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五、出来たことと出来なかったこと
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ほのかに春めいた夜気が、隙間風として我が物顔で入り込んできた。司の、鬘の長い髪がなびく。
「うまいな、これ」
「でしょ。気球屋って喫茶店。セットメニューが変な名前ばっかりでさ」
喫茶店で買ったサンドウィッチは、みるみる源の胃に消えていく。
司は狭い小屋の中で、そんな源の向かいに座っていた。今日は、深緑と青が主のチェックのプリーツ・スカートに白いシャツと、校章入りのベスト。そんな格好にはいささか不似合いに、幅の広い腕輪もしている。
「それで、今日はどうしたんだい? 番狐もいないみたいだし」
「そんなこと言ってるから、諒に嫌われるんだよ」
「あいつが俺を嫌いなのは、そんな理由じゃないよ。人間、真実や現実を突きつけられると腹が立つものなんだ」
「意味がわかりません」
にこりとさわやかに、司は受け流した。源が、最後のひとかけらを口に放り込みながら、目だけで微笑む。
「鏡に映った己の姿が厭で、目を逸らす奴もいるってことさ。誰しもが君のように強いわけじゃないんだよ、司」
「どうしてそこで名前が挙がるのかわからないです」
言って、司は、ふと気付いたように手を伸ばした。
本や雑貨が積み上げられた一角に、ちょこんと、安っぽい文庫サイズのアルバムがあった。ケースから出したところで、源に取り上げられる。
笑顔の中で、先ほどとは逆に、眼だけが醒めていた。
「何を迷っているのかな?」
司は微苦笑して、困ったようにわずかに首をかしげた。ルナなら、こんな仕草も可愛いだろうなと、ぼんやりと思う。
「迷ってはいないんです。どう切り出せばいいのかわからないだけで」
「今日は、わからないばかり言っているね」
「そうですね」
頷いて、上げた視線を源に当てる。
「可南子さんを襲った人たちが殺された事件に、ゲンさんはどう関わってるんですか?」
「ひどいな、いきなり犯人扱いかい?」
「無関係、て関係もありますね」
「ああ、そうか」
司の見ている前で、装われていた苦笑は取り払われ、虚ろな無表情が剥き出しになった。息だけの笑い声がこぼれ落ちる。
「司、僕はもう決めたんだ。あと少し、黙って見ていてくれるだけでいい。いや、見てくれなくていい。目を閉じて、少しだけ眠っていてくれたらいい。大丈夫。誰も、真相になんて気付きやしないよ。いや、気付いたって問題はない。人間の犯人が話題に上るだけだ」
人外の存在が明るみに出なければ、狩人の感知するところではない。だが司は、頷かなかった。
「ゲンさんたちが死を選ばないなら、目をつぶります」
「強者が弱者を理解することはないと言うね」
「強者と弱者の定義がわかりません」
「本当に、わからないばかり言っているね」
「言わせてるのはゲンさんです」
司が祈るような気分でいることを、怒っていることを、源は気付いているだろうか。表情めいたものを浮かべる源の顔を見つめながら、司は、例えば泣いたらすべてが丸く収まると言われたら、どれだけだって泣く用意はあるのになと、馬鹿なことを考えた。
そんな都合のいい展開がないことを、司は知っている。源だってそうに違いない。
残念だ、と、源がつぶやくように言った。
「君なら、わかってくれると思ったのに。それとも、あれかな。人間相手に報復するというのが駄目なのかな。気持ちは同じなのにね」
源の胸中に燃えさかっているだろう漆黒の炎を、司も知っている。何よりも高温の、凍てつく炎。
かつて司は、その炎に焚きつけられるままに命を握りつぶした。祖母の姿をしたものに対して、親しかった人の中に巣食ったものに対して。そうして、己の心にも刃を突き立てた。
ともすると再燃しそうな焼け跡に念入りに目を光らせ、司は立ち上がる。小屋の外に出るのを、源は止めようともしなかった。代わりに、巨きないぬがいた。母を殺された小いぬは、いまや十分に成長している。
わずかな光も強く反射する眼は、赤く充血している。唸り声を上げる口からは間断なくよだれが流れ、何も知らずに見れば、狂犬病を疑うだろう。実際、どうにか自我を保っていられる程度。それだけでも賞賛に値する。それほどに、時として人の血と死は、彼らにとって腐毒となる。
司は、そんな彼らを見つめた。
「選んでくれないなら、あなたたちを殺しても止めさせます」
「妙な話だ。生きるのを拒めば殺すなんてね」
「死ぬつもりの人を止めても、意味がない。やろうと思えばどうやってだって死ねるけど、四六時中見張るわけにもいかないし。それなら、なくなる命が減る方を選びます」
数の問題では、もちろんない。それでも、司は選ぶ。
どうして自分は天才じゃないんだろう。どうしてもっと上手く立ち回れないんだろう。最悪の結果を回避する方法はいくつもあったはずで、自分でない誰かは、それを選び取れたかもしれない。
そんな考えが、いつだって心に根を張っている。
だけど今ここにいて、現実を動かしているのは、どうしようもなく自分で。
「ご立派」
ぽつんと、押し出された声。
飛びかかれば司くらい容易く押し倒しそうないぬは、源との間の空気をどう読み取ったものか迷うように、しかし司を逃すことなく、戸口に立つ源を窺う。
司が火月を取り出すと、一層獰猛な唸り声を上げた。わずかでも気を抜いたり視線を逸らしたりすれば、即座に飛びかかってくるだろう。
「諒はその辺りに潜んでるのかな」
「被害者候補をお願いしてます」
「おや。二対一で?」
当然ながら一人では不利だが、司は、宮凪に貰った札を持って来ていた。使いこなせる自信はまったくといっていいほどにないが、ないよりはましかもしれない。
諒には、源のところに行くとは言っていない。一人で、相対したかった。
「――可南子さん、どうするんですか」
視線はいぬを射たまま、そして胸中で強く叫びながら――焼き尽くすのでなく、捕らえる術を寄越せと――司は、言葉を手繰り寄せる。だがそれも、源を揺らがせることすらできない。
「奇跡が起これば、いつか眼を覚ますかもしれない。その前に栄養の補給を止められなければね。もっとも、眼を覚まさない方が幸せかもしれない。ああ、僕たちがやったことを、彼女が喜ばないことくらいわかっているよ」
何を待っているのかもわからないまま待ち続ける司に、淡々と声は降り注ぐ。
「疲れたんだ。後悔にも倦んで、無残に中途半端な希望に手を伸ばすことにも飽いて。そんなときにね、丁度、聞こえたんだ。彼らの一人が、どうも可南子の病棟で働いていたらしくてね。もしも意識が戻ったらどうするんだ、戻るわけがない、その前に何とかする、それはまずい、なんて、揉めてた。そこでようやく、加害者がまだ生きていたってことを思い出したよ。捕まってすらいなかったってね。彼らは傷一つなく、生きている。罪の意識だって、どれだけあるのか。何だか、馬鹿らしくなったよ」
源の動く気配があって、後ろから刺されるかな、と考える。そう思ったところで、いぬから目を逸らせばそれまでで、回避は難しそうだ。
でもそれは、厭だ。無駄に命を落とすだけなんて真っ平で。
――出し惜しみするんじゃない。いいのか、ここで力を発揮しなかったら、お前はまたしばらく眠りにつくんだ。
御守をはじめて扱ったとき、その歓喜が感じられた。これも、妖たちは知らないことかもしれない。この不可思議な力の塊は、感情を持っている。だからこそ、訴える方法もあるはずだと、信じたい。
「君にはわからないかな」
「絶望なら、経験してますけど?」
「そこまで明確なものじゃあないね」
ひたりと、背後に人の気配がある。司の眼は、ひたすらに正面を見ている。
「阿呆か!」
諒の声が先行し、音もなく、光が開く。同時に司の背後を風が走った。その間に司自身は、咄嗟に目を閉じ、横に、身を投げ出すように転がっている。耳の傍を唸り声が駆け抜けた。
そして即座に身を起こす。手を離した刀は即座に掻き消えており、改めて抜き放つ、つもりができず、いぬに喰いつかれる。司はそれを、幅広の腕輪で受けた。ちゃちな装飾品ではなく防具用に作られているというのに、歪むのがわかった。
「だからッ、動けないのが厭なら力貸せって言ってるだろ!?」
思わずこぼれた叫びは、いぬや源、諒にではなく、御守に向かっていた。
刀が、抜き放たれる。脇差ほどの長さのそれは、見ようによってはよほど、小柄な司に似合っている。
遅い、と、司が言い捨てた。
「捕らえろ水月!」
今にも腕輪ごと司の手首を捩じ切りそうないぬの顔を、どこからか現れた水が覆い、やがてそれは水球になる。それでもいぬは、手首を離さない。
「…凄いけどこれ…まずくない?」
長時間放置すれば窒息死はまず確実で、かといって、解いてしまえばやはり手首は無事にはすまなさそうで。
「阿呆」
いつの間にか回り込んでいた諒が、いぬの後方から手を伸ばして首筋を押さえ、数秒。水球に手を入れると、力任せに口をこじ開けた。ようやく、手首が開放される。
「死なせたくないなら水戻せ」
「あ。う、うん、えっと、えっと…もういいってば!」
初めてで扱いに慣れていないからか、気が張っているからか、なかなか戻せない。司は焦って、声に出して叫んでいた。
ぱしゃん、と、音を立てて球を作っていた水が落ちて地面にしみ込む。
わずかに涙目で、顔を上げると月光を背負った諒がいる。司は、無理矢理視線を逸らした。背面を見ると、意識を失ったように、源が地面に倒れていた。諒がどうにかしたのだろう。
「…ゲンさん」
一度目を閉じ、開く。右手には、持ち慣れたいつもの日本刀――火月が握られている。
司はそっと、源の傍らに膝をつく。刃先は、喉元に当てた。
「ゲンさん、起きてください」
何度か呼びかけると、ふうっと、夢からの目覚めのように源の双眸が開く。焦点がどこに当てられているのかまでは、人並みの司の視力では見えない。いつの間にか、日はとっぷりと暮れている。
「呆気ないものだなあ」
「ゲンさん。最後です。――考え直しませんか?」
「可南子が眼を覚ましたら、頼むよ。――ギンエイ」
「っわ! と、とと…ぎゃー」
諒の声が間延びして、それに重なるように水音が聞こえた。だかそれらを、司がはっきりと聞いていたわけではない。
司の目の前には、闇にもかかわらず、鮮明な赤が見えていた。
いぬが源の喉を噛み切り、源が火月の切っ先をつかんでいぬの喉を掻き切る。ぬるりと、司に赤い色がかかった。
「……ゲン、さん………?」
「悪ぃなぁ、もぅ、つかれたんだ。おわりたかっただけなんだ」
ぱっくりと裂けた喉を痙攣させ、半ば息になった言葉を吐き出す。最期に、少し皮肉気な、いつもの笑みを浮かべた。
「お前は、僕みたいになるなよ」
聞き取りにくい言葉を残し、荒い息だけを続け、やがて、それすらもなくなる。いぬの方も、荒い息が徐々に消えていった。
司は、そんな一人と一匹をただ、見つめていた。
「うまいな、これ」
「でしょ。気球屋って喫茶店。セットメニューが変な名前ばっかりでさ」
喫茶店で買ったサンドウィッチは、みるみる源の胃に消えていく。
司は狭い小屋の中で、そんな源の向かいに座っていた。今日は、深緑と青が主のチェックのプリーツ・スカートに白いシャツと、校章入りのベスト。そんな格好にはいささか不似合いに、幅の広い腕輪もしている。
「それで、今日はどうしたんだい? 番狐もいないみたいだし」
「そんなこと言ってるから、諒に嫌われるんだよ」
「あいつが俺を嫌いなのは、そんな理由じゃないよ。人間、真実や現実を突きつけられると腹が立つものなんだ」
「意味がわかりません」
にこりとさわやかに、司は受け流した。源が、最後のひとかけらを口に放り込みながら、目だけで微笑む。
「鏡に映った己の姿が厭で、目を逸らす奴もいるってことさ。誰しもが君のように強いわけじゃないんだよ、司」
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言って、司は、ふと気付いたように手を伸ばした。
本や雑貨が積み上げられた一角に、ちょこんと、安っぽい文庫サイズのアルバムがあった。ケースから出したところで、源に取り上げられる。
笑顔の中で、先ほどとは逆に、眼だけが醒めていた。
「何を迷っているのかな?」
司は微苦笑して、困ったようにわずかに首をかしげた。ルナなら、こんな仕草も可愛いだろうなと、ぼんやりと思う。
「迷ってはいないんです。どう切り出せばいいのかわからないだけで」
「今日は、わからないばかり言っているね」
「そうですね」
頷いて、上げた視線を源に当てる。
「可南子さんを襲った人たちが殺された事件に、ゲンさんはどう関わってるんですか?」
「ひどいな、いきなり犯人扱いかい?」
「無関係、て関係もありますね」
「ああ、そうか」
司の見ている前で、装われていた苦笑は取り払われ、虚ろな無表情が剥き出しになった。息だけの笑い声がこぼれ落ちる。
「司、僕はもう決めたんだ。あと少し、黙って見ていてくれるだけでいい。いや、見てくれなくていい。目を閉じて、少しだけ眠っていてくれたらいい。大丈夫。誰も、真相になんて気付きやしないよ。いや、気付いたって問題はない。人間の犯人が話題に上るだけだ」
人外の存在が明るみに出なければ、狩人の感知するところではない。だが司は、頷かなかった。
「ゲンさんたちが死を選ばないなら、目をつぶります」
「強者が弱者を理解することはないと言うね」
「強者と弱者の定義がわかりません」
「本当に、わからないばかり言っているね」
「言わせてるのはゲンさんです」
司が祈るような気分でいることを、怒っていることを、源は気付いているだろうか。表情めいたものを浮かべる源の顔を見つめながら、司は、例えば泣いたらすべてが丸く収まると言われたら、どれだけだって泣く用意はあるのになと、馬鹿なことを考えた。
そんな都合のいい展開がないことを、司は知っている。源だってそうに違いない。
残念だ、と、源がつぶやくように言った。
「君なら、わかってくれると思ったのに。それとも、あれかな。人間相手に報復するというのが駄目なのかな。気持ちは同じなのにね」
源の胸中に燃えさかっているだろう漆黒の炎を、司も知っている。何よりも高温の、凍てつく炎。
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ともすると再燃しそうな焼け跡に念入りに目を光らせ、司は立ち上がる。小屋の外に出るのを、源は止めようともしなかった。代わりに、巨きないぬがいた。母を殺された小いぬは、いまや十分に成長している。
わずかな光も強く反射する眼は、赤く充血している。唸り声を上げる口からは間断なくよだれが流れ、何も知らずに見れば、狂犬病を疑うだろう。実際、どうにか自我を保っていられる程度。それだけでも賞賛に値する。それほどに、時として人の血と死は、彼らにとって腐毒となる。
司は、そんな彼らを見つめた。
「選んでくれないなら、あなたたちを殺しても止めさせます」
「妙な話だ。生きるのを拒めば殺すなんてね」
「死ぬつもりの人を止めても、意味がない。やろうと思えばどうやってだって死ねるけど、四六時中見張るわけにもいかないし。それなら、なくなる命が減る方を選びます」
数の問題では、もちろんない。それでも、司は選ぶ。
どうして自分は天才じゃないんだろう。どうしてもっと上手く立ち回れないんだろう。最悪の結果を回避する方法はいくつもあったはずで、自分でない誰かは、それを選び取れたかもしれない。
そんな考えが、いつだって心に根を張っている。
だけど今ここにいて、現実を動かしているのは、どうしようもなく自分で。
「ご立派」
ぽつんと、押し出された声。
飛びかかれば司くらい容易く押し倒しそうないぬは、源との間の空気をどう読み取ったものか迷うように、しかし司を逃すことなく、戸口に立つ源を窺う。
司が火月を取り出すと、一層獰猛な唸り声を上げた。わずかでも気を抜いたり視線を逸らしたりすれば、即座に飛びかかってくるだろう。
「諒はその辺りに潜んでるのかな」
「被害者候補をお願いしてます」
「おや。二対一で?」
当然ながら一人では不利だが、司は、宮凪に貰った札を持って来ていた。使いこなせる自信はまったくといっていいほどにないが、ないよりはましかもしれない。
諒には、源のところに行くとは言っていない。一人で、相対したかった。
「――可南子さん、どうするんですか」
視線はいぬを射たまま、そして胸中で強く叫びながら――焼き尽くすのでなく、捕らえる術を寄越せと――司は、言葉を手繰り寄せる。だがそれも、源を揺らがせることすらできない。
「奇跡が起これば、いつか眼を覚ますかもしれない。その前に栄養の補給を止められなければね。もっとも、眼を覚まさない方が幸せかもしれない。ああ、僕たちがやったことを、彼女が喜ばないことくらいわかっているよ」
何を待っているのかもわからないまま待ち続ける司に、淡々と声は降り注ぐ。
「疲れたんだ。後悔にも倦んで、無残に中途半端な希望に手を伸ばすことにも飽いて。そんなときにね、丁度、聞こえたんだ。彼らの一人が、どうも可南子の病棟で働いていたらしくてね。もしも意識が戻ったらどうするんだ、戻るわけがない、その前に何とかする、それはまずい、なんて、揉めてた。そこでようやく、加害者がまだ生きていたってことを思い出したよ。捕まってすらいなかったってね。彼らは傷一つなく、生きている。罪の意識だって、どれだけあるのか。何だか、馬鹿らしくなったよ」
源の動く気配があって、後ろから刺されるかな、と考える。そう思ったところで、いぬから目を逸らせばそれまでで、回避は難しそうだ。
でもそれは、厭だ。無駄に命を落とすだけなんて真っ平で。
――出し惜しみするんじゃない。いいのか、ここで力を発揮しなかったら、お前はまたしばらく眠りにつくんだ。
御守をはじめて扱ったとき、その歓喜が感じられた。これも、妖たちは知らないことかもしれない。この不可思議な力の塊は、感情を持っている。だからこそ、訴える方法もあるはずだと、信じたい。
「君にはわからないかな」
「絶望なら、経験してますけど?」
「そこまで明確なものじゃあないね」
ひたりと、背後に人の気配がある。司の眼は、ひたすらに正面を見ている。
「阿呆か!」
諒の声が先行し、音もなく、光が開く。同時に司の背後を風が走った。その間に司自身は、咄嗟に目を閉じ、横に、身を投げ出すように転がっている。耳の傍を唸り声が駆け抜けた。
そして即座に身を起こす。手を離した刀は即座に掻き消えており、改めて抜き放つ、つもりができず、いぬに喰いつかれる。司はそれを、幅広の腕輪で受けた。ちゃちな装飾品ではなく防具用に作られているというのに、歪むのがわかった。
「だからッ、動けないのが厭なら力貸せって言ってるだろ!?」
思わずこぼれた叫びは、いぬや源、諒にではなく、御守に向かっていた。
刀が、抜き放たれる。脇差ほどの長さのそれは、見ようによってはよほど、小柄な司に似合っている。
遅い、と、司が言い捨てた。
「捕らえろ水月!」
今にも腕輪ごと司の手首を捩じ切りそうないぬの顔を、どこからか現れた水が覆い、やがてそれは水球になる。それでもいぬは、手首を離さない。
「…凄いけどこれ…まずくない?」
長時間放置すれば窒息死はまず確実で、かといって、解いてしまえばやはり手首は無事にはすまなさそうで。
「阿呆」
いつの間にか回り込んでいた諒が、いぬの後方から手を伸ばして首筋を押さえ、数秒。水球に手を入れると、力任せに口をこじ開けた。ようやく、手首が開放される。
「死なせたくないなら水戻せ」
「あ。う、うん、えっと、えっと…もういいってば!」
初めてで扱いに慣れていないからか、気が張っているからか、なかなか戻せない。司は焦って、声に出して叫んでいた。
ぱしゃん、と、音を立てて球を作っていた水が落ちて地面にしみ込む。
わずかに涙目で、顔を上げると月光を背負った諒がいる。司は、無理矢理視線を逸らした。背面を見ると、意識を失ったように、源が地面に倒れていた。諒がどうにかしたのだろう。
「…ゲンさん」
一度目を閉じ、開く。右手には、持ち慣れたいつもの日本刀――火月が握られている。
司はそっと、源の傍らに膝をつく。刃先は、喉元に当てた。
「ゲンさん、起きてください」
何度か呼びかけると、ふうっと、夢からの目覚めのように源の双眸が開く。焦点がどこに当てられているのかまでは、人並みの司の視力では見えない。いつの間にか、日はとっぷりと暮れている。
「呆気ないものだなあ」
「ゲンさん。最後です。――考え直しませんか?」
「可南子が眼を覚ましたら、頼むよ。――ギンエイ」
「っわ! と、とと…ぎゃー」
諒の声が間延びして、それに重なるように水音が聞こえた。だかそれらを、司がはっきりと聞いていたわけではない。
司の目の前には、闇にもかかわらず、鮮明な赤が見えていた。
いぬが源の喉を噛み切り、源が火月の切っ先をつかんでいぬの喉を掻き切る。ぬるりと、司に赤い色がかかった。
「……ゲン、さん………?」
「悪ぃなぁ、もぅ、つかれたんだ。おわりたかっただけなんだ」
ぱっくりと裂けた喉を痙攣させ、半ば息になった言葉を吐き出す。最期に、少し皮肉気な、いつもの笑みを浮かべた。
「お前は、僕みたいになるなよ」
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