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目が合った瞬間、満面の笑顔で駆け寄る瞳につられて、瑛の口元も緩んだ。
事務所のリニューアル工事が内装仕上げに入り、現場確認のために、瑛が立ち会いすることとなった。工事は稼働中のオフィスのエリアを区切って、会社休業日ごとに順次行われるので、瑛にとっては休日出勤だ。本来ならうんざりするところだが、瞳がいると思うと少し浮かれたような気持ちになる。
現場確認といっても、素人の瑛が状況を判断できるわけもないので、ただの見学だ。工事の記録兼、社内報に載せるための写真撮影に、広報の女性社員も同席する予定だった。
おはようございます、と他人行儀に挨拶をする瞳に、照れくさいような気持ちになる。普段自分が仕事している場所に瞳がいるのは、不思議な感覚だった。
案内してくれた営業の森脇は、すでに隅の方に行って打ち合わせをしている。
「……それ」
瞳が身につけている、作業着の下のネクタイを指差した。事務所に寄ってから現場に行くと言って、先に家を出た時は、普段と同じラフな格好をしていたはずだ。
「スーツ一式、会社に置いてるんですよ。今日はクライアント様立ち会いなんで着替えてきました!」
「下手くそ」
瑛は、歪んだノットをつついた。
「に、苦手なんですよ。普段ネクタイしないし……」
見つめ合うこと数秒。いつもならキスする流れだが、周りに人がいるこの場では、さすがにそんな雰囲気にはならなかった。
「佐久間さんは、ヘルメットお似合いですね」
「ヘルメットが似合うってなんだよ」
二人で話をしているところに、おはようございます、と広報部の早瀬が現れた。
瞳は挨拶をすると、森脇と入れ替わりで現場に戻った。
打ち合わせでは何回か顔を合わせているが、瞳が仕事をしている現場を見るのは初めてだ。
なんか……まあ……かっこよかった。
真剣な顔で打ち合わせしているところとか、コンクリート剥き出しの地面にしゃがみ込んで、ノートパソコンを操作している姿とか……あの、なんていうか……かっこいいなって思った。
「佐久間さん、今朝O駅から来ました?」
ぼーっと瞳を見つめているところに声をかけられて、我に返る。
ワンテンポ遅れて瑛が頷くと、やっぱり、と広報の早瀬は笑顔になった。
「駅で見かけた気がしたけど、佐久間さん、M沿線じゃなかったっけ? って思って、声掛けそびれちゃって」
「少し前に引っ越ししたんです」
「へえ、一人暮らしだったっけ?」
面倒なので、そうです、と言ってしまおうかとも思ったが、少し離れたところにいる瞳を見て、
「……実は、同棲始めたんです」
と答えた。
「あら~ごめんね、立ち入ったこと聞いちゃって」
「いえ、隠してるわけでもないんで」
ふと後ろ姿の瞳を見ると、こちらを意識している様子で、ぎこちなく作業をしている。
「どうりで今日、佐久間さん見て、雰囲気変わったなって思ったの! 満たされてるっていうか、精神の安定が顔に出てるっていうか」
早瀬はにこにこと笑いながら、納得したように頷く。
瑛はどう答えていいのかわからず、口元を手で覆って俯いた。元々はどんな顔だったんだよ。
「やだ~佐久間さん、そんな顔するんだ」
瞳がチラチラこちらを振り返るので、シッシと手を振って追い払う。
「上手くいってるのねえ」
「まあ……はい」
瞳は首まで真っ赤になって俯いている。
「わたしは同棲せずにいきなり結婚しちゃったけど、生活ルールとか食事の習慣が合わなくて、最初の頃は本っ当に無理! って感じだった! だって味噌汁にチーズ入れるんだよ! あり得なくない?」
瑛は早瀬の話に愛想笑いを浮かべて、瞳との生活を思い返した。自分が同棲に向く性格とは思わないが、それでも一緒に暮らす中で揉めたことはないな、と少し得意げになる。
「佐久間さんたちは、お互い尊重して、譲り合ってるのね」
尊重して譲り合い……はしてないな。
何か問題があると、瞳が全面的に折れる。
まだ同棲前、瞳の部屋を客として訪れていた時は、掃除の仕方とかタオルの使い方にイライラしながらも、瞳のルールに合わせていた。あのイライラを今、瞳が感じているとしたら、二人の仲が円満というより、瞳が譲歩して、ただ揉め事を回避しているだけだ。
……上手くいってないのでは?
瑛の顔から血の気が引いたタイミングで、営業の森脇が記念撮影しませんか? と声をかけてきた。
正直、写真を撮られるのは好きじゃない。
昔から、通学中などに隠し撮りされることが多かったからだ。
でも今は、普段見ることのない作業着姿の瞳の写真が欲しいなと、ちょっと思ってしまった。
撮影前、瞳は曲がったネクタイを直そうとするが、上手くいかない。
「四谷さん」
見かねた瑛が声をかけると、瞳は決まりが悪そうに顎を上げて喉元を差し出した。天井を見上げて、困ったように視線をウロウロさせる瞳のネクタイを結び直す。
「……あ、ありがとうございます」
瞳は、美しい結び目を撫でると、はにかむように呟いた。
ひっそりと目配せを交わして隣に並ぶ。
その後、みんなで撮影した集合写真には、耳まで赤くなりながら瑛を見る瞳が写っていた。
工事は続いていたが、瑛と広報の早瀬は昼前に現場を後にした。瞳はまだ残って施工管理と話をしている。
昼食にでも誘われたら面倒だなと思っていたが、早瀬はオフィスビルを出るとあっさりと手を振って帰った。ちょうど昼時だったが、休日のオフィス街は閑散として開いている店もほとんどない。
瑛も瞳も自炊はしないので、食事は基本的に外食だ。時間が合えば待ち合わせて一緒に食べるが、仕事が終わる時間はバラバラなので、一人で夕飯を食べる日も多い。
瑛は、ぽつんと営業している蕎麦屋に入った。
どうせなら瞳と一緒にお昼を食べて帰ればよかったと思ったものの、そんな雰囲気でもなかったので、どうしようもない。
──生活ルールとか食事の習慣が合わなくて
早瀬が言った言葉を、不意に思い出す。
一緒に食事をするときでも、瞳は瑛の食べたいものを優先する。
そういえば、以前二人でそばを食べた時、瞳は『そばってあんまり食わないんですよね』と独り言のようにぽつりと漏らした。その時は、関西の人って本当にそば食べないんだな、としか思わなかったが、あれはもしかして、そばが嫌いということだったんだろうか……
歴代の交際相手全員、瑛に合わせてくれるのがデフォだったので、なんの疑問もなかった。
瞳はあの時、本当は何が食べたかったんだろう。
今ここに、瞳がいればいいのに。そうすればすぐに訊けるのに。
そばは、普通に美味かった。
ふと目を覚ますと、部屋はすでに薄暗かった。
ソファから体を起こすと、いつの間にか掛けられていた毛布がずり落ちる。瑛が起きた気配を感じたのか、ソファの前のローテーブルで図面を見ていた瞳が振り向いた。
「……照明、点ければいいのに」
「起こしたら悪いと思って」
昨日までなら、そう言われても単に、気を遣い過ぎ、という感情で終わっていたが、今は後ろめたい気持ちになってしまう。
「あの、俺が佐久間さんのそばにいたかっただけなんで!」
瑛が困ったような表情になったのを見て、瞳は慌てて言い訳をした。
「あのさ……」
瑛が戸惑いながら口を開くのを、瞳はじっと見つめている。
「……一緒に暮らしてて、不満とかないの?」
突然重い話をするのはどうかと思ったが、訊かずにはいられなかった。
「え……急にどうしたんですか……?」
案の定、瞳は戸惑った様子で瑛の顔を覗き込む。
「いや、何かあるとだいたいお前の方が俺に合わすし、不満とかないのかなって……」
「そんなの、あるわけないじゃないですか」
瞳は呆れた声を上げた。
「今日も、家に帰ったら佐久間さんがいるんだなって、わくわくしながら帰ってきたんですよ。毎朝、もしかしてこの生活は夢なんじゃないかって思いながら目が覚めて、隣に佐久間さんがいるの見て、こんな幸せでいいのかなって……。佐久間さんがいてくれるだけで幸せ過ぎるのに、不満なんてないですよ」
優しく微笑む瞳に、瑛は顔を伏せながら、ふうん……と呟いた。
根本的な解決にはなっていない気がするが、重苦しい気持ちはみるみる晴れていった。
「佐久間さんこそ、不満とかないんですか」
瑛はチラッと目を上げて、瞳を見た。
「……掃除機のかけ方が雑」
「あっ、えっと、気をつけます……」
「部屋着がヨレヨレ。いい加減捨てれば?」
「こ、これくらいの方が着心地がいいんですよ……」
伸び切った襟ぐりに指をかけて、引き寄せる。
目が合うこと数秒、瞳がおずおずと顔を傾けて瑛にキスをした。
ゆっくりと舌を絡ませながら瞳に抱きしめられると、もやもやした雑念が消え失せて、お互いの境界が曖昧になっていく。
ソファで重なり合って、より深く舌が入ってくると、二人の息が上がった。
「や、やっぱりこれ、捨てちゃおうかな……」
瞳が起き上がって、部屋着を脱いだ。下も脱ごうとしてウエストゴムに手をかけたが、あっ、と声を上げて止まる。
「何?」
「あ、いえあの、シャワー浴びて来よっかなって……」
「いいよ、そんなの」
「えっ! いや、でもあの……」
もごもご言うのを無視して、瞳のスエットパンツをずり下ろした。
「……え?」
違和感に、まじまじと見つめる。
「これ、俺のだ」
スエットパンツから覗く下着を見て、瑛が呟く。
瞳は手で顔を覆って項垂れた。
「……違うんです。あの、本当に間違っただけで」
瞳が穿いているのは、何の変哲もない黒のボクサーパンツだ。自分の物と間違うこともあるだろう。
「でもお前、さっき風呂に行ってごまかそうとしただろ」
「いや、あの、最初は本当に間違ったんですよ! 穿いた瞬間、なんか違うなって思ったんですけど、さ、佐久間さんの穿いたパンツだと思ったらその……」
瞳は指の隙間から、おそるおそる瑛を見る。
「どきどきしちゃって……すみません……」
瑛はぐったりとソファに仰向けになって、大きな体を縮こめる瞳を見た。動揺しすぎて、怒ってるのか呆れてるのか、自分でもよくわからない。
はーっと溜息を吐くと、瞳の体がビクッと揺れた。
「一応訊くけど、今日が初犯?」
瞳は、はゎ……という小さい声を漏らして、言葉に詰まった。
「……実家でもたまに弟が間違えたりしてたし、わからなくはないけど」
「で、ですよね! 紛らわしいし、間違えちゃいますよね!」
「お前は故意だろ」
「わざとじゃないんです! 脱衣所に間違えて持ってきちゃって、しょうがないから穿くしかないかってなるじゃないですか!」
「ならねえよ」
瞳は、うぅ……と呻くと、じ、じゃあ……と口を開いた。
「……佐久間さんが、もうちょっとその……特徴的なパンツ穿くとかしてみるのはどうですか?」
「特徴的って何?」
嫌な予感がして尋ねると、瞳はもじもじしながら、
「エ、エッチな感じのやつとか……」
と消え入るような声で呟いた。
「お前、全然反省してねえだろ」
「してます! すみませんでした! 反省した上での改善策です!」
「じゃあ、お前がエロいの穿けばいいだろ」
「俺がそういうの穿いて、佐久間さん嬉しいですか?」
「どうでもいい」
「佐久間さんが穿いたら俺は嬉しいんで! じゃあどっちが穿くかってなったら、佐久間さんの方がいいじゃないですか!」
瞳は、ちょっと待ってください、と言うと、スマホを差し出した。
「こ、こういうのとか……」
「紐じゃん」
よく考えたら、全然譲歩してなかった。こいつ、結構好きなこと言ってるな。
「……だめですか?」
上目遣いの瞳を、冷めた目で見返す。
しおらしくお願いしたら、瑛が折れると思っているのだろうか。なんだか、舐められている気がしなくもない。
俺は穿かないけど、お前が穿く分には好きにすれば、と言いかけて、瞳が会社で着替えているという、今朝の話を思い出した。
やっぱり、瞳が穿くのもだめだ。
「逆に、なんでいけると思えるんだよ」
そう突っぱねると、瞳はしゅんとした表情で唇を尖らせた。どう考えても瑛の主張の方が正しいと思うが、そんな顔を見せられると、わがままを言っているような気持ちになる。え、俺が悪いのか……? 譲り合いってこういうこと……?
「……とりあえず、それ脱げば?」
パンツを見ながらそう言うと、瞳は少し戸惑った後、のろのろと下着を脱いだ。さすがに陰茎は元気なく項垂れている。
「あの、本当にすみません……佐久間さん、こういうの絶対嫌ですよね……」
瑛はソファに放り出された自分のパンツを見る。
「パンツの共用とか絶対ありえないからな」
瑛はそう言って、部屋着のズボンごと下着を脱いだ。いきなり晒された下半身を、瞳がギョッとして見つめる。
瞳に見られながら、瞳が脱ぎ捨てたパンツを手に取って穿いた。
「……濡れてる」
「す、すみません!」
シミのついたフロント部分を手でなぞる。
「今度お前が穿いてるの見たら、即捨てるけど……今はちょっと興奮する」
瑛が目を伏せてそう言うと、瞳はしばらくぽかんと固まった後、瑛の上に覆い被さった。
視線を上げると、瞳が唇を重ねる。
瞳の指がパンツの上から股間を撫で、ゆっくりと会陰を辿って、布越しにアナルに押し当てられた。
「……捨てるなら俺にください」
「お前、本当に反省してないな」
ぐったりと横たわった瑛の背中を、瞳の大きな手が撫でる。
さっさとシャワーを浴びたいと思いながら、ダラダラと絡み合ってしまう。瞳は何も言わずに瑛に付き合ってくれていた。
「……今度、ロボット掃除機買おうか」
瑛がぽつりと言うと、瞳は慌てて首を振った。
「ええっ! いや、いいですよ! ちゃんと掃除しますから!」
「そうじゃなくて……掃除する時間がもったいないだろ」
大した時間じゃないかもしれないけど、その分を二人の時間にまわしたい。何かあれば話し合って、円満な生活を送る努力をしたい。
瞳は何もわかってなさそうな顔で、はあ、と相槌を打った後、
「それより、まずパンツ買いませんか?」
と言った。
事務所のリニューアル工事が内装仕上げに入り、現場確認のために、瑛が立ち会いすることとなった。工事は稼働中のオフィスのエリアを区切って、会社休業日ごとに順次行われるので、瑛にとっては休日出勤だ。本来ならうんざりするところだが、瞳がいると思うと少し浮かれたような気持ちになる。
現場確認といっても、素人の瑛が状況を判断できるわけもないので、ただの見学だ。工事の記録兼、社内報に載せるための写真撮影に、広報の女性社員も同席する予定だった。
おはようございます、と他人行儀に挨拶をする瞳に、照れくさいような気持ちになる。普段自分が仕事している場所に瞳がいるのは、不思議な感覚だった。
案内してくれた営業の森脇は、すでに隅の方に行って打ち合わせをしている。
「……それ」
瞳が身につけている、作業着の下のネクタイを指差した。事務所に寄ってから現場に行くと言って、先に家を出た時は、普段と同じラフな格好をしていたはずだ。
「スーツ一式、会社に置いてるんですよ。今日はクライアント様立ち会いなんで着替えてきました!」
「下手くそ」
瑛は、歪んだノットをつついた。
「に、苦手なんですよ。普段ネクタイしないし……」
見つめ合うこと数秒。いつもならキスする流れだが、周りに人がいるこの場では、さすがにそんな雰囲気にはならなかった。
「佐久間さんは、ヘルメットお似合いですね」
「ヘルメットが似合うってなんだよ」
二人で話をしているところに、おはようございます、と広報部の早瀬が現れた。
瞳は挨拶をすると、森脇と入れ替わりで現場に戻った。
打ち合わせでは何回か顔を合わせているが、瞳が仕事をしている現場を見るのは初めてだ。
なんか……まあ……かっこよかった。
真剣な顔で打ち合わせしているところとか、コンクリート剥き出しの地面にしゃがみ込んで、ノートパソコンを操作している姿とか……あの、なんていうか……かっこいいなって思った。
「佐久間さん、今朝O駅から来ました?」
ぼーっと瞳を見つめているところに声をかけられて、我に返る。
ワンテンポ遅れて瑛が頷くと、やっぱり、と広報の早瀬は笑顔になった。
「駅で見かけた気がしたけど、佐久間さん、M沿線じゃなかったっけ? って思って、声掛けそびれちゃって」
「少し前に引っ越ししたんです」
「へえ、一人暮らしだったっけ?」
面倒なので、そうです、と言ってしまおうかとも思ったが、少し離れたところにいる瞳を見て、
「……実は、同棲始めたんです」
と答えた。
「あら~ごめんね、立ち入ったこと聞いちゃって」
「いえ、隠してるわけでもないんで」
ふと後ろ姿の瞳を見ると、こちらを意識している様子で、ぎこちなく作業をしている。
「どうりで今日、佐久間さん見て、雰囲気変わったなって思ったの! 満たされてるっていうか、精神の安定が顔に出てるっていうか」
早瀬はにこにこと笑いながら、納得したように頷く。
瑛はどう答えていいのかわからず、口元を手で覆って俯いた。元々はどんな顔だったんだよ。
「やだ~佐久間さん、そんな顔するんだ」
瞳がチラチラこちらを振り返るので、シッシと手を振って追い払う。
「上手くいってるのねえ」
「まあ……はい」
瞳は首まで真っ赤になって俯いている。
「わたしは同棲せずにいきなり結婚しちゃったけど、生活ルールとか食事の習慣が合わなくて、最初の頃は本っ当に無理! って感じだった! だって味噌汁にチーズ入れるんだよ! あり得なくない?」
瑛は早瀬の話に愛想笑いを浮かべて、瞳との生活を思い返した。自分が同棲に向く性格とは思わないが、それでも一緒に暮らす中で揉めたことはないな、と少し得意げになる。
「佐久間さんたちは、お互い尊重して、譲り合ってるのね」
尊重して譲り合い……はしてないな。
何か問題があると、瞳が全面的に折れる。
まだ同棲前、瞳の部屋を客として訪れていた時は、掃除の仕方とかタオルの使い方にイライラしながらも、瞳のルールに合わせていた。あのイライラを今、瞳が感じているとしたら、二人の仲が円満というより、瞳が譲歩して、ただ揉め事を回避しているだけだ。
……上手くいってないのでは?
瑛の顔から血の気が引いたタイミングで、営業の森脇が記念撮影しませんか? と声をかけてきた。
正直、写真を撮られるのは好きじゃない。
昔から、通学中などに隠し撮りされることが多かったからだ。
でも今は、普段見ることのない作業着姿の瞳の写真が欲しいなと、ちょっと思ってしまった。
撮影前、瞳は曲がったネクタイを直そうとするが、上手くいかない。
「四谷さん」
見かねた瑛が声をかけると、瞳は決まりが悪そうに顎を上げて喉元を差し出した。天井を見上げて、困ったように視線をウロウロさせる瞳のネクタイを結び直す。
「……あ、ありがとうございます」
瞳は、美しい結び目を撫でると、はにかむように呟いた。
ひっそりと目配せを交わして隣に並ぶ。
その後、みんなで撮影した集合写真には、耳まで赤くなりながら瑛を見る瞳が写っていた。
工事は続いていたが、瑛と広報の早瀬は昼前に現場を後にした。瞳はまだ残って施工管理と話をしている。
昼食にでも誘われたら面倒だなと思っていたが、早瀬はオフィスビルを出るとあっさりと手を振って帰った。ちょうど昼時だったが、休日のオフィス街は閑散として開いている店もほとんどない。
瑛も瞳も自炊はしないので、食事は基本的に外食だ。時間が合えば待ち合わせて一緒に食べるが、仕事が終わる時間はバラバラなので、一人で夕飯を食べる日も多い。
瑛は、ぽつんと営業している蕎麦屋に入った。
どうせなら瞳と一緒にお昼を食べて帰ればよかったと思ったものの、そんな雰囲気でもなかったので、どうしようもない。
──生活ルールとか食事の習慣が合わなくて
早瀬が言った言葉を、不意に思い出す。
一緒に食事をするときでも、瞳は瑛の食べたいものを優先する。
そういえば、以前二人でそばを食べた時、瞳は『そばってあんまり食わないんですよね』と独り言のようにぽつりと漏らした。その時は、関西の人って本当にそば食べないんだな、としか思わなかったが、あれはもしかして、そばが嫌いということだったんだろうか……
歴代の交際相手全員、瑛に合わせてくれるのがデフォだったので、なんの疑問もなかった。
瞳はあの時、本当は何が食べたかったんだろう。
今ここに、瞳がいればいいのに。そうすればすぐに訊けるのに。
そばは、普通に美味かった。
ふと目を覚ますと、部屋はすでに薄暗かった。
ソファから体を起こすと、いつの間にか掛けられていた毛布がずり落ちる。瑛が起きた気配を感じたのか、ソファの前のローテーブルで図面を見ていた瞳が振り向いた。
「……照明、点ければいいのに」
「起こしたら悪いと思って」
昨日までなら、そう言われても単に、気を遣い過ぎ、という感情で終わっていたが、今は後ろめたい気持ちになってしまう。
「あの、俺が佐久間さんのそばにいたかっただけなんで!」
瑛が困ったような表情になったのを見て、瞳は慌てて言い訳をした。
「あのさ……」
瑛が戸惑いながら口を開くのを、瞳はじっと見つめている。
「……一緒に暮らしてて、不満とかないの?」
突然重い話をするのはどうかと思ったが、訊かずにはいられなかった。
「え……急にどうしたんですか……?」
案の定、瞳は戸惑った様子で瑛の顔を覗き込む。
「いや、何かあるとだいたいお前の方が俺に合わすし、不満とかないのかなって……」
「そんなの、あるわけないじゃないですか」
瞳は呆れた声を上げた。
「今日も、家に帰ったら佐久間さんがいるんだなって、わくわくしながら帰ってきたんですよ。毎朝、もしかしてこの生活は夢なんじゃないかって思いながら目が覚めて、隣に佐久間さんがいるの見て、こんな幸せでいいのかなって……。佐久間さんがいてくれるだけで幸せ過ぎるのに、不満なんてないですよ」
優しく微笑む瞳に、瑛は顔を伏せながら、ふうん……と呟いた。
根本的な解決にはなっていない気がするが、重苦しい気持ちはみるみる晴れていった。
「佐久間さんこそ、不満とかないんですか」
瑛はチラッと目を上げて、瞳を見た。
「……掃除機のかけ方が雑」
「あっ、えっと、気をつけます……」
「部屋着がヨレヨレ。いい加減捨てれば?」
「こ、これくらいの方が着心地がいいんですよ……」
伸び切った襟ぐりに指をかけて、引き寄せる。
目が合うこと数秒、瞳がおずおずと顔を傾けて瑛にキスをした。
ゆっくりと舌を絡ませながら瞳に抱きしめられると、もやもやした雑念が消え失せて、お互いの境界が曖昧になっていく。
ソファで重なり合って、より深く舌が入ってくると、二人の息が上がった。
「や、やっぱりこれ、捨てちゃおうかな……」
瞳が起き上がって、部屋着を脱いだ。下も脱ごうとしてウエストゴムに手をかけたが、あっ、と声を上げて止まる。
「何?」
「あ、いえあの、シャワー浴びて来よっかなって……」
「いいよ、そんなの」
「えっ! いや、でもあの……」
もごもご言うのを無視して、瞳のスエットパンツをずり下ろした。
「……え?」
違和感に、まじまじと見つめる。
「これ、俺のだ」
スエットパンツから覗く下着を見て、瑛が呟く。
瞳は手で顔を覆って項垂れた。
「……違うんです。あの、本当に間違っただけで」
瞳が穿いているのは、何の変哲もない黒のボクサーパンツだ。自分の物と間違うこともあるだろう。
「でもお前、さっき風呂に行ってごまかそうとしただろ」
「いや、あの、最初は本当に間違ったんですよ! 穿いた瞬間、なんか違うなって思ったんですけど、さ、佐久間さんの穿いたパンツだと思ったらその……」
瞳は指の隙間から、おそるおそる瑛を見る。
「どきどきしちゃって……すみません……」
瑛はぐったりとソファに仰向けになって、大きな体を縮こめる瞳を見た。動揺しすぎて、怒ってるのか呆れてるのか、自分でもよくわからない。
はーっと溜息を吐くと、瞳の体がビクッと揺れた。
「一応訊くけど、今日が初犯?」
瞳は、はゎ……という小さい声を漏らして、言葉に詰まった。
「……実家でもたまに弟が間違えたりしてたし、わからなくはないけど」
「で、ですよね! 紛らわしいし、間違えちゃいますよね!」
「お前は故意だろ」
「わざとじゃないんです! 脱衣所に間違えて持ってきちゃって、しょうがないから穿くしかないかってなるじゃないですか!」
「ならねえよ」
瞳は、うぅ……と呻くと、じ、じゃあ……と口を開いた。
「……佐久間さんが、もうちょっとその……特徴的なパンツ穿くとかしてみるのはどうですか?」
「特徴的って何?」
嫌な予感がして尋ねると、瞳はもじもじしながら、
「エ、エッチな感じのやつとか……」
と消え入るような声で呟いた。
「お前、全然反省してねえだろ」
「してます! すみませんでした! 反省した上での改善策です!」
「じゃあ、お前がエロいの穿けばいいだろ」
「俺がそういうの穿いて、佐久間さん嬉しいですか?」
「どうでもいい」
「佐久間さんが穿いたら俺は嬉しいんで! じゃあどっちが穿くかってなったら、佐久間さんの方がいいじゃないですか!」
瞳は、ちょっと待ってください、と言うと、スマホを差し出した。
「こ、こういうのとか……」
「紐じゃん」
よく考えたら、全然譲歩してなかった。こいつ、結構好きなこと言ってるな。
「……だめですか?」
上目遣いの瞳を、冷めた目で見返す。
しおらしくお願いしたら、瑛が折れると思っているのだろうか。なんだか、舐められている気がしなくもない。
俺は穿かないけど、お前が穿く分には好きにすれば、と言いかけて、瞳が会社で着替えているという、今朝の話を思い出した。
やっぱり、瞳が穿くのもだめだ。
「逆に、なんでいけると思えるんだよ」
そう突っぱねると、瞳はしゅんとした表情で唇を尖らせた。どう考えても瑛の主張の方が正しいと思うが、そんな顔を見せられると、わがままを言っているような気持ちになる。え、俺が悪いのか……? 譲り合いってこういうこと……?
「……とりあえず、それ脱げば?」
パンツを見ながらそう言うと、瞳は少し戸惑った後、のろのろと下着を脱いだ。さすがに陰茎は元気なく項垂れている。
「あの、本当にすみません……佐久間さん、こういうの絶対嫌ですよね……」
瑛はソファに放り出された自分のパンツを見る。
「パンツの共用とか絶対ありえないからな」
瑛はそう言って、部屋着のズボンごと下着を脱いだ。いきなり晒された下半身を、瞳がギョッとして見つめる。
瞳に見られながら、瞳が脱ぎ捨てたパンツを手に取って穿いた。
「……濡れてる」
「す、すみません!」
シミのついたフロント部分を手でなぞる。
「今度お前が穿いてるの見たら、即捨てるけど……今はちょっと興奮する」
瑛が目を伏せてそう言うと、瞳はしばらくぽかんと固まった後、瑛の上に覆い被さった。
視線を上げると、瞳が唇を重ねる。
瞳の指がパンツの上から股間を撫で、ゆっくりと会陰を辿って、布越しにアナルに押し当てられた。
「……捨てるなら俺にください」
「お前、本当に反省してないな」
ぐったりと横たわった瑛の背中を、瞳の大きな手が撫でる。
さっさとシャワーを浴びたいと思いながら、ダラダラと絡み合ってしまう。瞳は何も言わずに瑛に付き合ってくれていた。
「……今度、ロボット掃除機買おうか」
瑛がぽつりと言うと、瞳は慌てて首を振った。
「ええっ! いや、いいですよ! ちゃんと掃除しますから!」
「そうじゃなくて……掃除する時間がもったいないだろ」
大した時間じゃないかもしれないけど、その分を二人の時間にまわしたい。何かあれば話し合って、円満な生活を送る努力をしたい。
瞳は何もわかってなさそうな顔で、はあ、と相槌を打った後、
「それより、まずパンツ買いませんか?」
と言った。
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王子の家庭教師を務めるアリア・マキュベリー男爵の思い出語り。天使のようにかわいい幼い王子が成長するにつれて立派な男になっていく。その育成に10年間を尽くして貢献した家庭教師が、最終的に主に押し倒されちゃう話。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
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