さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第13章 ヴィンドヤースの森

▼13-2 砕ける陶器

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「ハルシャお兄様。先立つ不幸をお許しください」

 ハルシャは焦った。広場の中央に集められているのは、枯葉や枯枝、つまり燃やすための燃料だったのだ。

 他人に見られることなど全く想定していなかったのは明白だ。ラージャシュリーが明らかに慌てて、木に括り付けてあった松明を外そうとしていた。しかし焦りのために、固く縛ってしまった縄を解くのに手こずっていた。とはいえ、ラージャシュリーが松明を手にするのは時間の問題だ。

 口で説得するのでは間に合わない。ここから走って行くにしても、暗い夜の森であるからには全速力では走れない。このままではラージャシュリーがハルシャの眼前で炎に包まれて死んでいくことになる。

 ――そんなことはさせない。

 強い思いを固めると同時に、一瞬の閃きが夜の闇を引き裂いてハルシャに活力を与えた。自分が持ってきた松明は地面に一旦置いて、いつも通り持参してきた弓を構えて矢を番え、力の限り引き絞って放つ。

 暗くて視界は最悪だが、不利な条件に負けるつもりは無かった。日頃から弓矢は繰り返し練習してきた。音だけで相手の居場所を判断して射る練習とか、物を壊さずに射る練習に較べれば、正攻法が通用する容易な射撃だった。

 ただ真っ直ぐ、力強く射れば良い。標的は緑色の壷だ。

 矢は迷い無く真っ直ぐ飛翔した。壷の真ん中、一番膨らみの大きい部分に命中した。その勢いで陶器の壷は上半分が砕けて破片になった。壷に入っていたのは液体だったようだが、上半分が壊れたことにより、かなり飛び散ったようだ。

 中身が液体だったのはハルシャの読み通りだった。

「やはりな。あれは油だ」

 それを確信した時には、既に第二の矢が放たれていた。背の高さが半分になってしまった緑の壷の、中央に命中した。壷の下半分も砕けて、中に残っていた油も、周囲の立木や下草の狭間に滲みて消えた。

 広場の中央の枯枝や枯葉は、恐らくラージャシュリーが一人で時間をかけて地道に集めたのだろうが、人間一人を焼き殺すには心許ない量だ。ラージャシュリーは枯枝の不足を見越して、燃焼を勢いづかせるために油を持ってきたのだ。その油を使えなくなったからには、もう松明で枯枝に火を点けても、そこまでは勢い良く燃え上がることはないだろう。落ちている枯枝といっても乾燥しきっているわけではないのだ。温度が低いままの油は引火しないが、既についている火に油を注ぐと良く燃えるものだ。

 ラージャシュリーは木に縛りつけてあった松明を外すのを諦めて茫然と、割れた壷と土へ還ってしまった油を眺めていた。

「ラージャシュリー。やっと会えた。無事で良かった」

 自分の持ってきた松明を地面から拾い直したハルシャが、広場を突っ切ってラージャシュリーの側に駆けつけた。

 ハルシャは肩で大きく息をしていた。困難な条件のついた射撃ではなかったが、それでも夜の森なので頼りない明かりしか無く、もしも狙いを外したらすぐ側に立っていたラージャシュリーに命中してしまう危険も含んでいたのだ。二連射の成功により、緊張から解放されて、一気にハルシャの双肩に疲れが押し寄せてきていた。

「死ぬ前に再びお兄様とお会いできて嬉しいですわ。ですが、わたくしの焼身を妨害するのは、いただけませんわ。わたくしは夫を亡くした妻です。夫に殉じるつもりだったのですよ」

 兄への親しさと、他者の妻としての冷静さを合わせたような口調だった。

「死なないで。俺が今こうして自殺の直前に間に合ったのも、また運命です。あなたは死ななくていい。いや、死んではいけないんだ」

「わたくしの貞淑さの証の機会を奪い、生き恥をさらせと仰るのですか」

「この風習は大昔から賛否あるじゃないか。死んだからといって貞淑さの証明にはならないだろう。そもそもこの風習がそんなに有効なら、貞淑な女性ばかり早死にして、生きているのは、夫が存命であるか、貞淑ではない女性だけになってしまうことになり、理想から遠ざかるはずだ」

 ラージャシュリーは泣き出した。ここはカナウジ郊外の森なので、宿痾の花粉症は出ないはずだが、それとは無関係に純粋に涙を流し、鼻声で嗚咽を漏らした。

「確かにグラハヴァルマン陛下が亡くなられたのは残念だ。俺だって、芸術に造詣が深く趣味の合うあの人は、義弟として嫌いじゃなかった。じ、自分以外でラージャシュリーの隣に立つことを許せる男は、彼くらいしかいないと言ってもいい。俺も、少しは彼の気持ちが分かる気がするんだ。ラージャシュリーが殉死したとしても、あの人はきっと喜ばないよ。生き残ったラージャシュリーには、周囲の目など気にすること無く、生きたいように生きてほしいと願っているはずだ」

「女性には、自分の生死を選ぶことすら許されないのですか」

「この世に生まれてきた人間は、最後までしっかりと生き抜かなければならない。そこに男も女も無い。最後まで生を全うしなかった者は、徳を積めなかったから、輪廻転生によって、また生まれ、生老病死の四苦八苦を繰り返すことになるんだ」

 ハルシャもまた、妹のラージャシュリーと兄のラージャーと共に机を並べてジャヤセーナ論師の仏教講義を受けていた。因明とか唯識とかいった、高僧同士による論争の御用達のような難解な部分は未だに理解には程遠いが、民衆を教え導く仏陀の根本的な考えについては、ある程度自家薬籠中のものにしているという自負もあった。

「ハルシャお兄様の仰る通り、ここにお兄様がいらっしゃって、わたくしの自決を阻止したのは、わたくしに対して生きろという観音菩薩様のお導きなのかもしれません。でもわたくし、この先、どう生きれば良いのでしょうか。一度は結婚して夫に先立たれてしまったからには、もう二度と結婚もできないでしょうし」

「結婚の時にも言ったはずだけど、ラージャシュリーの本当の運命の相手は、花粉症が無いカナウジの街なのです。あなたは、カナウジの街と結婚したのです。カナウジが無事ならば、あなたの夫も無事ということです]

 ラージャシュリーは不思議そうに首を傾げた。

「わたくしはずっと捕えられていて、途中で一回閉じ込められる塔を移動になった以外は、外部との連絡を取る方法も無く、情勢がどうなっているのか、よく分かりません。しかし、わたくしが捕えられたままでいるということは、いまだにシャシャーンカ王のカルナ・スヴァルナ国がカナウジを占領して支配している、ということですわよね」

「今、ラージャー新王陛下とシャシャーンカ王が、和平会談中だ。その結果によってカナウジも解放されることになる。だから、焦らず待てばいいと思う」

 外部と連絡を取り合う機会も無かったということは、ハルシャが物を壊さない射法で水精珠の耳當を届けた時が、久方ぶりの外部との接触だったということだろうか。思い出したので確認してみると、今のラージャシュリーの両耳には水精珠の自己主張控えめな色合いの耳當が光っていた。

「ラージャー新王陛下と仰いましたか。ということは父上は……」

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