すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第一章

遠い記憶

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 闇の中、黒猫はどんどん落ちていく。
 落ちて、落ちて、落ちて。
 どれだけ落ちたのかはわからない、ようやく底にたどり着いた。
 ここはどこだろう。ぼんやりした頭であたりを見回すと、暗闇の奥で小さな光が輝くのが見えた。近づくと、その光は徐々に大きくなっていく。大きくなって――
 ――そして、黒猫は生まれた。
 母猫が一心にぺろぺろと黒猫の体を舐めている。母のからだを覆うのは雪のように真っ白な毛並みだった。黒猫の黒い毛は父ゆずりだとのちに母から聞いたが、当の父に会ったことは一度もない。
 母は飼い猫だった。灰色が連なる集合団地の三〇三号室。それが彼女の世界。唯一の例外はベランダで、母は外の世界をいつも見下ろしていたという。
 自分以外の猫を見ることもなく終わるはずだった彼女の一生に、ある日転機が訪れた。その家のまだ小学生の末っ子がドアに靴を挟んで閉め損ねた。それだけのこと。けれど、わずかなその隙間から母は外の世界に飛び出した。逃亡期間はたったの三日間。その三日のうちに、彼女は野良猫の父に出会ったのだ。
 黒猫には兄弟が他に四匹いた。どれも黒と白が混ざったブチ猫だった。たとえば、靴下を履いたように足だけが白、黒のカーディガンを羽織ったようにお腹だけが白……といったように。
 黒猫だけが真っ黒だった。体も一番小さかった。母の乳をみんなで吸っていると、黒猫だけ押しのけられることも多かった。
 黒猫は欲しかった。兄弟に負けない大きな体も、母譲りの美しい白い毛も。
 すこし離れたところから、いつもうらやましげに見ていた。
 兄弟たちがじゃれあいに夢中になっているときに、母と珍しく二匹きりになったことがある。
『おかあさん。なんで僕だけ白い毛がないの? みんなにはあるのに。ださい黒い毛ばっかり……僕もおかあさんみたいなきらきらの毛がほしかった』
 黒猫がそうこぼすと、母猫は優しく微笑んでぺろりと黒猫の頬を舐めた。
『おかあさんはあなたの黒い毛が大好き。あなたを見ていると、おとうさんを思い出す』
 そう言って黒猫を見るときの母猫の瞳は、いつも子猫たちを見るときとは違う、不思議な色をしていた。
 やがて、部屋に知らない人間たちが沢山出入りするようになった。
 黒猫は人に頭を撫でられるのがこわかった。大きな手が自分に向かって伸びてくると、息が止まりそうになる。それなのに、大人から子どもから、人間はやたら子猫に触りたがる。他の兄弟は気持ち良さそうに目を細めていたけど、やっぱり黒猫は嫌だった。その手から逃れようともがいた。
 そんな黒猫を見て、人間はよく言った。『この子はちょっと難しい子だね』
 やがて兄弟たちは皆もらわれて行き、気づけば残る子猫は黒猫だけになっていた。
『おかあさん! 外がなんだか濡れてるよ。水が空から落ちて来る』
 窓の外を眺めていた黒猫が興奮ぎみに振り返ると、母猫はおかしそうに笑った。
『あれはね、雨。空には雲っていう白いふわふわしたものが浮かんでいて、いつも形を変えているの。雲がああして空を覆ってしまうと、やがて雨が降ってくる……』
 母の視線を追って、黒猫も灰色に染まる空を見上げた。
『雲になるとなんで雨が落ちてくるの?』
『おかあさんも知らないの』
『ええっ、おかあさんも知らないことあるの?』
『もちろん……沢山あるわ』
『へえええ。ああ、外にいって濡れてみたい! きっと気持ちいいんだろうなあ』
 少しでも雨に近づこうと、窓にへばりつくようにして必死だった。だから、そのとき母がどんな顔をしていたのかを知らない。
 黒猫はしあわせだった。だって、兄弟がいなくなった今、母猫が独り占めできた。
 兄弟たちを思って淋しげな顔を見せる母に寄りそう。
『僕がずっとそばにいるよ。ずっとずっと』
 だけど、黒猫はまだ知らなかったのだ。
 いつだって終わりはあっさり訪れるということ。

『あの、猫、みせてください……』
 末っ子がドアを開けると、立っていたのはそばかすを頬に散らした女の子だった。てっきり友達だと思い込んでいた末っ子は、見知らぬ子の出現に戸惑いの声をあげる。 
『あの、下に貼ってあった張り紙見て……猫もらえるって書いてあったから』
 ようやく合点して末っ子は女の子を中に入れた。口数は少ないが黒猫を見つめる瞳がきらきらと光っている。末っ子はなんだか誇らしげな気分になり、この子猫は生後六か月ほどで去勢手術は済んでいるから、ごはんは大人の猫と同じようにドライフードをあげるのがいいなど先輩顔で語った。
『あ、でも、おかあさんとかと一緒に来てもらったほうがいいかも? 親同士でなんかやりとりが必要だと思う。あたしだけだと、難しいことわかんないからさ。いちお名前とか連絡先、この紙に書いといてくれる?』
 『ちょっとトイレ』と付け足して足早に部屋を出た末っ子は気づかなかった。『親』という言葉が出た瞬間、女の子の表情が固く強張ったこと。鼻歌を口ずさみながら戻ってきたときには、女の子は黒猫とともに忽然と姿を消していた。

『静かにしててね』カバンの外でささやく声がした。
 そばかすの女の子はドアノブをひねり鍵が閉まったままであることを確認して、ようやくほっと息を吐き出す。黒猫を入れたカバンごと自分の部屋まで運び、しっかりとドアを閉める。
 カーペットに置いたカバンのファスナーをおずおずと開く。中にいた黒猫はぎょっとした。見慣れない女の子に、見慣れない部屋、嗅ぎなれない匂い。そして、どこにも母猫がいない。パニックのあまり鳴き続ける黒猫をよそに、女の子は嬉しそうに目尻を下げた。
『うちに猫ちゃんがいるなんて夢みたい。わたし、のぞみ。これからよろしくね』
 伸びてきた手がやっぱり怖くて、黒猫は部屋のはじっこまで逃げた。
『ちぇー、つれないの』
 口をとがらせながらも、楽しそうにのぞみは言った。
 なぜのぞみが逃げるように黒猫を連れ出したのか、その理由はすぐにわかった。のぞみはけして部屋の外に黒猫を出そうとしなかった。両親に黒猫を飼っていることを秘密にしていたからだ。
『ずっと猫を飼いたいって言ってたのに、もう全然聞いてくれないの。ひどいでしょ? でね、張り紙見たとき、運命だって思ったの。うち、パパもママも仕事でほとんどうちにいないの。だから、絶対ばれないよ』
 いつも作り置きのご飯を温めてひとりで食べていたのぞみは、黒猫が来てからは一緒にごはんを食べる相手ができたと喜んだ。『ふたりの秘密ね』と笑いながらのぞみは床に皿を並べて、隣でもぐもぐ頬張った。
 黒猫がつれない態度でも、のぞみは嫌な顔をしなかった。人間が近くにいると緊張してなかなか食が進まない黒猫も、だんだんとその存在に慣れていった。手のひらのキャットフードをぺろりと舐めたとき、のぞみはすごく嬉しそうな顔をした。だから、もうキャットフードはほとんどなかったけれど、もう一度だけぺろりと舐めてやった。
 黒猫は母が恋しかった。でも、のぞみといるのも嫌じゃない。
 撫でられるのは嫌だけど手ぐらいなら舐めてあげてもいい、そう思えた。
 しかし、のぞみは甘かったのだ。
 やたらとお小遣いを求めるようになった娘を不審に思わないわけがなかったし、遊びたいざかりの黒猫はどたどたと部屋中を走り回ったし、母猫を求めてよく鳴いた。いくら共働きで家にいる時間が少なくても、気づかないわけがない。母親が、のぞみのいないうちに部屋を訪れ、鳴き声をたどって黒猫を見つけるのは時間の問題だった。
 のぞみがいない間に、母親は黒猫を30分ほど離れた町まで捨てに行った。
『もう、信じられない……あのマンションはペット禁止だって何度も言ったのに……』
 後部座席で段ボールごとゆらゆらと揺られながら、黒猫は母親が苛立たしげにつぶやくのを聞いていた。
 ひと気のない通りに車をさっと止めると、母親は少し離れた場所まで歩いてから、辺りを見回し、道の脇にそっと段ボールを置いた。そのわずかな間に黒猫と母親の目が合った。
『何よ、そんな目で見ないでよ。しょうがないじゃない。私はちゃんと最初から言ってたの、飼えないって。私は……』
 遠く、車のエンジン音が聞こえた。
 我に返ったように母親は立ち上がると、黒猫から顔をそむけて言った。
『……きっと、もっと優しい誰かが拾ってくれるから』
 靴音が遠ざかって行くのを聞きながら、黒猫は予感していた。
 のぞみにもう会うことはないのだろう。きっと母とも。
 そして、もっと優しい誰かが現れることもなかった。
 四角く切り取られた空を眺めながら、黒猫はお腹を鳴らした。
 にゃあ、と鳴いてみたけれど、反応するものはない。意味もなく紙の壁を掻く。他にどうしたらいいのかわからなかった。
 今まではお腹が空いたら、誰かが何かを持ってきてくれた。次の誰かはいったい誰なんだろう、そう思っていた。今、どれだけ待ってみても誰かは形が与えられない誰かのままだ。
 人の声が近く聞こえることもあった。立ち止まって、中を覗き込むことも。だけど、誰もが黒猫を通り過ぎていった。
 いつしか黒猫は考えるようになった。これからも皆通り過ぎていくんじゃないか、と。
 相変わらず頭上では雲が流れていく。いつまでも、いつまでも。
 突然、ぞっと怖気が走った。黒猫は『何か』に追いたてられるように、段ボールの壁を飛び越え、外の世界に飛び出した。それでも『何か』は黒猫を追いかけてくる、そんな気がした。

 自分はほんとうに何ひとつ知らなかったのだと気づくまで、時間はそうかからなかった。
 窓からいつも眺めていたカラス。まさか子猫を襲うだなんて知るはずもない。
 美味しそうなネズミも、スズメも、とんでもなく動きが速い。黒猫の足じゃ一生追いつける気がしない。
 ラッキーだと思うなかれ。落ちている食べ物は腐っていたりする。吐きすぎて死ぬかと思った。
 鼻先数センチ前を猛スピードで過ぎ去っていく車、道路わきに横たわるぺしゃんこの猫だったもの。まるで自分の未来予想図だ。だんだんと感情が麻痺していく。
 縄張り争いで勝てるわけがない、食べ物も得られずに傷だけが増えた。
『あ、あの、少しでいいんです。分けてもらえませんか』
 すがる声はうざったそうにはねつけられる。
『お前に分けた少しがいつか俺を殺すかもしれないだろ?』
 ここは窓のなかから幾度も憧れた場所。
 どこまでも広がる果てがない世界。
 その夢みたいな世界では、明日も生きている保証もまたなかった。
 そうして数日経った頃、黒猫は道を歩いている途中にふと座りこんだ。まだ歩くつもりだったのに。あれ、おかしいな。幾度試しても心と体はつながらない。ああ。ついに『何か』に捕まったのだ、と悟った。
 ポツ、耳に雫を感じた。うずくまった体勢で宙を見上げると、次々と空から零れ落ちてくるあれは――。
 母の優しい声が耳元で蘇った。かつて自分が望んだように、雨は自分を濡らしていく。
 黒猫はだんだん笑えてきた。何が『気持ちいいんだろうなあ!』だ。冷たくて寒くて、震えて仕方ないじゃないか。きっと母親はそれを知っていた。
 黒猫はかつて母が見た景色がどんなものだったかを、今、理解していた。
 雨は着実に黒猫の残り時間を削っていった。だんだんとぼんやりしてきた。ちょっとねむい。
 きっと走馬灯という言葉を知っていたら、それだとわかっただろう。黒猫の頭をまだ数少ない思い出が通り過ぎていく。
『……なんにも手に入らなかったなあ』
 きらきら輝く白い毛。誰にも負けない大きい体。おかあさんとずっといること。のぞみの手のひらを舐めること。飢えることなくお腹が満たされて、怯えることなく眠れて、明日も当たり前のように生きること。
 きらきらと星のように輝く願い事は、地を這う自分をいっそうみじめでちんけにする。
『ひとつぐらい……ひとつぐらい叶えてくれたっていいのに……』
『――本当に、ひとつでいいの?』
 気が付けば、目の前に傘を持った男がしゃがみこんでいた。履き古したサンダルがまず目に入り、徐々に目線をあげるとやがて眩しい金の髪に出くわした。黒猫の上に傘をかぶせるようにしながら、男は歯を見せて笑った。
『あ、やっぱりきみだ。ねえ、きみの目、色がわかるし、はっきりと見えるでしょ。その代わり夜目が利かない。でもねえ、普通猫ってそうじゃないんだよ。それは人間が持つはずだった目。。神様が設計ミスしちゃったの。だから、今日はお詫びに参りました。もちろんタダとは言いません』
 何を言っているのかまったくわからなかったが、不思議と逃げる気持ちにはなれなかった。もうそんな元気も残ってないからかもしれなかった。 
『ひとつと言わず、ぜんぶいっちゃいなよー。こんなチャンス、めったにないんだから』
 なおも男は黒猫を置き去りにして続ける。『ねえ、ほしい? お詫びの品』 
『望むものすべてを手に入れる力』
 右から左に聞き流すようにしていた黒猫の耳に、なぜかその言葉だけはくっきりと聞こえた。反射的にこくり、と頷くと、男が気配で笑うのがわかった。
『ただね、あんまり大きな力だから、副作用っていうの? 代わりに失くしちゃうものもあるんだ。具体的に言うと――世界に『自分のかけら』を見つけられなくなる』
『かけら……?』
『『特別』を失うってこと』
 母猫が父猫のことを語ったときの不思議な目の色が、黒猫の頭をよぎった。何不自由ない生活の中で、ずっと遠くを眺めていた彼女の、多分あれが特別だった。
『それでも……きみは望む?』
 傘が水滴をはじく音だけがあたりに響いている。
『僕は――そんなの、いらない』
 今にも閉じそうになる目をこじ開けて、挑むように男を睨む。
『すべてが手に入るなら、特別なんていらない。明日も、明後日も……僕は生きていたい!』
 瞬間、黄金の光があたりを満たした。眩さに思わず目を閉じる。首の辺りがなぜか熱くなった。そして――ちりん、鈴の音がした。
『神様の力が宿る、魔法の鈴だよ。使い方は至極簡単。鳴らして願えば、世界はきみの思い通りだ』
 (ああ、そうか、これが……)
 ぐらり、と視界が大きく揺れる。
 黒猫の意識は再び、暗闇の中を落ちていった。
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