32 / 44
三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋
三章 9
しおりを挟む
「糸織さんは消えていませんよ」
「どこにいるんだ」
優之介は壁から身を離し、身体ごと毬瑠子に向けた。
「そこから、優之介さんの場所から見える場所です」
ジョロウグモは硬直したように動きをとめた。そして身を隠そうというのか、急いで動き出す。
「だめです糸織さん、動かないでください。今のあなたを見つけられたら、別れなくてもいいじゃないですか。一方的に言いっぱなしはずるいです。優之介さんにもチャンスをあげてください」
ジョロウグモは動かなくなった。
「なんの話をしているんだ。どこに糸織がいるというんだ」
「優之介さん、糸織さんを見つけて下さい」
毬瑠子は祈るように胸の前で手を組んだ。
これでよかったのだろうか。
理由を言わずに姿を消そうとしたのは糸織の優しさだ。それを毬瑠子は破ってしまった。
常識で考えれば、優之介は糸織を見つけられないだろう。もしテーブルにジョロウグモがいることに気づいたとしても、まさか糸織がクモになっているとは思わないに違いない。
それならば仕方がない。初めの糸織の思惑どおりになるだけだ。
しかし、小さなジョロウグモを糸織だと見抜けることができたなら、きっと――。
毬瑠子はそれを願わずにはいられない。
しばらく天井からフロアの隅々までくまなく視線を走らせた優之介は、小さく息をついた。
「僕は目が悪いから、あまり探し物は得意ではないんだ。いや、落としたコンタクトじゃないんだから、いくら視力が悪くても人を見逃すはずがないか。糸織は透明人間にでもなったのか」
メガネを外して目頭を押さえた優之介はカウンターに近づいた。
「マスター、水をくれないか。喉が渇いた」
「畏まりました」
メガネをかけ直すと、優之介はテーブルに視線を落とした。そして、なにかに気づいたように首を傾ける。
「……こんなところにジョロウグモがいる」
優之介はテーブルに顔を近づけた。
糸織さんに気づいた。
毬瑠子は息をのみ、緊張しながら優之介たちを見守った。
「この綺麗な模様は、あの公園で見たクモと同じだ。同じ個体かな。いや、まさか」
優之介は「おいで」とジョロウグモに手を近づけた。戸惑った様子のクモは、遠慮がちに優之介の長い指先にのった。
優之介はマルセルから受け取った水を飲みながら、目の前に指先を近づけてジョロウグモを観察する。
「……間違いない、やっぱり同じだ。きみは特徴的だからね」
メガネの奥の瞳を細めた。
「ジョロウグモの一生はクモのなかでも短命だ。春に孵化して、ほぼ越冬せずに死んでいく。都市の温暖化によって多少寿命が延びたとはいえ、一年以上生きることはない。きみと会ったのは昨年の春だったね」
つまり、昨年の春に見かけたジョロウグモが、今生きているはずがない。
優之介は黙ったまま、カウンターの椅子に座った。指先のジョロウグモを凝視している。
「偶然、そっくりなジョロウグモを見つけたと考えるほうが自然だけど……」
優之介は目の前で指をプラプラとさせる。ジョロウグモはされるがまま上下に揺れた。
そして優之介はピタリと動きをとめる。
「きみは糸織なのか?」
ジョロウグモは動かない。
「糸織が僕の店にやってきたのは、昨年の春だった。ちょうどきみと会った数日後だと記憶している」
「兄さん、クモに話しかけるなんて、気は確かか?」
ひとつあけた隣りの席に座る蘇芳は優之介をからかった。
「さっき、しっかりと握っていたはずの糸織の手が消えて、一瞬で姿が見えなくなった。非常識にもほどがある。だから常識で考えていたら答えにたどり着きそうもない。それに振り返った時、クモの糸が光った気がしたんだ」
優之介は真剣な表情を崩さない。
「糸織はジョロウグモの化身だったのか。なにかの事情で、もう人の姿になれなくなるから、この世から消えると僕に言ったのか?」
糸織は身じろぎもせず、答えない。
「怒らないから、声を出せるなら答えてくれないかな。僕はそんなに気の長い方じゃない」
ジョロウグモはもじもじと足を動かした後、小さく、
「ごめんなさい」
とつぶやいた。糸織の声だ。
「どこにいるんだ」
優之介は壁から身を離し、身体ごと毬瑠子に向けた。
「そこから、優之介さんの場所から見える場所です」
ジョロウグモは硬直したように動きをとめた。そして身を隠そうというのか、急いで動き出す。
「だめです糸織さん、動かないでください。今のあなたを見つけられたら、別れなくてもいいじゃないですか。一方的に言いっぱなしはずるいです。優之介さんにもチャンスをあげてください」
ジョロウグモは動かなくなった。
「なんの話をしているんだ。どこに糸織がいるというんだ」
「優之介さん、糸織さんを見つけて下さい」
毬瑠子は祈るように胸の前で手を組んだ。
これでよかったのだろうか。
理由を言わずに姿を消そうとしたのは糸織の優しさだ。それを毬瑠子は破ってしまった。
常識で考えれば、優之介は糸織を見つけられないだろう。もしテーブルにジョロウグモがいることに気づいたとしても、まさか糸織がクモになっているとは思わないに違いない。
それならば仕方がない。初めの糸織の思惑どおりになるだけだ。
しかし、小さなジョロウグモを糸織だと見抜けることができたなら、きっと――。
毬瑠子はそれを願わずにはいられない。
しばらく天井からフロアの隅々までくまなく視線を走らせた優之介は、小さく息をついた。
「僕は目が悪いから、あまり探し物は得意ではないんだ。いや、落としたコンタクトじゃないんだから、いくら視力が悪くても人を見逃すはずがないか。糸織は透明人間にでもなったのか」
メガネを外して目頭を押さえた優之介はカウンターに近づいた。
「マスター、水をくれないか。喉が渇いた」
「畏まりました」
メガネをかけ直すと、優之介はテーブルに視線を落とした。そして、なにかに気づいたように首を傾ける。
「……こんなところにジョロウグモがいる」
優之介はテーブルに顔を近づけた。
糸織さんに気づいた。
毬瑠子は息をのみ、緊張しながら優之介たちを見守った。
「この綺麗な模様は、あの公園で見たクモと同じだ。同じ個体かな。いや、まさか」
優之介は「おいで」とジョロウグモに手を近づけた。戸惑った様子のクモは、遠慮がちに優之介の長い指先にのった。
優之介はマルセルから受け取った水を飲みながら、目の前に指先を近づけてジョロウグモを観察する。
「……間違いない、やっぱり同じだ。きみは特徴的だからね」
メガネの奥の瞳を細めた。
「ジョロウグモの一生はクモのなかでも短命だ。春に孵化して、ほぼ越冬せずに死んでいく。都市の温暖化によって多少寿命が延びたとはいえ、一年以上生きることはない。きみと会ったのは昨年の春だったね」
つまり、昨年の春に見かけたジョロウグモが、今生きているはずがない。
優之介は黙ったまま、カウンターの椅子に座った。指先のジョロウグモを凝視している。
「偶然、そっくりなジョロウグモを見つけたと考えるほうが自然だけど……」
優之介は目の前で指をプラプラとさせる。ジョロウグモはされるがまま上下に揺れた。
そして優之介はピタリと動きをとめる。
「きみは糸織なのか?」
ジョロウグモは動かない。
「糸織が僕の店にやってきたのは、昨年の春だった。ちょうどきみと会った数日後だと記憶している」
「兄さん、クモに話しかけるなんて、気は確かか?」
ひとつあけた隣りの席に座る蘇芳は優之介をからかった。
「さっき、しっかりと握っていたはずの糸織の手が消えて、一瞬で姿が見えなくなった。非常識にもほどがある。だから常識で考えていたら答えにたどり着きそうもない。それに振り返った時、クモの糸が光った気がしたんだ」
優之介は真剣な表情を崩さない。
「糸織はジョロウグモの化身だったのか。なにかの事情で、もう人の姿になれなくなるから、この世から消えると僕に言ったのか?」
糸織は身じろぎもせず、答えない。
「怒らないから、声を出せるなら答えてくれないかな。僕はそんなに気の長い方じゃない」
ジョロウグモはもじもじと足を動かした後、小さく、
「ごめんなさい」
とつぶやいた。糸織の声だ。
1
あなたにおすすめの小説
後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる
gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる