夜の底を歩く

来条恵夢

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四、決めたことと決めなかったこと

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 かばんを前かごに放り込んで後にした学校は、授業は終わったというのに、活気に満ち溢れていた。下手をすれば、授業中よりもにぎやかだろう。つかさは、それらをうらやましく思いながらそう思う自分を叱責しっせきする。
 今の生活を選んだのは自分だ。
「…千客万来」
 ぼんやりと物思いにふけりながら坂を走り抜けていた司は、数日前と同じ場所で立つ太郎の姿を認め、ゆっくりとブレーキをかける。宮凪みやなぎは、思った以上に待たされていることだろう。
 信号が変わると、相変わらずの黒スーツの隣に並ぶ。そのまま歩き始める太郎について、司は自転車を降りた。
「あんまり頻繁ひんぱんに姿くらますと、免職クビになるんじゃない?」
「執着はないさ。お前の負担を減らしたかっただけだからな」
 軽口に本音を返されてしまい、ぎょっとして、司は太郎を見上げた。
 涼しげな横顔は、下手をすれば数日くらいは寝ていないかも知れないというのに、いつもと変わりがない。そこにはテレビのアイドルのように、生活感が抜け落ちていた。
「なあ、司」
「はい?」
「俺の手助けは、もう必要ないか?」
「えっ、と」
 司は、母の昔馴染みをまじまじと見つめた。足が止まる。
 太郎には、あやかしに関係なく助けられている。どういった経緯なのか、母とは高校生の頃から友人付き合いをしていたのだという。母が東雲しののめに戻ったことで付き合いも戻り、幼い日に、不器用にあやされた思い出まであった。
 司が狩人かりゅうどになるのを反対したのは太郎だけで、なってしまうと、補佐であるりょうの存在を差し置いてさえ、手助けもしてくれた。
 保護者の一人と言える。
「仕事の事を言ってるなら、多分、何とかなると…思う、けど…どこか行くの?」
「アメリカにでも」
「…かなめのところ?」
「ああ」
 当然のように太郎は、おとうととのつきあいもある。
 要とは、旅立った夏以来、手紙くらいでしかやり取りがない。向こうは遠戚の世話になっているのだから、手紙は来るのだからと、大丈夫と言い聞かせて不自然さに目をつぶっている自覚は、司にもある。だが、もし要に狩人のことを知られ――目を背けられたら、と思うと踏み出せないでいた。
「その方が連絡も取れる。司――いつか、要も連れて戻る」
 真っ直ぐに眼を見つめての言葉に、司はこらえきれず、涙をこぼした。気付けば、太郎の胸元に頭を押し付けている。
「駄目。太郎さんは、向こうに行って、要と一緒にいて。要を、守って。助けて。東雲には…あたしがいる限り、戻っちゃ駄目なんだ」
「司?」
「――ゆきさんの夢、見た」
 司の言葉に、わずかにではあるが太郎の体が強張ったのがわかった。
 正確には夢ではないが、そこまでの心配はかけたくない。あれは狩人の仕事で、本来であれば、太郎には関わる必要のないことなのだ。
 司は、太郎の胸から顔を上げた。涙はこぼれ落ちたきりだ。
「太郎さんがあたしと要を心配してくれるなら、自由に生きて。それが厭なら、要と一緒にいて」
「…司」
「ゆきさん、ごめんって言ったの。違うのに。ゆきさんに妖を媒介したのはあたし。もっともっと生きられたはずなのに、殺したのもあたし。謝るのはあたしであって、ゆきさんじゃないのに。あたしが――。だから、要は絶対に、あたしに近づけないで。本当なら、太郎さんも、諒やそうだって、近くにはいない方がいいの。お願い」
 これは、司のわがままだ。そのくらいは、知っている。
「…悪い。急、すぎたな」
 無言で、首を振る。何か言えば、今の境遇を嘆いてしまいそうだった。自分をあわれんでしまいそうだった。そんなことをすれば、自分で自分を赦せなくなるに違いないというのに。
「太郎さん」
 笑顔をつくろうとしたが、できず、顔をそむける。
「本当に、いいんだよ? お母さんが好きだったからって、あたしまで助けてくれなくたって」
「…遅かったな、その言葉」
「え?」
「はじめは、その通り、美砂みさの子どもでしかなかった。今更、それだけで付き合ってきたと思うなよ、未熟者」
「…太郎さんは、甘い」
「そうか?」
「お母さんに好きとも言ってないのに、これじゃあ、まるでお父さんみたいだ。親馬鹿の父親だ」
「ほめ言葉と思っておく」
 珍しくはっきりと笑いながら、太郎は、司の頭を手荒にでた。不器用にあやされた記憶が、ふっとよみがえる。
「好きにしろと言うなら、もうしばらくはここにいる。――必要なら、いつだって呼べ」
 言葉が出ず、こくりと首を落とす。
 そうして太郎は、手を離したために太郎に寄りかかっていた自転車を司に手渡した。そのまま、短く別れを告げて背を向ける。
 司は、霧でも詰まったような頭を抱え、のろりと歩を進めた。自転車が、いやに重い。
 どこへ行こうとしていたのか――ああ、話があると言われていた――このまま帰ろうか。でも明日も学校で会うからなあ。大雑把にいえばそんな思考が、司の中で紡がれた。
 結局司は、気球屋までの道のりを歩いて行った。宮凪はまだいるだろうか、帰ってればいいなと少し思う。それでも、混乱からは大分回復していた。
「いらっしゃいませー」
 前回と同じ女性の、妙に間延びした声に迎えられ、待ち合わせと告げる前に、窓際に座る美少女を発見した。視線は、窓の外に向いている。
 待ち合わせを告げて一緒に、クリームココアをたのんだ。
「来ないかと思った」
 何も言わずに向かいの席に腰を落とした司に、一瞥を向けた宮凪は、ぼつりと声をこぼした。
 あいにく、今の司には余裕がない。ただおかげで、意識は地に着いた。
「色々とあって。まあ、来ないで済むならそうしただろうけど」
「そう」
「うん。用件は?」
 少女は儚げに微笑み、テーブルの上の本に載せていた手をずらした。和紙に包まれた何かを、開いて見せる。
 出てきたのは細長いお札のようで、遠のいたはずの困惑を再び抱え、司はそのまま表情に表した。
「兄さんからよ。動きを封じるものと、姿を悟らせないものと。もちろん、人相手には使わないでよ」
「へえ」
 呪術関係には司はうとい。それなりに書物で読んだりはしているが、縁はなかった。生兵法は怪我の元、という言葉もあるから、下手に関わらないようにしていた、ともいえる。
 墨痕ぼっこん鮮やかな札を興味津々で見詰めるが、何を感じるでもなく、司の目に映るのは達筆だけだ。
「どちらも、対象物に貼るだけ。強力にしようと思えば、三角や四角で囲めばいい。文字が薄れたり消えたり、激しいものになれば燃えるから、効力を失ったらすぐにわかるわ。自分で使う場合、口で札を軽くくわえるのが効果的よ」
「…はぁ…?」
「何よ」
「いや。どうしてそんなものくれるのかと。あの人も狩人…守人もりびと、か。そっちの言い方だと。それやってたならわかってると思うけど、あれは個人的にお礼をもらうようなものじゃないんだけど」
 使い方を聞いたところで困惑は消え去らず、首をかしげて宮凪を見る。じっと、札を見据えていた。
「…私が、頼んだの」
「はい? なんで?」
 テーブルの上に置かれた拳が、小さく握り締められる。それだけで、十分な緊張が窺い知れた。一層に、司の困惑が深まる。
 張り詰めた雰囲気をまとう宮凪は、逆に美しさを増していた。つくづく、美人だと思う。こういう人はなるほど目の保養だと納得するが、諒が司の格好に執心なことには同意できない。
 馬鹿げたことを考えているうちに、宮凪の決意は決まったらしい。睨むように、司を見つめる。
「お礼。私のことは、関係なかったでしょ。見捨てられても文句は言えない状況だったわ。だから…まだ私よりも、兄さんの書いたものの方が強いから…」
 司が何か言うよりも先に、注文しておいたココアが運ばれ、束の間、沈黙が降りる。司は、熱いくらいの白いマグカップを抱え、真っ白な生クリームに視線を落とした。混ぜたものかそのまま飲もうか、少し悩む。
 沈黙を破ったのは宮凪だった。
「私が弱いから、避けるの?」
「――まあ、そうかな」
 悩んだのは一瞬で、するりと言葉がこぼれ落ちた。言ってしまってからまずかったかと思ったが、それでいいのかと考え直す。
 宮凪は、顔を俯かせたりはしなかった。
「わかってるみたいだから率直に言わせてもらうけど、人のことまで面倒みたいとは思わないからね。そんな余裕もないっていうのが正直なところだし。他の人気にしてて怪我したり死んだりなんて冗談じゃない。つかその前に、宮凪さんがそこまであたしにこだわる理由がわからないんだけど」
 少女は儚げに微笑み、一度躊躇ためらってから、カバンから一冊の本を取り出した。草原に青空、和装で後ろ姿を見せる青年。その表紙に、司の視線が固定される。
 ややあって、司の口元にもみが浮かんだ。歪みのようでもあった。
「またこれか」
「あなたが書いたって聞いたの」
「誰に?」
九重ここのえ先生」
「後で締めとこう」
 にこりと、今度は完璧な笑みを浮かべる。宮凪は視線を落としたままで、それには気づいていない。
 宮凪の声には、躊躇いが感じられた。それでも、どうにか押し出す。
「お礼、言いたくて」
「――は?」
 何を言っているのかがわからず、途轍とてつもなく宮凪の顔を覗き込みたくなったが、かたくなに伏せられている。
「知ってるかもしれないけど、私、学校にほとんど行けなかったの。はじめは、そんなことなかった。きっと、元々集団生活には向いてなかったと思う。それでも何とかしようとしたら、逆に孤立しちゃって。中二のとき、決定的になった」
 どう対応したものかわからず、司は、ココアを飲んだ。
「女子全員から無視されて、そうかと思ったら普通に喋ってくれる。逆に、声をかけてくれたりもする。日ごとだったり時間ごとだったり、あれって、予定立ててたのかしら。気にしない、って思っても、駄目だった。一日ずる休みすると、もう、駄目。あんなつらいところになんて行けなかった。ひどいときは部屋から一歩も出られなくて、このまま引きこもっちゃうのかなって思った」
 そこで言葉が途切れて、長い間があった。唐突に話が終わったのかと、司は訝しげな視線を向けたが、やはり宮凪の顔は下を向いている。無理にでも引き上げてやろうかと、ふっと思ってしまう。
 細い指が、文庫本の背を撫でた。
「たまたま手にとって、読んで。気付いたら、ぼろぼろ泣きながら、それでも読み続けてた。…駄目ね、やっぱり上手く言えない。ただね。私が、高校に行こうって思ったのは、やっぱり学校に行ってみようって、逃げる以外に何かできるかなって思ってのは、この本のおかげ。あなたが書いてくれた、この物語のおかげよ」
 すうと、宮凪の顔が上がった。
 涙こそこぼれていないが、まるで泣き笑いの表情で、司は大いに戸惑った。宮凪の言葉にも、脳が洗濯機にでも放り込まれたかのように、思考が攪拌かくはんされる。
「ありがとう」
「――小説を読んで何かを得られたとして、得たものは読者自身のなかにあったものだ。そんなもの、小説や、まして、作者に礼を言うようなものじゃない…と、思う」
「そうだとしても、あの時私を動かしたのはこれよ。感謝したいのは、あなたになの」
「そんなの…」
 再版がかかったと聞いて、司も、読み直そうと思った。少し読んで、すぐに投げ出した。
 例えるなら箱庭だ。
 精神治療で使われる自己の建て直しの一手に、箱庭療法がある。例えば、赤い池を作る人がいる。人間に相対するものが何一つない庭、逆に、分解された人形を詰め込まれた庭。
 それらは全て、的確にではなくても一端、製作者の心のうちを示す。
 それらがいやされ、例えばのどかな箱庭を作れるようになったとして、はじめの惨状を振り返りたい人がいるだろうか。もしもすばらしい芸術だと言われても、嬉しいと思えるだろうか。
「ありがとう。――言いたかったの。でも、それだけじゃないわ。本当のところ、どうしてあなたと関わろうとするのかは私もよくわからないの」
「………はい?」
 何か聞き間違えたかと思って宮凪を見るが、そんなことはないらしい。今までの神妙さを投げ捨てて、どこかふてぶてしささえ感じられる。司は、そんな宮凪をぽかんと見つめた。
「勝手にずかずか踏み込んで来て、かと思ったら突っぱねるし。守人までやってて。あなたの方が無茶苦茶よ」
「あー…それは」
 目が泳ぐ。たしかに、宮凪の従兄いとこと関わった件はともかく、先に声をかけたのは司だ。あ、生ビールのポスターのお姉さんが美人だ、と、意味のないことを発見する。
「…忘れてた。高校生になって少し生活環境が変わって、桜の季節で、浮かれてうっかりしてた。人に関わっちゃいけないってことを忘れてた。だから、声かけたりした。ごめん、忘れて」
「――忘れられるわけ、ないじゃない」
 目がわっている。
 司は、目をらしたい気持ちとたたかってどうにか勝ち、ココアのカップを抱えたまま肩をすくめた。
「そう言われても、その方が身のためだよ? 自殺願望でもあるの? あっても、迷惑だから他当たってね」
「あなたって、わざわざ人が傷付く言葉選ぶの、得意よね」
「そう? 性格悪いからね」
「でもそれって、ある意味物凄く正直だって、気付いてるのかしら。遠ざけたいから傷付けてるでしょう。巻き込みたくないから、自分のせいで酷い目に合わせたくないから、先に悪者になっておこうとしてる。偽悪的、とでも言うのかしらね」
「買いかぶりだよ、それ」
 ふっ、と、宮凪は笑った。それに返そうとした司の笑みは、何故か強張る。厄介な人を相手にしてるよなあこれ、と、内心でうめいた。
「私にも友人がいたの」
 過去形だ、と気付いたものの指摘せずにいたが、宮凪は気にせず先を続けた。今は友人とは思っていないけど、ときっぱりと。
「同級生にはあまり親しい人はいなかったけど、転校して来た子と仲良くなったの。嬉しかった。でも、ちょっとしたきっかけで彼女は離れていって、それどころか、いじめのきっかけは彼女だったの。クラス中をあおって」
 合いの手の入れようがない。
 しかし宮凪の表情には、凛としたものさえ窺えた。完全に克服できているのかはわからないが、とりあえずは乗り越えたのだろう。
 強いなと、半ば呆れながら思う。
「その子、私が危険になったら絶対助けに行く、なんて言ってたのよ。私だって半分冗談だとは思ってたけど、まさか危険を作り出してくる側になるとは思ってなかったわ。そのことで、一つ学んだの。人ってそう簡単に信用できるものじゃないって」
「…それならあたしも信用できないはずでしょ?」
「この小説に助けられたこともあるけど、あなたは、ひねくれ過ぎて逆に信じられるような気がするのよ。それだけ遠ざけるなら、何かあったときには必ず助けようとするでしょう?」
 言われて、一拍、鼓動が止まった気がした。
 脳裏をよぎるのは、手にかけてしまった親しい人たち。姿を装ったものでも、寄生されてあったものでも、手に伝わる感触は変わらず、己の罪深さを思い知らされる。
 実際問題、今となっては、司の関係者だからといって襲われることは少ないはずだ。それらには十分以上の報復を以って返したのだし、その身柄を手に入れたことで司の足が止まらないのであれば、益が薄い。
 そのあたりを十分に理解しているだろうこの近辺の者らにとって、だからそれは、意味のないことなのだ。
 だがそれでも、近くにいれば危険なことには変わりない。常に爆弾の側にいるようなもので。まして宮凪は、狩人としての司にも関わろうとしている。それ以上に、『夢戦ユメイクサ』の作者と知られながら接されるのは、正直きつい。
 溜息を一つ落とし、一度、目を閉じる。
「四年前、この辺りの小学校の養護教諭が失踪した。知らないかな、他の小学校の事なんて」
「…知らないわ」
「小学生の失踪事件の犯人だって噂が流れたって言えばわかる?」
 思い出したような表情になった宮凪を見る。司は、笑顔を浮かべようと努力した。上手く、形作れているだろうか。
「その人は、母の親友だった。だからあたしは小学校に入る前からよく知ってたし、大好きだった。――その人を殺したのは、あたしだった」
 凍りついたような宮凪を前に、ゆっくりとココアを飲む。少し冷めて、今度は火傷やけどはしなかった。
「完全に灰になるまで、繰り返し火をつけた。その灰も埋めた」
「でも――それは…っ」
「それは? そりゃ、理由はあるよ。でも、そういう問題じゃない。誰であっても、必要なら殺す。宮凪さんの友達だった人と同じ。守る側どころか、害する側にもなる」
 宮凪が、息を呑んだのがえあかった。挙げた例に引っかかったのだとわかるが、司には、その身勝手とさえ言えそうな感情を責める気にはなれなかった。あえて、そこを突いたのだからその権利もない。
 司は、掌で入り口を指し示してにこりと笑って見せた。
「お帰りはあちら」
「――っ」
 何かを言おうとしたのだろうが、結局無言で、宮凪は荷物をまとめた。小銭を、叩きつけるように伝票に載せる。
 振り返ることもしない宮凪の背を見送りながら、司は小さく、手を振った。きっちりと浮かべた笑みは、小柄な少女が扉の向こうに消えるまで維持した。
 大きく息を吐いて、テーブルに額をつける。
「あー、疲れた。…さて」
 立ててあるメニューを手に取り、個性的な名前のついたセットではなく、単品一覧をめくる。
「すいませーん、お持ち帰りできますかー?」
 まだ空は明るいが、夜も十分長い。仮眠を取ったら、動き出そう。今は、夜こそが司の時間だ。
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