すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第二章

コロッケをめぐる攻防

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 坂の多い町に住んでいながら、黒猫はだいたいのところ坂の下でばかり生活していた。長い上り坂を前にすると、それだけでぐったりする。好んで疲れにいくこともないだろう。そうしてすっかり足が遠のいた坂の上に今、黒猫は立っていた。
 高台の緑地。緑あふれる木々の連なりがふっと開ける。
 このあたりを一望できる場所。 
 ほのかにあたたかい石垣の上に腰を下ろして、住み慣れた町を見下ろした。
 どこにでもある町だ。ビルよりは低層の住宅が多く、古い家からマンションまで所狭しと立ち並ぶ。駅近くの商店街を抜ければ、やがて大きくも小さくもなく綺麗でも汚くもない川にたどり着く。
 風が黒猫の毛並みを撫でるように弄ぶようにすぎていく。あくびがこみ上げて、視界が涙でぼんやりにじんだ。
「……あいかわらず、つまんない町」
「そう? わたしはこの町、とっても好きだけど」
 ひとりごとに返事がかえってきた。顔を向けると、誘い主は隣で大きく伸びをしている。
「どこが?」
「そうね、ぱっとしないところも落ち着くわ」
「……きみって変わってる」
 鈴が転がるような笑い声をたてて、白猫は町に向けていた視線をふっと上げた。
「いい天気ね。気持ちがいい」
 つられて黒猫も空を見上げた。初夏の雲はもこもこと綿あめのように形を変えている。陽だまりがこぼれる石垣の上、しばらくぼんやりと雲の流れを追った。
 あれから――山田太郎と名乗る、天使の男に出会った夜から数日が過ぎていた。
 思い出すとなんだかむしゃくしゃするので、あの男のことはなるべく考えないようにしているのだが、ずいぶんとおかしな一日だったことは間違いがない。何せ『魔法』やら『神様』やら普段聞くこともない単語のオンパレード。きわめつけにもう一度生まれるところからやり直してしまったのだから、笑うしかない。
 忘れていたはずの過去を思い出し、鈴の謎を理解し、さらにはどうやら自分には見つけることができない『特別』というものがあるらしいと知った。
 だけど、それだけのことだった。知ったところで、なにひとつ変わらない。
 日々は、食べて、寝て、起きたら歩いて、時々走って、また食べて、寝て……そうして生きられるまで生きる。それこそが最も大事なことで、あとはだいたいが些事にすぎない。
 手に入らないものは望まなければいいだけのことなのだ。
「――ねえってば。もう。黒猫さん、聞いてる?」
 白猫のすっかりへそを曲げた声で我に返った。いつのまにか物思いにふけっていたらしい。ごまかすように、「あっ、あれを見て」と、首をついと上げて白猫を促す。
「あの雲、なんだか猫の形に見えない?」
 ふたつの耳をぴんとたててねそべっている猫……に努力すれば見えなくもない雲が頭上を過ぎていくところだった。
「あんな遠くの雲の形まで見えるの? わたしにはぼんやりとしかわからないわ」
 しまった。自分が見ている世界がほかの猫とちがうとわかるのはこういうときだ。しかし、白猫は気分を害したふうもなく、目をきらめかせる。
「ねえ、あの雲はどんな猫なの? もっとわたしに教えて」
「ええと……結構細長いかな……スリムで……ああ、ちょっときみに似てるかも」
 我ながら適当が過ぎると思ったが、白猫は興味深げに空を見上げた。
「あの白いふわふわとしたものは『雲』っていうのよね」ぽつり、白猫がつぶやく。
「どうしてあれは浮かぶのかしら……わたしだって白いけど浮かんだりしないのに」
 大人びた横顔のなか、瞳だけが子猫のように輝いていた。見覚えがあるひかり。記憶のなか、窓ガラスに映り込む幼い自分がはしゃいでいる。
「僕も……」知らず、口が動いていた。
「僕も昔、同じことを思ったよ。なんで雲は浮かぶのかなって……なんで雲は、雨になるんだろうって」
「黒猫さんも?」意外そうにこちらを見た白猫に、黒猫は笑った。
「いつか大きくなればわかるんだろうって思ってたけど……結局わからないままなんだな。ただ『そうじゃない』んだって、わかった気になっただけで」
 白猫の足が浮かび上がりふわふわと空を飛んでいく、子猫じみた空想を頭に描いた。その姿はやがて遠くとおく、見えなくなっていく。
「花が浮かんでいってしまったら……嫌だな」
(――って、なにを言ってるんだ、僕は。子どもじゃあるまいし)
 おそるおそる白猫のほうを伺うと、白猫はひげをぴくぴくさせて笑っていた。あまりの恥ずかしさに悶絶しそうになる。十秒前の自分の喉笛に噛みつきたい。
「今の、忘れて。どうかしてた」
「どうして? わたし、嬉しくて笑ってるのよ」
 拗ねてそっぽを向いた黒猫の柔らかな背中に、白猫は顔を埋めた。
「どこにも行かない。あなたのそばにいる」
 寄り添う白猫のお腹から、ぐぅ、盛大な音がした。
「……今の、忘れて」
 決まり悪げにうつむく様がおかしくて、やがて白猫が本気で機嫌を損ねはじめるまでずっと、黒猫は忍び笑いに体を震わせていた。
「そろそろ何か食べに行こうか」
 白猫に似ていたはずの雲は、今やヒラメのように伸びた姿をしていた。

 商店街は夕飯の買い物をする人間でだいぶ混みあっていた。足元にいたら蹴り飛ばされかねない。黒猫たちは裏道を進んだ。肉屋の近くにさしかかると、看板商品でもある揚げたての香ばしいコロッケの匂いがただよってきて、黒猫のお腹も思わずぐうと鳴った。さて、今日は何を食べようか――。
「――なんでここにいんのよ、山田太郎!」
 突然立ち止まったので、後ろを歩いていた白猫は黒猫のお尻に顔を突っ込んでしまった。「どうしたの黒猫さん?」反応を返すこともできないまま、カツカツとけたたましく鳴り響くヒールの音に耳を傾けていた。
「せっかくみんなで一緒にごはん食べにいこって話してたのに!」
「……って言われても。仕事が入っちゃったんだから仕方ないでしょ~」
 そろりと通りのほうへ足を進める。肉屋の前にはコロッケを求める客が列をなすなか、もうすぐ順番というところでもめる男女の姿があった。
 茶に染めた髪をゆるゆると巻いた女の子は、短いスカートから長く伸びる脚を惜しげもなく使い、げしっと男の脛を蹴飛ばした。男、こと天使山田太郎は痛みに顔を歪めている。
「あんたの仕事ってのは、コロッケの列に並ぶことなわけ?」
 女の子が詰め寄ると、山田はたしなめるように言った。
「唐木田さん、ここのコロッケをなめちゃいけない。ふつうのとは格がちがうんだから」
「そんなこと聞いてないんですけど」
「……仕事の息抜きだよ」
「仕事って何」
「パトロール」
「はあ? ひとをなめるのもいい加減にしなさいよ!」
「えー、本気なんだけどなあ」
 山田の首が本気で締められかかる頃、肉屋のおばさんが眉間にしわを寄せて二人を見た。
「次の人! 買うの、買わないの? 後ろ並んでるんだから」
「あ、買います買います。六個ください」
 出来たてのコロッケが入った紙袋を受け取る山田はほんとうに嬉しそうだった。通りのを外れ、黒猫たちのいる小道に近づいてくる。なおもぶつぶつと文句を言いながらついてくる唐木田に「はい」とティッシュにくるんだコロッケをひとつ差し出した。
「百聞は一見に如かず。一度食べてみればわかるから。ほら、おいしいよ」
 途端勢いを失ったように大人しくなる唐木田が黒猫には不思議だった。鮮やかに色づいた口でおそるおそるひとかじりする。
「……おいしい」
「でしょ」
 なぜか誇らしげに笑う山田に、唐木田の頬はみるみる赤くなる。
「けっ、けどさあ、こんなんばっかり食べてたら栄養偏るじゃん。あっ、ねえ! ほら、あたし今度ご飯つくりに行ってあげよっか?」
「それは遠慮する」
 一瞬で般若の形相に戻った唐木田は、再び山田の足に蹴りを入れると、「死ね!」という捨て台詞を残し去って行った。
「ちょ、本当に、痛……」
 手加減抜きで蹴られたらしい。痛みにうずくまる後ろ姿は実に情けない。あれが数日前、黒猫を圧倒した男だろうか? そこまで考えて、山田相手にどこか気を張っていた自分に気づいてしまった。ばからしい。あんな男、気にする必要なんてないのに。
 一部始終をなんとなく眺めてしまったことを悔いて、きびすを返そうとしたときだった。
「はぁ。女の子ほど難しい生き物はないよね。黒猫ちゃんもそう思わない?」
 さっきの話のつづきだけど、とでも言わんばかりの自然な口調。男は立ち上がると、ぺたぺたと迷いのないサンダルの音を響かせて裏道までやってきた。
「やあ、待たせちゃってごめんね」
「……あんたを待ってなんかない」
 黒猫はぎり、と歯噛みした。甘かった。きっと最初から気づいていたんだろう。
 山田は「つれないなあ」と目をいっそう細める。
「仲良くしようよ、数少ない仲間なんだから」
 誰が。全身の毛を逆立て臨戦態勢をとる。この前のように簡単に間合いに入れると思ったら大間違いだぞ――という意思を込めた威嚇音は、白猫のきょとんとした声で行き場をなくした。
「ねえ、黒猫さん……このひと、わたしたちの言葉がわかるの?」
「そうだよ。はじめまして、可愛い白猫ちゃん」
 山田が微笑みかけると、黒猫の後ろから顔を出した白猫はますます目を丸くする。
「本当に『ちゃんと』伝わってるのね。すごい。わたし、人間と話すのなんてはじめて」
「何せ俺はエキスパートだからね、なんでもわかるんだ。きみが心の奥底で本当は何を求めてるのかってことも――」
「――彼女に余計なことを言うな」
 白猫を隠すように間に立ちふさがり山田を睨みつける。
「わー、こわい。俺に『鈴』を使うつもりかな?」
 一瞬即発の空気が流れる。同じ力を持つもの相手に通じるんだろうか? わからないが、いずれにしろ使ってみればわかること。足元を踏みしめる。この張りつめた場に次に響き渡るのは、鈴の音のはずだった。
 きゅるきゅるきゅる。
「……ごめんなさい……」
 実際に響いたのは、白猫のお腹の音だった。
 堪えられないとばかりに山田が噴き出した。毒気を抜かれ、逆立っていた黒猫の毛もすっかり落ち着いてしまった。気まずい沈黙のなか、なおもくっくと笑いつづけていた山田が、大通りと交差する小道をすっと指差した。
「笑わせてもらったお礼にいいことを教えてあげよう。ここから五分ぐらいかな、まっすぐ道なりに歩くとポストがある。そのポストの斜め前にある青い屋根のファンシーなおうちにお邪魔してみるといい。白猫ちゃんが今心の底から食べたいものが手に入るよ」
 コロッケを袋からひとつ取り出してがぶりと頬張ると、もぐもぐと口を動かしながら続ける。
「本当は俺も一緒に行きたいんだけど、今日はあいにく仕事があってさ。はあ、美味し。猫は玉ねぎがダメってのがだいぶ損してるよね」
 ふうと満足のため息をもらすと、山田はひらひらと後ろ手に手を振りながら歩き出した。
「黒猫ちゃんも気に入ってくれると思うよ」
 一言付け足した背中は、気づけば人混みの中に消えていた。
「……変なことに巻き込んでごめん。あいつの言うことなんて無視していいから」
 もちろんあいつの言葉に従うつもりなんてみじんもない。黒猫は山田の指差す方向とは逆にさっさと歩きはじめた。白猫ほどじゃなくても黒猫だってお腹が空いているのだ。
「いってみましょうよ。わたし、気になるわ」
 ところが白猫は予想外の言葉を口にした。
「本気?」あんぐりと口を開けると、白猫はもちろんと頷く。
「あの人の言うことが当たっているのか、気になるの。……だめ?」
 好奇心に満ちみちた目を前に、ぐっと詰まる。
「……わかったよ。行くよ」
 ため息交じりにそう答えると、白猫の顔が輝いた。
 本当は行きたくない。だけど、ここで頑なに行かないと言葉を重ねるのも、山田を気にしすぎているようで嫌だった。
「ところで、きみが食べたいものって何?」
「えっ、えーと。その話は後にしない? わたし、お腹ペコペコなの。行きましょ!」
 駆け出した白猫を追って、例の小道に二匹は足を踏み入れた。
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