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4章 Side:雪哉
2話
しおりを挟む午後8時30分。
もう誰もいないだろうと思っていたマーケティング部のあるフロアに寄ってみると、アクリル製のドアの向こうが明るい事に気が付いた。もしかしてまだ誰かいるのかもしれないと思ってドアをぐっと押し開ける。
中に入って視線を動かすと、デスクにかじりついて作業をしていた人物がゆっくりとこちらに振り返った。
「愛梨」
視線が合ったので名前を呼ぶと、愛梨も驚いたらしく『え、ユキ!?』と小さな声を洩らした。
「ど、どうしたの…? こんな遅くに」
「欲しい資料があるんだけど。愛梨、わかる?」
近付きながら問いかける。どうやら愛梨は1人で残業をしていたようで、フロア内には他に誰も居ない。シャツの袖を捲って前髪をヘアピンで留めるのが作業に集中するスタイルらしく、額が出ている愛梨も新鮮で可愛い。
「総務に聞いたら、仕様書は開発部かマーケティング部に聞いた方が早いって言われて。これなんだけど」
資料タイトルと管理ナンバーが記載されているメモを見せる。
本来は愛梨ではなくプロジェクトチームに確認するのが筋だが、用意されたリストと資料の数が合わない事に気付いたのはつい先程だ。慌ててプロジェクトチームに連絡するも、メンバーの社員は既に退社後だった。仕方がなく総務の担当者に聞くと、今度は別部署への問い合わせを案内された。
SUI-LENが取り扱っている商品は、主に洗濯用や食器用などの洗剤類だ。自然由来のオーガニック成分を積極的に取り入れ、人にも環境にも優しい製品作りを目指している。近年は日本古来の植物の香りをブレンドしたアロマ商品を次々に発売しており、この『日本古来』を強調した新商品を海外に向けて売り出すのが、新プロジェクトという訳だ。
そしてその商品に関わる資料を他国語に翻訳するのも雪哉の仕事の1つ。雪哉が商品を開発した人間だったら資料がなくても書き出せると思うが、流石に社外の人間は細かい内容まで知り得ない。翻訳のためには、どうしても商品仕様書が必要になる。
「うーん。あるにはあるんだけど、資料室だね」
小さく唸り声を洩らす横顔に魅入っていると、愛梨が困ったように首を傾げた。そのうなじを見つめていると、愛梨が『あ』と何かに気付いたような声を上げる。
「えと、資料室は19時にセキュリティロックがかかっちゃうの。今日はもう閉まってるから、取りに行けないんだ」
「そう。じゃあ、今日は諦めようか」
「うう…ごめんね」
「愛梨が謝ることないよ。俺がもっと早く来ればよかったんだ」
申し訳なさそうに目を閉じて唸った愛梨に、ひらひらと手を振る。仕方がないので明日また改めて出直そうと思っていると、愛梨は渡したメモをクリップで留めて、ディスプレイの横に貼り付け出した。
「明日、朝一で届けるよ。通訳室に持って行けばいい?」
どうやら一度請け負った依頼だと判断したようだ。責任を持って資料を届けると申し出てくれた愛梨に『いいの?』と訊ねると、こくんと頷いてくれる。それは願ってもない僥倖だ。
「仕様書の翻訳もするの?」
愛梨が首を傾げて訊ねてくる。一緒に出掛けてプライベートの時間を共有したことで、少し昔のような打ち解けた様子を見せてくれるようになった気がする。
「そう。口頭で通訳もするけど、資料は事前に翻訳が必要だから」
「へえぇ…。ユキ、すごいね」
それにちゃんと『ユキ』と呼んでくれる。また名字で呼ばれたりしたら苛立ちを隠せない気がしたが、逆に昔と同じ呼び名で呼ばれるだけで随分気持ちが違う。愛梨が自分を受け入れてくれるように感じられる。
「愛梨は残業?」
「うん。明日の会議で使う資料を、最終チェックしてるの」
「まだ結構かかる?」
「あと少しで帰るよ。お腹空いたし」
「そっか。あんまり無理しないようにな」
そう告げると『うん』と言って笑顔を向けられた。優しい笑顔から名残惜しい気持ちで離れると、踵を返してフロアを出る。
エレベーターを使って急いで通訳室へ戻ると、パソコンの電源を落とし、さっさと部屋を出る。そして与えられた鍵を使って戸締りを確認し、急いでマーケティング部に戻った。
だって愛梨。
今なら絶対油断してるから。
「って、ユキ……?」
「愛梨が終わるまで待ってようと思って」
「えー!?」
ほら、やっぱりな。
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