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5章 Side:愛梨
5話
しおりを挟む「愛梨ー?」
弘翔が顔を覗き込んできたのではっと我に返る。視線を上げて弘翔を見ると、不思議そうに首を傾げられていた。
「どうした? 元気ないじゃん。映画つまらなかった?」
レンタルショップから借りてきた映画が終わってもしばらく放心状態だったので、心配させてしまったらしい。別の世界にトリップしていた愛梨は、上の空だった事を誤魔化すために映画の内容を必死に思い出して、頬を膨らませた。
「つまらなかったんじゃなくて! 弘翔、怖くないって言ったのにゾンビ出てきたよね!?」
「一瞬だったじゃん。作りものだってば」
「本物だったら嫌だよ!?」
「あはは。愛梨、ビビりすぎだから」
機嫌を取るように髪を撫でられたので、ついむくれる真似を続けてしまう。プウと頬に空気を溜めてツンとそっぽを向くと、弘翔が更に謝ってきた。そうやってどうにか誤魔化せたことにひっそり安堵する自分が、ずるくて卑怯だと言う事には気付いている。
弘翔。ごめん。
(私、今日……、浮気しちゃった……)
仕事だったとは言え、密室で男性と2人になってしまい、キスをされてしまった。
(最低だ)
これが浮気という行為になるのかどうか、正確にはわからない。けれど恋人がいるのに他の男性とキスをしたのだから、良い事ではないのはわかる。
逆の立場だったら。もし弘翔が他の女性社員と資料室で2人きりになって、キスしてしまったら。不意打ちで、無理矢理で、予測出来なくて、回避出来なかったら。
弘翔は男性なので女性に無理矢理という表現は当てはまらない気がする。けれど、その状況でキスされてしまったとわかったら、愛梨は弘翔を責めないと思う。そして弘翔もきっと、今日の愛梨を責めないと思う。
けれど愛梨には汚点がある。雪哉と出掛ける前に弘翔と交わした『2人きりにならない』という約束を破ってしまった。その結果、こういう状況になっているのだから、やっぱり愛梨が悪い。
(約束、破ってばかりだ)
弘翔には誠実でいたいと思っていた。けれど誠実に話せば優しい弘翔を傷付けてしまう気がして、嫌われてしまう気がして、決意はあっさり崩れてしまう。
雪哉との約束を破った罰は、溶けそうな程に熱くて激しいキスだった。それなら弘翔との約束を破った罰は――『別れ』だったらどうしよう。考えるだけでクラクラと眩暈がしてしまう。
「弘翔、今日一緒に寝てもいい?」
「え!? 折角、布団敷いたのに!?」
弘翔が焦ったような声を上げる。
付き合い始めて約2か月。お互いの家を行き来したり、泊まることはある。けれど弘翔の部屋には予備用の布団があり、愛梨が泊まるときはいつもその布団を敷いて別々に寝るので、未だ一緒の布団で寝た事はない。だから弘翔が驚くのも、十分に分かる。
「だって、……ゾンビ怖いから」
一応それっぽい言い訳を付け加える。本当は映画のシーンなんてほとんど覚えていないので、ゾンビに対する恐怖心はない。けれど弘翔と物理的に距離を置くとそれだけで全てを失ってしまいそうなことの方が、今は怖かった。
「いい、けど」
そんな感情を知る由もない弘翔は、少し挙動不審に頬を掻きながらも愛梨の要望を了承してくれた。
部屋の明かりを落とすと、一緒に弘翔の布団に入る。そっと触れ合って目を閉じたら、夢の中には雪哉もゾンビも出てこないような気がした。
「愛梨……」
弘翔の腕に身体を抱き寄せられ、ぎゅうと抱きしめられる。洗濯をしたばかりのTシャツからは、去年発売された自社の柔軟剤の香りがしたが、その奥に弘翔自身の香りを感じる。
頬をすり寄せ、すう、と息を吸い込む。雪哉とは違う、安心できる香り。
(……比べて、どうするの)
折角忘れていたのに、再び雪哉の顔が思い浮かんでしまって焦る。ふるふると首を振ると、腕の中で動いたことに気付いたのか、半身を起こした弘翔にじっと目を見つめられてしまった。
誰かと同じ布団に寝ることなど滅多にないので、どうにも勝手がわからない。あんまり寝相良くないんだけど、これは大人しくしていないとだめかなぁ……と思っていると、近付いた弘翔の唇がそっと額に寄せられた。
「んっ」
そのくすぐったさに、思わず小さな声が漏れる。離れた弘翔に更に見つめられて少し照れたが、唇を重ねられることは嫌ではなかった。
「っふ……、ひろ…」
優しいキスがもう少しだけ欲しくて、でもそんなことを自分から強請ることは出来なくて、声にならない感情が吐息になって零れる。もう1度、ちゅ、と可愛い口付けを交わしても、何故かまだ満たされない。
「っと、これ以上はダメだな」
察した弘翔が離れようとしたので、不安を拭えないまま宵を越すことに嫌な焦りを覚えてしまう。大事な恋人を何に利用しようとしているのか、と自分の分身が呆れた声をあげる。けれど離れそうになった弘翔のシャツを掴む指先と
「だ……ダメじゃないよ」
なんて声が滑り出てしまうのは、自分自身では止められなかった。
「え。どうしたの、愛梨」
流石に驚いた様子の弘翔が、顔を上げる。
驚いても仕方がない。27歳の良い大人同士でありながらここまで何もない清らかな関係だったのに、その均衡を崩そうとしているのが、他でもない愛梨なのだから。
「あんなに嫌がってたじゃん」
「い、嫌がってたわけじゃなくて。その、怖かった、だけで……」
驚いた弘翔に確認され、つい口籠る。それは嘘ではない。大学時代の友人にも、玲子にも『最初は絶対痛い』と散々脅されてからかわれているのだから、恐怖心がないわけではない。
けれどその恐怖心を押し退けてでも、雪哉とのキスを上書きしようとしている。そんな自分が、ずるくて卑怯だと言う事には、気付いている。
「いいのか? 本当に?」
「……うん」
確認されたので、そっと頷く。弘翔はいつものように優しい声で、あとで後悔するんじゃない? と問いかけてくるけれど。後悔なんかしない。愛梨が好きなのは、弘翔だから。
(ユキじゃ、なくて)
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