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さようなら、皆さま。ハロー、新しいわたし
長男の目から見た両親【加納悠悟視点】
しおりを挟む俺は、父が母の名を呼ぶところを聞いたことがない。
母さんに対しては“あんた”
対外的には“母さん”、“あの人”、“妻”、“彼女”など、代名詞で呼ぶ姿しか見たことがない。
子どもながらに何故だろうとは思った。
母さんは父さんの名前を呼ぶのに、何故だろうなとは思っていたが、学友の両親もお互いを“お父さん”“お母さん”と呼ぶのだと知った後は、あまり気にすることもなくなった。
……だけど一度だけ、別の呼び方で母さんを呼ぶ父の姿を目にしたことがある。
俺がまだ小学生の頃だ。多忙な毎日を過ごしていた父さんが海外出張から帰って来る事が嬉しくて、俺たち兄弟は両親の寝室のベッドに入って待ち構えていた。父を驚かせて出迎えるつもりだったのだ。
しかし布団のぬくもりによってそのうち睡魔に襲われて…俺たちはぐっすり寝入ってしまったのだ。
──ガチャリ
『──笑さんはその猫に甘すぎなんだよ』
扉の開く音と同時に、話し声が聞こえてきた。俺はそれに反応してうっすら目を覚ました。一緒に潜っていた弟の英知はすやすやと眠っていたはずだ。
両親が部屋に入ってきたんだとわかっていたが、眠気が勝って俺はウトウトしていた。
『なんでよ、シロちゃんはいい子だよ? 子どもたちの面倒も見てくれるの。慎悟に懐かないのは、慎悟が冷たくするからでしょ』
『ン゛ナ゛ァァァー!』
『痛っ…ほらみろこいつ、特別俺のことを敵対視してるんだぞ。笑さんがそうやって猫可愛がりするから……』
両親と、飼い猫のシロの声。
いつもと変わらない仲睦まじい彼らの会話だったが、俺は耳を疑った。
“エミ”と、父さんは知らない名前を呼んだのだ。
…誰だ?
母さんの名は“エリカ”のはずなのに。
そこにいるのは、自分の母であるはずなのに。
俺の中で疑惑が生まれたのはこの時だ。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。だけどそれを追及したら家族のカタチが変わってしまいそうで怖かった。
──だから、俺はなにも聞かなかったふりをして、狸寝入りしたのだ。
その事を忘れて気にしないでおこうと思ったけど、時間を重ねても俺の中で疑惑が大きくなっていく一方だった。どうにも気になってしまった俺は秘密裏に調べた。
調査は難航することなく、答えはすぐに出た。
家族ぐるみで親しくしている、松戸家の人々。昔に色々あって、今でも親交があるその家には、“エミ”という女性がいた。
……その人は、母さんを庇って殺されたのだそうだ。
まさか、と思った。
もしかして母さんはそれを気に病んで、自分を“エミ”だと思いこんでいるのではないかと心配になった。父さんはそんな母さんを“エミ”と呼んであげているのではと。
でもそれはどうなんだ?
……考えても考えてもわからなくて。両親を問い詰めることも出来ない。
だって、母さんはいつもと変わらない母さんで。
母さんはカレーが大好きで、月に一度は必ず振る舞ってくれるカレーはいつも違うカレーなんだ。カレー専門店を出せるんじゃないかというくらい、母さんはカレーを作るのが得意なんだ。
母さんは父さんの好みに合わせていつも美味しいカレーを作っていた。父さんは、母さんの作るカレーが一等大好きだった。
バレーが大好きな母さんは、松戸家の渉おじさんの試合や、母さんの友達・依里さんの試合には絶対に遠征する。自分のことのように彼らを自慢するんだ。
弟の英知は渉おじさんのようなバレー選手になりたいと、ジュニアクラブでバレーに没頭している。彼と血の繋がりがないことを知った弟は、渉おじさんのように大きくなれないかもとショックを受けて、むせび泣いていたこともある。
父の生き写しと言われる俺のことを“ファビュラス悠悟”とよくからかってきた母さん。母さんは学生時代の父さんの話をよくしてくれた。
母さんは父さんのことが大好きなんだ。俺と父の共通点を見つけてはべた褒めする。俺が褒められているはずなのに、間接的にノロケを聞かされているような気分になったことも少なくない。
俺は両親が大好きだった。
家族で集まる時間が楽しくて何よりも幸せだった。
仲のいい家族と、親しくしていた人たちとギクシャクするのは嫌だった。皆のことが好きだから、そのままでいたかった。
“彼女”は自分の母親には変わりない。母さんには母さんの事情があるんだろうと割り切って何も知らないふりをした。
■□■
最愛の妻を亡くした父は、抜け殻のようになってしまった。
俺たちはそれを危惧していた。母が重病に倒れた時からそれを不安視していたのだ。
母の死後、気落ちしてしまってすっかり老け込んだ父。俺たち兄弟はあの手この手を使っては父親の関心をひこうとしていた。だけど父は意気消沈したまま。食事の量も減っていき、口数も減ってしまった。
母は父に『長生きしろ』と言い残していたらしい。父が喪失感に耐えながら生きているのは母の言葉があるからだとわかると、俺はなんとも言えない気持ちになった。
息子である俺の目から見る両親はいつまで経っても仲睦まじい夫婦であった。
自分たちの両親なのだが、両親にしかわからない秘密ごとを抱えているようで……間に入れない、入ってはいけない雰囲気があった。
お互いを支え、愛し合う2人は俺の自慢の両親であり、尊敬できる先輩でもあった。
「兄さん……」
「…仕方がない。…俺たちは母さんじゃないんだ。最愛の人を喪った悲しみを癒やすことは出来ない」
父が必死に母の病気の治療法を探していたのは兄弟共に知っていた。現代の医学では解明されていない難病。その病気を治す治療は確立しておらず、じわじわと母の身体を蝕んでいった。
進行を止めるための治療はあるにはあるが、副作用がきつく、母の場合年齢的な問題もあった。母の治療は対症療法…痛みをなるべく与えぬように、死に向かわせる治療を医師から勧められた。
自分たちも母親が一日でも長く生きられるように助力していた。だけど俺たちがしていた行為は、苦しむ母を無理やり生き永らえさせていただけに違いない。……母はきっと、父のために耐えていたのであろう。死んだほうが楽だったのに。一分でも一秒でも、彼のそばにいてあげようと病気の苦痛に耐えていたのだろう。
だけど、今はもう母はここにはいない。
痛みを感じることも、苦しくてうなされることもない。
置いていかれる側は悲しくて寂しくて仕方ないが、母はやっと楽になれたのではないかと俺はホッとしていたりする。
父が食事をせずに部屋にこもっているとお手伝いさんから報告が来たので、俺は仕事の合間を見て父の元にやってきた。
日が暮れたというのに父はサンルームの席に深く腰を掛けていた。日向ぼっこしている間に寝入ってしまったのだろう。
「父さん、体を冷やすから」
父を起こそうと身体を揺らすと、だらり、と父の腕が膝の上から落ちた。
「……父さん?」
親は滅多なことがない限り、子よりも先に逝くものだ。
母を亡くした後は尚更それを強く意識していた。……大きくて立派だった父は、どんどん小さくなり、弱々しい老人となってしまった。俺はその姿を見る度に不安に襲われていた。
……いつかその日が来るとわかっていたが、来たら来たで……寂しくて悲しい気持ちに襲われる。
そっと父の顔を覗き込んだ。
……父はぐっすり眠っているように見えた。だけど彼からはもう命の鼓動が消えて無くなっていた。
母さんが逝ってから数年、父さんは母さんの言いつけ通りに長く生きた。
だけど本音を言えばそのまま後を追いたかったに違いない。父さんも母さんのことが大好きだったから。
……これでふたりとも同じ場所に還るんだな。
視界がじわりじわりと滲む。目頭が熱くてたまらない。俺は目元を抑えて溢れてきそうな熱いものを堪えた。
──彼らは、再び会えただろうか?
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