キボウのカタチ

銭屋龍一

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キボウのカタチ 50

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 まだ幼い太陽が、それでも辺りの木々や墓石の輪郭を少しずつ鮮明に浮かび上がらせようとしている。
 白い息がそのまま空に昇りそうに思えるのに、それはほんの少し空に近づいただけでうっすらと青みを帯びた色に溶けてしまう。けれどもその後、空気を欲しがる肺が吸い込むそれには、ミルクの香りがある。
 あのなつかしく、あまりにも大切だった日々に経験した朝と同じ臭いだ。
 自分が弦と卓に何を言おうとしているのか、今はまだわからない。そんな自分の言葉で、ふたりのもつれた関係を修復できるのかどうか、それもわからない。いや、そもそもふたりの関係はもつれてなんかいないのかもしれない。悲しいけれど、今の、その姿こそがふたりの正しい関係を表わしているのかも知れない。
 梅と久美子が身を隠し視線を向けている先に近づいてくる人影がある。
 弦だ。
 遠目にもなぜか、それが弦だとはっきりとわかった。
 弦は墓前に着くと花を手向け、線香を立て、しゃがみこんで手を合わせた。長く微動だにしない。
 今出て行かなければ弦が立ち去ってしまう。だがまだだ。卓が来ていない。卓が来るだろうことがわかっているのに、弦はそれを待つだろうか? 卓が最初に現われたのならば、弦を待たない可能性が高い。がしかし、弦が先に現われたと言うことは、卓を待つ可能性が高い。なぜか梅にはそんな風に思えた。
 弦が墓前での祈りを終えて、立ち上がった。だが立ち去る気配はない。スラックスのポケットに手を突っ込んで霊園の入り口の方へ視線を向けている。
 どのくらいそうしていただろうか。弦の視線の先に人影が現われた。
 卓だ。
 少し右足を引きずるような歩みだ。
 卓も弦の存在に気づいただろうが、立ち止まるでもなくゆっくりとこちらに近づいてくる。最初からそこで弦が待っていることが分っていたような歩みだ。
 墓前にたどり着いた卓は、一瞬弦に視線を向けたが、すぐに墓前に向き直り、手にしていた花を手向けた。
 先に弦が手向けていた花を捨て去るかもしれないと思っていたが、そんな様子はない。
 線香に火をつけて供えると、卓はしゃがみ込んで手を合わせた。
 弦は突っ立ったまま、そんな卓を見下ろしている。
 長く濃密な時間が流れたように思えたが、ほんの1分か2分のことだろう。
 卓は祈りを終えて立ち上がった。
 弦に改めて視線を向けるでもなく立ち去って行こうとした。そのとき、
「ちょっと待てよ」と弦が話しかけた。
 卓は立ち止まり、弦と視線を合わせた。
「何か俺に用があるのか」
 棘のあるイントネーションで卓が聞いた。
「今度だけはやめてくれないかな」
 静かな調子で弦が答える。
「今度だけって何さ? やめてくれって何さ?」
「スカイフラワーのサッカーチームだけは辞めるわけにはいかないんだ」
「だったら続ければいいだけの話じゃないか」
「続けられなくしているやつがいるだろ」
「それが俺だって言いたいのか」
「だってずっとそうしてきたじゃないか」
「ずっとってなんだよ」
「ずっとおまえは探してたんだろ。あの日見失った朝のお姉さんをさ。だから俺がサッカーの関係で親しくなった女性をあの人かと邪推し、卑怯にも俺の名を騙ってちょっかいを出して、あげく、次々に俺を所属チームから追い出してきたんだよな」
「俺は四日しか朝のお姉さんを知らないからな。しかしおまえは一ヶ月以上、朝のおねえさんとのつきあいがあった。だから俺がわからないまま、あの人をおまえが手に入れるのが我慢できなかった。実際に本人に会えば、たった四日しか知らなくても、この人だってすぐにわかったのにな。本当にアホなことをしたよ」
「そんなことをして、おまえは何を手に入れた。そこに明日への希望はあったのか」
「明日への希望だって。俺なんかがそんな夢をみちゃいけないのさ」
「どうしてだよ。人は誰でも明日への希望を夢見ていいんだ。ほんのかすかな明かりかも知れないけれど、明日への希望があるから、人は生きづらいきょうを何とか乗り越えていけるんじゃないのか。おまえにだって、そんな希望があったはずだ。朝のおねえさんとの約束を俺に引き継がせたことがその証拠なんじゃないのか。あのままおまえが朝のおねえさんと会い続けて、自分のサッカーの腕前を知られるのが怖かっただけだろ。最初に牛乳配達はサッカーシューズを買うためなんだとぶちあげていたから、引っ込みがつかなくなってたんだろ。そんなこと気にすることなんてたぶんなかったのにさ。あの日本代表チームのユニフォームはどうしたんだよ」
 弦のその言葉に、卓は答えなかった。
 日本代表チームのユニフォーム? それってあの朝、わたしが手渡したユニフォームのことなんだろうか? いや、きっとあのユニフォームのことに違いない。わたしもあの日もらったスニーカーを今も大事に持っている。わたしの鏡台の上で、それは毎朝わたしを元気づけ、勇気づけてくれた。あれがあったから、わたしはあの時代を乗り越えられたと言っても過言ではない。あれはわたしの希望の光だった。
 しばらくふたりはみつめあったまま動かない。やがて卓が、
「おまえがあのユニフォームを俺に渡したから、俺の旅は始まったんじゃないか。今のような俺になって欲しいと望んだのはおまえ自身だろ」
「俺はそんなことなんか望んでない」
 弦の言葉が激しくなった。
「嘘をつくなよ。スカイフラワーのサッカーチームだけは辞めたくないってのも、あの朝のお姉さんがいるからだろ」
「もちろんそれもある。だが、今の俺には、あのチームしか残されてないんだ」
「まだ嘘をつく気かよ。天才のお前には、受け入れてくれるチームなんていくらでもあるだろ。俺にはただのひとつもないけどな。足に障害を持ったサッカー選手なんて、どこも相手になんかしてくれない」
「おまえこそ嘘をつくなよ。どこのチームにも入れないのは、お前の足に障害があるからじゃないことは、とっくにわかっているはずだ」
 卓が一歩弦に近づいた。殴りかかるのかと思ったが、卓は急に弛緩し、地面に視線を向けた。
「どうして卓は、いつもそこでやめるのかな。俺を殴りたいなら殴ればいいのに」
「殴って解決するなら、とっくに殴っている」
「そんなこと、本当に殴ってみないとわからないじゃないか」
「いいよな。おまえは何もかも持っていて。俺にはおふくろだけだった。だのに、あんな死に方をしてさ」
「おふくろが死んだりのは、何もおまえのせいだけじゃない」
「いや、俺を生んだばかりに、おふくろはあんな惨めな死に方をしたんだ。俺が生まれなければ、おふくろはあんな目にあわずに済んだ。あの人の子供が、弦、おまえだけだっらよかったんだ」
「おふくろをあんな風にさせちまったりのは、おまえや俺にも責任はあるだろう。俺たちにはどうしようもなかったけれど、だがそのことを忘れちゃいけない。だけど一番重い責任があるのはオヤジと、とうのおふくろさ」
「俺の足に障害があったから、ふたりは離婚することになった。だったら疫病神はやっぱり俺じゃないか」
「オヤジの肩を持つつもりはないが、オヤジは生まれてくる子供にサッカーの英才教育を施して、一流のサッカー選手に育てあげるのが夢だった。だから俺たちの誕生を本当に心待ちにしていた。だが生まれた子供達は足に障害を持っていた。それを知ったときのオヤジの絶望に等しい悲しい気持ちを考えると、すべてあの人が悪いとは俺には言い切れない。だってふたりの子供が障害児となった原因が、おふくろが妊娠中に飲んではいけない薬を服用したことだったんだから、そりゃオヤジの怒りも分らないじゃない」
「ふたりのって何だよ。弦には障害なんてないじゃないか」
「そりゃそうだよ。誰にも話してないからな。オヤジとおふくろだけが知ってる秘密ってやつだ」
「おい、ちょっと待てよ。そんなバカなことがあるのか。そんな話聞いてないぜ」
 隣で、ひっ、という声が聞えた。見ると久美子が口を両手で押えて、それ以上は声が漏れないようにしている。その目は驚きからかまん丸に見開かれていた。それはそうであろう。弦の足にも障害があったなんて、とんでもない暴露話を聞いたのだ。その反応は当然だ。
 だが卓の存在が消されたような状態になっていたのは、単に足に障害を持つ双子の兄がいることを隠匿するためだけではなく、天才サッカー少年として世に出た弦が、足に障害を持っていたことも合わせて隠すことが目的だったのだ。いや諸々の状況から推察すれば、弦の足の障害を隠すことの方に重きがおかれていたのに違いない。
 怒りや悲しみがない交ぜになった、なんともやるせない思いがこみ上げてくる。あの牛乳配達の少年と深夜のコンビニ店員だった頃に戻って、ふたりを抱きしめてあげたい。強く強く抱きしめてあげたい。
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