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五章
本懐の果てに
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「ぐっ……あっ……」
男が苦悶の声を上げる。
「兄、さん……」
さよが男に手を伸ばす。
しかし、
「失せろ!」
男の言霊によって、彼女の身体は弾き飛ばされた。
高い放物線を描きながら彼女の身体は宙を舞い、座り込んでいた俺の腹の上に落下してきた。
「ぐっ、げほっ……さよ! 大丈夫か⁉」
その衝撃に咳き込みながら、俺は彼女の身体を抱きかかえる。
「うっ……」
小さなうめき声を漏らした。
「兄さん……」
薄っすらと目を開け、彼女がもう何度目かのその言葉を呟く。
血を失った身体に力を入れて立ち上がろうとする。
「やめろ! これ以上は無理だ!」
本当に危険だと思って、俺は抱き着くようにして彼女の身体を抑えた。
今度は、俺の力の方が強かった。
「兄さん、兄さん……」
「やめてくれ! お前がここまでする必要はない!」
尚も言葉を繰り返し、男に手を伸ばす彼女に、俺は叫ぶように言った。
彼女の身体はぞっとするくらいに冷たく、心なしか脈も弱っているようだった。
限界だ。このままでは本当に取り返しのつかない事態になってしまう。
少しでも彼女の身体を温めようと、俺は彼女に身体を密着させ、自分の熱を分け与えてやる。気休めにしかならないことはわかっていたが、何もしないよりはマシだと思った。
「ぐっ……ああっ……」
その時、男がしわがれた呻き声と共に立ち上がった。
男の太ももに突き刺さったリボンはだらりと垂れており、男の血を吸ってドロリと黒く変色していた。
「ははっ……」
それを見て、男が乾いた声で嗤った。
「最後の最後でまた油断した。俺もまだまだ甘い」
「お前―――」
「だがお前もそいつも、もう動けないだろう。俺の勝ちだ。そこで大人しく見ていろ」
不敵な笑みを浮かべると、男は足を引きずりながら祭壇に近づいて行き、蛇腹状の祭文を手に取った。
「何をする気だ……?」
不吉な予感が脳裏をよぎった。
「言っただろう、一人でやると」
「……まだ、完成してないんだろ?」
「ああ。だが、もう待つのは御免だ。今日、この場所で終わらせる」
「……死ぬかもしれないんだぞ?」
「……はっ、この期に及んで俺の心配をするのか?」
男が冷笑を浮かべた。
「もう忘れたのか? 俺がお前たちに何をしたのか」
「…………ッ」
「全く……つくづくお前たちには辟易とさせられる。どいつもこいつも甘ったれた連中ばかりだ。吐き気がする」
男が心底疲れたようにかぶりを振った。
それから、ふうと少し長めに息を吐く。細く白い吐息が、天に吸い込まれていった。
「早くその馬鹿を病院に連れて行け。手遅れになるぞ」
「……えっ?」
一瞬、男の言葉を疑った。
「無駄な犠牲は不要だ。胸糞悪い」
「……なら、お前も一緒に―――」
「何度も言わせるな」
続ける言葉を遮って、男がぎろりと俺を睨んだ。
「俺にはもう構うな」
「…………」
「お前と違って、俺はもう引き返すことなんてできないんだよ」
ふっと、男が自嘲的な笑みを浮かべた。
「そんな中途半端なことは赦されない。この道を突き進む以外に、俺に選択肢は無いんだ」
諦めたみたいに、男が言った。その声は疲労に満ちており、早くこの軛から解放されたいと言っているように聞こえた。
「どうした? 行かないのか?」
「…………」
俺は答えない。何も言えなかった。
「まあいい。動けないのなら、そこで大人しくしていろ」
そう言うと男は、イヤリングを祭壇の上に置き、手に持っていた祭文を広げた。そして、厳かな声でそれを読経し始めた。
低くしゃがれた男の声が境内に不気味にこだましては消えていく。俺は暗闇に浮かぶ男の横顔を、ただ茫然と眺めていることしかできなかった。
ゴロゴロ―――
不意に、雷鳴が轟くような音が聞こえた。
ふと、上空を見上げると、俺はそこに信じられないものを見た。
先ほどまで薄雲が張っている程度だった冬空に、まるで積乱雲のような巨大な暗雲が立ち込め始めていたのだ。その暗雲は見る見るうちにその大きさを増していき、唯一の灯りだった月を完全に覆い隠してしまった。
雲の表面にはパリパリと細い稲妻が無数に走っている。そのわずかな光が、暗闇に包まれた境内を不気味に明滅させている。腹の底に響くような雷鳴が、地面を小刻みに振動させていた。
ぞわりと、全身に鳥肌が立った。
本能の部分が、逃げろと五月蠅いくらいに警鐘を鳴らしてくる。
だが身体が動かない。立ち上がれない。
俺の目は、闇の向こうで見え隠れする男の姿に釘付けになっていた。結末を見届けろと言われているかのようだった。
やがて男の声が止んだ。
男は祭文を丁寧に折りたたむと、ゆっくりとした動作でそれを棚の上に置いた。
そして目を瞑り、すうと息を吸い込むと、
パンッ―――!
両掌を打ち鳴らした。
刹那、
暗雲に呑まれた空がピカッと光り、
ドオオオオオォォォォオオオオオン――――――!
目の前に太い光の矢が突き刺さった。
大地を揺るがすような轟音が辺りに響き渡る。
凄まじく太い稲妻が、男めがけて一直線に落とされたのだ。
爆音が耳を劈き、激しい閃光が目を焼く。
俺は咄嗟にさよを庇うようにして地面にひれ伏していた。目を閉じ、耳を覆い、爆音が過ぎ去るのを待つ。
…………どれくらいした頃か。
時間にすれば一分も経っていないだろうが、地面の揺れが収まり、雷鳴が遠ざかっていった頃、俺はゆっくりと顔を上げて辺りを見回した。一瞬前のことが嘘のように、境内には不気味な闇と静けさが戻っていた。
すんと、何かが焦げるような匂いが鼻をついた。
視線を動かすと、落雷を直撃したであろう祭壇の辺りが静かに燃えているのが見えた。ちろちろと蛇の舌のような炎を上げている。
状況を確かめようと、俺は立ち上がる。その時、不意に右手を引っ張られた。見るとさよが、無言で俺の手を握っており、じっとこちらに視線を送っていた。自分も連れて行けということだろうか。
少し迷ったが、俺は彼女を肩に抱えると、燃える祭壇へと足を向けた。
祭壇はまさに木端微塵に破壊されており、その破片のほとんどが炭と化していた。もはや原型は留めていない。
つんと、嫌な臭いがした。肉の焦げるような匂いだ。
そこで、俺はようやく、壊れた祭壇の向こうに倒れる男の存在に気が付いた。闇の色に同化していてわからなかったのだ。
俺は彼女と一緒に男の側にまで行く。
だが、倒れた男の姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
男の身体は、もう人間のそれではなかった。
狩衣は焼失し、裸同然となった男の身体は、まるで皮膚を引きはがされたように全身血まみれになっており、夜目にもわかる程の白い煙をそこから立ち昇らせていた。
「かっ……はっ……」
男の口から血反吐が吐き出された。
ヒューヒューと喉を鳴らしている。
まだ辛うじて生きてはいるようだったが、それも時間の問題だと思った。
誰も目にも明らかだった。
―――失敗だ。
「兄さん……?」
俺に抱えられていたさよが、呆然としたように呟いた。
俺の身体から離れ、男の横に膝を付く。
「兄さん……兄さん……」
彼女は、筋肉繊維が露になった男の肩を揺すった。
揺らされる度、男の身体からはぬちゃぬちゃと嫌な音が発せられる。
見ていられず、俺は思わず目を逸らした。
だがその先に、きらりと光る何かが落ちているのが目に入った。
イヤリングだった。それは落雷の影響を免れていたようで、綺麗な光沢を放ったままポツンとそこに落ちていた。
せめてそれだけでも男に返してやろうと、俺が手を伸ばしかけた時、
ボウッ―――
突然、そのイヤリングが淡い光を発した。驚いて手を引っ込める。
するとそこから、小さな光の玉のようなものが飛び出してきた。
それはふわふわと空中を漂い、男の頭上にまで行くと、ゆっくりとその高度を下げ、男の目の前にふわりと落ちた。
それに気が付いたのか、男がうっすらと目を開ける。
「美鈴……なのか……」
掠れた声で男は言った。
「よかった……」
男は肉の露になった右手を動かし、その光を優しく包み込むと自分の胸の前にまで持っていった。
と、次の瞬間、
「………ッ」
男を中心として淡い橙黄色に発光する半球体が、どこからともなく出現してきたかと思うと、それは男とさよ、そして俺の身体をすっぽりと覆い込んだ。
その半球体は内部から表面に至るまで、全てが無数の光の粒子から構成されているようだった。
「これは……美鈴さんの霊力……」
さよが驚きに満ちた声で呟きながら、辺りを見回している。
俺は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
俺の目には、それはまるで巨大なスノードームのように映っていた。
雪の代わりに、俺たちに優しく降り注ぐ無数の光の粒子たち。その粒子の一つひとつが身体に触れる度にそこから柔らかな温もりが伝わってくる。
何故だろう。
明らかに異常な現象が自分の身に起こっているはずなのに、恐怖という感情が全く湧き上がってこない。むしろ不思議な安心感すらある。ありとあらゆる負の感情が取り払われ、徐々に心が凪いでいくような―――そんな神秘的とも思える感覚が心の内に広がっていく。
「……は……ははは……」
不意に男の笑う声が聞こえた。視線を下に移す。と同時に俺は少し目を見開いた。
温かな光の粒子に包まれ、血まみれになった顔の下で、男は笑っていた。その笑みは、これまでのような下品で冷たい、人を見下すような嘲笑などとは違う―――穏やかで安らぎに満ちた、どこか無垢な子供のような雰囲気すら感じさせる、そんな自然にこぼれた微笑みのように見えた。
「そう、か……ずっと、俺の側に、いてくれたんだな……」
肺をごろごろと鳴らし、掠れ切った声で男が呟くように言った。
「本当に、よかった……これで……やっと―――」
そこで男の言葉は途切れた。空気を引っ掻くような微かな呼吸音が消える。と同時に俺たちを包んでいた光のドームが音もなく消失した。じっとりとまとわりつくような静けさが再び境内に戻ってくる。
「兄さん……?」
さよが男の身体を揺すった。
「兄さん……兄さん……!」
だがいくら呼んでも、男は応えてくれない。
「…………」
やがて全てを理解すると、さよはゆっくりと首を振りながら天を仰いだ。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああ――――――」
大きく口を開け、感情を爆発させた。
彼女が壊れた瞬間だった。
堰を切ったように、彼女の両目から涙が溢れ出してくる。恥ずかしげもなく、まるで小さな子供のように、彼女はわあわあと声を上げて哭き叫んだ。
まさに魂の叫びだった。これまでに押し殺してきた全ての感情を、全ての想いを、天に向かって吐き出しているように見えた。
彼女の悲痛な叫び声が広い境内に響いては消えていく。心が引き裂かれそうな叫声が、遠い冬空にこだましては消えていく。
彼女の哭き声は、遠い東の空が薄っすらと白み始める頃まで続いた。
男が苦悶の声を上げる。
「兄、さん……」
さよが男に手を伸ばす。
しかし、
「失せろ!」
男の言霊によって、彼女の身体は弾き飛ばされた。
高い放物線を描きながら彼女の身体は宙を舞い、座り込んでいた俺の腹の上に落下してきた。
「ぐっ、げほっ……さよ! 大丈夫か⁉」
その衝撃に咳き込みながら、俺は彼女の身体を抱きかかえる。
「うっ……」
小さなうめき声を漏らした。
「兄さん……」
薄っすらと目を開け、彼女がもう何度目かのその言葉を呟く。
血を失った身体に力を入れて立ち上がろうとする。
「やめろ! これ以上は無理だ!」
本当に危険だと思って、俺は抱き着くようにして彼女の身体を抑えた。
今度は、俺の力の方が強かった。
「兄さん、兄さん……」
「やめてくれ! お前がここまでする必要はない!」
尚も言葉を繰り返し、男に手を伸ばす彼女に、俺は叫ぶように言った。
彼女の身体はぞっとするくらいに冷たく、心なしか脈も弱っているようだった。
限界だ。このままでは本当に取り返しのつかない事態になってしまう。
少しでも彼女の身体を温めようと、俺は彼女に身体を密着させ、自分の熱を分け与えてやる。気休めにしかならないことはわかっていたが、何もしないよりはマシだと思った。
「ぐっ……ああっ……」
その時、男がしわがれた呻き声と共に立ち上がった。
男の太ももに突き刺さったリボンはだらりと垂れており、男の血を吸ってドロリと黒く変色していた。
「ははっ……」
それを見て、男が乾いた声で嗤った。
「最後の最後でまた油断した。俺もまだまだ甘い」
「お前―――」
「だがお前もそいつも、もう動けないだろう。俺の勝ちだ。そこで大人しく見ていろ」
不敵な笑みを浮かべると、男は足を引きずりながら祭壇に近づいて行き、蛇腹状の祭文を手に取った。
「何をする気だ……?」
不吉な予感が脳裏をよぎった。
「言っただろう、一人でやると」
「……まだ、完成してないんだろ?」
「ああ。だが、もう待つのは御免だ。今日、この場所で終わらせる」
「……死ぬかもしれないんだぞ?」
「……はっ、この期に及んで俺の心配をするのか?」
男が冷笑を浮かべた。
「もう忘れたのか? 俺がお前たちに何をしたのか」
「…………ッ」
「全く……つくづくお前たちには辟易とさせられる。どいつもこいつも甘ったれた連中ばかりだ。吐き気がする」
男が心底疲れたようにかぶりを振った。
それから、ふうと少し長めに息を吐く。細く白い吐息が、天に吸い込まれていった。
「早くその馬鹿を病院に連れて行け。手遅れになるぞ」
「……えっ?」
一瞬、男の言葉を疑った。
「無駄な犠牲は不要だ。胸糞悪い」
「……なら、お前も一緒に―――」
「何度も言わせるな」
続ける言葉を遮って、男がぎろりと俺を睨んだ。
「俺にはもう構うな」
「…………」
「お前と違って、俺はもう引き返すことなんてできないんだよ」
ふっと、男が自嘲的な笑みを浮かべた。
「そんな中途半端なことは赦されない。この道を突き進む以外に、俺に選択肢は無いんだ」
諦めたみたいに、男が言った。その声は疲労に満ちており、早くこの軛から解放されたいと言っているように聞こえた。
「どうした? 行かないのか?」
「…………」
俺は答えない。何も言えなかった。
「まあいい。動けないのなら、そこで大人しくしていろ」
そう言うと男は、イヤリングを祭壇の上に置き、手に持っていた祭文を広げた。そして、厳かな声でそれを読経し始めた。
低くしゃがれた男の声が境内に不気味にこだましては消えていく。俺は暗闇に浮かぶ男の横顔を、ただ茫然と眺めていることしかできなかった。
ゴロゴロ―――
不意に、雷鳴が轟くような音が聞こえた。
ふと、上空を見上げると、俺はそこに信じられないものを見た。
先ほどまで薄雲が張っている程度だった冬空に、まるで積乱雲のような巨大な暗雲が立ち込め始めていたのだ。その暗雲は見る見るうちにその大きさを増していき、唯一の灯りだった月を完全に覆い隠してしまった。
雲の表面にはパリパリと細い稲妻が無数に走っている。そのわずかな光が、暗闇に包まれた境内を不気味に明滅させている。腹の底に響くような雷鳴が、地面を小刻みに振動させていた。
ぞわりと、全身に鳥肌が立った。
本能の部分が、逃げろと五月蠅いくらいに警鐘を鳴らしてくる。
だが身体が動かない。立ち上がれない。
俺の目は、闇の向こうで見え隠れする男の姿に釘付けになっていた。結末を見届けろと言われているかのようだった。
やがて男の声が止んだ。
男は祭文を丁寧に折りたたむと、ゆっくりとした動作でそれを棚の上に置いた。
そして目を瞑り、すうと息を吸い込むと、
パンッ―――!
両掌を打ち鳴らした。
刹那、
暗雲に呑まれた空がピカッと光り、
ドオオオオオォォォォオオオオオン――――――!
目の前に太い光の矢が突き刺さった。
大地を揺るがすような轟音が辺りに響き渡る。
凄まじく太い稲妻が、男めがけて一直線に落とされたのだ。
爆音が耳を劈き、激しい閃光が目を焼く。
俺は咄嗟にさよを庇うようにして地面にひれ伏していた。目を閉じ、耳を覆い、爆音が過ぎ去るのを待つ。
…………どれくらいした頃か。
時間にすれば一分も経っていないだろうが、地面の揺れが収まり、雷鳴が遠ざかっていった頃、俺はゆっくりと顔を上げて辺りを見回した。一瞬前のことが嘘のように、境内には不気味な闇と静けさが戻っていた。
すんと、何かが焦げるような匂いが鼻をついた。
視線を動かすと、落雷を直撃したであろう祭壇の辺りが静かに燃えているのが見えた。ちろちろと蛇の舌のような炎を上げている。
状況を確かめようと、俺は立ち上がる。その時、不意に右手を引っ張られた。見るとさよが、無言で俺の手を握っており、じっとこちらに視線を送っていた。自分も連れて行けということだろうか。
少し迷ったが、俺は彼女を肩に抱えると、燃える祭壇へと足を向けた。
祭壇はまさに木端微塵に破壊されており、その破片のほとんどが炭と化していた。もはや原型は留めていない。
つんと、嫌な臭いがした。肉の焦げるような匂いだ。
そこで、俺はようやく、壊れた祭壇の向こうに倒れる男の存在に気が付いた。闇の色に同化していてわからなかったのだ。
俺は彼女と一緒に男の側にまで行く。
だが、倒れた男の姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
男の身体は、もう人間のそれではなかった。
狩衣は焼失し、裸同然となった男の身体は、まるで皮膚を引きはがされたように全身血まみれになっており、夜目にもわかる程の白い煙をそこから立ち昇らせていた。
「かっ……はっ……」
男の口から血反吐が吐き出された。
ヒューヒューと喉を鳴らしている。
まだ辛うじて生きてはいるようだったが、それも時間の問題だと思った。
誰も目にも明らかだった。
―――失敗だ。
「兄さん……?」
俺に抱えられていたさよが、呆然としたように呟いた。
俺の身体から離れ、男の横に膝を付く。
「兄さん……兄さん……」
彼女は、筋肉繊維が露になった男の肩を揺すった。
揺らされる度、男の身体からはぬちゃぬちゃと嫌な音が発せられる。
見ていられず、俺は思わず目を逸らした。
だがその先に、きらりと光る何かが落ちているのが目に入った。
イヤリングだった。それは落雷の影響を免れていたようで、綺麗な光沢を放ったままポツンとそこに落ちていた。
せめてそれだけでも男に返してやろうと、俺が手を伸ばしかけた時、
ボウッ―――
突然、そのイヤリングが淡い光を発した。驚いて手を引っ込める。
するとそこから、小さな光の玉のようなものが飛び出してきた。
それはふわふわと空中を漂い、男の頭上にまで行くと、ゆっくりとその高度を下げ、男の目の前にふわりと落ちた。
それに気が付いたのか、男がうっすらと目を開ける。
「美鈴……なのか……」
掠れた声で男は言った。
「よかった……」
男は肉の露になった右手を動かし、その光を優しく包み込むと自分の胸の前にまで持っていった。
と、次の瞬間、
「………ッ」
男を中心として淡い橙黄色に発光する半球体が、どこからともなく出現してきたかと思うと、それは男とさよ、そして俺の身体をすっぽりと覆い込んだ。
その半球体は内部から表面に至るまで、全てが無数の光の粒子から構成されているようだった。
「これは……美鈴さんの霊力……」
さよが驚きに満ちた声で呟きながら、辺りを見回している。
俺は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
俺の目には、それはまるで巨大なスノードームのように映っていた。
雪の代わりに、俺たちに優しく降り注ぐ無数の光の粒子たち。その粒子の一つひとつが身体に触れる度にそこから柔らかな温もりが伝わってくる。
何故だろう。
明らかに異常な現象が自分の身に起こっているはずなのに、恐怖という感情が全く湧き上がってこない。むしろ不思議な安心感すらある。ありとあらゆる負の感情が取り払われ、徐々に心が凪いでいくような―――そんな神秘的とも思える感覚が心の内に広がっていく。
「……は……ははは……」
不意に男の笑う声が聞こえた。視線を下に移す。と同時に俺は少し目を見開いた。
温かな光の粒子に包まれ、血まみれになった顔の下で、男は笑っていた。その笑みは、これまでのような下品で冷たい、人を見下すような嘲笑などとは違う―――穏やかで安らぎに満ちた、どこか無垢な子供のような雰囲気すら感じさせる、そんな自然にこぼれた微笑みのように見えた。
「そう、か……ずっと、俺の側に、いてくれたんだな……」
肺をごろごろと鳴らし、掠れ切った声で男が呟くように言った。
「本当に、よかった……これで……やっと―――」
そこで男の言葉は途切れた。空気を引っ掻くような微かな呼吸音が消える。と同時に俺たちを包んでいた光のドームが音もなく消失した。じっとりとまとわりつくような静けさが再び境内に戻ってくる。
「兄さん……?」
さよが男の身体を揺すった。
「兄さん……兄さん……!」
だがいくら呼んでも、男は応えてくれない。
「…………」
やがて全てを理解すると、さよはゆっくりと首を振りながら天を仰いだ。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああ――――――」
大きく口を開け、感情を爆発させた。
彼女が壊れた瞬間だった。
堰を切ったように、彼女の両目から涙が溢れ出してくる。恥ずかしげもなく、まるで小さな子供のように、彼女はわあわあと声を上げて哭き叫んだ。
まさに魂の叫びだった。これまでに押し殺してきた全ての感情を、全ての想いを、天に向かって吐き出しているように見えた。
彼女の悲痛な叫び声が広い境内に響いては消えていく。心が引き裂かれそうな叫声が、遠い冬空にこだましては消えていく。
彼女の哭き声は、遠い東の空が薄っすらと白み始める頃まで続いた。
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