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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 9

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「俺のせいでおまえの手が使い物にならなくなったら、また俺は後悔で前に進めなくなる。本末転倒だ」
 舞台を見ながら話していた拓斗は雄一郎に目を向けた。
 時々雄一郎は、よくわからないことを言う。おそらく説明を求めても、いつものようにはぐらかされるのだろう。
 入賞すれば雄一郎はきっとすべてを話してくれる。
 三次の次が本選だ。本選に進むということは、入賞が確実になるということだ。
 あと少し。
 しかし、その少しが近そうで遠い。
 最後の出場者の演奏を聞き終えてから二人はロビーに出た。既に結果待ちの出場者たちが集まってざわついていた。
 しばらくすると審査委員たちがやってきて、二次予選通過者の名を読みあげていった。そのたびに本人や関係者の歓声が上がる。
 呼ばれるのはたったの十数人。
 狭き門だ。雄一郎に通ると言われても安心できるわけがない。
 サポーターの上から右手を重ねて拓斗は祈った。
「白河拓斗」
 周囲から祝福の拍手が起こった。
 名前を呼ばれた拓斗は力が抜けそうになって、壁に背をつけた。
「おまえは通るって言っただろ」
 雄一郎はなぜそんなに脱力しているんだと言わんばかりだ。
「番狂わせがなければって条件付きだったじゃないか」
 はいはいと拓斗の言葉を聞き流して雄一郎は周囲を見回している。自分に入賞を頼んだ本人が、なぜそんな飄々としているのだと拓斗は理不尽に感じた。
「さすがに二次通過ともなると名前を知ってるヤツらばかりだな。次からが本当の勝負だぞ」
「そうだね」
 拓斗は表情を改めた。
 入賞まで、あとひとつ。

 控室の鏡の前で、拓斗は黒い蝶ネクタイの位置を確認した。
「よし」
 今日の衣装は、昨年、ピアノコンクールの高校生部門で金賞を取った時に着ていたタキシードだ。要は拓斗は縁起をかついだのだ。
「先生、お願いします」
 拓斗は担当医に手を差し出した。
 三次予選の演奏時間は約六十分。痛み止めの注射は演奏する直前に打つことになった。
 しかもこれだけの時間、指先に神経を集中させてピアノの演奏をしていれば、全身汗だくになるほどハードだ。雄一郎には音の違いに気づかれてしまったが、少しでも手の負担を軽くするためにテーピングをすることになった。三次ともなると僅かな技巧の差が勝敗を分ける可能性もあるので拓斗はテープを使いたくなかったのだが、途中で弾けなくなるほうが問題だ。
 拓斗は高い位置に設置してあるモニターを見上げた。控え室のモニターで舞台の演奏状況がわかる。そろそろ舞台袖に向かったほうがよさそうだ。拓斗は立ち上がった。
「行ってきます、先生」
「ここで待っているよ。終わったらすぐにアフターケアをしよう」
 白衣を赤くしたらサンタクロースのようだな、と拓斗が常々思っている容姿をしている医師が朗らかに手を振った。音楽家ばかりを診ている整形外科医で、拓斗は幼いころから世話になっている。今日は拓斗の「無理」に付き合ってくれたのだ。感謝してもしきれない。
 ピアノは一人で弾くものではなかったのだ。今も、今までも。
 拓斗はピアノに向かって歩いていく。ライトと拍手に包まれる。先ほどの奏者よりも拍手が大きいと感じるのは自惚れだろうか。
 客席に一礼して顔を上げた。先日とほぼ同じ場所に『夢見ハイツ』のメンバー揃っている。拓斗は自然に笑みを浮かべた。
 椅子に座り、左手を胸に当てた。手に痛みはない。
 目を閉じて、この場の空気を感じる。
 六十分、頑張ろうね。聴いているみんなに最高の演奏を届けよう。
 拓斗は自分自身とピアノに声をかけた。
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