呪縛 ~呪われた過去、消せない想い~

ひろ

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三章

起こった奇跡

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 その日を境に、兄の生活が少しずつ変わり始めた。
 まず、小屋に籠りきりになっていることが少なくなった。
 朝は私が呼びに行くよりも前に納屋に来てくれるようになったし、境内の掃除も私と共同で行うことが多くなった。服は上下とも相変わらず灰色のスウェットだったが、いつもぼさぼさだった頭は綺麗に整えられていた。
 兄はもっぱら参道の清掃を好んで行ったのだが、境内を箒で履いている間、兄はずっと神門の方を見つめていた。私にはそれが、例の彼女がまた訪れてくれるのを、今か今かと心待ちにしているように見えた。
 そんな兄の想いが通ってなのか、彼女が再び私たちの神社を訪ねて来たのは意外にも早いことだった。それは彼女が初めてこの神社を訪れてから、ちょうど一週間が経過した日のことだった。
 その日の朝も、柔らかな春の陽光が境内に降り注いでいた。
 私と兄はいつも通り、境内の掃除を行っていた。私は雑巾で賽銭箱を拭き、兄は私の後ろで草帚を動かしていた。しかし不意に、兄の箒を動かす音が止まったのが気になって、私は後ろを振り向いた。
 すると神門の向こうから、誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。彼女だった。前回と同じ制服姿だ。彼女は、箒を持ったまま佇んでいる兄の前まで来ると、
「すみません。お言葉に甘えてまた来てしまいました。今日も、お願いしてもよろしいでしょうか?」
 そう言って、はにかんだような笑みを浮かべた。
 突然の彼女の訪問。しかし間違いなく望んでいたに違いない彼女の来訪に、兄はしばらく口をもごもごとさせていたが、やがて咳払いを一つすると、ゆっくりと箒を地面に置いた。
「ああ、問題ない」
 それだけ言うと兄は、彼女を拝殿へと促した。兄の後ろから彼女がついて行く。彼女は安心したように頬を緩ませていた。
 途中、私とすれ違う時、
「すみません。お世話になります」
 と言って、彼女は小さく頭を下げてきた。礼儀正しい人だなと思った。少なくとも私は、彼女に対し悪い印象は抱いていなかった。
 拝殿の中に入ると、兄はこの間と同じように彼女を自分の前に座らせ、除霊作業を行った。私も同席した。神のごとき兄の手際を、もう一度見てみたかったのだ。
 相変わらず全く無駄を感じさせない、才能の差を突き付けられるような手腕で、兄は彼女の除霊を終えた。
「終わりだ」
 兄が彼女の背中から手を離した。
 張り詰めていた部屋の空気が弛緩する。
「ありがとうございます」
 彼女は正座のまま身体を後ろに向けると、兄に向って丁寧に頭を下げた。柔らかそうな彼女の髪先が、少しだけ床に触れた。
「……いや」
 兄は彼女から視線を逸らし、頭の後ろをポリポリと掻いた。
「……じゃあ、俺はこれで……」
 そう言うと兄は立ち上がり、格子扉に手を掛けた。
 そのまま、出て行くのかと思ったが、
「今日は……この後、何か予定でもあるのか」
 ぼそりと兄が言った。それは本当に、低くて小さな声だった。周りに何か物音でもあれば聞こえていなかっただろう。
 顔を上げた彼女が、小さく首を傾げた。
「いえ……今日は特に、何もありませんけど」
 脈絡の見えない兄の質問に、彼女は少し戸惑っているようだった。
 彼女の答えを聞くと、兄の肩がピクッと上がった。
「そう、か。なら、昼飯でも食べていくと、いい。除霊で、少なからず体力も、消耗しているだろう」
 所々言葉を噛みながら、兄が早口でそう言った。
 彼女が驚いたように目を大きくする。
「い、いえ! そんな、申し訳ないですよ」
 彼女がぱたぱたと両手を胸の前で振ると、背中を向けたままの兄が慌てて付け加えるように言った。
「い、いや、ちょうど俺たちも昼にしようと思っていたところだ。遠慮することはない。そうだよな、さよ」
 そこで突然、兄が私に話しを振ってきた。
 兄と彼女のやり取りを呆然と見ていた私は、つい反射的に、
「あ、はい! そうですね」
 と答えてしまった。
 実際お昼時ではあったし、食材も余裕をもって買い込んでいたので、特に問題はなかったのだが、突然降ってきた兄の提案に、私も彼女と同様に驚いていた。
「ほら、こっちは何の問題もない。だからもし、君の都合さえ良かったらなんだが―――」
 そこで兄は言葉を切った。最後の方は聞き取れないほど小さな声量だった。
 奇妙な静寂が拝殿の中に落ちる。兄がごくりと唾を飲み込む音が、微かに聞こえてきた。それが彼女にも聞こえていたかはわからないが、彼女は、兄の背中を見つめ、しばらく目をぱちくりとさせた後に、
「……わかりました」
 小さな声でそう答え、
「では、ご厚意に甘えさせてもらってもよろしいでしょうか?」
 遠慮がちな上目遣いで、私と兄を交互に見てきた。
「あ、ああ、もちろんだ」
 上擦った声で兄が答えた。
「さよ、昼食の準備だ」
「えっ……ああ、はい」
「何か手伝えることがあったら声を掛けてくれ」
 早口にそう言い残すと、兄は扉を開けて拝殿から出て行ってしまった。
 私は立ち上がり、正面の格子扉から、去っていく兄の姿を覗いた。兄の足取りは軽いようだった。所々にリズムのようなものが混じっている。小屋がある杉林に入っていくところで、ちょうど横顔が見えたのだが、兄は陽光に目を細めながら、僅かに口角を上げていた。
 そんな兄の顔を見て、私は確信した。昔から人の感情やその変化に対しては疎い私だったが、これだけの状況を目の当たりにすれば、その答えに辿り着くのは難しくなかった。
 ―――兄は、春風美鈴に対し好意を抱いている。
 そう確信した。
 私は感謝した。他の誰でもない、彼女に。
 私は振り返り、彼女を正面から真っ直ぐに見つめた。彼女はちょうど正座から立ち上がったところで、痺れた足をさすっていたが、私と目が合うとにこりと微笑んだ。
 きっと彼女には、そんな気は全くなかったのだろう。兄の暗い事情を、彼女は何一つ知らない。
 だがそんな彼女こそが、兄を救ってくれた。わずか二週間ほど前まで、誰のことも信用せず、自分以外の人間は全員を敵だと思い込み、暗い部屋の中に閉じこもっていた兄を、明るい陽の下にまで連れ出してくれた。
 何という奇跡だろう。なんて素晴らしい変化だろう。こんな劇的な転機が訪れる日など、私は想像もしていなかった。
 止まっていた時間が動き出したような気がした。ようやく兄と一緒に、前に進んでいけるような気がした。
 これからは、きっと全てが上手くいく。
 そんな漠然とした明るい未来を、私は胸の内に抱いていた。


 ―――一時間後。
 太陽が一日の間で最も高い位置に昇る頃。
 私と兄、そして彼女を合わせた三人が、納屋の中で昼食を取っていた。
 兄と彼女が並んで座り、兄の向かいに私が座っていた。
 テーブルには簡素なメニューが並んでいた。白ご飯に味噌汁、そして鮭の塩焼きがそれぞれ器に盛られ、三人の前に置かれている。彼女の同席が事前にわかっていれば、もう少しまともな料理を出すこともできたのだが、なにぶん急なことだったのでこれくらいの料理しか用意できなかったのだ。
 しかしそれでも、彼女はありがとうございます、と私に頭を下げてくれた。優しい笑顔で「料理ができるなんてすごいですね」とも言ってくれた。
 本当に礼儀正しくて、優しい人だと思った。
「このお味噌汁、とても美味しいですね」
 器に口を付け、ほぅと息を吐きながら彼女が言った。
「……ありがとうございます」
 視線を少し下げながら、私はその言葉を素直に受け止めた。他人に料理を褒められるのはなんだかこそばゆく、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
 久しぶりに、和やかな空気が食卓に流れていた。
 いつもより少し長めの昼食を終えると、私は洗い物に取り掛かった。昼食の時間が常より長引いたのは、普段より食べ終わるのが遅かった兄が原因だ。いつもならさっさと食べ終えて納屋から出て行ってしまうのに、今日に限ってはそのスピードが異様に遅かった。それは恐らく隣に座る彼女のことを、ちらちらと横目で盗み見ていたことが原因なのだろう。
 台所で洗い物を片付けていると、「手伝いますよ」と彼女が私の隣にやって来た。「大丈夫です」と私は断ったのだが、私の返事を聞くよりも先に、彼女はシンクに置いてあったお皿を手に取っていた。
 ……彼女と食器を片付けている際中に言葉を交わしてわかった事なのだが、どうやら彼女は兄と同い年であるらしかった。学校が違わなければ兄と彼女は同級生になっていたのだ。
 それは今の兄にとって、この上なく幸せなことだったろう。
 もしそうなら、兄は不登校にならずに済んでいたのだろうか。家を出て行くこともなかったのだろうか―――と考えたりしたが、そんなことを考えても今更仕方がないし、彼女の前で余計なことを口走るわけにもいかないので、私はその思考を早々に中断し、お皿についた汚れをスポンジで拭き取る作業に集中した。兄が不登校であることは、今のところはまだ伏せておいた方がいいだろう。
 彼女は、自分のことは下の名前で呼んでくれて構わないと言ってくれた。
 二つも年上の彼女を、いきなり下の名前で呼ぶことには少々抵抗があったが、せっかくの彼女の気遣いを無下にしても申し訳ない気がしたので、私はその申し出を有難く受け入れておくことにした。その代わりというわけではないが、自分のことも名前で呼んでくれて構わないと伝えた。私がそう言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
 洗い物が終わり、一通りの食器を片付け終えると、私は、彼女と兄を鳥居の前まで見送りに行った。夜道でないにも関わらず、兄は彼女を家まで送って行くと言い張った。その理由は、彼女に憑りついていた霊のことで少し話がある、というものだったのだが、それはあくまで建前で、本当は少しでも長く彼女と一緒にいたいという兄の魂胆を私は見抜いていた。そんな兄を、私は微笑ましく思った。
 それから更に一週間後、また彼女が訪れてきた。理由はこれまでと同じ。同様に兄が対応した。そしてお昼ご飯を一緒に食べた。
 その次の週も、彼女はやってきた。次の週も、またその次の週も―――気づけばもう一か月ほども、彼女は毎週のようにこの神社に足を運んでいた。その目的はどれも除霊だったのだが、兄を頼らなければならないほど厄介な霊に憑りつかれているようには見えない日もあった。それなのに彼女がわざわざこの神社に通ってくれる理由は、おそらくこの神社のことを少なからず気に入ってくれているからであり、また兄のことを快く思ってくれているからなのだろう。
 兄と話している時の彼女は、私と話している時とはどこか異なって見えた。仄かに頬を上気させ、憧れと思慕が入り混じったような瞳を湛えて、兄のことを見つめていた。ひょっとすると、彼女も兄と同じ気持ちなのかもしれない。そうだったらいいな、と私は思った。
 彼女が訪れるようになってから、兄の笑う回数が増えた。濁っていた瞳に光が宿り、身体には活力が漲り始めているようだった。彼女という存在が現れたことで、生きる希望というものを取り戻せたのかもしれない。
 彼女と出逢ったあの日から、兄の運命は確かに変わり始めていた。暗闇を彷徨っていた兄に一筋の光が差し込んだ瞬間だったのかもしれない。兄にとって、それはまさしく希望の光だったのだろう。
 彼女が兄を認め、そして変えてくれた。彼女にしてみれば、それは決して意識的にしたことではなかったのだろうが、私からはやはり感謝の気持ちしかなかった。
 本当に喜ばしいことだった。
 ただ、実の妹として何もできなかった自分を、少々不甲斐なく思ってしまう気持ちもどこかにはあった。私がどんなに頑張り寄り添っても、ヒビ一つ入れられなかった兄の心の壁を、彼女はいとも簡単に壊してしまった。それは本当に凄いことなのだが、そんな彼女と自分を比べてしまうと、私は兄と血がつながっているだけに、どうしても情けない気持ちになってしまうのだ。
 家族として、妹として、兄にもっとしてあげられることはなかったのだろうか。私は一体、これまで何をしてきたのだろう。
 そう自問を繰り返してみたが、納得のいく答えは得られなかった。考えれば考えるほど、惨めな気持ちが増すばかりだった。だから私は考えないようにした。兄が幸せならばそれでいいと思ったし、自分の気持ちなんて栓無きことだと考えたからだ。兄の幸せこそが私の幸せ。私はそう、思うようにした。
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