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三、知っている人と知らない人
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帰り着いた自宅では、その辺りに散らばっている服を適当に着込むとすぐに飛び出し、自転車に乗って、辛うじて駅近辺と呼べなくもない市営病院へと走り抜ける。
この道は、通い慣れている。
高校の近辺よりも格段に多い交通量の中をすり抜けながら、司は、花盛りやいくらか咲き散った桜を眺めていた。傾斜の具合や、車や人に気をつけるべき場所など、意識しなくてもさばいていける。
司の祖父が、入院していたことがある。
もっとも祖父といっても血縁はない。司も要も、山で母と一緒に行き倒れていたらしい。二人を出産してすぐのことだろう。
母は元々この辺りの出身ではあったらしいが身内もなく、司たち親子は発見者の祖父母と一緒に暮らしていた。早すぎた死を迎えた母の記憶よりも、祖父母のものの方が多いくらいだ。
ごめんなさいとも、ありがとうとも、ろくに言えないままに皆去っていってしまった。永遠に。
祖父がなくなったのは祖母よりも一月ほど早く、体中に巣食った癌の治療を断念した自宅療養の末のことだった。
やめるまでの一時を入院して過ごしたために、通い慣れている。
当時はまだ小学生で、今でこそ自宅から自転車で二十分もあればつくが、もっとかかった。
祖母はバスかタクシーを利用し、司や要も祖母と一緒のときはそれらに乗ったが、一人やお互いだけの時には自転車で行った。渡されたお金はこっそりと返していたのだが、気付かれていたかもしれない。
そして今は、会ったことはないが知っている人も入院している。途中で花束を購入したのは、その彼女の病室に飾るためだ。
「でね。その子、司って言うんだ」
病室の戸を開けようとしたところでかすかに自分の名が聞こえ、司は、思わず足を止めていた。声は、病室の中からしている。
ゆっくりと、音を立てないように戸を引き開ける。
「ちょっと変わってるんだけどね、格好いいんだ。真っ直ぐに、一人で立ってる感じがして。…司と一緒にいたら。あたしも、変われるかな? ねえ――お姉ちゃん」
え、と、司は声を呑んだ。
扉の隙間を抜けて明瞭に聞こえた声は、この数日で耳に馴染んだものだ。それに、入院中の彼女には妹はいないはずで。
病室を間違えたかと名札を見ると、たしかに「江本可南子」とある。源の、彼女の名だ。
ええ? と、混乱しているうちに音を立ててしまった。思わず、足音を立てずに跳び退り、今しも病室にたどり着いたかのような体勢をつくる。
引き戸に手をかけたところで、内側からも手がかかり、薄い板を一枚挟み、司はルナと顔を合わせた。
「……え? えええっ?!」
ぽつり、と漏れ出た声に続き、大声を出してしまってからルナは、自分で自分の口を押さえた。ただでさえ大きな目はまん丸に見開かれ、こぼれ落ちそうで少し恐い。
「なんで、ここに?」
「それはわたしの台詞! どうして? 司、可南お姉ちゃんと知り合い?」
「お姉ちゃん?」
「あ、えっと、近所で仲良くしてもらってってそうじゃなくて――」
とりあえず花束をルナに示し、中に入ろうと促した。でなければ、喫茶コーナーにでも移動するか。病室の戸を挟んでの立ち話は、なんだか馬鹿らしい。
今にも頭から煙を噴出しそうなルナは、それでも体を引き、司を病室へと招き入れた。
小さいながらも個室で、諸事情から格安で治療費のみの負担とはいえ、源と可南子の貯蓄でどの程度維持ができるだろう。
寝台の安らかな寝顔を眺め、司は、残酷だと思う。
死んでいれば、諦めようもある。しかし植物状態は、中には、意識を回復させた人もいる。つまり、死んではいない。だが、それがいつなのか、果たして来るのかは、誰にもわかりはしないのだ。
だからこの状態は、長引けば長引くほどに――良し悪しどちらにしても、結果が出るまで、あるいは出ても、途轍もなく残酷だ。まだ何年しか経っていない、と口にする源は痛ましい。
自発呼吸はあるらしく、日にやけないせいか怖いぐらいに白い肌をした女性は、まるで呪いのかかった眠り姫か毒林檎を食べた白雪姫のようだった。ハッピーエンドを約束されていない、物語の主人公。
「どういう知り合いだったの?」
遠慮がちに声をかけられ、可南子に見入っていた司は、はっとして視線をルナに向けた。
そうだ、この少女がいた。
学校という場所を離れた場所で見るルナは、意気消沈したティンカーベルのように、儚げな雰囲気があった。もっともそれは、この場所だからなのかもしれない。何一つ反応を返さない人の病棟を訪れ、話しかけるくらいだ。よほど、親しかったのだろう。
司は、ゆっくりと首を振った。
「知人を通して知ってただけ。入院する前は、挨拶をしたこともなかった」
「それでも、来てくれてるんだ。司は――やっぱり、優しいね」
まただ。
蔑むのでも皮肉でも、あてつけでもなく、それでも引っかかる口ぶり。何だろう、と思ってルナを見ると、司の持ってきた花束を抱きかかえるようにしながら、その顔は、笑顔をつくり損ねたように歪んでいた。
それで、気付く。
自嘲。あまりに馴染みすぎた、それ。
「座ってて。水、入れてくる」
「あ、ごめん、持って来といて。やるよ」
「ううん。やらせて」
先ほどとは逆に司に花束を渡し、ルナは、病院の備品でもある花瓶を手に出て行った。ぱたぱたと、足音が遠ざかっていく。
「なんで?」
一人になり、ぽつりと、司は声を漏らした。
何故自嘲する。ルナは、自身を優しいとは思っていないのか。以前を知っていたか知らないかの差はあったとしても、表面上、ルナと司の行動は同じだろう。そもそも、優しいの定義を何処においているのか。
そこで司はようやく、優しいと言われて否定し損ね続けていることに気付いた。
「うわ」
優しくなんかないぞー、諒あたりが聞いたら絶対笑う、と、溜息をつく。
そして、落とした視線を可南子に向けた。
可南子がこうなってしまって、源は壊れた。どうにか命をつなぐ算段だけをつけ、源本人は、この病院には近寄ろうともしない。まるで、会いに行けば一層の不幸が訪れると、信じるかのように。
それほどに、大切な人。
それほどに、大切に想われている人。
司はそっと、可南子の耳元に屈み込み、囁いた。
「源さん、待ってますよ」
返事は、当然のようになかった。
ぱたぱた、と足音が近付き、体を起こす。手を離せば勝手に閉まるようになっている引き戸を開けて、ルナが姿を見せた。
微笑む様は、やはり可愛らしい。
「ごめん、ありがとう」
「どういたしまして。司、この近所?」
「んー、まあ、近所と言えば近所。そっちは?」
窓際のキャビネットの上に花瓶を置いて、見舞い客用にか置かれた椅子を二客、引っ張り出す。ああ気が回らなかったと、司は頭をかいた。
すすめられ、窓を背に並んで座り込む。
「家、この裏なの」
「へえ。急病のとき便利だ」
「夜がうるさいけどね、救急車。仕方ないけど」
「一回戻ってから来ても良かったんじゃない?」
制服姿のままのルナに何気なく訊くと、黙ってしまった。
何か地雷を踏んだか、そういえば距離を置くつもりだった、と思っているうちに、ルナは無表情な視線を上げた。
「お母さんが、あまりよく思ってないんだ。結局同じなんだけど、家に帰ってお母さんの顔見たら、来る気萎えちゃうから」
淡々と、さほど感情を見せずに言葉をつむぐ。唯一みられるとすればやはり自嘲で。
司はただ、黙っていた。
「お姉ちゃんがこうなった経緯、知ってる?」
「ああ――うん。大体」
「お姉ちゃん、優しくって人当たりがいいし気配りのできる人で、変な言い方だけど、評判良かったんだ。あんたも見習いなさいよ、とか、あんなふうになりなさいよとか、言われるような。小学生のわたしからしたら、本当に理想みたいな近所のお姉さんだった」
「うん。…多分、わかる」
司が、諒や源をそう思っていたように。きっと可南子はルナにとって、身近なアイドルだったのだろう。
だがそれは、ある日打ち壊される。
「あの事件が起きて、そもそもそんなところに行ったのが悪いんだとか元からそういった付き合いがあったんじゃないかとか、酷い噂ばっかり広がって」
「本人は、何も言えないから」
「…わたしも、何も、言えなかった」
やはり、淡々と。
遠くを見る眼差しのルナの視線の先には、可南子が横たわっている。まるでただ眠っているかのように、清潔すぎる病院のベッドに収まっている。
「わたしが何か言ったところでどうにもならなかったって、わかってる。でも、そんなことないって、言いたかった。言いたかったのに言えなくて、それどころかわたし、恐くなった。何もしてなくてもあんなふうに言われるのかって、恐くて、友達からも距離置いて、その癖うまく立ち回ろうとして広く浅くの付き合いは増やして。わたしは――しばらくはお見舞いにさえ、来られなかった」
どこまでもルナの声は淡々としていて、逆に司は、それが心配になった。
可愛らしい少女を見遣ると、うっすらと微笑み返された。透き通るような笑み。
「ごめん。暗い話しちゃった」
ここで話を切り上げれば、流してしまえば、望み通りにルナと距離を置けるとわかっていた。ただ、やり過ごせばいいだけ。
ルナを傷つけたくなければ――そして司が傷つきたくなければ、ただ黙っているだけでよかった。
そのつもりでいたのに、司は口を開いていた。
「ルナは、強いね」
「――え?」
無理な笑顔で、今にも泣き出しそうに、ルナは司を見た。
これ以上何も言うな、深入りするなと、しきりに頭の中で警告が灯る。何か言って、嫌われたり軽蔑されたりするならいい。もしもより一層親しまれてしまったら――また、繰り返すつもりなのか。
「強いよ。迷ったり傷付いたことをただ見据えるだけのことだって、なかなかできない。なかったことにしたり、見えない場所に隠す方がずっと簡単なのに、向き合って、どうにか消化しようとしてる。――強いよ。優しくなろうと思ったら、強くないとなれない」
「…りがと…」
俯いたルナの足元を、雫が濡らす。
司は、頭をかき毟りたい衝動と震えそうになる身体を、どうにか押さえ込んで立ち上がった。そのとき、身動きしたルナの膝からかばんが滑り落ち、今日から早速始まった授業の教科書の他に、文庫本が一冊飛び出した。
表紙には、空と草原。その間にたたずむのは、腰に大小の刀を下げた和服の人物の後姿。
題字は、『夢戦』。そして作者名が「源彼方」。
忘れたい、なかったことにしてしまいたい、けれど確実にあって拠り所とさえなる、司の過去。
くらりと、眩暈を感じた。
「――『本当に強いのは、どんなことをしてでも生き抜こうとした人だよ』」
自分が口走った言葉を認識するまでに、かなりの間が開いた。え、というルナの声が遠くで聞こえた。ぽかんと、涙で濡れていた目を見開く。
「司、これ読んだことあるの? 凄い、あたしが布教した以外ではじめて会った!」
「っ、ごめん帰る」
この道は、通い慣れている。
高校の近辺よりも格段に多い交通量の中をすり抜けながら、司は、花盛りやいくらか咲き散った桜を眺めていた。傾斜の具合や、車や人に気をつけるべき場所など、意識しなくてもさばいていける。
司の祖父が、入院していたことがある。
もっとも祖父といっても血縁はない。司も要も、山で母と一緒に行き倒れていたらしい。二人を出産してすぐのことだろう。
母は元々この辺りの出身ではあったらしいが身内もなく、司たち親子は発見者の祖父母と一緒に暮らしていた。早すぎた死を迎えた母の記憶よりも、祖父母のものの方が多いくらいだ。
ごめんなさいとも、ありがとうとも、ろくに言えないままに皆去っていってしまった。永遠に。
祖父がなくなったのは祖母よりも一月ほど早く、体中に巣食った癌の治療を断念した自宅療養の末のことだった。
やめるまでの一時を入院して過ごしたために、通い慣れている。
当時はまだ小学生で、今でこそ自宅から自転車で二十分もあればつくが、もっとかかった。
祖母はバスかタクシーを利用し、司や要も祖母と一緒のときはそれらに乗ったが、一人やお互いだけの時には自転車で行った。渡されたお金はこっそりと返していたのだが、気付かれていたかもしれない。
そして今は、会ったことはないが知っている人も入院している。途中で花束を購入したのは、その彼女の病室に飾るためだ。
「でね。その子、司って言うんだ」
病室の戸を開けようとしたところでかすかに自分の名が聞こえ、司は、思わず足を止めていた。声は、病室の中からしている。
ゆっくりと、音を立てないように戸を引き開ける。
「ちょっと変わってるんだけどね、格好いいんだ。真っ直ぐに、一人で立ってる感じがして。…司と一緒にいたら。あたしも、変われるかな? ねえ――お姉ちゃん」
え、と、司は声を呑んだ。
扉の隙間を抜けて明瞭に聞こえた声は、この数日で耳に馴染んだものだ。それに、入院中の彼女には妹はいないはずで。
病室を間違えたかと名札を見ると、たしかに「江本可南子」とある。源の、彼女の名だ。
ええ? と、混乱しているうちに音を立ててしまった。思わず、足音を立てずに跳び退り、今しも病室にたどり着いたかのような体勢をつくる。
引き戸に手をかけたところで、内側からも手がかかり、薄い板を一枚挟み、司はルナと顔を合わせた。
「……え? えええっ?!」
ぽつり、と漏れ出た声に続き、大声を出してしまってからルナは、自分で自分の口を押さえた。ただでさえ大きな目はまん丸に見開かれ、こぼれ落ちそうで少し恐い。
「なんで、ここに?」
「それはわたしの台詞! どうして? 司、可南お姉ちゃんと知り合い?」
「お姉ちゃん?」
「あ、えっと、近所で仲良くしてもらってってそうじゃなくて――」
とりあえず花束をルナに示し、中に入ろうと促した。でなければ、喫茶コーナーにでも移動するか。病室の戸を挟んでの立ち話は、なんだか馬鹿らしい。
今にも頭から煙を噴出しそうなルナは、それでも体を引き、司を病室へと招き入れた。
小さいながらも個室で、諸事情から格安で治療費のみの負担とはいえ、源と可南子の貯蓄でどの程度維持ができるだろう。
寝台の安らかな寝顔を眺め、司は、残酷だと思う。
死んでいれば、諦めようもある。しかし植物状態は、中には、意識を回復させた人もいる。つまり、死んではいない。だが、それがいつなのか、果たして来るのかは、誰にもわかりはしないのだ。
だからこの状態は、長引けば長引くほどに――良し悪しどちらにしても、結果が出るまで、あるいは出ても、途轍もなく残酷だ。まだ何年しか経っていない、と口にする源は痛ましい。
自発呼吸はあるらしく、日にやけないせいか怖いぐらいに白い肌をした女性は、まるで呪いのかかった眠り姫か毒林檎を食べた白雪姫のようだった。ハッピーエンドを約束されていない、物語の主人公。
「どういう知り合いだったの?」
遠慮がちに声をかけられ、可南子に見入っていた司は、はっとして視線をルナに向けた。
そうだ、この少女がいた。
学校という場所を離れた場所で見るルナは、意気消沈したティンカーベルのように、儚げな雰囲気があった。もっともそれは、この場所だからなのかもしれない。何一つ反応を返さない人の病棟を訪れ、話しかけるくらいだ。よほど、親しかったのだろう。
司は、ゆっくりと首を振った。
「知人を通して知ってただけ。入院する前は、挨拶をしたこともなかった」
「それでも、来てくれてるんだ。司は――やっぱり、優しいね」
まただ。
蔑むのでも皮肉でも、あてつけでもなく、それでも引っかかる口ぶり。何だろう、と思ってルナを見ると、司の持ってきた花束を抱きかかえるようにしながら、その顔は、笑顔をつくり損ねたように歪んでいた。
それで、気付く。
自嘲。あまりに馴染みすぎた、それ。
「座ってて。水、入れてくる」
「あ、ごめん、持って来といて。やるよ」
「ううん。やらせて」
先ほどとは逆に司に花束を渡し、ルナは、病院の備品でもある花瓶を手に出て行った。ぱたぱたと、足音が遠ざかっていく。
「なんで?」
一人になり、ぽつりと、司は声を漏らした。
何故自嘲する。ルナは、自身を優しいとは思っていないのか。以前を知っていたか知らないかの差はあったとしても、表面上、ルナと司の行動は同じだろう。そもそも、優しいの定義を何処においているのか。
そこで司はようやく、優しいと言われて否定し損ね続けていることに気付いた。
「うわ」
優しくなんかないぞー、諒あたりが聞いたら絶対笑う、と、溜息をつく。
そして、落とした視線を可南子に向けた。
可南子がこうなってしまって、源は壊れた。どうにか命をつなぐ算段だけをつけ、源本人は、この病院には近寄ろうともしない。まるで、会いに行けば一層の不幸が訪れると、信じるかのように。
それほどに、大切な人。
それほどに、大切に想われている人。
司はそっと、可南子の耳元に屈み込み、囁いた。
「源さん、待ってますよ」
返事は、当然のようになかった。
ぱたぱた、と足音が近付き、体を起こす。手を離せば勝手に閉まるようになっている引き戸を開けて、ルナが姿を見せた。
微笑む様は、やはり可愛らしい。
「ごめん、ありがとう」
「どういたしまして。司、この近所?」
「んー、まあ、近所と言えば近所。そっちは?」
窓際のキャビネットの上に花瓶を置いて、見舞い客用にか置かれた椅子を二客、引っ張り出す。ああ気が回らなかったと、司は頭をかいた。
すすめられ、窓を背に並んで座り込む。
「家、この裏なの」
「へえ。急病のとき便利だ」
「夜がうるさいけどね、救急車。仕方ないけど」
「一回戻ってから来ても良かったんじゃない?」
制服姿のままのルナに何気なく訊くと、黙ってしまった。
何か地雷を踏んだか、そういえば距離を置くつもりだった、と思っているうちに、ルナは無表情な視線を上げた。
「お母さんが、あまりよく思ってないんだ。結局同じなんだけど、家に帰ってお母さんの顔見たら、来る気萎えちゃうから」
淡々と、さほど感情を見せずに言葉をつむぐ。唯一みられるとすればやはり自嘲で。
司はただ、黙っていた。
「お姉ちゃんがこうなった経緯、知ってる?」
「ああ――うん。大体」
「お姉ちゃん、優しくって人当たりがいいし気配りのできる人で、変な言い方だけど、評判良かったんだ。あんたも見習いなさいよ、とか、あんなふうになりなさいよとか、言われるような。小学生のわたしからしたら、本当に理想みたいな近所のお姉さんだった」
「うん。…多分、わかる」
司が、諒や源をそう思っていたように。きっと可南子はルナにとって、身近なアイドルだったのだろう。
だがそれは、ある日打ち壊される。
「あの事件が起きて、そもそもそんなところに行ったのが悪いんだとか元からそういった付き合いがあったんじゃないかとか、酷い噂ばっかり広がって」
「本人は、何も言えないから」
「…わたしも、何も、言えなかった」
やはり、淡々と。
遠くを見る眼差しのルナの視線の先には、可南子が横たわっている。まるでただ眠っているかのように、清潔すぎる病院のベッドに収まっている。
「わたしが何か言ったところでどうにもならなかったって、わかってる。でも、そんなことないって、言いたかった。言いたかったのに言えなくて、それどころかわたし、恐くなった。何もしてなくてもあんなふうに言われるのかって、恐くて、友達からも距離置いて、その癖うまく立ち回ろうとして広く浅くの付き合いは増やして。わたしは――しばらくはお見舞いにさえ、来られなかった」
どこまでもルナの声は淡々としていて、逆に司は、それが心配になった。
可愛らしい少女を見遣ると、うっすらと微笑み返された。透き通るような笑み。
「ごめん。暗い話しちゃった」
ここで話を切り上げれば、流してしまえば、望み通りにルナと距離を置けるとわかっていた。ただ、やり過ごせばいいだけ。
ルナを傷つけたくなければ――そして司が傷つきたくなければ、ただ黙っているだけでよかった。
そのつもりでいたのに、司は口を開いていた。
「ルナは、強いね」
「――え?」
無理な笑顔で、今にも泣き出しそうに、ルナは司を見た。
これ以上何も言うな、深入りするなと、しきりに頭の中で警告が灯る。何か言って、嫌われたり軽蔑されたりするならいい。もしもより一層親しまれてしまったら――また、繰り返すつもりなのか。
「強いよ。迷ったり傷付いたことをただ見据えるだけのことだって、なかなかできない。なかったことにしたり、見えない場所に隠す方がずっと簡単なのに、向き合って、どうにか消化しようとしてる。――強いよ。優しくなろうと思ったら、強くないとなれない」
「…りがと…」
俯いたルナの足元を、雫が濡らす。
司は、頭をかき毟りたい衝動と震えそうになる身体を、どうにか押さえ込んで立ち上がった。そのとき、身動きしたルナの膝からかばんが滑り落ち、今日から早速始まった授業の教科書の他に、文庫本が一冊飛び出した。
表紙には、空と草原。その間にたたずむのは、腰に大小の刀を下げた和服の人物の後姿。
題字は、『夢戦』。そして作者名が「源彼方」。
忘れたい、なかったことにしてしまいたい、けれど確実にあって拠り所とさえなる、司の過去。
くらりと、眩暈を感じた。
「――『本当に強いのは、どんなことをしてでも生き抜こうとした人だよ』」
自分が口走った言葉を認識するまでに、かなりの間が開いた。え、というルナの声が遠くで聞こえた。ぽかんと、涙で濡れていた目を見開く。
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