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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために
親愛なる瀬田雄一郎のために 8
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なんとか弾き終わったころには、全身に冷汗をかいていた。客席に頭を下げて舞台袖に向かって歩く。
控え室に入ると、拓斗は左手を押さえて椅子に座り込んだ。痛みを耐えるようにぎゅっと目を閉じながらうつむくと、紅茶色の長めの前髪が表情を隠した。そのままゆっくりと荒い呼吸を整えた。
ダメージが蓄積しているようだ。「炎症が強くなってるよ」「そろそろ手を休ませないとマズいよ」そんな声が頭のどこかで聞こえてくるような気がする。
「ごめんね。とりあえず二次は終わったから、三次に行けるとしてもまた数日休めるよ」
落ち着いてから着替えをすませ、医師に教わったように左手にテーピングをする。あまり上手くいかないが、この際仕方がない。その上からアイシングサポーターをつけた。サポーター内に冷たいアイスマットを差し込めるものだ。
あとは結果発表があるまで客席で演奏を聞いて過ごそう。
そう思いながら拓斗がのんびりと控え室から出ると、ロビーで声をかけられた。
「あれ、帰ってなかったの?」
低い声に顔を上げると、待ち構えるように雄一郎が立っていた。少なくても「お疲れ」と拓斗を労う様子ではない。
「少し話そうと思ってな」
「アイシングならしてるよっ」
拓斗は左手をあげてサポーターをアピールする。
「してなかったら、とっくに殴ってる」
乱暴だなあと拓斗は苦笑した。
「演奏を聴きながらでもいい? ぼく、ほかの出場者の演奏をあまり聞けていなくて」
雄一郎の了承を得て会場内に入る。出入りが激しいせいか、報道陣への配慮なのか、演奏中も会場は明るい。空いている席もあるが、二人は後ろの壁際に立った。三階分吹き抜けになっているホールは広々として、白が基調となっている舞台がライトで浮き上がって見える。
「腱鞘炎、結構痛むんじゃないか」
周囲の鑑賞を邪魔しないよう、二人は顔を寄せて小声で話す。
「そりゃ少しは痛いけどね。まさか、また演奏に出てた?」
「いや、おまえの顔に出てた」
拓斗は気まずげに眉を上げた。
「そんなところ見ないでよ」
「演奏者を見ないでどこを見るんだよ」
そうだけどさ、と拓斗は赤らめた頬に右手を添えた。
「ほんの一瞬だったよ。腱鞘炎のことを知らなければ気にもならなかっただろう」
そう言われて拓斗はほっとした。
「おかしな番狂わせがない限り、拓斗は三次に進むはずだ。まだ続けるのか」
「続けるよ」
拓斗は即答した。
「三次にはね、みんなに聴いてもらいたい曲があるんだ」
「どの曲だ?」
「当日のお楽しみ。……といっても、プログラムに書いてあるか。みんな三次にも来てくれるかな」
「来るだろ。予定は空けているようだ」
雄一郎はため息をついた。
「俺が頼んだことだ、強制的にコンクールを辞退させることはできないが……。いいか、もう練習はするなよ。イメージトレーニングだけにしておけ。寝る時以外にも左手はガチガチに固めて一ミリも動かすな。いっそのこと三次当日まで寝たまま動くな」
「なんか、お医者さんより言うことが厳しい……」
「当たり前だろ。俺のせいでおまえの手が使い物にならなくなったら、また俺は後悔で前に進めなくなる。本末転倒だ」
舞台を見ながら話していた拓斗は雄一郎に目を向けた。
時々雄一郎は、よくわからないことを言う。おそらく説明を求めても、いつものようにはぐらかされるのだろう。
控え室に入ると、拓斗は左手を押さえて椅子に座り込んだ。痛みを耐えるようにぎゅっと目を閉じながらうつむくと、紅茶色の長めの前髪が表情を隠した。そのままゆっくりと荒い呼吸を整えた。
ダメージが蓄積しているようだ。「炎症が強くなってるよ」「そろそろ手を休ませないとマズいよ」そんな声が頭のどこかで聞こえてくるような気がする。
「ごめんね。とりあえず二次は終わったから、三次に行けるとしてもまた数日休めるよ」
落ち着いてから着替えをすませ、医師に教わったように左手にテーピングをする。あまり上手くいかないが、この際仕方がない。その上からアイシングサポーターをつけた。サポーター内に冷たいアイスマットを差し込めるものだ。
あとは結果発表があるまで客席で演奏を聞いて過ごそう。
そう思いながら拓斗がのんびりと控え室から出ると、ロビーで声をかけられた。
「あれ、帰ってなかったの?」
低い声に顔を上げると、待ち構えるように雄一郎が立っていた。少なくても「お疲れ」と拓斗を労う様子ではない。
「少し話そうと思ってな」
「アイシングならしてるよっ」
拓斗は左手をあげてサポーターをアピールする。
「してなかったら、とっくに殴ってる」
乱暴だなあと拓斗は苦笑した。
「演奏を聴きながらでもいい? ぼく、ほかの出場者の演奏をあまり聞けていなくて」
雄一郎の了承を得て会場内に入る。出入りが激しいせいか、報道陣への配慮なのか、演奏中も会場は明るい。空いている席もあるが、二人は後ろの壁際に立った。三階分吹き抜けになっているホールは広々として、白が基調となっている舞台がライトで浮き上がって見える。
「腱鞘炎、結構痛むんじゃないか」
周囲の鑑賞を邪魔しないよう、二人は顔を寄せて小声で話す。
「そりゃ少しは痛いけどね。まさか、また演奏に出てた?」
「いや、おまえの顔に出てた」
拓斗は気まずげに眉を上げた。
「そんなところ見ないでよ」
「演奏者を見ないでどこを見るんだよ」
そうだけどさ、と拓斗は赤らめた頬に右手を添えた。
「ほんの一瞬だったよ。腱鞘炎のことを知らなければ気にもならなかっただろう」
そう言われて拓斗はほっとした。
「おかしな番狂わせがない限り、拓斗は三次に進むはずだ。まだ続けるのか」
「続けるよ」
拓斗は即答した。
「三次にはね、みんなに聴いてもらいたい曲があるんだ」
「どの曲だ?」
「当日のお楽しみ。……といっても、プログラムに書いてあるか。みんな三次にも来てくれるかな」
「来るだろ。予定は空けているようだ」
雄一郎はため息をついた。
「俺が頼んだことだ、強制的にコンクールを辞退させることはできないが……。いいか、もう練習はするなよ。イメージトレーニングだけにしておけ。寝る時以外にも左手はガチガチに固めて一ミリも動かすな。いっそのこと三次当日まで寝たまま動くな」
「なんか、お医者さんより言うことが厳しい……」
「当たり前だろ。俺のせいでおまえの手が使い物にならなくなったら、また俺は後悔で前に進めなくなる。本末転倒だ」
舞台を見ながら話していた拓斗は雄一郎に目を向けた。
時々雄一郎は、よくわからないことを言う。おそらく説明を求めても、いつものようにはぐらかされるのだろう。
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