「おまえになら、殺されてやってもいい。」~ナマイキ陰陽師と鬼の王~

火威

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第三幕

「おまえになら、殺されてやってもいい。」~ナマイキ陰陽師と鬼の王~

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第三幕
 そして現在。
 大内裏、陰陽寮。
 陰陽頭、安倍夕蓮あべのゆうれんは、暦博士から上がってきた来月分の暦に目を通していた。暦の担当は、暦博士だが、最終的な確認は陰陽頭が行う。
 文机の上で紙の端をそろえ、差し出す。
宵乱しょうらん、これを各省に届けてくるように。」
と、言われた宵乱は
「…つまんねー仕事…。」
と、渋々受け取る。
「宵乱、ここでは、私とおまえは兄弟ではなく、陰陽頭と、寮の雑役だ。言葉に気をつけろ。」
 ぴしゃりと厳しくたしなめられても、宵乱は反抗的な姿を崩さないが、一応言いつけられた仕事をする気はあるようで、暦を手に、渡殿を歩いて行った。
 ため息をつく夕蓮の耳に
「まあまあ、当代様。最初の頃に比べれば、ずいぶんマシになってますよ、弟君の態度。」
 軽やかな少年の声が響く。
 ふわり、と袖を翻して突然現れたのは、静明の式神の天一てんいつだ。陰陽寮では公認の存在なので、声も聞こえず姿も見えず、という「穏行」の状態から、人目を気にせず、気軽に突然現れる。
「初めは、雑役なんて務まらないって思ってましたけどねー。」
 くすくすと、屈託なく笑う顔は、年相応の子どもらしいもので、とても齢二百近い式神とは思えない。
 天一の言う通り、宵乱は陰陽寮で下働きをしている。
 清涼殿には、元服前の公卿の子弟が、作法見習いと顔見せのために出仕する、「殿上童」という制度があるが、陰陽寮にも同じような仕組みがある。ようは、元服前に見習いとして寮の雑役を担うのだ。陰陽師は、特殊な技術職なので、世襲が多く、現在、寮の役人を務める家の子どもは、その多くが元服前から寮で働いている。元服後に、即戦力となれるように。
 宵乱を出仕させることを、夕蓮は多いに不安に思っていた。事実、その反抗的な態度から、寮の役人とも、同じ雑役の少年たちとも全くうまくいってはいない。ただ、並はずれた力は、誰もが認めるものであり、妖や悪霊が出た際には頼りになる。
 戦うことにしか興味のない宵乱だが、だからこそ己の力を高めることには執着があるのだろう。陰陽寮での実践に得るものがあると考えているのか、一応毎日仕事はしている。
(まあ、一目置かれてても、誰とも仲良くできないみたいだけど。)
と、内心で苦笑した天一は、
「よその寮の役人に失礼な物言いして、問題になりそうなら、うまくおさめてきますね。」
と言って、ふわり、と宙に浮く。
「世話をかける、天一殿。」
と苦笑しながら礼を言う、苦労性の陰陽頭に手をふって、天一は再び穏行すると、宵乱の後を追った。

 宵乱には、すぐに追いついた。
 暦を届けるように言われた八つの省のうち、中務省以外は陰陽寮とは別の建物のため、いったん外に出る必要がある。午前の明るい陽射しを浴びて、宵乱の漆黒の髪がつやつやと金色に縁どられている。
 天一が声をかける前に、気配に気づいた宵乱が、振り向きもせずに言い捨てる。
「静明の式神、何の用だよ。」
(気配、完全に断ってたんだけどなあ。)
と、内心その鋭さに舌を巻きながら、表面上は態度に出さず、天一はぽんっと、軽い音をたてて穏行を解き、宵乱の隣に並んで歩き出す。幸い、人目のない一画だったので、騒ぎが起きることもなかった。
「用ってほどじゃないけどね~まあ、お目付け役?」
「いらねえよ。」
「まあ、そう言わずに。弟君は友人がいないから、さびしいでしょう?話し相手くらいにならなってあげますよ。」
「オン・バサラ…。」
「待って待って、こんなところで術使わないで!!」
 宵乱が真言を唱え出したので、天一は慌てて止めた。
「チッ。」
 と宵乱は舌打ちする。
「おまえ、静明の一の式神で、十二神将の長なんだろ?一回、本気で戦えよ。」
 宵乱の黒い大きな瞳は、表面上だけなら愛らしいが、そこに宿る光は、好戦的で物騒で、天一はひそかにゾッとする。
(本当にこの子は…誰にも似ていない。)
 静明の子孫たちは、能力の差はあるものの、ほとんどが優秀な陰陽師であり、優れた力に溺れることなく冷静な者が多かった。当代である、宵乱の兄、夕蓮もそうだ。
 常に攻撃的で、力を奮うことを好む宵乱は、安倍一族の天才児でありながら、異端児だ。
 約定と同時に静明の子孫たちも見守ってきた天一は、当然、宵乱のことも生まれたときから知っている。
(夕蓮と同じように育てられて、どうしてこうも違う…?)
 二人の父親は、夕蓮によく似た、穏やかで理知的な性格で、安倍一族の中でも高度に術を使いこなす陰陽師だった。その妻、兄弟の母は、少し気が弱く、心配性なところはあったが、優しい心根の女性だった。父は、妖との戦いで命を落し、もともと体の丈夫でなかった母は、それに心を痛めて、流行り病で呆気なくこの世を去った。宵乱が七つの時だ。
 しかし、両親を早くに失くしたから、宵乱があの性格になったとは、天一は考えていない。
(だって、先代様とその奥方様が生きていらした頃から、ああだった。)
 片手で足りる年から、陰陽師としての優れた才覚を表していた宵乱を、一族の誰もが「安倍静明の再来」と絶賛したがー徐々に、その残虐性と攻撃性に気づき、危険だと認識するようになった。陰陽頭であり、一族の宗主である夕蓮が庇わなくなれば、抹殺対象となってもおかしくない。
(あまりにも強い力を持って生まれてしまったがゆえに、己の力を試したくて仕方がない、ということ?でも、静明様は、けしてそんな風にはならなかった。最後まで)
 しばらく無言で歩き続けた天一は、ふと聞いてみたくなった。
「ねえ、当代様の弟君。安倍一族の長は、約定を守る義務がある。もしも、当代様の跡を継ぐのがキミだったとして…キミは、静明様と鬼の王との約定を守る気が、ある?」
「そんなもんに興味はない。」
 間髪入れない即答に、天一は、
「そう。」
と、彼にしては珍しく静かに頷いた。いつもと違う天一の様子に、宵乱は気づいたか。
(何も変わっていないんだね。あの時と。)
 天一の脳裏に甦ったのは、初めて約定について夕蓮に聞かされたときの宵乱の姿だった。

 一年前。
 深夜になって、やっと屋敷にもどってきた宵乱が、夕蓮の寝所に向かうのを、天一は、穏行したまま眺めていた。
「夕蓮。」
と、宵乱は、兄を名前で呼ぶ。
「約定ってなんだ?教えろ!」
 いきなりの問いかけだったが、聡明な夕蓮は、全てを悟ったようだった。宵乱が、外傷はないものの、ひどく疲労困憊していることからも、察するところがあったのだろう。
 それは、限界を超えて術を行使したことが原因で、幼いながらも、既に兄を超えつつある宵乱に、そこまでの消耗を強いる相手は限られていると。
 夕蓮は、呪符に走らせていた筆をカタリと置いて、立ったままの弟に向き直った。
「鬼の王に会ったか。」
「あいつが…鬼の王…。」
 すとんと胸に落ちるように、納得した。あの凄まじい力と美貌なら、鬼を統べる者にふさわしいと。
「約定とは。」
と、夕蓮は語りだす。できれば、まだこの弟には伏せておきたかった。夕蓮にとって、宵乱は実の弟でありながら、何を考えているのか、何をしですのか想像がつかない相手だ。約定のことを知ったら、どんな行動に出るのかわからない弟には、話せなかった。しかし、鬼の王に会ってしまったのなら、もう隠せない。
「百年前、安倍静明と鬼の王の間で交わされたもの。人の世と鬼の世の境に結界を張り、互いの行き来を禁じる。二つの種族が、互いの領域を侵さず、関わらずに生きることを約束するもの。人の血も鬼の血も、できるだけ流さずにすむようにと。」
「そんなの、鬼が納得するかよ。」
 即座に返した宵乱の言い分は正しい。
「鬼は人の血を吸うんだろ。人が襲えなくなったら、鬼は飢えて死ぬぞ。」
 腕試しと称して、勝手に実戦を積んでいるだけあって、宵乱は鬼の生態に詳しかったが、座学が嫌いで文献にあたることが皆無なので、知識として不十分なことも多い。
「鬼は、本来、自然の気を取り込んで生きることができる種族だ。」
 知らなかった宵乱は、軽く目を見張った。夕蓮は言葉を重ねる。人と同じ食べ物も摂れるが、それは鬼にとっては嗜好品程度の意味しかないと。
「鬼が人の血を好むのは、そこに自然の気が凝縮されているから。鬼にとって人の血は、力を高めてくれる極上の餌だが、摂らなければ生きていけぬものでもない。」
「…飢えなくても、極上の餌なら欲しいだろ?鬼が約定を守って、なんかいいことあるのか?」
 切り返してきた弟の言葉に、夕蓮は内心、舌を巻く。感情に任せた行動が多いせいで誤解を招くが、即座に鬼の立場でものを言える宵乱は、けして愚かな陰陽師ではないと。
「鬼、と一口に言っても、その強さは様々だ。おまえが会った鬼の王は、神にも等しい力を持っているが、霊力のない人間の武器でも殺められる、下等な鬼もいる。安倍静明は、自身が凄まじい力を持った陰陽師であっただけではなく、後進の教育にも力を注ぎ、陰陽師全体の力を大きく底上げした。鬼にとっても脅威と感じられるほどに。そして。」
と、夕蓮は、つと、大内裏の方角を見やった。それはほとんど無意識だったが。
「鬼が数多の人を殺め続ければ、朝廷は、鬼を根絶やしにするために、鬼の里に攻め込めという命令を下すかもしれないと、静明は危惧していたという。鬼と陰陽師が全力でぶつかれば、双方に甚大な被害が出ると。それを避けるための約定は、鬼にも人にも利がある。だからこそ、鬼の王は、同族を狩ってでも約定を守る。鬼の王は、鬼の側の約定の守護者。」
「人の側の約定の守護者は、安倍一族の当代様。そして、ボクは、双方の守護者を見守る、約定の番人。」
 常と変わらぬ、無邪気な少年の声で告げ、天一はここで穏行を解いた。
 兄弟は、どちらも驚くこともなく天一を眺める。
 夕蓮は続けた。
「宵乱。約定に違反し、こちら側に出没して人を襲う鬼を狩るのは構わない。だが、おまえ自身が約定に反する行いをすることは許さない。」
 鬼は本来、人を捕食する種。だから、人は鬼が近くに迫れば怖れ、憎み、狩られる前に狩ろうとする。互いが触れ合うことなく、それぞれの領域で生きていくことだけが、共存の道だと、夕蓮は諭す。約定の守護者どうしでさえ、接触は必要最小限に留めていると。
 宵乱の目に、研ぎ澄まされた刃の輝きが走った。
「そんなもん、オレには関係ない。オレは、鬼の王を絶対に倒す。それで京が滅ぶなら滅んじまえ。」

 そして、現在。
 深夜の京に、傲然と真言が響き渡る。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!」
 凄まじい炎が、ゴウッと音をたてる。高熱が生んだ風をまとい、さらに勢いを増した炎の矢が乱れ飛ぶ。巨大な獣を数匹まとめて屠る。周囲には、肉と毛の焦げる臭いがたちこめる。
「…フン。手ごたえがねえな。」
 宵乱はつまらなそうに言い、次の瞬間、全身に緊張を漲らせて振り向いた。
「へえ。気が付いたか。」
 笑みを含んだ声で言う紅月あかつきに、宵乱は獰猛な笑みを浮かべた。
「そっちから出てくるとは好都合だぜっ…。」
「待てよ、おまえ、仕事中なんだろ。こっちも仕事だ。竜胆りんどうから、約定を破った鬼が出たって報告が来たんでな。」
 落ち着けよと、ひらりと手を振る紅月。たった今、宵乱が仕留めた獣を眺める。犬や狼に似ているが、ずっと大きい。前脚の一本が人間の胴ほどもある。人間など、一瞬で丸呑みにできそうなあぎとだ。
「犬神か。」
 宵乱は、答える必要などないと思っているのか返事もしない。
 紅月は構わず笑いかけた。
「ちゃんと陰陽師の仕事もしてるんだな。」
 大内裏に出仕する貴族の仕事は、宿直を別にすれば、昼前には終わる。しかし、悪霊や妖が跋扈するのは黄昏時から深夜にかけてだ。安倍静明は、鬼とは約定を結んだが、聖安京を脅かす異形は、鬼だけではない。
だから、陰陽寮に属するものは、昼間の仕事とは別に「夜警」と呼ばれる、宮廷の警護や都全体の夜回りがある。通常は元服前の子どもに任せるものではないが、宵乱は特別だ。
 宵乱が、素早く印を結び
「そんなことより早く相手をしやがれ!」
と、叫んだとき。
「我が君!」
という声とともに、新たな鬼が姿を見せた。
「竜胆。どうした?」
 紅月が眉をひそめたのは、滅多に声を荒げることもない腹心が、切羽詰まった様子で駆け寄ってきたからだ。
 紅月は、振り返って、竜胆に向き合う。
「我が君、実は。」
と、紅月に身を寄せる竜胆。
 宵乱は醒めた目で鬼の主従を眺める。背中を向けられているが、不意を衝こうとは全く思わない。
 何となく、面白くない。
(あいつ、確か紅月の側近だったな。)
 この一年で、数回だが見かけたことがある。先ほど、紅月は竜胆から報告が来たから、こっちに来たと言っていたが。
(チッ。鬼の里で何かあったか。)
 だとしたら、紅月はすぐに、結界の向こう側へ戻ってしまうだろう。宵乱は知っている。こちらがどれほど、紅月との戦いに執着していようとも、鬼の王にとっては自分との戦いなどただのお遊びで、彼が優先するのは鬼の一族なのだと。
 帰るか、と体の向きを変えかけた宵乱は、耳慣れぬ音に足を止めた。
 反射的に振り返った顔に。
 ポタッと、飛沫が飛んだ。
 つうっと、頬を滑り落ち、そのまま、童狩衣の胸元に落ちた滴は。
月明かりを浴びて、夜目にも鮮やかに映る、真紅。まるで紅月の瞳のような色彩(いろ)。
 宵乱の大きく見開かれた瞳に、映ったのは。
 背から刃を生やして崩れ落ちる紅月の姿。
「紅月!!」
 考えるより早く、体が動いていた。
 宵乱が紅月を庇うように前に出る寸前。
 竜胆は、刀を引き抜いた。
 バシャッと、水のたっぷり入った桶をひっくり返したような音がして、鮮血があふれる。
「何の真似だ!紅月はおまえらの王だろ!!」
 吠える宵乱に、竜胆は、眉一つ動かさぬまま、淡々と告げた。
「はい。我が君が約定を…我ら鬼の一族を守る存在であるのならば。」
「守ってるだろ!今だって紅月は。」
「我が君は変わってしまった。あなたのせいで。」
「オレの…せい、だと?」
 宵乱が眉を寄せる。
「はい。あなたの行為は、約定を揺るがす。なのに、我が君は、あなたを一向に始末しようとなさらない。…主の間違いを正すのが、腹心たる私の役目。」
 竜胆の紫紺の瞳に、涙がもり上がり、頬を伝ってすうっとすべり落ちた。
 ピチャンと、紅月の血の中に、その透明な雫が落ちた瞬間。
 竜胆は刀を振りかぶる。
「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン!」
 宵乱が叫んだ。
 ドスドスドスドスッ!!
 闇を払い、目を射る、光り輝く剣が、四方八方から竜胆に向かって飛ぶ。
 正面から来た光の剣は、竜胆が刀を振るって叩き落とすが、背後から迫る剣が、竜胆を貫く。
「がっ…。」
 さらに何本もの光の剣が続けて打ち込まれ、竜胆は地面に縫いつけられた。
 宵乱が、膝をついて紅月の肩を強くつかむ。
「紅月!!おい、しっかりしろ!」
 紅月の顔は真っ蒼で、唇からも鮮血があふれる。
 両の目は固く閉ざされ、ぴくりとも動かない。
「紅月!!」
 宵乱は、ぎりっと歯をかみしめた。
 意識のない紅月の腕を自分の肩に回し、何とかかつぎ上げるが、体格差があるので、重すぎて動けない。
 宵乱は、童狩衣の襟元から、呪符を口に挟んで抜き取り、ふっと吹く。地面にひらりと舞う呪符に向かって言う。
「式神召喚!急急如律令!」
 呪符は瞬時に巨大な純白の鷹へと姿を変える。
 宵乱は、引きずるようにして紅月を鷹の背に運び、自分も乗る。
 鷹が夜空へと舞い上がる。
 漆黒と白銀の髪が、夜風に乱れた。
 宵乱は、紅月を支える。
「死ぬんじゃねえぞ…。」
 その声が、泣き出す寸前のように震えていることを知る者は、誰もいない。その理由に気づく者も。

 しん、と静かな夜の底。
 燭台のひそやかな灯りが、血の気の失せた紅月の頬に、濃い影を落としている。
 宵乱は、布を水に浸し、紅月の額に浮く玉の汗を拭う。その銀糸の髪が血に汚れていることに初めて気づき、固まりかけた血を拭い取った。
 さら、と宵乱の手から零れ落ちる銀色。
 見慣れた自分の屋敷が、ひどくよそよそしく、寒々しく見える。
 宵乱は、紅月を屋敷に連れてきて、手当をした。止血をし、血止めと、血を作る作用のある薬湯を飲ませたが、他にできることはなかった。
 宵乱は、兄や天一の知恵を借りるつもりで紅月を屋敷に連れて来たが、間の悪いことに、二人とも不在だった。夕蓮は、宵乱と同じく夜警に出ており、おそらく天一はその傍らにあるのだろう。好き勝手に姿を見せたり消したりする天一だが、約定の番人である天一は、約定の守護者である夕蓮の傍にいることが多い。
(くそっ…こんなことなら、式神を広範囲にばらまけるようにしとくんだっだぜっ…。)
 宵乱はぐしゃ、と髪をかきむしる。宵乱は式神を攻撃や防御には使えるが、偵察用に遠隔操作することはできない。それができれば夕蓮たちを探し出して呼びかけられるが、戦うことにしか興味がなかったから、覚えていなかった。
「…う…。」
 紅月の唇から、かすかなうめき声がもれ、まぶたがぴくりと動く。
「紅月!?」
 宵乱がその顔をのぞきこむ。
 うっすらと開かれた赤い瞳に、いつもの力強さはなく、夢の中にあるかのようにぼんやりとしていたが、宵乱は大きく息を吐いた。
 聞き取るのも難しいほどの、かすかな声。
「…乱…ここ、は?」
「オレの屋敷だ。無理してしゃべるな。」
 安堵しているのを悟られないように、宵乱はつっけんどんに言う。
 紅月は苦笑し、傷に響いたのか、眉をひそめた。
「…おまえが、オレを助けるとは…思わなかったぜ…。どういう風の…吹き回しだ?」
「うるせえっ!おまえを殺すのはオレだ!!おまえは、オレの獲物なんだ!!他のやつに奪われてたまるかっ!!」
 色白の頬を、かあっと、紅に染め、耳まで真っ赤にして怒鳴る。
(…こんな顔すんのか。)
 紅月は、初めて見る宵乱の表情に、こっそりと笑いをかみ殺す。そんな状況ではないと理解しているのだが。
 宵乱は、何かを誤魔化すように、早口でまくしたてた。
「だいたい、あいつ何なんだよ!?鬼のくせにおまえを殺そうとするって、どういうことだよ!?しかもあの刀!おまえを簡単に切れるなんてどういう刀なんだ!?」
「…どうやら、オレは…竜胆に見限られちまったみてえだ…。ちょいとばかり、遊びが過ぎたな…。」
 自分でも不思議だが、竜胆に対しての怒りは湧いてこなかった。
 原因は自分にあると、理解しているためか。
(真面目で思いつめるやつだからなあ…。)
「オレのせいなのか…。」
 ぽつんと零れた落ちた声は、宵乱の唇が呟いたものとは思えないほど、頼りない。
「おまえのせいじゃねえよ。オレが…終わらせたくなかったんだ。…楽しかったからな。」
 紅月は、強引に話題を変える。
「あの刀は…鬼殺しの呪がかかってるもんだろうな…。どういう手段で手に入れたか…しらねーが…。」
 紅月の顔が苦痛の歪んだのを見て、宵乱が慌てて言った。
「もうしゃべるな!」
 身を乗り出し、紅月に覆いかぶさるようにして怒鳴る宵乱の、細い首筋から、紅月は目を反らす。
(あーやばい、な。これは。)
 体の奥底から、本能が疼き出す。かすれる声で、必死に言う。
「乱。おまえ、…どっか行け。オレの目の…届かないとこに。」
「はあ!?何言って。」
 宵乱の視界が反転した。
「!?」
 背中が床に叩き付けられる。
 押し倒されたのだとわかったときには、四肢を抑え込まれていた。
 深手を負っているとは思えない、凄まじい力は、ふりほどこうとして暴れてもびくともしなかった。
「紅…月…?」
 呼びかける声は、自分のものだとは思えないほどに震えていた。
 紅月の目が、瞳を失っていた。
 ただひたすらに紅が広がる目。
 見覚えがある。色は違うが、一条戻橋に現れた鬼と同じ目だ。
 同時に閃いたのは、兄の言葉。鬼にとって人の血は、力を高めてくれる極上の餌だと。
「紅月…おまえ…。」
 宵乱の再度の呼びかけに、紅月の目が、瞳を取り戻した。美貌を苦しげに歪める。搾り出すように懇願する。
「…悪いな、乱…。自力で…逃げてくれ…。こうなっちまったら…オレには…。」
 宵乱を抑え込む力が、少しだけ緩んだ。ほんのわずかに力を抜くだけでも、相当の気力を使うのだろう。意志の力で、生きたいという最上位の欲望を抑え込むのは。
 荒くなった紅月の呼吸が、宵乱の前髪を揺らした。
 宵乱が、キッと紅月をにらみ据えた。
「血が欲しいならくれてやる。」
 傲然と胸を張って、けれど今までの宵乱とは、浮かべる笑みが違う。相変わらず生意気で、傍若無人で、けれどその奥に、柔らかい光が瞬く。
「…おまえ、何を…言って…。」
 戸惑う紅月に、宵乱がにやりと笑いかける。
「言っただろ。おまえを殺すのはオレなんだ。」
 宵乱は、紅月の手を振り払い、右手の自由を取り戻す。童狩衣の襟元をはだけた。
 肩まであらわになった白い首筋に、紅月の喉が鳴る。
 小さく呟かれた謝罪の言葉に、宵乱は首を振る。
 その首筋に、熱い吐息がかかった。
 突き刺さる牙。
 覚悟していたほど痛くはなかった。せいぜい、針で刺された程度の。
 だが、濡れた花びらが肌に吸いついたような感触の後に、音をたてて血を吸い上げられて。
「!」
 うめき声をたてないように、歯を喰いしばる。
 命を吸い上げられている。
 ふっと、目の前が白く霞んだ。
(これ、死ぬか…?)
 朦朧とした意識の中で、だったらと、必死で声を搾り出す。
 伝えておかないといけないことがある。
「紅月、オレは…。」
 言えたのかどうかわからない。宵乱の意識は、そのまま闇に沈んだ。
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有賀冬馬
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恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。

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