裏十六国記

銭屋龍一

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漆黒の大地、火の定め 39

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 民を救わんという思いはいつから消えてしまったのだろうか。
 阿選はぼんやりとそのことを考える。
 そもそもこの国ではすべての民をすでに食わせていく力がないのだ。生き延びるのは選ばれた民だけ。その選ばれた民と、この選ばれた王である自分とで新しい国を作っていけばいいのだ。理屈にしてしまえば、たったそれだけのことであった。
 けれども阿選の頭の中に浮かんだ映像はまったく別のことであった。

 王は身罷り、次の王を選ぶべき天鬼麟も蓬山にいなかった。残された者でなんとか戴顕林国の民を救っていかねばならない。そのような時期の国としては、戴顕林国はまだましなほうであった。仮朝が機能していたのである。その頂点にいたのは阿選と彩関親王。ともに禁軍の将軍の出である。誰もが双璧と目していた。それは前王の治世時代から変わらない。
 あれはいつの冬のことであったろうか。
 阿選は己の部隊の兵士数百人とともに藍州で荷車を押していた。護衛する兵は一千人。将である阿選は護衛の兵を指揮し馬上にあってもいい立場である。だが阿選はあえて荷車を押すほうを選んだ。己の軍のことである。軍の得て不得手は将たる己が一番よく知っている。戦を任せられる部下は幾人もいた。だが軍にあっては物資を補給する後方部隊にまとめられる人材が不足していた。かつてはそこにも有能な部下はいた。しかしその部隊は基本的に徒歩である。匪賊に襲撃されるときも標的になりやすい。また妖魔が襲ってきたときも真っ先に襲われるのはここだ。もちろんそのようなことは軍としてもわかっている。だからできうる限りの人数を裂いて護衛に当たらせる。それでも幾度か襲撃され、残った者を数えてみると後方支援部隊の人材の損失が大きかった。
「もう少しだ。がんばって力を込めよ」
 阿選は荷車を押しながら、他の兵士を叱咤激励している。荷は食料だ。戴顕林国内の食糧事情は悪化するばかりであった。もともと収穫が少ない。その上になんとか工面して溜めた食料庫が匪賊の襲撃にあってごっそり中身を持ち去られる。それが冬ともなれば、もう他に口にできるものを作ることも、探すこともできない。
 この度は藍州の大きな町の食料庫が匪賊の襲撃にあい、中のものすべて持ち去られたのである。緊急支援を、と言っても、国内に他の町を助けられるだけの余力のある町はない。けれども今回の町の場合、捨て置けば周辺にも影響が出、結果、死者の数はかなりにのぼると予測された。それは国が死にいくことにも等しい。だから国庫を開け、本当に最後の最後の手段として、国が備蓄している食糧の中から支援することとなったのである。
「阿選将軍、ここよりは雪が深く荷車では通行不能かと」
 部下のひとりが進言に来た。
「ならばどうすればいい? お前は輸送方については造詣が深い。どうすれば進めるのか言ってみろ」
「はい。ここは車の回転を止め、そこに橇を接続し、雪上を滑っていけるようにするのがよいかと」
「すべての荷にその装備をつけるとしてどのくらい時が必要か?」
「半日、いや、四刻ほどもあれば」
「わかった。ならば三刻で装備を整えよ。護衛の兵から斥候をだし周辺の様子を探らせろ」
 指示を出すと阿選は汗が寒さのために凍った髪を揉みしだいた。
「阿選将軍、ちょっとよろしいか」
 護衛部隊を任せている部下が声をかけてきた。
「何だ。異常でもあったか?」
 阿選の顔は緊張でさらに引き締まる。
「いえ。そうではございません。この食料に関わることです」
「食料とな。それがどうした」
「これだけの物資でその町の民たちは本当にひと冬越えられるのですか?」
「越えられるかどうかではない。越えさせるのだ」
「しかし無駄になったときは?」
「だから無駄にさせぬのだ」
 阿選は意思の強さを示すように強い口調で言う。
「国庫は我が国最大とはいえ、このような支援を何度か行えば、それさえも枯渇してしまいます。それこそ国が死にいくことと同じかと」
「そのような議論をこの場でして何になる。国が死んでしまってから、ああ、あのとき国庫から食料を出していればと、後悔しても遅いのだ。やるのは今なのだ」
 阿選のきっぱりとした物言いに部下は納得したのか、一礼すると離れていった。

 阿選の軍は物資を届けた帰路に斥候などから届けられた情報により、匪賊が集まっている里や町を攻撃し、奪われていった食料の内、かなりを取り戻した。
 だがそれを奪われた町にふたたび届けることはできなかった。その原因は積もった雪や冬の寒さなどいくつもあげられたが、結局減少した国庫の食料を補充することが優先されたというのが一番大きい。
 阿選はいくらかのむなしさを覚えながらも、藍州の町に向かうときと同じように、荷車に食料を積んで、首都鴻城里に戻っていった。その足は届けに向かったときよりも、数倍も重いように感じられた。
「我らの成していることは一体何なのであろうか? 本当にこのようなことで国は救えているのか?」
 阿選はひとり呟いてみた。そしてすぐにその言葉こそが禍々しいものであったかのように、首を強く振ってその考えを頭の中から捨てようとした。
 結果、その阿選たちが運んだ物資によってその藍州地方の民の半数は無事冬を越えた。つまり、裏を返せば、半数は救えなかったということだった。

「ああ、あの冬は特に寒かった」
 今は冬の訪れない庭をぼんやりながめながら阿選は、そのような独り言をいう。その独り言の間にも国内では、今まさに、多くの民が死んでいっているのであった。

 冠鬼麟と利斎は、最初に連れて行かれた南の楼の番屋を過ぎ、ほんの少し行ったところの建造物に今回は連れて行かれた。おそらくこれが南の楼、本体なのであろう。上部がドーム状になっている。そのドームの前面に朱雀の彫り物がある。南の守護神である。その朱雀にはうっすらとした明るさがある。たぶんその彫り物の背後に明かりでもあるのであろう。朱雀の彫り物を目にした李斎が一瞬驚いたような顔を見せた。だがすぐにその驚きを飲み込んだかのように消した。
 巌直が正面の分厚い扉を剣の柄で叩く。暗号めいたものがあるのであろうか? 独特のリズムであった。中からも応えのように音が響いてきた。巌直はふたたび扉を叩く。すると扉がきしみ音をあげて開いた。
 扉の両脇には武装した男がひとりずつ立っていた。
「おかえりなさいませ」
 袍のような紫色の着物を着た男が会釈をしながら言った。
「変わりないか」
 巌直がその男に声をかける。
「はい。静かな夜でございます」
「客人を連れてまいった。部屋を」
「山茶花を用意してございます。そちらにどうぞ」
「わかった」
 巌直はうなずいた。冠鬼麟と利斎を囲むように立っていた男たちに目で合図する。男たちも黙ってうなづくと、冠鬼麟と利斎を縛っていた縄を解き始めた。
 縛めを解かれたふたりに、巌直は笑顔を向けた。たぶん笑顔であったのだと思う。けれどもそれはいびつに歪んでいたので、まるで上から睨まれたかのようでもあった。
「まったく。そなたたちは。なぜ柏潜様が民たちの前でそなたたちに縄をかけられたと思っておるのだ。それをまた出向くとは。おまえたちはただのうつけ者か?」
 巌直の言葉に、冠鬼麟も李斎も応えない。はっきり言って何をどう言ったらいいのか分らなかった。
 巌直は深いため息をついた。それから、
「こちらへ」
 と声をかけると、先頭になって歩き始めた。
 冠鬼麟と利斎も残った三人の男に促されるまま、その後について歩いていく。この南の楼も、番屋がそうであったように、石をブロック状に切り取り、積み重ねて造られていた。
 奥行きはそれほどないようである。すぐに通路は左右に分かれていた。奥に当る正面は外から見る城壁のそれと同じように見える。今いる建物が、城壁に寄生した茸でもあるかのように、冠鬼麟には思われた。
 巌直は右の通路へと躊躇なく曲がる。その動きはこの建物を熟知していると思わせるに十分であった。通路にはいくつかのドアが並んでいた。曲がったところから三番目のドアの前に立つと、巌直はノックもせずドアを開けた。そしてそのまま部屋に入っていく。冠鬼麟と利斎も部屋に入るように促され、その後に続いて入った。三人の男は部屋には入らず、一礼をすると部屋のドアを閉めた。
「座られるがよい」
 巌直は変わりない野太い声で言った。
 部屋の中には長方形のテーブルと八つの椅子が並んでいた。冠鬼麟はあっさり歩み寄ると、巌直に一番近い椅子に腰をかけた。それを見た李斎がその横に座る。それを確かめてから向かい合う椅子に巌直は腰をかけた。
 待つほどもなく、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
 巌直が言う。ドアが開き、若い男が盆に四つの丼を乗せて現れた。
「並べてくれ」
「はい。巌直様」
 若い男はそれぞれの前に丼をひとつずつ置いていく。最後に残ったひとつを巌直の横の席に置くと、一礼して部屋を出て行った。
「冷める前に召し上がれ。うまいものではないが、栄養にはなる。たぶん食事などしばらくされていまい。遠慮なくどうぞ」
 巌直は言うが、冠鬼麟と利斎はそのまま目の前の丼に手を出すことはできない。何か細工をされる、例えば眠り薬や毒を盛られるのではないかと疑っているわけではない。二度までも民たちの前で縄をかけられ、その意味は薄々分っている。たぶん敵ではないであろう。だがそうであってもどのように接したらいいのかまだ判断がつかない。
 巌直が何度目かの深いため息を吐いたのと、ドアがノックされるのが同時であった。巌直は今度は自ら立ち上がり、ドアを開けた。入ってきたのは柏潜であった。
「なんじゃ。まだぐずぐずしておったのか。冷めるととても食えたものではないぞ」
 柏潜は初めて会ったときと同じように嘲っているかのような調子で言うと、自分のために用意されていた席に座り、もう丼に口をつけて啜りはじめた。
「うむ。まずい。本当にまずいのう。何度食っても慣れんわ。それでも食えるだけありがたいか」
 悪態を吐きながら、柏潜は丼の中のものを啜っていく。それをみた冠鬼麟がひとつうなずくと丼を口に運んだ。真っ先に走ったのは苦味であった。薬草を煎じたかのような強い臭いと、吐き出してしまいそうな苦味、それが丼の中のものであった。
「高里。吐くでないぞ。これさえも食えぬ民が山ほどおるのだからな」
 柏潜は冠鬼麟の名前を覚えていた。真っ白な髪が肩より下まで垂れている。肉らしい肉もなく、衣類から出ている体は骨と皮だけのように見える。ただ目だけはするどく光っている。今更だが、冠鬼麟は、柏潜が爺なのか婆なのかわからないと思った。どちらと言われてもおかしくはなかった。
「食うときに、いらぬことを考えるでない。食い物に感謝して、ただ食え」
 柏潜の言葉は心のうちを探られたようで幾分心地悪かったが、この老人ならそんなことなど当たり前だとすぐに思いなおした。そう思うともう思考を止め、目の前の丼の中のものを啜ることに専念した。どろりとした食感は、米や麦をその粒が分らなくなるまで煮たような感じである。だがこの味は穀物や木の実などでは、ほぼない。口に入れた瞬間は吐き出しそうなほど苦い。しかしそれを我慢して飲み込むと、後にほんのわずかな甘みが残る。なんとも不思議な食べ物であった。四人は黙々と丼の中のものを啜った。
「ああ。まずくてしょうがないが、この後の満腹感はいつもながらたまらんのう」
 柏潜は右手で腹をさすりながら、本当に幸せそうな声で言った。
 確かに不思議と満腹感がある。食べているときは確かにまずいと思っていたが、こうして食べ終えてみると、それなりに食料と呼んでもけしておかしくないものであった。だがそれが何なのか想像もつかない。冠鬼麟は不思議そうに空になった丼を見つめている。
「ほう。高里。愚慈羅が気に入ったか?」
 柏潜は目を細めて問う。
「変わった食べ物ですね。初めて口にしました」
「であろう、であろう。このようなものを口にせずとも生きられる世界におぬしたちはおったのじゃからのう。だがここではこれが三日に一度食せれば、それこそ上等の部類だわい」
 口は相変わらず悪い。しかしこうして聞いていると別に冠鬼麟たちを責めているのではないことが伝わってくる。
「また民のところに行ったとか。そしてまたまた殺されそうになったと言うではないか。高里。お前は何がしたいのだ」
 その柏潜の言葉は冠鬼麟の胸に刺さった。そうであった。自分は何をしようとしていたのか? あの樂遥山の山頂の祠で何を見、何を感じ、何を決意したのか。たったこれだけのことで、それらを忘れてしまっていたのか? 冠鬼麟は己を恥じた。
「いかぬ。いかぬのう。高里よ。心が滅入るほど暗く、ただ真面目であるだけでは救えるものも救えぬぞ。そのようなものは解き放たぬとのう」
 冠鬼麟は柏潜の核心をついた言葉に身震いした。
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