27 / 36
第六章
満杯のコップ
しおりを挟む
「――もう出てきて大丈夫だよ」
声が聞こえても、黒猫はその場を動くことができなかった。
「……今、なにをしたの」
目の前にはサンダルの足。もうとっくに夏は終わったはずだけど、もしかして年中サンダルなんだろうか。寒くないんだろうか。でも、本当にそうだろうか。天使は温度なんて感じないのかもしれない。だって、本当はこの男のことを自分は何も知らない。今さら、そんなことに気が付いた。
「このまま話すの? まあ、べつにいいけど~」
山田は大きく伸びをひとつすると、「記憶をいじっただけだよ」となんでもないことのように言った。
「俺が関係してるとこだけ、ちょっとね。同じ学部のただの顔見知りに戻しといた」
予想できた答えだ。でも、心のどこかで否定してほしいと思っていた。
さっき唐木田は山田を『山田太郎』と呼ばなかった。
きっと、もう二度と呼ぶことはないのだろう。
「俺もね、できれば消したくなかったんだ。こういう形でひとの心に手を加えるのはポリシーに反するっていうか。早くあきらめて、ほかの人間の男のほうを向いてほしかった。でも、そうできないのが人間なんだよね。だから、しょうがない。ふあー、美味しかった」
ぐしゃぐしゃと空の紙袋を丸めると、「よっこらせ」と立ち上がり、近くのゴミ箱めがけてそれを放り投げた。放物線を描き、吸い込まれるようにして紙くずはゴミ箱に収まる。
黒猫にはそれが唐木田の想いに思えてならなかった。
「……からって……」
ベンチの下、山田の足に爪を突き立てた。
「だからって、記憶を消さなくてもよかったじゃないか……っ!」
山田は声一つあげず、微動だにしない。
「黒猫ちゃんは、残酷なことを言うね」
雨の翌朝、空を映しこむ水溜まりのように落ち着いた声だった。
「唐木田さんは苦しかったんだよ、ずっと。自分がどんどん自分じゃなくなる、やめたくてもやめられない。叶わない願いを持ち続けるのは、毒みたいに心をむしばむ。俺は気持ちに応えられない。だけどその気持ちを消すことはできた。最後に唐木田さん、笑ってくれたでしょ? 唐木田さんは本当の笑顔を取り戻したんだよ」
そうなのかもしれない。黒猫の知る唐木田は、いつもぴんと張った糸のように張りつめていた。強がる言葉の奥で、傷つけられることに怯える唐木田が見え隠れしていた。
だけど、それでも――。
「山田を好きだっていう気持ちは……つらいのと同じくらい、大事な気持ちだったんじゃないの……?」
本当の笑顔なんか知らない。苦しくても、震えても、みっともなくても、何度だって山田に会いにくる唐木田の瞳は、いつだって特別な色に輝いていた。
黒猫が知る唐木田は、山田に恋する唐木田だった。
「……そうだね、そうかもしれない。きっとそうなんだろうね」
ジーンズのポケットに手を突っ込む山田の声が、少し優しくなった気がした。
「でも、残念ながら俺は天使で、いないはずの存在だ。そんなやつが、彼女のまんなかに居座っちゃいけないんだよ。俺たちはただの『風』なんだから」
黒猫はそれ以上何も言えずうつむく。ふと、自分が傷つけた山田の足が視界の端に映った。縦に走った痛々しい赤の線。
「山田は……いいの」
痛く、ないんだろうか。
「唐木田が、山田のことを忘れちゃっても……」
「いいよ」
迷わず答えると山田はふっと笑って、歩き出した。ペタン、ペタン、音を立てて。
夕暮れが伸ばした長いながい影を踏むように、山田の後を追った。後ろでは代わりに誰かがベンチに座ったんだろう、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「前にさ、黒猫ちゃんは聞いてくれたよね」先を歩く山田が、ふと口にした。
「『なんで受け取れないの?』ってさ」
それは確か、唐木田の肉じゃがを山田が『いらない』と言ったときのこと。
唐木田は知らない。あの後、山田が玄関に落ちた肉じゃがを一口食べて『スイーツかよ』と笑ったこと。
「天使は『特別』を知らないんだ。欠けてないから、誰も、何もいらない。必要ない。だから俺には少しも彼女の気持ちは受け取れない。唐木田さんと話すのは楽しかったよ。ちょっと残念。だけど、それだけ。満杯のコップに、それ以上水は入らないんだ」
夕陽に照らされてピンクがかった山田の向こう、欠けた三日月が目に入った。
以前、あの月に少し似た猫がささやいたっけ。
『――ねえ、黒猫さんの『好き』は、どんな『好き』?』
期待に目を輝かせながら。
黒猫は足を止めた。ああ、どの口が山田を責められるんだろう。
「そんなの…………僕も、一緒だ……」
あのとき、白猫に何も答えられなかった自分は。
「一緒じゃないよ」
いつのまにかこちらを振り返っていた山田がそう言った。
商店街を離れ、人気のない住宅街は耳鳴りがするほど静かだ。
「黒猫ちゃんと俺は一緒じゃない。その証拠に、鈴が使えなくなってる」
声が聞こえても、黒猫はその場を動くことができなかった。
「……今、なにをしたの」
目の前にはサンダルの足。もうとっくに夏は終わったはずだけど、もしかして年中サンダルなんだろうか。寒くないんだろうか。でも、本当にそうだろうか。天使は温度なんて感じないのかもしれない。だって、本当はこの男のことを自分は何も知らない。今さら、そんなことに気が付いた。
「このまま話すの? まあ、べつにいいけど~」
山田は大きく伸びをひとつすると、「記憶をいじっただけだよ」となんでもないことのように言った。
「俺が関係してるとこだけ、ちょっとね。同じ学部のただの顔見知りに戻しといた」
予想できた答えだ。でも、心のどこかで否定してほしいと思っていた。
さっき唐木田は山田を『山田太郎』と呼ばなかった。
きっと、もう二度と呼ぶことはないのだろう。
「俺もね、できれば消したくなかったんだ。こういう形でひとの心に手を加えるのはポリシーに反するっていうか。早くあきらめて、ほかの人間の男のほうを向いてほしかった。でも、そうできないのが人間なんだよね。だから、しょうがない。ふあー、美味しかった」
ぐしゃぐしゃと空の紙袋を丸めると、「よっこらせ」と立ち上がり、近くのゴミ箱めがけてそれを放り投げた。放物線を描き、吸い込まれるようにして紙くずはゴミ箱に収まる。
黒猫にはそれが唐木田の想いに思えてならなかった。
「……からって……」
ベンチの下、山田の足に爪を突き立てた。
「だからって、記憶を消さなくてもよかったじゃないか……っ!」
山田は声一つあげず、微動だにしない。
「黒猫ちゃんは、残酷なことを言うね」
雨の翌朝、空を映しこむ水溜まりのように落ち着いた声だった。
「唐木田さんは苦しかったんだよ、ずっと。自分がどんどん自分じゃなくなる、やめたくてもやめられない。叶わない願いを持ち続けるのは、毒みたいに心をむしばむ。俺は気持ちに応えられない。だけどその気持ちを消すことはできた。最後に唐木田さん、笑ってくれたでしょ? 唐木田さんは本当の笑顔を取り戻したんだよ」
そうなのかもしれない。黒猫の知る唐木田は、いつもぴんと張った糸のように張りつめていた。強がる言葉の奥で、傷つけられることに怯える唐木田が見え隠れしていた。
だけど、それでも――。
「山田を好きだっていう気持ちは……つらいのと同じくらい、大事な気持ちだったんじゃないの……?」
本当の笑顔なんか知らない。苦しくても、震えても、みっともなくても、何度だって山田に会いにくる唐木田の瞳は、いつだって特別な色に輝いていた。
黒猫が知る唐木田は、山田に恋する唐木田だった。
「……そうだね、そうかもしれない。きっとそうなんだろうね」
ジーンズのポケットに手を突っ込む山田の声が、少し優しくなった気がした。
「でも、残念ながら俺は天使で、いないはずの存在だ。そんなやつが、彼女のまんなかに居座っちゃいけないんだよ。俺たちはただの『風』なんだから」
黒猫はそれ以上何も言えずうつむく。ふと、自分が傷つけた山田の足が視界の端に映った。縦に走った痛々しい赤の線。
「山田は……いいの」
痛く、ないんだろうか。
「唐木田が、山田のことを忘れちゃっても……」
「いいよ」
迷わず答えると山田はふっと笑って、歩き出した。ペタン、ペタン、音を立てて。
夕暮れが伸ばした長いながい影を踏むように、山田の後を追った。後ろでは代わりに誰かがベンチに座ったんだろう、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「前にさ、黒猫ちゃんは聞いてくれたよね」先を歩く山田が、ふと口にした。
「『なんで受け取れないの?』ってさ」
それは確か、唐木田の肉じゃがを山田が『いらない』と言ったときのこと。
唐木田は知らない。あの後、山田が玄関に落ちた肉じゃがを一口食べて『スイーツかよ』と笑ったこと。
「天使は『特別』を知らないんだ。欠けてないから、誰も、何もいらない。必要ない。だから俺には少しも彼女の気持ちは受け取れない。唐木田さんと話すのは楽しかったよ。ちょっと残念。だけど、それだけ。満杯のコップに、それ以上水は入らないんだ」
夕陽に照らされてピンクがかった山田の向こう、欠けた三日月が目に入った。
以前、あの月に少し似た猫がささやいたっけ。
『――ねえ、黒猫さんの『好き』は、どんな『好き』?』
期待に目を輝かせながら。
黒猫は足を止めた。ああ、どの口が山田を責められるんだろう。
「そんなの…………僕も、一緒だ……」
あのとき、白猫に何も答えられなかった自分は。
「一緒じゃないよ」
いつのまにかこちらを振り返っていた山田がそう言った。
商店街を離れ、人気のない住宅街は耳鳴りがするほど静かだ。
「黒猫ちゃんと俺は一緒じゃない。その証拠に、鈴が使えなくなってる」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる