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三章

変化の兆し

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 柔らかい朝陽を顔に受けながら、私はいつものように参道の石畳を草帚で掃いていた。時折小さな桜の花びらが、目の前をひらひらと通り過ぎては石畳の上に積もっていく。
 実に気持ちの良い朝だった。優しく包み込んでくれるような日射しが何とも心地よくて、私はもう二往復ほどもして、境内の石畳を掃き終えていた。賽銭箱の前に集められた桜の花びらが、こんもりと小さな山を作っている。だがそれでもまだこの柔らかな日射しを堪能しきれなくて、私は今、拝殿に向かって三往復目を終えようとしているところである。暖かい日差しと適度に冷えた朝の空気が、私に不思議な安心感を与えてくれていた。
 ようやく三往復目を終え、私が満足感に浸りながら箒を地面に置いた時、
 ゴウッ―――!
 一陣の風が吹いた。
 集められた桜の花びらが勢いよく舞い上がり、青空の向こうに消えていく。杉の梢がざあざあと音を立ててしなやかに揺れる。
 私は思わず目を瞑った。
 その時、
「すみません」
 背後から突然声を掛けられた。
 女性の声だった。
 びっくりして振り返ると、数メートルほど先の所に、一人の女の子が佇んでいた。年上だろうか。背丈は私よりも少し高い。栗色の髪をさらさらと風になびかせながら、彼女は眩しい朝陽に目を少し細くしていた。
 休日にもかかわらず、何故か彼女は制服を身に着けていた。白のブラウスの上に、白の長袖セーター。紺色無地のプリーツスカートに茶色のローファー。スカートはちょうど膝上あたりまで降ろされており、その前で重ねられた両手からは黒のスクールバッグが下げられていた。
 見ない制服だ。隣町の学校の生徒だろうか。
 風が収まると、なびいていた彼女の髪先が肩のあたりで落ち着いた。髪先は内側に向かって軽く丸まっており、ちょうど彼女の耳元を隠している。端正な顔立ちをした彼女の瞳は、その柔らかそうな髪と同じ色をしていた。
 素直に、とても可愛らしい人だと思った。
「あの……突然の訪問、申し訳ありません」
 私が思わず見とれていると、その彼女がおずおずと口を開いた。
 透き通るような綺麗な声に、私ははたと我に返る。
「は、はい……何か御用でしょうか?」
「……えと、私、春風美鈴と申します。隣町の中学校に通っている者です」
「……はあ」
「実は、こちらの神社の神主様に、折り入ってお願いしたいことがありまして……」
「神主に、ですか?」
「はい。その件で、本日はこちらにお伺いさせてもらったのですが、神主様は今、どちらにいらっしゃいますでしょうか?」
 慇懃に彼女が訊ねてきた。
「…………」
 私は一瞬、言葉に詰まってしまう。
 神主は父だ。だがもちろん、父は今この場所にはいない。そのため、彼女が目的とする人物に会わせてあげることはできない。
 しかし、
「お願い……とは、どういったことでしょうか?」
 それだけの理由で目の前の彼女を門前払いのように帰らせてしまうのは流石に申し訳がなかったので、私は一応、彼女の話を聞いてみることにした。隣町の学校に通っているということは、ここに来るのにもかなりの時間を要しただろう。隣町とこの町とを行き来するバスを使ったとしても一時間弱は掛かるはずだ。
 私が訊ねると、彼女は少しだけ目を泳がせた後に、
「実は私、今、霊に憑りつかれていまして……それを神主様に祓っていただきたいんです」
 小さな声でそう言ってきた。
「霊に?」
 予想していなかった彼女の言葉に、私が思わず訊き返すと、彼女は小さく首を縦に振った。
「はい。実は私、昔から霊に憑かれやすい体質でして、これまでにも何度か、こういうことがあったんです」
「……はあ」
「これまでは、地元の神社に頼んでお祓いをしてもらっていました。ですが……今回のはその、少し質の悪いモノのようでして……その神社からは断られてしまったんです」
「……それで、うちに?」
「……はい。何とかお願いできないでしょうか?」
「……なるほど」
 上目遣いに懇願してくる彼女の視線を受けながら、私は胸中で静かに納得していた。確かに彼女をよくよく観察してみると、彼女の身体の内側からは、何か良くない〝気〟が流れ出ているようだった。ねっとりとした嫌な気配を感じる。質の悪い霊に憑りつかれたという話は本当のようだ。隣町にも神社はあるだろうに、何故わざわざうちの神社を訪ねてきたのか不思議だったが、どうやらそういう事情があったらしい。
 彼女の話を聞いて、私は力になってあげたいという気持ちにはなったのだが、
「すみません。神主は今、所要のため出掛けておりまして、申し訳ありませんが他を当たっていただけますか?」
 彼女の望みを聞き入れてあげることはできなかった。
 祓いは神主の役割。父が不在のこの神社では、彼女の要望を叶えてあげることはできない。
 私には彼女に向かって頭を下げること以外、できることはなかった。
 しかし、
「あ、あの、神主様がお戻りになるまで待っていますので―――ですから、どうかお願いできませんか?」
 柔らかそうな見た目に反して、彼女は意外にも素直に引き下がってはくれなかった。
 よほど困っているのだろう。大きな瞳にうっすら涙を浮かべながら、私に嘆願の視線を送ってくる。
 私は弱ってしまった。彼女から目を逸らして、参道に落ちていた桜の花びらを見つめる。
 本当にここで待たれてしまっては、神主である父がいないことがばれてしまう。そうなれば、彼女に余計な詮索をされ、また妙な噂を流されかねない。隣町にまでは、まだ兄の悪い噂も広がっていないだろう。これ以上、兄を傷つける要素をいたずらに増やしたくはなかった。
「申し訳ありませんが―――」
 別に彼女を疑っているわけではなかったが、こればかりは仕方がない。彼女にはできるだけ早く、この場所を去ってもらうのがこちらにとっては賢明だ。
 そう判断して、私が再度彼女の申し出を断ろうとした、その時、
「客人か、さよ」
 私のすぐ背後から、男の太い声がした。
 その声を聞いた瞬間、私の身体は文字通り硬直した。全身の血がゴウと音を立てて頭に上っていくような感覚に襲われ、目の前の彼女の姿が一瞬、蜃気楼のようにぐにゃりと歪んだ。時が止まったような感覚すら覚えた。
 しかし、それは本当に一瞬のことで、その声を認めた次の瞬間には、私は電気ショックでも受けたような反射速度で後ろを振り返っていた。
「兄さん……⁉ どうして……」
 声が震えた。
 私のすぐ後ろに、兄の姿があった。染みだらけになった灰色の部屋着に身を包んで、鼻緒の切れたサンダルを足に引っかけている。
 これまで、食事と生理現象以外で、兄があの小屋から出てくることはなかった。トイレに行く途中だったのかと一瞬考えたりもしたが、トイレは本殿の後ろに位置しているため、ここを通る必要はない。つまり兄は、紛れもなく自主的に、私たちの前に姿を現したのだ。
「…………」
 あまりに突然の兄の行動変化に、私はそれ以上言葉が出なかった。
「あの……そちらの方は……?」
 私たちのやり取りを見ていた彼女が、恐る恐る口を挟んできた。
 はっと我に返る。
 兄に気を取られて、彼女の存在を忘れてしまっていた私は、慌てて彼女に向き直った。
「え、ええと、か、彼は、私の兄です」
 動揺を隠しきることができず、私は少し舌を噛んでしまった。
 だが、彼女は特に気にした様子も見せず、
「お兄さんでしたか。初めまして。私は隣町の中学校に通っている、春風美鈴といいます」
 兄に向って丁寧に頭を下げた。
「……ああ」
 兄は少し困惑したように視線を下げて、頭の後ろを掻いた。
「今日は、こちらの神主様にお祓いをお願いしに来たのですが、あいにくご不在だったようですね」
「……そうだな」
 ぶっきらぼうに兄が答える。
「お騒がせしてしまってすみません。これ以上はご迷惑になってしまうと思いますので、妹さんの仰る通り、他を当たってみることにします」
 小さく頭を下げると、彼女は踵を返そうとした。
 だがその時、
「待て」
 兄が彼女を呼び止めた。
 その声に、彼女が少し驚いたように振り返る。
「霊に憑りつかれて困っているのだろう?」
 兄がそう言うと、彼女は目を丸くした。
「どうして、そのことを……?」
「見ればわかる。君の霊力は、常人のそれと比べると少し多いようだ。その霊力に引かれて、色々と良くないものが集まってくるのだろう」
「……霊力、ですか……?」
 彼女が小さく首を傾げた。
「俺が診よう」
「えっ……⁉」
 声を上げたのは私の方だった。
「なんだ。俺がやったら、何かまずいことでもあるのか?」
 じろりと、兄が私を睨んでくる。
「あ、いえ……そんなことは、ないですけど……」
 私は慌てて口を閉じた。
 しかし一瞬、兄の口から出た言葉か疑った。私は内心かなり混乱していた。
 兄が自分から人に関わろうとすることなど、これまでにはなかったことだから。
 一体兄に、どのような心境の変化が起こったというのか―――
「お兄さんは、お祓いができるのですか?」
 彼女が兄に訊ねた。
 兄はゆっくりと頷き、
「一通りのことはできる。君に憑いている程度の霊なら、問題なく祓えるはずだ」
 相変わらずぶっきらぼうな物言いだったけれど、そこには彼女を邪険に扱うような響きは含まれていなかった。
「そう、ですか。……では、お願いしてもよろしいでしょうか?」
 彼女はまだ若干戸惑っている様子ではあったが、兄の申し出を受けたいようだった。彼女にとっては願ってもないことだっただろう。
「わかった。なら悪いが、拝殿の中にまで来てくれ。そこでやる」
 それだけ言い残すと、兄は私たちに背を向け、一人拝殿の方に歩いて行ってしまった。
 その後ろ姿を見つめながら、私はじわじわと込み上げてくる喜びに浸っていた。
 しらしらと降り注ぐ春の陽光に、兄は眩しそうに手をかざしていた。
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