていない出口に向かって肩を並べて歩きながら、諒は溜息を落とした。
 玄関先で睡魔への抵抗を諦めた司は、玄関の敷石の上に膝をつき、上がり口に上体を乗せるという無茶な格好で意識を失っていたらしい。目覚めたときにベッドの上だったのは、発見者が運んでくれたからだ。
「あはは。遺書でも隠しとこうかな、沖田おきた司が不審死を遂げたときは諒を疑えって」
「どんな嫌がらせだ。お前、実は俺のこと嫌いだろう」
「ご想像にお任せします」
「くっ、生意気に育ったな」
「うーん、子どもって周りの人を見て育つんだよね」
 にこやかに諒に責任を押し付けるが、そこは慣れたもので。
「そうだよなあ、天圏てんけんやらくぬぎやらがいたんじゃあ、環境がよくなかったな」
 穏やかに笑顔で言葉を交わしながら、二人は病院を後にした。背後の建物からはやはり、濃厚な人々の生活する空気が感じられた。
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