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第八章
ただいま
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真っ暗な庭にぼんやりとたたずんでいる。ぶるりと体が震える。吐息が白くなりそうに寒い夜だった。
後ろでからからと窓が開く音がした。振り返ると、そこにいたのは彩だった。
「黒猫くん、ずっとここにいたんだ。――白猫ちゃんが心配?」
無言で見上げていると、彩は黒猫を安心させるように優しく微笑んだ。
「さっきも言ったけど、もう大丈夫だよ。獣医さんが注射してくれたから、だいぶ体調も落ち着いてるし、今はまだ元気がないけど休んでれば元気になるからね。薬もちゃんと毎日あげるから安心して」
そこまで言うか言わないかのうちに、彩はくしゅんとくしゃみをして、「ちょっとごめんね」と窓を閉めて家の中へ戻って行った。
黒猫は白猫が倒れているのを見つけた後、真っすぐに彩の家を目指した。狂ったように鳴き喚くことで異変を知らせ、どうにか白猫の元にまで彩を連れてくることに成功した。ぐったりした白猫を見つけた彩は、すぐに白猫を家に連れて帰り、父に電話で話をつけて、家にいた祖母とともに近くの動物病院へ向かってくれた。
怒涛の展開とは裏腹に黒猫は庭でぽつんと待っているしかなく、彩たちが戻ってくるまで不安でどうにかなりそうだった。
数時間後、見慣れないキャリーに入れられた白猫が帰ってきた。白猫はまだぼんやりとしていたけれど、呼吸はだいぶ落ち着いていた。黒猫の強張った体からようやく力が抜けた。しばらくは看病が必要だから彩の家で療養することになったと聞き、それにも納得していた。
もう心配がいらない状態なのは、頭では分かっていた。でも、その場から一歩も動くことができなかった。
からからと再び窓が開く音がした。振り返ると、やっぱりそこにいたのは彩だった。ただし、今度はずいぶんと厚着をしていた。
縁側に腰を下ろすと、「落ち込んでるの?」と唐突に言った。
なんで彩にはいつもお見通しなのだろう、と不思議になる。
「でも黒猫くんが助けを呼んでくれたから、白猫ちゃんは今、大丈夫なんだよ」
足をぶらぶらと揺らしながら、彩は続ける。
「それに、わたしは黒猫くんが助けを呼びに来てくれて嬉しかった。いつも私のほうが助けてもらうばっかりだったから。勢いでお父さんにも電話できちゃったしね」
はにかむようにそこまで言って、急に彩は真顔になった。「あのね……」と言い淀む姿に、父親と何か深刻な言い合いにでもなったのだろうかと心配になる。
「獣医さんと今日色々お話したんだけど……その……魚肉ソーセージをあげるのは猫の健康によくないんだって……わたし、全然知らなくて」
思わずずっこけそうになった。そんなことかよ。
だけど、彩は神妙そうな顔で続ける。
「野良猫に気まぐれにごはんをあげることは、飢えとか病気に苦しむ猫を増やすことにもつながるんだって。わたし、知らないことばかりだった。町で見かける野良猫のこと。黒猫くんたちに会うまで考えもしなかった。自由でいいなあって思ってたの、憧れてたの。自分に都合のいいところしか知らなかったから。ずっと自分ばっかり見てたの、わたし。でも、ちゃんと知りたいって思った。わたしにできることはなんだろうって。だから、あのね、お父さんとも話したの」
(……この話は、どこに向かっているんだろう)
いまいち話の展開についていけずに首を傾げる黒猫に、彩は目を細めた。
突っ掛けを履き、黒猫に並ぶように庭を眺める。
「わたしね、ちょっとわがままになったみたい。この庭で黒猫くんと白猫ちゃんを見つけると、『おかえり』って言いたくなるの。それでね……『ただいま』って言ってほしい。ふたりがこうしてピンチなときにかけつけたり、そばにいるのは、わたしがいい」
こちらを見た彩は――なぜか真っ赤な顔で、ハの字の眉毛で、泣いてるわけでもないのに潤んだ瞳をしていた。
「もしふたりにおうちがないなら、わたしのおうちに来ませんか。わたしたちと……家族になりませんか」
そのとき、なぜか黒猫は自分が幼いときのことを思い出した。母猫に『ずっと僕が一緒にいてあげる』と言ったときのこと。のぞみの手のひらをはじめて舐めた日のこと。
かつて黒猫のまえを誰もが通り過ぎていった。そのたび、そんなものだ、と言い聞かせて。やがては期待をしないようになった。だってそのほうが楽だし、自由だ。傷つくこともない。
だけど――。
黒猫はなぁお、と鳴いた。ゆっくり立ち上り、なんでもないように彩のすぐ近くに座ると、ぐいと頭を差し出した。
「え?」
分かってなさそうな彩に苛ついて、今度は頭をぐいぐいと足に押し付けて、にゃあ! ちょっと怒ったような声で一鳴きした。分かれよ、早く。
それでようやく黒猫の意図に気づいたのか、おそるおそる、彩の手が伸びてくる。
指が、触れた。最初は戸惑いがちに。やがて、やさしさすべてを込めたみたいに。
ずっとこの手に触れてみたかったのだ、と気づく。ずっと誰かに期待をしてみたかった。
ちいさくささやく「おかえり」を、黒猫は陽だまりのなか、遠く近くに聞いていた。
ただいま、の代わりに黒猫はその手のひらに頭をこすりつけた。
後ろでからからと窓が開く音がした。振り返ると、そこにいたのは彩だった。
「黒猫くん、ずっとここにいたんだ。――白猫ちゃんが心配?」
無言で見上げていると、彩は黒猫を安心させるように優しく微笑んだ。
「さっきも言ったけど、もう大丈夫だよ。獣医さんが注射してくれたから、だいぶ体調も落ち着いてるし、今はまだ元気がないけど休んでれば元気になるからね。薬もちゃんと毎日あげるから安心して」
そこまで言うか言わないかのうちに、彩はくしゅんとくしゃみをして、「ちょっとごめんね」と窓を閉めて家の中へ戻って行った。
黒猫は白猫が倒れているのを見つけた後、真っすぐに彩の家を目指した。狂ったように鳴き喚くことで異変を知らせ、どうにか白猫の元にまで彩を連れてくることに成功した。ぐったりした白猫を見つけた彩は、すぐに白猫を家に連れて帰り、父に電話で話をつけて、家にいた祖母とともに近くの動物病院へ向かってくれた。
怒涛の展開とは裏腹に黒猫は庭でぽつんと待っているしかなく、彩たちが戻ってくるまで不安でどうにかなりそうだった。
数時間後、見慣れないキャリーに入れられた白猫が帰ってきた。白猫はまだぼんやりとしていたけれど、呼吸はだいぶ落ち着いていた。黒猫の強張った体からようやく力が抜けた。しばらくは看病が必要だから彩の家で療養することになったと聞き、それにも納得していた。
もう心配がいらない状態なのは、頭では分かっていた。でも、その場から一歩も動くことができなかった。
からからと再び窓が開く音がした。振り返ると、やっぱりそこにいたのは彩だった。ただし、今度はずいぶんと厚着をしていた。
縁側に腰を下ろすと、「落ち込んでるの?」と唐突に言った。
なんで彩にはいつもお見通しなのだろう、と不思議になる。
「でも黒猫くんが助けを呼んでくれたから、白猫ちゃんは今、大丈夫なんだよ」
足をぶらぶらと揺らしながら、彩は続ける。
「それに、わたしは黒猫くんが助けを呼びに来てくれて嬉しかった。いつも私のほうが助けてもらうばっかりだったから。勢いでお父さんにも電話できちゃったしね」
はにかむようにそこまで言って、急に彩は真顔になった。「あのね……」と言い淀む姿に、父親と何か深刻な言い合いにでもなったのだろうかと心配になる。
「獣医さんと今日色々お話したんだけど……その……魚肉ソーセージをあげるのは猫の健康によくないんだって……わたし、全然知らなくて」
思わずずっこけそうになった。そんなことかよ。
だけど、彩は神妙そうな顔で続ける。
「野良猫に気まぐれにごはんをあげることは、飢えとか病気に苦しむ猫を増やすことにもつながるんだって。わたし、知らないことばかりだった。町で見かける野良猫のこと。黒猫くんたちに会うまで考えもしなかった。自由でいいなあって思ってたの、憧れてたの。自分に都合のいいところしか知らなかったから。ずっと自分ばっかり見てたの、わたし。でも、ちゃんと知りたいって思った。わたしにできることはなんだろうって。だから、あのね、お父さんとも話したの」
(……この話は、どこに向かっているんだろう)
いまいち話の展開についていけずに首を傾げる黒猫に、彩は目を細めた。
突っ掛けを履き、黒猫に並ぶように庭を眺める。
「わたしね、ちょっとわがままになったみたい。この庭で黒猫くんと白猫ちゃんを見つけると、『おかえり』って言いたくなるの。それでね……『ただいま』って言ってほしい。ふたりがこうしてピンチなときにかけつけたり、そばにいるのは、わたしがいい」
こちらを見た彩は――なぜか真っ赤な顔で、ハの字の眉毛で、泣いてるわけでもないのに潤んだ瞳をしていた。
「もしふたりにおうちがないなら、わたしのおうちに来ませんか。わたしたちと……家族になりませんか」
そのとき、なぜか黒猫は自分が幼いときのことを思い出した。母猫に『ずっと僕が一緒にいてあげる』と言ったときのこと。のぞみの手のひらをはじめて舐めた日のこと。
かつて黒猫のまえを誰もが通り過ぎていった。そのたび、そんなものだ、と言い聞かせて。やがては期待をしないようになった。だってそのほうが楽だし、自由だ。傷つくこともない。
だけど――。
黒猫はなぁお、と鳴いた。ゆっくり立ち上り、なんでもないように彩のすぐ近くに座ると、ぐいと頭を差し出した。
「え?」
分かってなさそうな彩に苛ついて、今度は頭をぐいぐいと足に押し付けて、にゃあ! ちょっと怒ったような声で一鳴きした。分かれよ、早く。
それでようやく黒猫の意図に気づいたのか、おそるおそる、彩の手が伸びてくる。
指が、触れた。最初は戸惑いがちに。やがて、やさしさすべてを込めたみたいに。
ずっとこの手に触れてみたかったのだ、と気づく。ずっと誰かに期待をしてみたかった。
ちいさくささやく「おかえり」を、黒猫は陽だまりのなか、遠く近くに聞いていた。
ただいま、の代わりに黒猫はその手のひらに頭をこすりつけた。
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