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第八章
ただの僕にできること
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にゃあ、にゃあ、にゃあ。声が響いている。
右手に買い物袋、左にまだ幼い娘の手。両手がふさがった母親は、さらに足元をうろちょろする影にすっかり困り顔だ。
体をこすりつけて甘くねだるように声をあげた。
にゃあ、にゃあ、にゃあ。黒猫が鳴いている。
「ママぁ。ねこちゃん、おなかすいてるのかな? あゆのごはん、あげようかな?」
ぱんぱんになった買い物袋に鼻先をつけるような仕草を見て、幼い女の子が言う。よほど気になるのか足取りが重くなった娘と、まだまだついてきそうな黒猫を順に眺めて、母親はあきらめの息をふぅっと吐き出した。
「……ちょっと待っててね」娘と手を離し、両腕に袋を提げ直す。
なんだなんだと期待の目で見守る黒猫を前に、よいせっと娘を抱き抱えるやいなや、母親は勢いよく走り出してしまった。なでたいなでたいと背を反らし手を伸ばす娘に「ダメ! 野良猫はバイキンがいーっぱいなの」とたしなめる声は、あっという間に遠くなる。
「……そんなぁ」
ぐぅぅ、といまだお腹は不足を訴え続ける。
大きくためた息を一気に吐き出すと、黒猫は歩き出した。はじめはトボトボと、だんだんと顔を上げて。
鈴を外したあの日から、ふた月ほどが経過しようとしていた。季節は冬に移り変わり、あまりの寒さにくしゃみで起きることもあるぐらいだった。野良猫には厳しい季節の到来だ。ちょうど白猫も体調を崩してしまい、ごはん調達係を黒猫が担当しているのだが、その結果はこの通り。芳しくない。だけど、憂いてばかりもいられない。心配で腹はふくれないので。
今日は白猫を連れて彩の庭へ行こう。あいつに頼りきりもよくないけれど、仕方ない。
気持ちを切り替えようとした矢先、曲がり角で散歩中の犬に出くわした。つながれているから襲って来れないと知ってはいても、黒猫は毛を逆立てて一目散に逃げ出した。後ろからワウワウ! 卑怯者めと言わんばかりに吠えたてられる。言ってろ。
いつものように商店街を通り抜けると、唐木田がコロッケ屋の列に並んでいるのを見かけた。友達だろう女の子と、けたけた笑いながら。山田とのことを忘れてしまっても、あのコロッケの味を覚えているのなら、そこにはなにかが少し溶けているのかもしれない。そうだったらいいなと思う、ただそれだけのこと。
山田にはあれから会っていない。『お仲間』でなくなってしまったから、もう姿を現さないつもりなのかもしれない。鈴を選ばなかったことを「バカだなあ」と笑っているだろうか。でも、不思議とその顔は黒猫を否定していないような気がした。まあ、どんな顔も見なくてせいせいしているのだが。
歩道橋の下、白猫が待つはずの寝床に到着するも、白猫の姿は見えなかった。つんとする匂いがした。あたりに吐いた跡がいくつもあることに気づく。
その向こうで、白猫が力なく横たわっていた。
「――花!」
返事はない。息が荒い。触れると、ひどい高熱だった。
今までにいくつも目にした、野良猫の無残な末路が脳裏によみがえる。
(どうしよう。このままじゃ花が――)
足がすくむ。鈴が首元にないことにひどい心もとなさを覚えた。
(僕のままじゃ、鈴がなくちゃ、何も……)
首を振るって、不安に飲まれそうになる自分を叱咤する。
打ちひしがれていても何にもならない。もう鈴はない。
(花に約束したろ、『僕にできることは何でもする』って。今ここにいる、ただの僕ができることを考えろ……!)
黒猫は一目散に駆け出した。
右手に買い物袋、左にまだ幼い娘の手。両手がふさがった母親は、さらに足元をうろちょろする影にすっかり困り顔だ。
体をこすりつけて甘くねだるように声をあげた。
にゃあ、にゃあ、にゃあ。黒猫が鳴いている。
「ママぁ。ねこちゃん、おなかすいてるのかな? あゆのごはん、あげようかな?」
ぱんぱんになった買い物袋に鼻先をつけるような仕草を見て、幼い女の子が言う。よほど気になるのか足取りが重くなった娘と、まだまだついてきそうな黒猫を順に眺めて、母親はあきらめの息をふぅっと吐き出した。
「……ちょっと待っててね」娘と手を離し、両腕に袋を提げ直す。
なんだなんだと期待の目で見守る黒猫を前に、よいせっと娘を抱き抱えるやいなや、母親は勢いよく走り出してしまった。なでたいなでたいと背を反らし手を伸ばす娘に「ダメ! 野良猫はバイキンがいーっぱいなの」とたしなめる声は、あっという間に遠くなる。
「……そんなぁ」
ぐぅぅ、といまだお腹は不足を訴え続ける。
大きくためた息を一気に吐き出すと、黒猫は歩き出した。はじめはトボトボと、だんだんと顔を上げて。
鈴を外したあの日から、ふた月ほどが経過しようとしていた。季節は冬に移り変わり、あまりの寒さにくしゃみで起きることもあるぐらいだった。野良猫には厳しい季節の到来だ。ちょうど白猫も体調を崩してしまい、ごはん調達係を黒猫が担当しているのだが、その結果はこの通り。芳しくない。だけど、憂いてばかりもいられない。心配で腹はふくれないので。
今日は白猫を連れて彩の庭へ行こう。あいつに頼りきりもよくないけれど、仕方ない。
気持ちを切り替えようとした矢先、曲がり角で散歩中の犬に出くわした。つながれているから襲って来れないと知ってはいても、黒猫は毛を逆立てて一目散に逃げ出した。後ろからワウワウ! 卑怯者めと言わんばかりに吠えたてられる。言ってろ。
いつものように商店街を通り抜けると、唐木田がコロッケ屋の列に並んでいるのを見かけた。友達だろう女の子と、けたけた笑いながら。山田とのことを忘れてしまっても、あのコロッケの味を覚えているのなら、そこにはなにかが少し溶けているのかもしれない。そうだったらいいなと思う、ただそれだけのこと。
山田にはあれから会っていない。『お仲間』でなくなってしまったから、もう姿を現さないつもりなのかもしれない。鈴を選ばなかったことを「バカだなあ」と笑っているだろうか。でも、不思議とその顔は黒猫を否定していないような気がした。まあ、どんな顔も見なくてせいせいしているのだが。
歩道橋の下、白猫が待つはずの寝床に到着するも、白猫の姿は見えなかった。つんとする匂いがした。あたりに吐いた跡がいくつもあることに気づく。
その向こうで、白猫が力なく横たわっていた。
「――花!」
返事はない。息が荒い。触れると、ひどい高熱だった。
今までにいくつも目にした、野良猫の無残な末路が脳裏によみがえる。
(どうしよう。このままじゃ花が――)
足がすくむ。鈴が首元にないことにひどい心もとなさを覚えた。
(僕のままじゃ、鈴がなくちゃ、何も……)
首を振るって、不安に飲まれそうになる自分を叱咤する。
打ちひしがれていても何にもならない。もう鈴はない。
(花に約束したろ、『僕にできることは何でもする』って。今ここにいる、ただの僕ができることを考えろ……!)
黒猫は一目散に駆け出した。
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