夜の底を歩く

来条恵夢

文字の大きさ
16 / 21
五、出来たことと出来なかったこと

1

しおりを挟む
 そのときつかさは、迷子になっていた。
 おとうととかくれんぼをしていて、広すぎる山の中で居場所を見失った。かなめが鬼で、見つかってはいけないはずなのに気付けば、泣きながら大声で名前を呼んでいた。
 山は黄昏たそがれて、あと少しで闇が来るとわかっていた。
 怖いのは闇ではなくて、闇の中に息づくたくさんの生き物でもなくて、その中に放り出されることだった。生まれる前からずっと一緒だったはずの要と一緒でようやく、司は「一人」になれる。司だけでは、一人ぼっちの淋しさにも耐えられない。一人ですら、ないのだから。
「かなめ…」
 無理な出し方をした上に泣いているせいで、声はほとんど出なくなっていた。
 泣きながら歩いていると不意に、水辺に出た。まだ十分すぎるほどに子どもだった司から見ても小さな、泉。しかしその水は、滾々こんこんき出て止まることを知らないかのようだった。
何奴なにやつ
「…え?」
「何奴かと訊いておる。きりきりと答えぬか」
 厳しげな女の子の声が聞こえて、司はつかの#間__ま__#、泣いていたことすら忘れて声の主を探した。だが、見回してもそれらしい人影は見当たらない。
 そのうちに、声の主の方が待ちきれなくなった。
「ええい、答えぬか!」
「えっと…なにを?」
「そちは何者じゃ」
「ソチハナニモノジャ、って、なに?」
 言葉の意味がわからなくて、そのままを聞き返す。沈黙が落ちて、司は、誰だか知らないが声の主に見捨てられたと思い、要に助けを求めようとして、この場にいないことに気付いた。また、涙が盛り上がる。
「なんじゃ…あのときの子供か」
「ふぇ?」
 今にも泣き出そうとしていた司の前に、真っ赤な着物を着た長い髪の女の子が姿を見せる。どこから出て来たものか、森の中では抜群に目立ちそうな姿だというのに、司は何も不思議に思わなかった。ただ、ぽかんと見つめる。
「ほれ、泣くな。やかましくてかなわん。母親はどうした。はぐれたか」
「ハハオヤ…おかあさん、いえにいるよ?」
「では一人で来たか。迷ったな。…いや、待て。迎えが来ておる。ふむ、クヌギのか。里に下りたあやつでは、ここまでは来難かろう」
 司には理解できないことを呟くように口にして、女の子は司を見た。
「ヌシ、名は」
「え…えっと…?」
「名前は何という」
「あ。おきたつかさ、です!」
「沖田司…沖田…司、か。司、来い。我が案内あないしてやろう」
 あない、と言われてもよくわからなかったが、先に立ち、司を振り向く仕草しぐさでどこかに連れて行ってくれることはわかった。慌てて、後を追う。
 しばらく下ると、司のよく知る大きな人がいた。
 だが、司が喜びの声を上げるよりも先に、気まずげに、いささかほうけたような声がした。受けたのは赤い着物の女の子で、どこか得意げなかおをしている。
「…ヒメ様」
「久し振りじゃな、クヌギの。里の暮らしには慣れたかや? 我は寛容じゃ。山に立ち入る程度なれば、許して遣わそうぞ」
 何かを言おうとして呑み込み、大きな人はただ、緊張したように深々と頭を下げた。司はそれを、不思議な思いで見つめる。今まで一度も、この人がこんなことをしたところを見たことがなかった。
「たろーさん? このこ、しってるの?」
「…ああ」
「そうなんだ」
 親しい人の親しい人は親しい、という図式の元に、司は、女の子にも多大な親しみを感じて見つめた。――見つめようとした。
 女の子は、いつの間にか姿を消していた。
「あれ…?」
「司、帰ろう。要が大泣きしている」
「うん」
 要が待っているとあれば、戻るのが当たり前だ。
 それでも司は、女の子が気になって後方に視線をめぐらせる。どうしても、赤い着物の端も見えなかった。
 それなら、と、小さな司は手っ取り早い方法を取る。
「またこんどあそぼうねー!」
 司の大声は、薄闇に響いて消えた。このとき司は、女の子が何者なのかを全く知らなかった。
 それを知るのは、数年がってからのこと。その入り口は、夜だった。
 山の奥で、司は、いくつもの視線に突き刺されていた。けれどそれらは沈黙を守り、姿を隠し、ただ視線だけが感じられた。
 彼らに許されているのは、ただそれだけだった。
「気負わずとも良い。ヌシは既に、力自体は受けておるからの」
 司の向かいに現れたのは、あでやかに着物を身に着けた女性だった。闇に溶けるようで一線を画している長い黒髪を流し、真っ赤な唇を持ち上げ、にぃと笑う。
「のう、フタミの」
 フタミは二身。それが、あやかしでありながらにして人でもあったりょうの二つ名と、司が知るのはしばらく後のことになる。そして、目の前の女性に既に出会っていると知るのも。子どもの姿しか、司は知らなかった。
 知らないことの方が圧倒的に多い司の斜め後方で、名指された諒がどんな顔をしたのかは、司は知らない。そのとき司は、どこか呆けていた。
 どこから生まれたとも知れない灯りが周囲には浮いており、見慣れた山の、夜の姿を照らし出している。音もなく満ちる得体の知れない気配と視線は、司が山で感じることはあっても、気のせいと思い込んでいたものだった。
 違う世界へとはっきり踏み込んでしまったことを、このとき司はようやく実感しようとしていた。
「なれど、限りの事。力を欲すれば、かつてない苦痛を伴おう。ヌシ、覚悟は良いかの?」
「――はい」
 まだ幼くて無力な司と要に、生きるすべはない。だから司は、よくわからないなりに考えて、狩人かりゅうどになろうと思った。人の社会で生きるのに必要な金銭が手に入り、生半なまなかのものでは手を出せないほどの力を身につける。それは、願ってもないことだった。
 逆に、より多くの危険を引き寄せることまでは、気が回らなかった。狩人になったために大切な人を失うことになるとは、考えもしなかった。
 言ってしまえば軽率に、司は力を身の内に引き入れた。
 そのつぐないは、後々支払うことになる。それも、司以外のものによって。
 だがこの時点でそのことは知らず、司はただ、受け渡された御守おまもりの力に、感じたことのない痛みを受けて絶叫していた。
 気絶することすら叶わず、体の内側から焼き#鏝_ごて__#を当てられたかのような、液体となった炎を流し込んだかのような、いっそ自ら腹をさばいた方が優しいかもしれない痛みに、耐えていた。
 土と草と苔の中にたおれ、つくばることもできずに、痙攣けいれんするようにかすかにあがく。
 夜を渡る風とただ炯炯けいけいと見つめる幾筋もの視線は、司に危害を加えない代わりに手を差し伸べようともせず、それは、かたわらに立つ諒も同じだった。ただ、見詰める。
 それが、司が本当に夜の生き物に紛れたときのこと。それ以来司は、ずっと、夜の底で刀を握り締めている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

処理中です...