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四、決めたことと決めなかったこと
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かばんを前かごに放り込んで後にした学校は、授業は終わったというのに、活気に満ち溢れていた。下手をすれば、授業中よりもにぎやかだろう。司は、それらを羨ましく思いながらそう思う自分を叱責する。
今の生活を選んだのは自分だ。
「…千客万来」
ぼんやりと物思いに耽りながら坂を走り抜けていた司は、数日前と同じ場所で立つ太郎の姿を認め、ゆっくりとブレーキをかける。宮凪は、思った以上に待たされていることだろう。
信号が変わると、相変わらずの黒スーツの隣に並ぶ。そのまま歩き始める太郎について、司は自転車を降りた。
「あんまり頻繁に姿晦ますと、免職になるんじゃない?」
「執着はないさ。お前の負担を減らしたかっただけだからな」
軽口に本音を返されてしまい、ぎょっとして、司は太郎を見上げた。
涼しげな横顔は、下手をすれば数日くらいは寝ていないかも知れないというのに、いつもと変わりがない。そこにはテレビのアイドルのように、生活感が抜け落ちていた。
「なあ、司」
「はい?」
「俺の手助けは、もう必要ないか?」
「えっ、と」
司は、母の昔馴染みをまじまじと見つめた。足が止まる。
太郎には、妖に関係なく助けられている。どういった経緯なのか、母とは高校生の頃から友人付き合いをしていたのだという。母が東雲に戻ったことで付き合いも戻り、幼い日に、不器用にあやされた思い出まであった。
司が狩人になるのを反対したのは太郎だけで、なってしまうと、補佐である諒の存在を差し置いてさえ、手助けもしてくれた。
保護者の一人と言える。
「仕事の事を言ってるなら、多分、何とかなると…思う、けど…どこか行くの?」
「アメリカにでも」
「…要のところ?」
「ああ」
当然のように太郎は、要とのつきあいもある。
要とは、旅立った夏以来、手紙くらいでしかやり取りがない。向こうは遠戚の世話になっているのだから、手紙は来るのだからと、大丈夫と言い聞かせて不自然さに目をつぶっている自覚は、司にもある。だが、もし要に狩人のことを知られ――目を背けられたら、と思うと踏み出せないでいた。
「その方が連絡も取れる。司――いつか、要も連れて戻る」
真っ直ぐに眼を見つめての言葉に、司はこらえきれず、涙をこぼした。気付けば、太郎の胸元に頭を押し付けている。
「駄目。太郎さんは、向こうに行って、要と一緒にいて。要を、守って。助けて。東雲には…あたしがいる限り、戻っちゃ駄目なんだ」
「司?」
「――ゆきさんの夢、見た」
司の言葉に、わずかにではあるが太郎の体が強張ったのがわかった。
正確には夢ではないが、そこまでの心配はかけたくない。あれは狩人の仕事で、本来であれば、太郎には関わる必要のないことなのだ。
司は、太郎の胸から顔を上げた。涙はこぼれ落ちたきりだ。
「太郎さんがあたしと要を心配してくれるなら、自由に生きて。それが厭なら、要と一緒にいて」
「…司」
「ゆきさん、ごめんって言ったの。違うのに。ゆきさんに妖を媒介したのはあたし。もっともっと生きられたはずなのに、殺したのもあたし。謝るのはあたしであって、ゆきさんじゃないのに。あたしが――。だから、要は絶対に、あたしに近づけないで。本当なら、太郎さんも、諒や颯だって、近くにはいない方がいいの。お願い」
これは、司のわがままだ。そのくらいは、知っている。
「…悪い。急、すぎたな」
無言で、首を振る。何か言えば、今の境遇を嘆いてしまいそうだった。自分を哀れんでしまいそうだった。そんなことをすれば、自分で自分を赦せなくなるに違いないというのに。
「太郎さん」
笑顔をつくろうとしたが、できず、顔を背ける。
「本当に、いいんだよ? お母さんが好きだったからって、あたしまで助けてくれなくたって」
「…遅かったな、その言葉」
「え?」
「はじめは、その通り、美砂の子どもでしかなかった。今更、それだけで付き合ってきたと思うなよ、未熟者」
「…太郎さんは、甘い」
「そうか?」
「お母さんに好きとも言ってないのに、これじゃあ、まるでお父さんみたいだ。親馬鹿の父親だ」
「ほめ言葉と思っておく」
珍しくはっきりと笑いながら、太郎は、司の頭を手荒に撫でた。不器用にあやされた記憶が、ふっとよみがえる。
「好きにしろと言うなら、もうしばらくはここにいる。――必要なら、いつだって呼べ」
言葉が出ず、こくりと首を落とす。
そうして太郎は、手を離したために太郎に寄りかかっていた自転車を司に手渡した。そのまま、短く別れを告げて背を向ける。
司は、霧でも詰まったような頭を抱え、のろりと歩を進めた。自転車が、いやに重い。
どこへ行こうとしていたのか――ああ、話があると言われていた――このまま帰ろうか。でも明日も学校で会うからなあ。大雑把にいえばそんな思考が、司の中で紡がれた。
結局司は、気球屋までの道のりを歩いて行った。宮凪はまだいるだろうか、帰ってればいいなと少し思う。それでも、混乱からは大分回復していた。
「いらっしゃいませー」
前回と同じ女性の、妙に間延びした声に迎えられ、待ち合わせと告げる前に、窓際に座る美少女を発見した。視線は、窓の外に向いている。
待ち合わせを告げて一緒に、クリームココアをたのんだ。
「来ないかと思った」
何も言わずに向かいの席に腰を落とした司に、一瞥を向けた宮凪は、ぼつりと声をこぼした。
あいにく、今の司には余裕がない。ただおかげで、意識は地に着いた。
「色々とあって。まあ、来ないで済むならそうしただろうけど」
「そう」
「うん。用件は?」
少女は儚げに微笑み、テーブルの上の本に載せていた手をずらした。和紙に包まれた何かを、開いて見せる。
出てきたのは細長いお札のようで、遠のいたはずの困惑を再び抱え、司はそのまま表情に表した。
「兄さんからよ。動きを封じるものと、姿を悟らせないものと。もちろん、人相手には使わないでよ」
「へえ」
呪術関係には司は疎い。それなりに書物で読んだりはしているが、縁はなかった。生兵法は怪我の元、という言葉もあるから、下手に関わらないようにしていた、ともいえる。
墨痕鮮やかな札を興味津々で見詰めるが、何を感じるでもなく、司の目に映るのは達筆だけだ。
「どちらも、対象物に貼るだけ。強力にしようと思えば、三角や四角で囲めばいい。文字が薄れたり消えたり、激しいものになれば燃えるから、効力を失ったらすぐにわかるわ。自分で使う場合、口で札を軽く咥えるのが効果的よ」
「…はぁ…?」
「何よ」
「いや。どうしてそんなものくれるのかと。あの人も狩人…守人、か。そっちの言い方だと。それやってたならわかってると思うけど、あれは個人的にお礼をもらうようなものじゃないんだけど」
使い方を聞いたところで困惑は消え去らず、首をかしげて宮凪を見る。じっと、札を見据えていた。
「…私が、頼んだの」
「はい? なんで?」
テーブルの上に置かれた拳が、小さく握り締められる。それだけで、十分な緊張が窺い知れた。一層に、司の困惑が深まる。
張り詰めた雰囲気をまとう宮凪は、逆に美しさを増していた。つくづく、美人だと思う。こういう人はなるほど目の保養だと納得するが、諒が司の格好に執心なことには同意できない。
馬鹿げたことを考えているうちに、宮凪の決意は決まったらしい。睨むように、司を見つめる。
「お礼。私のことは、関係なかったでしょ。見捨てられても文句は言えない状況だったわ。だから…まだ私よりも、兄さんの書いたものの方が強いから…」
司が何か言うよりも先に、注文しておいたココアが運ばれ、束の間、沈黙が降りる。司は、熱いくらいの白いマグカップを抱え、真っ白な生クリームに視線を落とした。混ぜたものかそのまま飲もうか、少し悩む。
沈黙を破ったのは宮凪だった。
「私が弱いから、避けるの?」
「――まあ、そうかな」
悩んだのは一瞬で、するりと言葉がこぼれ落ちた。言ってしまってからまずかったかと思ったが、それでいいのかと考え直す。
宮凪は、顔を俯かせたりはしなかった。
「わかってるみたいだから率直に言わせてもらうけど、人のことまで面倒みたいとは思わないからね。そんな余裕もないっていうのが正直なところだし。他の人気にしてて怪我したり死んだりなんて冗談じゃない。つかその前に、宮凪さんがそこまであたしにこだわる理由がわからないんだけど」
少女は儚げに微笑み、一度躊躇ってから、カバンから一冊の本を取り出した。草原に青空、和装で後ろ姿を見せる青年。その表紙に、司の視線が固定される。
ややあって、司の口元にも笑みが浮かんだ。歪みのようでもあった。
「またこれか」
「あなたが書いたって聞いたの」
「誰に?」
「九重先生」
「後で締めとこう」
にこりと、今度は完璧な笑みを浮かべる。宮凪は視線を落としたままで、それには気づいていない。
宮凪の声には、躊躇いが感じられた。それでも、どうにか押し出す。
「お礼、言いたくて」
「――は?」
何を言っているのかがわからず、途轍もなく宮凪の顔を覗き込みたくなったが、頑なに伏せられている。
「知ってるかもしれないけど、私、学校にほとんど行けなかったの。はじめは、そんなことなかった。きっと、元々集団生活には向いてなかったと思う。それでも何とかしようとしたら、逆に孤立しちゃって。中二のとき、決定的になった」
どう対応したものかわからず、司は、ココアを飲んだ。
「女子全員から無視されて、そうかと思ったら普通に喋ってくれる。逆に、声をかけてくれたりもする。日ごとだったり時間ごとだったり、あれって、予定立ててたのかしら。気にしない、って思っても、駄目だった。一日ずる休みすると、もう、駄目。あんなつらいところになんて行けなかった。ひどいときは部屋から一歩も出られなくて、このまま引きこもっちゃうのかなって思った」
そこで言葉が途切れて、長い間があった。唐突に話が終わったのかと、司は訝しげな視線を向けたが、やはり宮凪の顔は下を向いている。無理にでも引き上げてやろうかと、ふっと思ってしまう。
細い指が、文庫本の背を撫でた。
「たまたま手にとって、読んで。気付いたら、ぼろぼろ泣きながら、それでも読み続けてた。…駄目ね、やっぱり上手く言えない。ただね。私が、高校に行こうって思ったのは、やっぱり学校に行ってみようって、逃げる以外に何かできるかなって思ってのは、この本のおかげ。あなたが書いてくれた、この物語のおかげよ」
すうと、宮凪の顔が上がった。
涙こそこぼれていないが、まるで泣き笑いの表情で、司は大いに戸惑った。宮凪の言葉にも、脳が洗濯機にでも放り込まれたかのように、思考が攪拌される。
「ありがとう」
「――小説を読んで何かを得られたとして、得たものは読者自身のなかにあったものだ。そんなもの、小説や、まして、作者に礼を言うようなものじゃない…と、思う」
「そうだとしても、あの時私を動かしたのはこれよ。感謝したいのは、あなたになの」
「そんなの…」
再版がかかったと聞いて、司も、読み直そうと思った。少し読んで、すぐに投げ出した。
例えるなら箱庭だ。
精神治療で使われる自己の建て直しの一手に、箱庭療法がある。例えば、赤い池を作る人がいる。人間に相対するものが何一つない庭、逆に、分解された人形を詰め込まれた庭。
それらは全て、的確にではなくても一端、製作者の心のうちを示す。
それらが癒され、例えばのどかな箱庭を作れるようになったとして、はじめの惨状を振り返りたい人がいるだろうか。もしもすばらしい芸術だと言われても、嬉しいと思えるだろうか。
「ありがとう。――言いたかったの。でも、それだけじゃないわ。本当のところ、どうしてあなたと関わろうとするのかは私もよくわからないの」
「………はい?」
何か聞き間違えたかと思って宮凪を見るが、そんなことはないらしい。今までの神妙さを投げ捨てて、どこかふてぶてしささえ感じられる。司は、そんな宮凪をぽかんと見つめた。
「勝手にずかずか踏み込んで来て、かと思ったら突っぱねるし。守人までやってて。あなたの方が無茶苦茶よ」
「あー…それは」
目が泳ぐ。たしかに、宮凪の従兄と関わった件はともかく、先に声をかけたのは司だ。あ、生ビールのポスターのお姉さんが美人だ、と、意味のないことを発見する。
「…忘れてた。高校生になって少し生活環境が変わって、桜の季節で、浮かれてうっかりしてた。人に関わっちゃいけないってことを忘れてた。だから、声かけたりした。ごめん、忘れて」
「――忘れられるわけ、ないじゃない」
目が据わっている。
司は、目を逸らしたい気持ちと闘ってどうにか勝ち、ココアのカップを抱えたまま肩をすくめた。
「そう言われても、その方が身のためだよ? 自殺願望でもあるの? あっても、迷惑だから他当たってね」
「あなたって、わざわざ人が傷付く言葉選ぶの、得意よね」
「そう? 性格悪いからね」
「でもそれって、ある意味物凄く正直だって、気付いてるのかしら。遠ざけたいから傷付けてるでしょう。巻き込みたくないから、自分のせいで酷い目に合わせたくないから、先に悪者になっておこうとしてる。偽悪的、とでも言うのかしらね」
「買いかぶりだよ、それ」
ふっ、と、宮凪は笑った。それに返そうとした司の笑みは、何故か強張る。厄介な人を相手にしてるよなあこれ、と、内心で呻いた。
「私にも友人がいたの」
過去形だ、と気付いたものの指摘せずにいたが、宮凪は気にせず先を続けた。今は友人とは思っていないけど、ときっぱりと。
「同級生にはあまり親しい人はいなかったけど、転校して来た子と仲良くなったの。嬉しかった。でも、ちょっとしたきっかけで彼女は離れていって、それどころか、いじめのきっかけは彼女だったの。クラス中を煽って」
合いの手の入れようがない。
しかし宮凪の表情には、凛としたものさえ窺えた。完全に克服できているのかはわからないが、とりあえずは乗り越えたのだろう。
強いなと、半ば呆れながら思う。
「その子、私が危険になったら絶対助けに行く、なんて言ってたのよ。私だって半分冗談だとは思ってたけど、まさか危険を作り出してくる側になるとは思ってなかったわ。そのことで、一つ学んだの。人ってそう簡単に信用できるものじゃないって」
「…それならあたしも信用できないはずでしょ?」
「この小説に助けられたこともあるけど、あなたは、捻くれ過ぎて逆に信じられるような気がするのよ。それだけ遠ざけるなら、何かあったときには必ず助けようとするでしょう?」
言われて、一拍、鼓動が止まった気がした。
脳裏をよぎるのは、手にかけてしまった親しい人たち。姿を装ったものでも、寄生されてあったものでも、手に伝わる感触は変わらず、己の罪深さを思い知らされる。
実際問題、今となっては、司の関係者だからといって襲われることは少ないはずだ。それらには十分以上の報復を以って返したのだし、その身柄を手に入れたことで司の足が止まらないのであれば、益が薄い。
そのあたりを十分に理解しているだろうこの近辺の者らにとって、だからそれは、意味のないことなのだ。
だがそれでも、近くにいれば危険なことには変わりない。常に爆弾の側にいるようなもので。まして宮凪は、狩人としての司にも関わろうとしている。それ以上に、『夢戦』の作者と知られながら接されるのは、正直きつい。
溜息を一つ落とし、一度、目を閉じる。
「四年前、この辺りの小学校の養護教諭が失踪した。知らないかな、他の小学校の事なんて」
「…知らないわ」
「小学生の失踪事件の犯人だって噂が流れたって言えばわかる?」
思い出したような表情になった宮凪を見る。司は、笑顔を浮かべようと努力した。上手く、形作れているだろうか。
「その人は、母の親友だった。だからあたしは小学校に入る前からよく知ってたし、大好きだった。――その人を殺したのは、あたしだった」
凍りついたような宮凪を前に、ゆっくりとココアを飲む。少し冷めて、今度は火傷はしなかった。
「完全に灰になるまで、繰り返し火をつけた。その灰も埋めた」
「でも――それは…っ」
「それは? そりゃ、理由はあるよ。でも、そういう問題じゃない。誰であっても、必要なら殺す。宮凪さんの友達だった人と同じ。守る側どころか、害する側にもなる」
宮凪が、息を呑んだのがえあかった。挙げた例に引っかかったのだとわかるが、司には、その身勝手とさえ言えそうな感情を責める気にはなれなかった。あえて、そこを突いたのだからその権利もない。
司は、掌で入り口を指し示してにこりと笑って見せた。
「お帰りはあちら」
「――っ」
何かを言おうとしたのだろうが、結局無言で、宮凪は荷物をまとめた。小銭を、叩きつけるように伝票に載せる。
振り返ることもしない宮凪の背を見送りながら、司は小さく、手を振った。きっちりと浮かべた笑みは、小柄な少女が扉の向こうに消えるまで維持した。
大きく息を吐いて、テーブルに額をつける。
「あー、疲れた。…さて」
立ててあるメニューを手に取り、個性的な名前のついたセットではなく、単品一覧をめくる。
「すいませーん、お持ち帰りできますかー?」
まだ空は明るいが、夜も十分長い。仮眠を取ったら、動き出そう。今は、夜こそが司の時間だ。
今の生活を選んだのは自分だ。
「…千客万来」
ぼんやりと物思いに耽りながら坂を走り抜けていた司は、数日前と同じ場所で立つ太郎の姿を認め、ゆっくりとブレーキをかける。宮凪は、思った以上に待たされていることだろう。
信号が変わると、相変わらずの黒スーツの隣に並ぶ。そのまま歩き始める太郎について、司は自転車を降りた。
「あんまり頻繁に姿晦ますと、免職になるんじゃない?」
「執着はないさ。お前の負担を減らしたかっただけだからな」
軽口に本音を返されてしまい、ぎょっとして、司は太郎を見上げた。
涼しげな横顔は、下手をすれば数日くらいは寝ていないかも知れないというのに、いつもと変わりがない。そこにはテレビのアイドルのように、生活感が抜け落ちていた。
「なあ、司」
「はい?」
「俺の手助けは、もう必要ないか?」
「えっ、と」
司は、母の昔馴染みをまじまじと見つめた。足が止まる。
太郎には、妖に関係なく助けられている。どういった経緯なのか、母とは高校生の頃から友人付き合いをしていたのだという。母が東雲に戻ったことで付き合いも戻り、幼い日に、不器用にあやされた思い出まであった。
司が狩人になるのを反対したのは太郎だけで、なってしまうと、補佐である諒の存在を差し置いてさえ、手助けもしてくれた。
保護者の一人と言える。
「仕事の事を言ってるなら、多分、何とかなると…思う、けど…どこか行くの?」
「アメリカにでも」
「…要のところ?」
「ああ」
当然のように太郎は、要とのつきあいもある。
要とは、旅立った夏以来、手紙くらいでしかやり取りがない。向こうは遠戚の世話になっているのだから、手紙は来るのだからと、大丈夫と言い聞かせて不自然さに目をつぶっている自覚は、司にもある。だが、もし要に狩人のことを知られ――目を背けられたら、と思うと踏み出せないでいた。
「その方が連絡も取れる。司――いつか、要も連れて戻る」
真っ直ぐに眼を見つめての言葉に、司はこらえきれず、涙をこぼした。気付けば、太郎の胸元に頭を押し付けている。
「駄目。太郎さんは、向こうに行って、要と一緒にいて。要を、守って。助けて。東雲には…あたしがいる限り、戻っちゃ駄目なんだ」
「司?」
「――ゆきさんの夢、見た」
司の言葉に、わずかにではあるが太郎の体が強張ったのがわかった。
正確には夢ではないが、そこまでの心配はかけたくない。あれは狩人の仕事で、本来であれば、太郎には関わる必要のないことなのだ。
司は、太郎の胸から顔を上げた。涙はこぼれ落ちたきりだ。
「太郎さんがあたしと要を心配してくれるなら、自由に生きて。それが厭なら、要と一緒にいて」
「…司」
「ゆきさん、ごめんって言ったの。違うのに。ゆきさんに妖を媒介したのはあたし。もっともっと生きられたはずなのに、殺したのもあたし。謝るのはあたしであって、ゆきさんじゃないのに。あたしが――。だから、要は絶対に、あたしに近づけないで。本当なら、太郎さんも、諒や颯だって、近くにはいない方がいいの。お願い」
これは、司のわがままだ。そのくらいは、知っている。
「…悪い。急、すぎたな」
無言で、首を振る。何か言えば、今の境遇を嘆いてしまいそうだった。自分を哀れんでしまいそうだった。そんなことをすれば、自分で自分を赦せなくなるに違いないというのに。
「太郎さん」
笑顔をつくろうとしたが、できず、顔を背ける。
「本当に、いいんだよ? お母さんが好きだったからって、あたしまで助けてくれなくたって」
「…遅かったな、その言葉」
「え?」
「はじめは、その通り、美砂の子どもでしかなかった。今更、それだけで付き合ってきたと思うなよ、未熟者」
「…太郎さんは、甘い」
「そうか?」
「お母さんに好きとも言ってないのに、これじゃあ、まるでお父さんみたいだ。親馬鹿の父親だ」
「ほめ言葉と思っておく」
珍しくはっきりと笑いながら、太郎は、司の頭を手荒に撫でた。不器用にあやされた記憶が、ふっとよみがえる。
「好きにしろと言うなら、もうしばらくはここにいる。――必要なら、いつだって呼べ」
言葉が出ず、こくりと首を落とす。
そうして太郎は、手を離したために太郎に寄りかかっていた自転車を司に手渡した。そのまま、短く別れを告げて背を向ける。
司は、霧でも詰まったような頭を抱え、のろりと歩を進めた。自転車が、いやに重い。
どこへ行こうとしていたのか――ああ、話があると言われていた――このまま帰ろうか。でも明日も学校で会うからなあ。大雑把にいえばそんな思考が、司の中で紡がれた。
結局司は、気球屋までの道のりを歩いて行った。宮凪はまだいるだろうか、帰ってればいいなと少し思う。それでも、混乱からは大分回復していた。
「いらっしゃいませー」
前回と同じ女性の、妙に間延びした声に迎えられ、待ち合わせと告げる前に、窓際に座る美少女を発見した。視線は、窓の外に向いている。
待ち合わせを告げて一緒に、クリームココアをたのんだ。
「来ないかと思った」
何も言わずに向かいの席に腰を落とした司に、一瞥を向けた宮凪は、ぼつりと声をこぼした。
あいにく、今の司には余裕がない。ただおかげで、意識は地に着いた。
「色々とあって。まあ、来ないで済むならそうしただろうけど」
「そう」
「うん。用件は?」
少女は儚げに微笑み、テーブルの上の本に載せていた手をずらした。和紙に包まれた何かを、開いて見せる。
出てきたのは細長いお札のようで、遠のいたはずの困惑を再び抱え、司はそのまま表情に表した。
「兄さんからよ。動きを封じるものと、姿を悟らせないものと。もちろん、人相手には使わないでよ」
「へえ」
呪術関係には司は疎い。それなりに書物で読んだりはしているが、縁はなかった。生兵法は怪我の元、という言葉もあるから、下手に関わらないようにしていた、ともいえる。
墨痕鮮やかな札を興味津々で見詰めるが、何を感じるでもなく、司の目に映るのは達筆だけだ。
「どちらも、対象物に貼るだけ。強力にしようと思えば、三角や四角で囲めばいい。文字が薄れたり消えたり、激しいものになれば燃えるから、効力を失ったらすぐにわかるわ。自分で使う場合、口で札を軽く咥えるのが効果的よ」
「…はぁ…?」
「何よ」
「いや。どうしてそんなものくれるのかと。あの人も狩人…守人、か。そっちの言い方だと。それやってたならわかってると思うけど、あれは個人的にお礼をもらうようなものじゃないんだけど」
使い方を聞いたところで困惑は消え去らず、首をかしげて宮凪を見る。じっと、札を見据えていた。
「…私が、頼んだの」
「はい? なんで?」
テーブルの上に置かれた拳が、小さく握り締められる。それだけで、十分な緊張が窺い知れた。一層に、司の困惑が深まる。
張り詰めた雰囲気をまとう宮凪は、逆に美しさを増していた。つくづく、美人だと思う。こういう人はなるほど目の保養だと納得するが、諒が司の格好に執心なことには同意できない。
馬鹿げたことを考えているうちに、宮凪の決意は決まったらしい。睨むように、司を見つめる。
「お礼。私のことは、関係なかったでしょ。見捨てられても文句は言えない状況だったわ。だから…まだ私よりも、兄さんの書いたものの方が強いから…」
司が何か言うよりも先に、注文しておいたココアが運ばれ、束の間、沈黙が降りる。司は、熱いくらいの白いマグカップを抱え、真っ白な生クリームに視線を落とした。混ぜたものかそのまま飲もうか、少し悩む。
沈黙を破ったのは宮凪だった。
「私が弱いから、避けるの?」
「――まあ、そうかな」
悩んだのは一瞬で、するりと言葉がこぼれ落ちた。言ってしまってからまずかったかと思ったが、それでいいのかと考え直す。
宮凪は、顔を俯かせたりはしなかった。
「わかってるみたいだから率直に言わせてもらうけど、人のことまで面倒みたいとは思わないからね。そんな余裕もないっていうのが正直なところだし。他の人気にしてて怪我したり死んだりなんて冗談じゃない。つかその前に、宮凪さんがそこまであたしにこだわる理由がわからないんだけど」
少女は儚げに微笑み、一度躊躇ってから、カバンから一冊の本を取り出した。草原に青空、和装で後ろ姿を見せる青年。その表紙に、司の視線が固定される。
ややあって、司の口元にも笑みが浮かんだ。歪みのようでもあった。
「またこれか」
「あなたが書いたって聞いたの」
「誰に?」
「九重先生」
「後で締めとこう」
にこりと、今度は完璧な笑みを浮かべる。宮凪は視線を落としたままで、それには気づいていない。
宮凪の声には、躊躇いが感じられた。それでも、どうにか押し出す。
「お礼、言いたくて」
「――は?」
何を言っているのかがわからず、途轍もなく宮凪の顔を覗き込みたくなったが、頑なに伏せられている。
「知ってるかもしれないけど、私、学校にほとんど行けなかったの。はじめは、そんなことなかった。きっと、元々集団生活には向いてなかったと思う。それでも何とかしようとしたら、逆に孤立しちゃって。中二のとき、決定的になった」
どう対応したものかわからず、司は、ココアを飲んだ。
「女子全員から無視されて、そうかと思ったら普通に喋ってくれる。逆に、声をかけてくれたりもする。日ごとだったり時間ごとだったり、あれって、予定立ててたのかしら。気にしない、って思っても、駄目だった。一日ずる休みすると、もう、駄目。あんなつらいところになんて行けなかった。ひどいときは部屋から一歩も出られなくて、このまま引きこもっちゃうのかなって思った」
そこで言葉が途切れて、長い間があった。唐突に話が終わったのかと、司は訝しげな視線を向けたが、やはり宮凪の顔は下を向いている。無理にでも引き上げてやろうかと、ふっと思ってしまう。
細い指が、文庫本の背を撫でた。
「たまたま手にとって、読んで。気付いたら、ぼろぼろ泣きながら、それでも読み続けてた。…駄目ね、やっぱり上手く言えない。ただね。私が、高校に行こうって思ったのは、やっぱり学校に行ってみようって、逃げる以外に何かできるかなって思ってのは、この本のおかげ。あなたが書いてくれた、この物語のおかげよ」
すうと、宮凪の顔が上がった。
涙こそこぼれていないが、まるで泣き笑いの表情で、司は大いに戸惑った。宮凪の言葉にも、脳が洗濯機にでも放り込まれたかのように、思考が攪拌される。
「ありがとう」
「――小説を読んで何かを得られたとして、得たものは読者自身のなかにあったものだ。そんなもの、小説や、まして、作者に礼を言うようなものじゃない…と、思う」
「そうだとしても、あの時私を動かしたのはこれよ。感謝したいのは、あなたになの」
「そんなの…」
再版がかかったと聞いて、司も、読み直そうと思った。少し読んで、すぐに投げ出した。
例えるなら箱庭だ。
精神治療で使われる自己の建て直しの一手に、箱庭療法がある。例えば、赤い池を作る人がいる。人間に相対するものが何一つない庭、逆に、分解された人形を詰め込まれた庭。
それらは全て、的確にではなくても一端、製作者の心のうちを示す。
それらが癒され、例えばのどかな箱庭を作れるようになったとして、はじめの惨状を振り返りたい人がいるだろうか。もしもすばらしい芸術だと言われても、嬉しいと思えるだろうか。
「ありがとう。――言いたかったの。でも、それだけじゃないわ。本当のところ、どうしてあなたと関わろうとするのかは私もよくわからないの」
「………はい?」
何か聞き間違えたかと思って宮凪を見るが、そんなことはないらしい。今までの神妙さを投げ捨てて、どこかふてぶてしささえ感じられる。司は、そんな宮凪をぽかんと見つめた。
「勝手にずかずか踏み込んで来て、かと思ったら突っぱねるし。守人までやってて。あなたの方が無茶苦茶よ」
「あー…それは」
目が泳ぐ。たしかに、宮凪の従兄と関わった件はともかく、先に声をかけたのは司だ。あ、生ビールのポスターのお姉さんが美人だ、と、意味のないことを発見する。
「…忘れてた。高校生になって少し生活環境が変わって、桜の季節で、浮かれてうっかりしてた。人に関わっちゃいけないってことを忘れてた。だから、声かけたりした。ごめん、忘れて」
「――忘れられるわけ、ないじゃない」
目が据わっている。
司は、目を逸らしたい気持ちと闘ってどうにか勝ち、ココアのカップを抱えたまま肩をすくめた。
「そう言われても、その方が身のためだよ? 自殺願望でもあるの? あっても、迷惑だから他当たってね」
「あなたって、わざわざ人が傷付く言葉選ぶの、得意よね」
「そう? 性格悪いからね」
「でもそれって、ある意味物凄く正直だって、気付いてるのかしら。遠ざけたいから傷付けてるでしょう。巻き込みたくないから、自分のせいで酷い目に合わせたくないから、先に悪者になっておこうとしてる。偽悪的、とでも言うのかしらね」
「買いかぶりだよ、それ」
ふっ、と、宮凪は笑った。それに返そうとした司の笑みは、何故か強張る。厄介な人を相手にしてるよなあこれ、と、内心で呻いた。
「私にも友人がいたの」
過去形だ、と気付いたものの指摘せずにいたが、宮凪は気にせず先を続けた。今は友人とは思っていないけど、ときっぱりと。
「同級生にはあまり親しい人はいなかったけど、転校して来た子と仲良くなったの。嬉しかった。でも、ちょっとしたきっかけで彼女は離れていって、それどころか、いじめのきっかけは彼女だったの。クラス中を煽って」
合いの手の入れようがない。
しかし宮凪の表情には、凛としたものさえ窺えた。完全に克服できているのかはわからないが、とりあえずは乗り越えたのだろう。
強いなと、半ば呆れながら思う。
「その子、私が危険になったら絶対助けに行く、なんて言ってたのよ。私だって半分冗談だとは思ってたけど、まさか危険を作り出してくる側になるとは思ってなかったわ。そのことで、一つ学んだの。人ってそう簡単に信用できるものじゃないって」
「…それならあたしも信用できないはずでしょ?」
「この小説に助けられたこともあるけど、あなたは、捻くれ過ぎて逆に信じられるような気がするのよ。それだけ遠ざけるなら、何かあったときには必ず助けようとするでしょう?」
言われて、一拍、鼓動が止まった気がした。
脳裏をよぎるのは、手にかけてしまった親しい人たち。姿を装ったものでも、寄生されてあったものでも、手に伝わる感触は変わらず、己の罪深さを思い知らされる。
実際問題、今となっては、司の関係者だからといって襲われることは少ないはずだ。それらには十分以上の報復を以って返したのだし、その身柄を手に入れたことで司の足が止まらないのであれば、益が薄い。
そのあたりを十分に理解しているだろうこの近辺の者らにとって、だからそれは、意味のないことなのだ。
だがそれでも、近くにいれば危険なことには変わりない。常に爆弾の側にいるようなもので。まして宮凪は、狩人としての司にも関わろうとしている。それ以上に、『夢戦』の作者と知られながら接されるのは、正直きつい。
溜息を一つ落とし、一度、目を閉じる。
「四年前、この辺りの小学校の養護教諭が失踪した。知らないかな、他の小学校の事なんて」
「…知らないわ」
「小学生の失踪事件の犯人だって噂が流れたって言えばわかる?」
思い出したような表情になった宮凪を見る。司は、笑顔を浮かべようと努力した。上手く、形作れているだろうか。
「その人は、母の親友だった。だからあたしは小学校に入る前からよく知ってたし、大好きだった。――その人を殺したのは、あたしだった」
凍りついたような宮凪を前に、ゆっくりとココアを飲む。少し冷めて、今度は火傷はしなかった。
「完全に灰になるまで、繰り返し火をつけた。その灰も埋めた」
「でも――それは…っ」
「それは? そりゃ、理由はあるよ。でも、そういう問題じゃない。誰であっても、必要なら殺す。宮凪さんの友達だった人と同じ。守る側どころか、害する側にもなる」
宮凪が、息を呑んだのがえあかった。挙げた例に引っかかったのだとわかるが、司には、その身勝手とさえ言えそうな感情を責める気にはなれなかった。あえて、そこを突いたのだからその権利もない。
司は、掌で入り口を指し示してにこりと笑って見せた。
「お帰りはあちら」
「――っ」
何かを言おうとしたのだろうが、結局無言で、宮凪は荷物をまとめた。小銭を、叩きつけるように伝票に載せる。
振り返ることもしない宮凪の背を見送りながら、司は小さく、手を振った。きっちりと浮かべた笑みは、小柄な少女が扉の向こうに消えるまで維持した。
大きく息を吐いて、テーブルに額をつける。
「あー、疲れた。…さて」
立ててあるメニューを手に取り、個性的な名前のついたセットではなく、単品一覧をめくる。
「すいませーん、お持ち帰りできますかー?」
まだ空は明るいが、夜も十分長い。仮眠を取ったら、動き出そう。今は、夜こそが司の時間だ。
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