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01 インパクト
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それはとてつもなく衝撃的で。忘れ難い、奇跡のような出会いだった──
その日、五十嵐圭吾は旧知の女に呼び出されて、都内にある喫茶店へと出向いた。
白を基調とした落ち着いた店内は、大通りに面した壁一面の大きなガラス窓から入る自然光でとても明るい。所々に飾られた緑鮮やかな観葉植物は、客の目を和ませつつ、各テーブルのプライバシーに配慮する役割も兼ねていた。
インテリアといい雰囲気といい、今流行りのインスタ映えしそうな店だが、もっぱら浮ついた客が少ないのは、提供している珈琲が最低でも一杯1000円以上するからだろう。その道の世界大会で入賞したことのある焙煎士が丁寧に焙煎したゲイシャ豆のスペシャルともなると、3000円近くもする本物志向の店だった。
「圭吾」
既に席に着いていた女に名前を呼ばれて、五十嵐は磨き込まれたイタリア製の革靴のつま先をそちらに向けた。
「随分と久しぶりね」
妖艶に弧を描く唇を彩るのは、華やかな赤のルージュだ。ファッション誌に載っていそうな高級プレタポルテに身を包み、頻繁に美容院にも通っているのだろう緩くウェーブした長い髪は、毛先まで完璧に手入れが行き届いていて艶やか。水仕事をしたこともないような指の爪も、抜かりなくネイルアートが施されている。
誰が見ても一目で、彼女の全身に多額の金が掛かっていることが見て取れた。だが寄る年波にはやはり勝てないのか、五十嵐が彼女と初めて会った頃よりも、確実にその口元に加齢のあとが見える。目元はブランド物のサングラスで隠れているので分からないが、今年30歳になる五十嵐よりも一回り以上も年上なのだから、まあ、推して知るべしだろう。
「主人の海外勤務が決まったの」
注文を終えて五十嵐が用件を聞き出す前に、女が口を開いた。彼女が主導権を握りたがるのはいつものことだ。
「へえ……栄転ってやつかな?」
「ええ、そういうことになるかしら。それで、今度はしばらくは帰ってこれないから、行く前に一目、貴方のハンサムな顔を見ておきたくなったのよ」
「それはご丁寧にどうも。そうか、もう美紀さんに会えなくなるのか……」
女の言わんとしていることを正確に汲み取って、五十嵐は口角だけで、寂しそうに見えるように笑った。つまり彼女の夫の出世が決まったので、物理的な距離のこともあるし、いわゆる不貞な関係なんて解消したいということだ。
江戸、明治時代から続く豪商の家系、今も東京に多数の土地を所有する大地主の娘で、親戚には多数、政財界の要人が名を連ねる由緒正しきお嬢様。そして外務省勤めの旦那が海外勤務になるということは、恐らく国の特命で全権委任を受けた長の妻として出向くことになるのだろう。さらにその夫は、近い将来、政治家に転身するだろうともっぱらの噂……
となると、確かに妻が年下の怪しい男と関係を持っていることは、大した醜聞でしかない。
女と知り合って約10年。なんだかんだありながら、それでも蜘蛛の糸のように細くも長く続けてきた間柄だ。だが五十嵐は寂しさよりも先に、ようやくこの女と手が切れると内心ほくそ笑んだ。最近では新しく起こしたビジネスも軌道に乗り、どうやってこの年増と縁を断つか悩んでいたのだ。
確かに彼女には随分と助けられた。彼女の後ろ盾のお陰で今のビジネスの基盤を築けたし、必要な土地の確保も出来た。
「美紀さんには色々とお世話になったから、寂しくなるよ」
家庭環境があまりよろしくなかった五十嵐は、高校卒業と同時に母親の元から姿を眩ました。父親はそれなりに金を持った既婚者だったとも、ムショに行ったヤクザだったともいうが、顔も名前も知らない。
とにかく金にも男にもだらしなかった母親を早々に見限り、食べていくために有象無象の都会の雑踏に紛れて夜の世界へ。己の見目の良さを自覚していたこともあり、五十嵐がホストとして身を立てるのは実に簡単だった。
俗にいう濃い顔のハッキリした顔立ちのイケメン。身長も186cmあるし、学生の頃はボクシング、今も筋トレがストレス発散の趣味なので、日本人離れしたモデル体型をしている。実際、昔から街を歩けば芸能事務所やモデル事務所から声をかけられることも度々だった。
なのになぜその道に進まなかったのかというと、単純にホストの方が手っ取り早く金になったからだ。下積みで不特定多数に媚を売るのは面倒臭い。何より謙虚さや愛想といったものをろくに持ち合わせていないので、常に腰を低くして仕事をもらうような真似ができるはずがなかった。
夜の街なら。過度に場を盛り上げずとも女達は見た目だけで五十嵐を指名した。『いい男』を一時でも独占でき、それがフリでも愚痴や悩み事を聞いてくれる。実際、五十嵐は軽薄なおべっかを使った話しかけなど一切しなかったが、観察力に優れていたので会話には困らなかった。貫禄豊かな存在感に、物静かながら的確な受け答え。そして、時々耳元で少し甘い言葉を吹き込むだけでそれは瞬時に金になり、時には高価なプレゼントに化けて返ってきた。
今流行りのSNSでの宣伝も一切せず、口コミだけで売上ナンバーワンを維持し続けたその武勇伝は、ホスト界隈では『麻薬級のフェロモンを持つ男』とまで噂されるほどだった。
それなりに地頭も良かったらしく、22歳を過ぎて高卒ながら入学資格審査と受験そのものに合格して、有名国立大学の経営学大学院を受講し、ビジネスやマーケティングの知識を手に入れた。その頃には以前に購入した格安の──俗にいうペニーストックと呼ばれるアメリカ株が運良く爆上がりし、順調に資産も増えた。
在学中に自分の店を持つこともでき、既に上客が何人も付いていた五十嵐の知名度もあって、店はすぐに軌道に乗った。
軽薄な雰囲気を一切排除した、高級志向のホストクラブ。知的でウィットに富んだ会話を武器に、本当に金を持っている客だけをターゲットにした貴族サロンのようなその店は、大人の接客をするホストの上品さと知性を売りに、キャリアを追求する女性達を上手く取り込んで、彼女達の情報交換の場としても大当たりした。
中でも目の前の女は、ホストクラブでいうところの一番多くお金を使ってくれる姫というよりは、パトロンだった。顔の広い彼女の口添えに支えられ、加えて色々とラッキーな偶然も重なって、ホストクラブに続けてナイトクラブ、そしてつい最近では、都内に自社ビルを一棟所有するまでになった。だがその時点で、もう彼女は用済みだと見切りをつけていた。既に彼女以上の、ビジネスライクな強いコネを手に入れたのだ。
まあ、わざわざ引導を渡さずとも放置……からのフェードアウトでいいかと思っていたところ、今日の「身綺麗にするわ」という申し出だ。五十嵐にしたらまさに渡りに船だった。
「じゃあ、元気でね」
少しばかり会話を楽しみ、女はヒールの音も高らかに喫茶店を出て行った。去り際、五十嵐の手元にきっちりと分厚い封筒を置いていったのは流石だ。手切れ金プラス、口止め料を忘れないあたり、やはり彼女は最高の女だと五十嵐は感心する。
これで一つ、楽して面倒事が片付いたな……と、五十嵐が喜んでいると、不意に、無音にしていた携帯電話がジャケットの内ポケットの中で揺れた。店の一つを任せている男から、火急ではないが無視できないメールだ。電話で話す必要もない、少し調べてテキストで返せば済むような案件だったので、五十嵐は珈琲をもう一杯お代わりして、そのまま店に居座ることにした。
実は。どうにも気になっていることがある。
「どうしてなの? 私のこと、いっつも後回しだよね?」
前のテーブル。今風にアイロンで髪をふわりと巻き、茶色に染めた女がか弱い震えた声を絞り出す。
「クリスマスもお正月も会えなかったし、いつも忙しいって言い訳ばかり」
五十嵐の前、同じ方向を向いて座っている女の顔は見えないが、彼女と向き合うようにして座っている男の顔は、彼女の後頭部越しにちら見えする。
眼鏡をかけた、柔和そうな顔立ち。もう見た目だけで女を食い散らかしていそうな、『悪い男』の代名詞のような五十嵐とは違って、良くも悪くも『いい人』臭のするその男を、女はなぜか先程からずっと責め立てていた。そう、五十嵐がこの店に入って来た時から。
「私、そんなに無茶なお願いをしていないよね? もうちょっとだけ。もう少しだけ私のことを気にかけて、既読無視したりしないでねって言っているだけなのに……」
「いや、だから。私には本当にそんな暇がないんだよ。どうしようもないことで責められても、何も改善は出来ないから……」
「本田さんってば冷たい!」
「いや、だから……」
ずっとこの調子。どうやら仕事が忙しいらしい男に等閑にされていると感じる女が、「仕事と私、どっちが大事なの?!」と詰め寄っているらしい。彼は僅かに眉を顰めて対応に苦慮していた。
そんなもの、もちろん選べるはずがないだろう。仕事を辞めたら辞めたで文句を言うくせに。
入ってくる時すれ違い様にちらりと見ただけだが、男の身なりはかなりいい。腕にはポルトギーゼの高級クロノグラフがその存在感を主張しているし、服装はいたってシンプルだが、生地は量販店ではありえない良質のものだ。椅子の上に脱いで置かれたコートの、たまたま見えたタグはグレンフェルで、英国王室も愛用するイギリスの老舗メーカーだった。
歳の頃は少し不明で、好青年的なその顔の作りから大学院生のようにも見えるし、逆にその立ち振る舞いの落ち着き具合から五十嵐より年上のようにも見える。だが確実に、結婚適齢期なことに違いはなかった。いわばハイスペックそうな獲物というわけで、女がこんなにも必死になっているのも頷けた。
馬鹿な女だな……と、五十嵐は携帯電話を弄りながら鼻で笑う。
自分の客にも何人か、『自分が一番、自分だけ見て』みたいなヒステリックな客がいたが、速攻で切り捨てたな……
つい好奇心で意識がそちらに向いてしまうが、指先は休まずに画面に文字を連ねていく。タタタっと流れるような速さで部下への指示を入力し、最後にポンっと軽快に送信ボタンを押して完了だ。
「よし」
携帯メールで一通りの連絡を終えて、五十嵐は冷め始めた珈琲カップの中身を飲み干した。
「もう無理だよ」
ついに人の良さそうな男が白旗を上げた。
「これ以上話しても私には今の状況を変えることは出来ないし、時間の無駄だと思う」
「どういう意味?」
「この数ヶ月でわかったと思うけど、私はとても忙しい。職業柄、予想外の出来事も多いので、君の要望にはとても応えられない」
「でも、でも……」
「君はどうも clingy なようだ。だとすると私にはとても付き合いきれないよ」
あっさりと縁切りに成功した五十嵐と違って、あちらのカップルはどうも修羅場みたいだ。上手く別れられるといいなと、心の中で男に応援を送りつつ、五十嵐はコートを腕に掛けて席を立った。
「あ」
一、二歩踏み出して、伝票を持ち忘れたことに気づく。入店してすぐに頼んだ分は女パトロンがまとめて払ってくれたが、追加で頼んだ2杯めはもちろん自腹だ。五十嵐はくるりと振り返って、テーブルに置き去りにしていた伝票に手を伸ばした。
「私達はどうも合わないようだ。申し訳ないけど、こうして会うのも今日で終わりにしよう」
「待って、本田さん!」
おや。『本田さん』なる男は、ようやくこの不毛なやり取りを強制終了することにしたらしい。
だが間の悪いことに椅子から立ち上がると同時に、横をすり抜けようとした五十嵐とかち合ってしまった。まるで彼をガードするように、男の背後に立って女の視線を遮ってしまう。
「ちょ、あ……」
突然現れた美丈夫に、女の気が一瞬怯んだ。
改めて見下ろせば、自分磨きに余念のなさそうな、美意識の高そうな女だった。恐らくはまだ売れないモデルか、芸能人と呼ばれる部類だろう。
今まで男には、チヤホヤされる存在でいい気分になっていたのか。だからだろうか、第三者に、男に縋り付くみっともない自分の姿を見せたくないとでも思ったのか、完全に追いかけるタイミングを失ったようだった。
「あ、すみません」
少しぶつかってしまったので、男が礼儀正しく謝罪してきた。今まで座っていたので気づかなかったが、こうして見ると結構背が高い。五十嵐より少し低いくらい、180cmに少し足りないぐらいだろう。
「いえ」
気にするなと五十嵐も小さく応えて、そのまま連なって二人してレジへと向かう。もちろん女は追って来れないようだった。
「え?」
その時だった。何か黒いものが、猛スピードでこちらに近づいてくるのが視界の片隅に入った。
「ぅそ、だろ?!」
五十嵐は咄嗟に、目の前の男の肩を押した。追い立てるようにして店の奥へと逃げ込み、彼もろとも、最後には軽く吹き飛ばされるようにして床に転がる。
「っ!!」
ガッシャーンという大きな音と、ベキ、バキ、ボキっと色々なものがひしゃげて潰れる音。
女性のキャーという甲高い悲鳴。
慌てふためき、逃げ惑う人々。
かなりの衝撃に、五十嵐は知らずに男に覆い被さるようにして、身を守るようにしばらく蹲っていた。
次に頭を持ち上げて、肩越しに見たその風景は。
「まじか……」
そこには。
日常ではありえない大惨事が広がっていた。
その日、五十嵐圭吾は旧知の女に呼び出されて、都内にある喫茶店へと出向いた。
白を基調とした落ち着いた店内は、大通りに面した壁一面の大きなガラス窓から入る自然光でとても明るい。所々に飾られた緑鮮やかな観葉植物は、客の目を和ませつつ、各テーブルのプライバシーに配慮する役割も兼ねていた。
インテリアといい雰囲気といい、今流行りのインスタ映えしそうな店だが、もっぱら浮ついた客が少ないのは、提供している珈琲が最低でも一杯1000円以上するからだろう。その道の世界大会で入賞したことのある焙煎士が丁寧に焙煎したゲイシャ豆のスペシャルともなると、3000円近くもする本物志向の店だった。
「圭吾」
既に席に着いていた女に名前を呼ばれて、五十嵐は磨き込まれたイタリア製の革靴のつま先をそちらに向けた。
「随分と久しぶりね」
妖艶に弧を描く唇を彩るのは、華やかな赤のルージュだ。ファッション誌に載っていそうな高級プレタポルテに身を包み、頻繁に美容院にも通っているのだろう緩くウェーブした長い髪は、毛先まで完璧に手入れが行き届いていて艶やか。水仕事をしたこともないような指の爪も、抜かりなくネイルアートが施されている。
誰が見ても一目で、彼女の全身に多額の金が掛かっていることが見て取れた。だが寄る年波にはやはり勝てないのか、五十嵐が彼女と初めて会った頃よりも、確実にその口元に加齢のあとが見える。目元はブランド物のサングラスで隠れているので分からないが、今年30歳になる五十嵐よりも一回り以上も年上なのだから、まあ、推して知るべしだろう。
「主人の海外勤務が決まったの」
注文を終えて五十嵐が用件を聞き出す前に、女が口を開いた。彼女が主導権を握りたがるのはいつものことだ。
「へえ……栄転ってやつかな?」
「ええ、そういうことになるかしら。それで、今度はしばらくは帰ってこれないから、行く前に一目、貴方のハンサムな顔を見ておきたくなったのよ」
「それはご丁寧にどうも。そうか、もう美紀さんに会えなくなるのか……」
女の言わんとしていることを正確に汲み取って、五十嵐は口角だけで、寂しそうに見えるように笑った。つまり彼女の夫の出世が決まったので、物理的な距離のこともあるし、いわゆる不貞な関係なんて解消したいということだ。
江戸、明治時代から続く豪商の家系、今も東京に多数の土地を所有する大地主の娘で、親戚には多数、政財界の要人が名を連ねる由緒正しきお嬢様。そして外務省勤めの旦那が海外勤務になるということは、恐らく国の特命で全権委任を受けた長の妻として出向くことになるのだろう。さらにその夫は、近い将来、政治家に転身するだろうともっぱらの噂……
となると、確かに妻が年下の怪しい男と関係を持っていることは、大した醜聞でしかない。
女と知り合って約10年。なんだかんだありながら、それでも蜘蛛の糸のように細くも長く続けてきた間柄だ。だが五十嵐は寂しさよりも先に、ようやくこの女と手が切れると内心ほくそ笑んだ。最近では新しく起こしたビジネスも軌道に乗り、どうやってこの年増と縁を断つか悩んでいたのだ。
確かに彼女には随分と助けられた。彼女の後ろ盾のお陰で今のビジネスの基盤を築けたし、必要な土地の確保も出来た。
「美紀さんには色々とお世話になったから、寂しくなるよ」
家庭環境があまりよろしくなかった五十嵐は、高校卒業と同時に母親の元から姿を眩ました。父親はそれなりに金を持った既婚者だったとも、ムショに行ったヤクザだったともいうが、顔も名前も知らない。
とにかく金にも男にもだらしなかった母親を早々に見限り、食べていくために有象無象の都会の雑踏に紛れて夜の世界へ。己の見目の良さを自覚していたこともあり、五十嵐がホストとして身を立てるのは実に簡単だった。
俗にいう濃い顔のハッキリした顔立ちのイケメン。身長も186cmあるし、学生の頃はボクシング、今も筋トレがストレス発散の趣味なので、日本人離れしたモデル体型をしている。実際、昔から街を歩けば芸能事務所やモデル事務所から声をかけられることも度々だった。
なのになぜその道に進まなかったのかというと、単純にホストの方が手っ取り早く金になったからだ。下積みで不特定多数に媚を売るのは面倒臭い。何より謙虚さや愛想といったものをろくに持ち合わせていないので、常に腰を低くして仕事をもらうような真似ができるはずがなかった。
夜の街なら。過度に場を盛り上げずとも女達は見た目だけで五十嵐を指名した。『いい男』を一時でも独占でき、それがフリでも愚痴や悩み事を聞いてくれる。実際、五十嵐は軽薄なおべっかを使った話しかけなど一切しなかったが、観察力に優れていたので会話には困らなかった。貫禄豊かな存在感に、物静かながら的確な受け答え。そして、時々耳元で少し甘い言葉を吹き込むだけでそれは瞬時に金になり、時には高価なプレゼントに化けて返ってきた。
今流行りのSNSでの宣伝も一切せず、口コミだけで売上ナンバーワンを維持し続けたその武勇伝は、ホスト界隈では『麻薬級のフェロモンを持つ男』とまで噂されるほどだった。
それなりに地頭も良かったらしく、22歳を過ぎて高卒ながら入学資格審査と受験そのものに合格して、有名国立大学の経営学大学院を受講し、ビジネスやマーケティングの知識を手に入れた。その頃には以前に購入した格安の──俗にいうペニーストックと呼ばれるアメリカ株が運良く爆上がりし、順調に資産も増えた。
在学中に自分の店を持つこともでき、既に上客が何人も付いていた五十嵐の知名度もあって、店はすぐに軌道に乗った。
軽薄な雰囲気を一切排除した、高級志向のホストクラブ。知的でウィットに富んだ会話を武器に、本当に金を持っている客だけをターゲットにした貴族サロンのようなその店は、大人の接客をするホストの上品さと知性を売りに、キャリアを追求する女性達を上手く取り込んで、彼女達の情報交換の場としても大当たりした。
中でも目の前の女は、ホストクラブでいうところの一番多くお金を使ってくれる姫というよりは、パトロンだった。顔の広い彼女の口添えに支えられ、加えて色々とラッキーな偶然も重なって、ホストクラブに続けてナイトクラブ、そしてつい最近では、都内に自社ビルを一棟所有するまでになった。だがその時点で、もう彼女は用済みだと見切りをつけていた。既に彼女以上の、ビジネスライクな強いコネを手に入れたのだ。
まあ、わざわざ引導を渡さずとも放置……からのフェードアウトでいいかと思っていたところ、今日の「身綺麗にするわ」という申し出だ。五十嵐にしたらまさに渡りに船だった。
「じゃあ、元気でね」
少しばかり会話を楽しみ、女はヒールの音も高らかに喫茶店を出て行った。去り際、五十嵐の手元にきっちりと分厚い封筒を置いていったのは流石だ。手切れ金プラス、口止め料を忘れないあたり、やはり彼女は最高の女だと五十嵐は感心する。
これで一つ、楽して面倒事が片付いたな……と、五十嵐が喜んでいると、不意に、無音にしていた携帯電話がジャケットの内ポケットの中で揺れた。店の一つを任せている男から、火急ではないが無視できないメールだ。電話で話す必要もない、少し調べてテキストで返せば済むような案件だったので、五十嵐は珈琲をもう一杯お代わりして、そのまま店に居座ることにした。
実は。どうにも気になっていることがある。
「どうしてなの? 私のこと、いっつも後回しだよね?」
前のテーブル。今風にアイロンで髪をふわりと巻き、茶色に染めた女がか弱い震えた声を絞り出す。
「クリスマスもお正月も会えなかったし、いつも忙しいって言い訳ばかり」
五十嵐の前、同じ方向を向いて座っている女の顔は見えないが、彼女と向き合うようにして座っている男の顔は、彼女の後頭部越しにちら見えする。
眼鏡をかけた、柔和そうな顔立ち。もう見た目だけで女を食い散らかしていそうな、『悪い男』の代名詞のような五十嵐とは違って、良くも悪くも『いい人』臭のするその男を、女はなぜか先程からずっと責め立てていた。そう、五十嵐がこの店に入って来た時から。
「私、そんなに無茶なお願いをしていないよね? もうちょっとだけ。もう少しだけ私のことを気にかけて、既読無視したりしないでねって言っているだけなのに……」
「いや、だから。私には本当にそんな暇がないんだよ。どうしようもないことで責められても、何も改善は出来ないから……」
「本田さんってば冷たい!」
「いや、だから……」
ずっとこの調子。どうやら仕事が忙しいらしい男に等閑にされていると感じる女が、「仕事と私、どっちが大事なの?!」と詰め寄っているらしい。彼は僅かに眉を顰めて対応に苦慮していた。
そんなもの、もちろん選べるはずがないだろう。仕事を辞めたら辞めたで文句を言うくせに。
入ってくる時すれ違い様にちらりと見ただけだが、男の身なりはかなりいい。腕にはポルトギーゼの高級クロノグラフがその存在感を主張しているし、服装はいたってシンプルだが、生地は量販店ではありえない良質のものだ。椅子の上に脱いで置かれたコートの、たまたま見えたタグはグレンフェルで、英国王室も愛用するイギリスの老舗メーカーだった。
歳の頃は少し不明で、好青年的なその顔の作りから大学院生のようにも見えるし、逆にその立ち振る舞いの落ち着き具合から五十嵐より年上のようにも見える。だが確実に、結婚適齢期なことに違いはなかった。いわばハイスペックそうな獲物というわけで、女がこんなにも必死になっているのも頷けた。
馬鹿な女だな……と、五十嵐は携帯電話を弄りながら鼻で笑う。
自分の客にも何人か、『自分が一番、自分だけ見て』みたいなヒステリックな客がいたが、速攻で切り捨てたな……
つい好奇心で意識がそちらに向いてしまうが、指先は休まずに画面に文字を連ねていく。タタタっと流れるような速さで部下への指示を入力し、最後にポンっと軽快に送信ボタンを押して完了だ。
「よし」
携帯メールで一通りの連絡を終えて、五十嵐は冷め始めた珈琲カップの中身を飲み干した。
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「でも、でも……」
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「私達はどうも合わないようだ。申し訳ないけど、こうして会うのも今日で終わりにしよう」
「待って、本田さん!」
おや。『本田さん』なる男は、ようやくこの不毛なやり取りを強制終了することにしたらしい。
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改めて見下ろせば、自分磨きに余念のなさそうな、美意識の高そうな女だった。恐らくはまだ売れないモデルか、芸能人と呼ばれる部類だろう。
今まで男には、チヤホヤされる存在でいい気分になっていたのか。だからだろうか、第三者に、男に縋り付くみっともない自分の姿を見せたくないとでも思ったのか、完全に追いかけるタイミングを失ったようだった。
「あ、すみません」
少しぶつかってしまったので、男が礼儀正しく謝罪してきた。今まで座っていたので気づかなかったが、こうして見ると結構背が高い。五十嵐より少し低いくらい、180cmに少し足りないぐらいだろう。
「いえ」
気にするなと五十嵐も小さく応えて、そのまま連なって二人してレジへと向かう。もちろん女は追って来れないようだった。
「え?」
その時だった。何か黒いものが、猛スピードでこちらに近づいてくるのが視界の片隅に入った。
「ぅそ、だろ?!」
五十嵐は咄嗟に、目の前の男の肩を押した。追い立てるようにして店の奥へと逃げ込み、彼もろとも、最後には軽く吹き飛ばされるようにして床に転がる。
「っ!!」
ガッシャーンという大きな音と、ベキ、バキ、ボキっと色々なものがひしゃげて潰れる音。
女性のキャーという甲高い悲鳴。
慌てふためき、逃げ惑う人々。
かなりの衝撃に、五十嵐は知らずに男に覆い被さるようにして、身を守るようにしばらく蹲っていた。
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「まじか……」
そこには。
日常ではありえない大惨事が広がっていた。
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