さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第13章 ヴィンドヤースの森

▼13-3 生まれ変わり

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 ハルシャは息を呑んだ。ラージャシュリーには情報が届き難かった。つまり父と母が亡くなったという情報が届いていなかったのかもしれない。

「ご心配には及びませんわ。父上も母上も亡くなられたという話は聞いていました。父は病気で、母は殉死だったそうですね。母が殉死したと聞いていたから、わたくしも夫を亡くした時には森で焼身自殺しようと心に決めたのですし」

 本人の申告通り、父母の死を今知ったばかりという様子ではなかった。既に聞き知っていて、気持ちの整理も済んでいるのだろう。

 暗い話題を続けると、ラージャシュリーの気持ちがまた変わって殉死の方に心が向いてしまうかもしれない。ハルシャは話題を転換することにした。

「そういえば気になったのだけど。もしも和平交渉が決裂になった場合、俺がカナウジの南東隅の塔に潜入してラージャシュリーを救出するつもりだったんだ。それなのに、俺が行く前に自力で脱出するとは思わなかったよ。もしかして誰か協力者がいたの? それとも本当に自力で脱出を果たしたの?」

 涙を手の甲で拭いながら、ラージャシュリーがここまでの経緯を語った。今は水色の手巾を持っていないのだ。

 乾坤一擲でハルシャが物を壊さない射法で矢を発射し、それをラージャシュリーが受け取った。水精珠を見て本物のハルシャが来てくれたのを知った。救出するので、自力でも脱出してほしい、という趣旨も、聡明なラージャシュリーはきちんと受け取っていた。

 だがラージャシュリーとしては、誰かに救出されたいわけではなかった。あくまでも一人で脱出を果たしたかった。誰かに保護されたのでは、森へ行っての自決ができなくなってしまう。

 囚われの身であっても、舌を噛むなどして自決の方法はある。だがそれでは駄目なのだ。それは単なる自殺でしかない。森で身を焼いてこその尊い殉死なのだ。

 虜囚生活もそれなりの期間の長さとなると、警備の行動傾向はある程度把握していた。問題は、純粋に自分一人だと非力な深窓の姫君に過ぎないので騒ぎを起こすのも難しい。当然のこととしてラージャシュリーと親しい者や古くから仕えていたお付きの者たちは遠ざけられている。今、ラージャシュリーの世話をしているのは最近まで顔も見たことの無かった人たちばかりだ。

 考えを巡らせていたその時、どこから侵入してきたのか、一匹の黒猫が塔の四階のラージャシュリーの部屋に現れた。生まれたばかりの子猫ではなく、成獣の黒猫だったが、一目見ただけでラージャシュリーは悟った。

 この黒猫はカンハシリの生まれ変わりだ。前世のお礼として、お世話になったラージャシュリーを助けに来てくれたのだ。

 ラージャシュリーは、自分の愛用の水色の手巾を黒猫に銜えさせた。黒猫が少し離れた場所に移動すると、ラージャシュリーは喉にありったけの気合いを籠めて悲鳴を挙げた。

 何事か。と、世話役の侍女や見張りの兵士たちが駆けつけてくる。目論見通りだ。

「あの黒猫に大切な密書を盗まれてしまいました。あの密書を取り返してくれた人には褒美をはずみます」

「密書?」

 これを聞きつけた者は、密書と偽った水色の手巾を口に銜えた黒猫に向かって殺到した。黒猫は、鎧を着込んだ兵士や、日頃からさほど荒事など経験していない侍女たちよりは遥かに敏捷だった。それでいて追手の者たちが黒猫の姿を完全に見失うことが無いよう、速く逃げ過ぎることもなかった。

 黒猫は捕まりそうでいて捕まらない。逃げて行った先々で、その場に居た人をも巻き込んで一大騒動となった。

 あってはならないことだが、囚人であるラージャシュリーを見張るべき人が一人もいなくなった。元からカナウジに住んで働いていた者と、カルナ・スヴァルナ軍の駐留兵との連携不足だった。

 ラージャシュリーは、与えられていた自室の明かりとして使われていた松明を持ち、塔の螺旋階段をくるくる回りながら駆け下りた。地上階に降りた時には、少しだけ息が上がった。ずっと狭い部屋の中で幽閉生活で森への散歩にも行けず、運動をする機会が皆無だったため、身体がなまっていた。

 人がこちらに向かって来る足音が聞こえたため、近くにある部屋に隠れた。そこは窓の無い埃っぽい小部屋で、ざっと見回すと物置だった。持っている松明の光に照らされて、濃い緑色の壷が置かれているのが目についた。首の部分に縄が巻かれていて札が掛けられていた。油、と書かれていた。近くに馬車か戦車かの車輪が置いてあるので、車軸用の油かと最初は思った。

 だが、文字を読める人が使うような油なので、車軸用ではなく、かなり高級品だろう。

 ラージャシュリーは耳當の揺れる耳をそばだてて、物置の外の様子を探る。もう人は過ぎ去っただろうか。カンハシリの生まれ変わりの黒猫は以心伝心拈華微笑でラージャシュリーの要望を読み取って、上手く騒ぎを起こしながら今も混乱の猖獗となって逃げ回っているらしい。

 物置から出ようとして、妙案が閃いた。この後、森に行ったとしても、自分一人だけで薪として枯枝や枯葉を集めなければならない。拾ったばかりの枝葉がそう都合良く燃えるだろうか。高級な油があれば火力を得ることができる。

 かくしてスタネーシュヴァラの姫君にしてカーニャクブジャの王妃でもあるラージャシュリーは、けばけばしい緑色の壷を胸に抱えて逃走することになった。

 カナウジの南門が見える位置まで来て、一旦重い壷を地面に降ろして休んだ。重い上に、落としたら陶器の壷などひとたまりもなく割れてしまうので、慎重に運ぶ必要があった。ここまで来るだけで疲れていた。

 門には当然見張りの兵士たちがいる。夜中なので人数は最小限だし、士気の高い兵ではないことは想像に難くない。だからといって何の工夫も無しに通り過ぎるのは無理がある。どうしたものか。

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