「おまえになら、殺されてやってもいい。」~ナマイキ陰陽師と鬼の王~

火威

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序幕&第一幕

「おまえになら、殺されてやってもいい。」~ナマイキ陰陽師と鬼の王~

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序幕
 穏やかな春の日だった。
 満開の桜には、眩しく、しかし柔らかい陽射しが降り注いでいる。
 水色の空には、舞い上がる薄紅の花弁がよく映えた。
 枝から離れ、ひらり、と風に乗った花びらが、彼の肩に乗る。まるで、花びらが意志を持ち、彼を選んだかのようだと、老人は目を細めた。
「よう。」
と、彼は、気安く老人の褥の近くまで上がりこんでくる。
「ちょっと見ねー間に、すっかり爺さんになっちまったな。」
 老人をしげしげと見て、遠慮のない口調で言ってくる。
「やかましい。わしはれっきとした人間じゃ。おまえさんとは、時の流れが違うわ。」
と、老人に返され、彼は
「いや、おまえも十分人間離れしてたけどな…。」
と、遠い日々を思い出して苦笑する。
 だが、老人の言葉は残酷なまでに正しい。いかに人間離れした力を持ち、人外の彼と対等に渡り合った稀代の陰陽師と言えども、老人は彼とは違う。時の流れには逆らえない。
「鬼の王よ。」
と、老人は呼びかけた。今では真っ白になった自分の髪が、艶やかな漆黒で、その肌にはしわ一つなかった数十年前と、何一つ変わらぬ姿を保つ、「敵」へと。
「おぬしと約定を結びたい。人と鬼の双方の血を無駄に流さぬために。」
 老人は信じている。鬼の王の正義と高潔さを。「敵」であっても、恨みはない。彼は、一族を守るために生きてきた、気高き王。
 百鬼を従え、舞うように華麗に戦った鬼の王の姿は、老人の脳裏に焼き付いている。
 鬼の王の双眸に、一瞬、鋭い光が走る。
 老人の最後の願い。
 約定の内容を聞き、鬼の王は首肯する。
 そして立ち上がった。
「おまえとやり合うのは楽しかったぜ。もう二度と、おまえほどの陰陽師は現れねーだろうな…。」
 その声が、鬼らしくもなく寂しそうで、老人は思わず苦笑する。
「気長に待つことじゃ。おぬしから見れば、人など非力で取るに足らん存在だろうが…意外としぶとくてたくましいもんじゃよ。」
 悪童めいた笑み。鬼の王の脳裏には、老人が少年だった頃の姿がくっきりと浮かび上がる。
「そう願いたいもんだ。」
 その言葉を残し、鬼の王は去って行った。
 桜が、その後を追うようにはらはらと散っていく。
 老人は、その姿をいつまでも見送った。

 数十年に渡って、聖安京を妖から守り抜いた、稀代の陰陽師、安倍静明(あべのせいめい)がこの世を去ったのは、その数日後のことだった。
 そして、それから、桜が散り、再び咲いて散るのを百度繰り返し…物語の幕が開く。

第一幕
 真円を描く月が、朧な光を投げかける春の夜。満開の夜桜は、闇の中、うっすらと白くほのかに光を放っているようだ。
 ピチャン、と静寂をほんのわずかに乱したのは、広大な池に放たれた鯉。中央にはいくつかの島があり、朱塗りの橋で結ばれている。
 北、東、西の対。そしてそれらを繋ぐ渡殿や釣殿を備えた、広大な寝殿造の屋敷。その主は、酒を満たした杯を傾けていた。
 穏やかに更け行くはずの春の宵の空気は、突然乱された。
 ドンッと、大気が大きく振動した。
 まるで、不可視の力を遠慮なく叩き付けたような、衝撃。
 飛びはねた酒が、杯を持っていた長い指を濡らす。
 しかし、屋敷の主は、まるで慌てる気配もなく、むしろ、期待していたかのように、その目がきらりと光を放つ。それは、いささか剣呑な光でもあった。
 カタン、杯を置いて、すらりとした長身が立ち上がる。
 その際に揺れた髪が、灯台の炎を反射し、光り輝く。結いもせずに腰まで下ろした髪は、それは見事な純銀だった。月光を紡いで織り上げたかのような。
 そして、髪よりもなお眩く輝くのは、両の瞳。
 真紅、だ。
 最高級の血紅珊瑚ですら色褪せるだろう。爛々と輝く、生きた宝玉。その双眸には、意志の強さと呼んでは生温い、不敵で不遜な光があった。
 二十代半ばほどに見えるが、その眼差しは、長い年月を生きてきた者だけが持つ、冷然とした老獪さを内に秘めている。同時に、笑いながら虫の羽根を千切る幼い子どものような、無邪気な残酷さも。
 整った容姿の美丈夫ではあるのだが、その双眸が、彼に抜き身の刃のような雰囲気を与え、見る者の背筋に冷たいものを注ぐ。
 それも、当然、彼の両のこめかみからは、角が伸びており、灯台の炎が映し出す影にも、くっきりとその形が刻まれている。さらに。
「我が君。」
 と、傍らに控えていた若者が、そう呼びかけた。
 真紅の目の鬼よりも、さらに若く見える。二十歳ほどだろうか。彼が「我が君」と呼んだ相手に比べれば地味だが、それでも十分に整った顔立ちをしている。髪は漆黒で、その双眸は、一見黒だが、よく見れば、紫を何度も塗り重ねたような紫紺とわかる。
 彼のこめかみにも、また角がある。
 つまり、「我が君」と呼びかけられた鬼は、鬼の中でも…。
「我が君、行かれるおつもりですか。」
 礼儀正しいが、いささかの非難を帯びた口調で、紫紺の瞳の若い鬼は呼びかける。
「鬼の王ともあろうお方が、わざわざ、何度も相手をするほどの…。」
「まあ、そう言うな。何度やられても懲りねえんだぜ。根性あるじゃねーか。」
と、鬼の王は愉しげに笑う。笑うと、犬歯と呼ぶには長く、鋭すぎる牙がむきだしになった。
 簀子に出て、庭に置きっ放しにしてある沓を履き、そのまま、池に向かって数歩歩む。
 水面を踏んで、さらに一歩。
 そこでその長身は、音もなく消え失せる。
 後には、確かに彼が、その一歩を踏み入れたはずなのに、さざ波一つ立たず、鏡のように凪いでいる水面と。
 呆れたように嘆息する、紫紺の瞳の鬼の姿。

 そこは、此岸と彼岸の狭間。人の世と鬼の世の境に張り巡らされた、結界の地。
 時の止まった亜空間で、明るくも暗くもない。常に黄昏の薄闇が支配する、逢魔の地だ。昼と夜との境のごとく。
 永久氷壁のようにそびえ立つ、強固な壁。しかし、一部に、大きな亀裂が入っている。水晶のように透き通った透明な壁だが、並みの術者では傷一つつけられない結界なのだが。先ほどの大気の揺れは、この亀裂が入った衝撃だろう。
 そこで、怒鳴り散らしているのは、鬼の王の予想通りの…もうすっかり馴染みになってしまった人の子だった。
「出てきやがれ、紅月あかつき!出てこねーなら、この辺り全部ぶっ壊すぞ!!」
 鬼の王、紅月は、気配を消したまま、人の子の背後で笑いをかみ殺していた。
(いつもながら、とても、貴族の子弟とは思えねー口調でわめきやがる。)
 身なりはけして悪くない。まとっている童狩衣は、布地も仕立ても上等だ。年の頃は、十二、三といったところだろう。成長しきっていない背丈は、紅月の胸辺りまでしかない。四肢も、それなりに鍛えてはいるようだが、紅月からすれば華奢に見える。
 顔立ちも、こんな乱暴な口調で叫びながら、目をつり上げているのでなければ、少女に見間違えるほどに愛らしい。
 黒目勝ちの大きな瞳と、水蜜桃を思わせる柔らかな頬。後頭部の高い位置でくくった漆黒の髪は、濡れたように艶やかな、烏の濡れ羽色だ。
 珊瑚色の唇の端を、少年はにいっとつり上げた。ザッと、風を切って体を反転させた。
 紅月が、ハッと身構える。
「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン!」
 少年が、大日如来の真言をとともに、人差し指と中指をピンと立てた刀印を、横に薙ぐ。
 ビュンッと、大気を切り裂いて、光の刃が突き刺さる。
 たった今まで紅月が立っていた虚空へ。
 狩衣の裾をふわりと揺らして、紅月は降り立った。再び少年の背後へと。当然、少年はもう一度、紅月に向き直る。
 射殺すような目でにらんでくる。内に炎が燃え立つような、爛々と光る獣の目だ。
「今のは、ちょっとばかし驚いたぜ。気配読むの上手くなったじゃねーか、らん。」
 紅月が笑いかけるが、少年は喜ぶ気配は全くない。逆にかみついてくる。
「オレの名前は宵乱しょうらんだ!勝手に短くすんな!」
「なんだよ。かわいくねーガキだな。褒めてやったんだから、素直に喜んだらどうだ?」
「おまえを殺せれば、心の底から喜んでやるぜ。」
 宵乱が、ゾッとするほど冷たい声で吐き捨てる。少女のような顔立ちで言うからこそ、その声の残酷さと容赦のなさは、聞く者の寒気を誘う。
「オン・バサラ・サトバ・アク!」
 宵乱が、金剛薩埵こんごうさったの真言を唱える。
 バリバリバリッと、大気を震わせる轟音とともに、電撃が走る。
 四方八方から迫る無数のいかづちを、紅月は、舞うように優雅にかわしていく。銀髪は、揺れるたびに、雷の光を弾いて輝いた。
「確かに威力はすげーな。だが。」
と、紅月が、器用に片目だけ眇めて見せる。
「当たんなきゃ、意味がねーよな?」
 大きく後ろに跳躍した紅月は、トンと、体重を感じさせない軽い着地をする。そこは、雷の届く範囲からは、大きく外れている。そして次の瞬間。
 再び地を蹴った紅月は、一気に間合いを詰めた。疾風のごとき身のこなし。
(雷より速いっ!)
「ノウマク。」
 再び真言を唱えようとした宵乱の口を、紅月の大きな掌が塞いでいた。
「っ。」
 たいして力を込めているようには見えないが、宵乱が両手で引きはがそうとしても、びくともしない。体格差以上のものがある。
(これが鬼の力かよ…。)
勝負ありだな、と言いかけて、紅月は
「つ…。」
と、小さく呻き、宵乱から手を離した。さっと距離を取る。
 紅月の長い指には、くっきりと歯型が残っている。骨まで食い込むほどに。
「オレの指を食い千切るつもりかよ。油断のならねーガキだぜ。」
 それでも、紅月の口調にはまだまだ余裕がある。指にぷっくりと浮き出た血の珠を、赤い舌で舐めとって、くく、と喉の奥で笑った。
 宵乱がぎりっと奥歯をかみしめた。
「…だったら、おまえも本気を出せよ。」
「いいぜ。」
 体の芯を、ぞくりと震わす美声。
 冴えわたる、凄艶な美貌。
 その瞬間、鬼の王を取り巻く気配が、変わった。空気の圧が。
 紅月が、す、と右手を掲げる。
「煉獄花炎。」
 無数の、花びらの形をした炎が宵乱に降り注ぐ。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
 宵乱は刀印を結び、空中に五芒星を描きながら唱える。
 宵乱の指先からは閃光が走り、虚空に光の五芒星を織り上げ、それは降り注ぐ炎を弾いた。
 しかし。
「背中がお留守だぜ?」
 いつの間にか背後に回っていた紅月が、つ、と指先で宵乱のうなじに触れた。
 殺気に反応し、びくん、と、宵乱の細い体がはねる。
「今夜はここまででいいだろ?」
 紅月は、宵乱から手を離した。幼い子をあやすような口調が癇に障り、宵乱は、血のにじむほどに強く、唇をかみしめる。
「じゃあな、乱。」
 まるで、明日会う友人に告げるような気安い一声を投げて。
 鬼の王の気配は、ふっつりと消え去った。
 ガン、と宵乱は、拳を結界に打ちつける。
「…畜生。」
 血走った眼で、紅月の消えた虚空をにらみつけ。
「絶対におまえを殺してやる。」
 地獄の底から響いてくるような、怨念じみた声で宣言した。

 屋敷にもどった宵乱は、
「また、鬼の王のところに行ったのか。」
という、冷ややかな声に出迎えられた。
 声の主は、二十代半ばほどの青年だ。切れ長の目元が涼しいと、宮中の女房たちに騒がれる貴公子だが、今、その眼差しは、涼しいを通り越して、極寒の烈風のように凍てついていた。
 場所は、宵乱の寝所だ。いつから待っていたのか知らないが、脇に数冊の本が積んであるところを見ると、かなり長い間ここで過ごしていたのかもしれない。
「…うるせーな。どこで何をしようとオレの勝手だろ。」
「おまえは、自分のしていることが分かっているのか。」
 けして声を荒げはしなかったが、青年の声にははっきりとした叱責が含まれていた。
「おまえのしていることは、約定に反する行為だ。」
「百年も前に、勝手に決められた約定なんて知るか!」
「…そうか。」
 と、青年は全てを諦めたかのように呟いた。
 宵乱は、目をすがめる。青年の声音から、彼の覚悟を聞き取っても、反省どころか、その場を取り繕う気も無いようだった。傲然と顔を上げたまま。
 青年は立ち上がった。これ以上話をしても無駄だと悟ったように。
 几帳のむこうにその姿は消え、声だけが宵乱に届いた。
「おまえが、自分の愚かなふるまいを改める気がないのなら、私はいかなる手段を用いても、それを止めねばならない。おまえの兄としてではなく、この聖安京を守護する、陰陽師を統べる者として。」
 感情を排した声で、青年は告げた。
「そして、鬼の王と約定を交わした稀代の陰陽師、安倍静明の血を受け継ぐ者として。」
 青年の名は、安倍夕蓮あべのゆうれん。宵乱の、年の離れた兄であり、陰陽寮を統括する若き陰陽頭であり、早くに両親を亡くした弟、宵乱を育てた親代わりだった。

 自分の寝所にもどった夕蓮は、円座に腰を下ろしたところで。
「弟君に手を焼いているみたいですね、当代様。」
と、声をかけられた。
 特に驚くでもなく、声のした方向を…そこは何もない虚空であったのだが、見上げる夕蓮。
 刹那、ポンッという、緊張感を欠く、愛嬌のある音とともに、何もない空間から少年が現れる。
 それに対しても、夕蓮の落ち着いた表情にはいささかの動揺もない。
「見ておられたのなら、加勢してくださればよいものを。」
「ボクが何か言ったら逆効果ですよ。」
 少年はくすくすと、邪気のない笑い声を響かせる。
 そうしていると、ただの童のようだが、空中から突然出現するような非常識な存在が、ただの子どもでは有り得ない。
 その証拠に、彼の双眸は、早春の空を切り取ったかのような淡い水色だ。どこか宵乱に似た、愛らしい顔立ちなので、瞳の色さえ黒ければ、兄弟でも通ってしまいそうだ。今年十三になる宵乱よりも、いくつか下に見える。
「で、貴方の判断は?」
と、夕蓮は、少年に目を据えた。
「約定の番人であり、静明の式神である、天一てんいつ殿の考えをお聞かせ願おう。」
 少年、天一は、
「そうですね…。」
と、薄青の瞳を細めて思案している。その表情は、幼い顔立ちにそぐわない、年を経た思慮深い知恵者のそれだ。それも当然、安倍静明が若いころに生み出した式神である彼は、既に二百年近い月日を生きている。
「しばらくは様子見を続けましょう。鬼の王は、弟君をどうこうしようという気はないようですし。弟君の方は、本気で鬼の王を倒したがっていますが、実力が違いすぎます。一族の王が殺されでもしたら、鬼たちは黙ってはいないでしょうが、その事態が起きない以上、約定は保たれると思います。」
「…そうか。」
 ほとんど感情の無い夕蓮の声に、かすかな安堵がにじむ。それに気づいたのか、そうではないのか、少年の姿の式神は、薄く淡く微笑んだ。
 その笑顔の裏で。
(でも、ずっとこのままにしておくわけにはいかない。)
 冷徹な思考が動いている。
(今回は、結界の地だったけれど、こちらで戦えば、都人に隠し通すのは難しい。そうなれば、鬼の王の力に、人々は恐怖する。静明様の怖れていた事態を招く…。)
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