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02 不幸中の幸い
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「わお……」
図らずも五十嵐が身を挺して庇うかたちになった男──本田は、覆い被さっている男の肩越しに店内に目を向けて、小さく唸った。
衝撃で倒れ込んでしまった二人だったが、幸いにも大きな怪我はないようだ。ズレた眼鏡を本田が押し上げ、次に五十嵐と目を合わす。だが言葉が出ないまま申し合わせたように二人してゆるゆると身を起こし、まずは上にいた五十嵐が立ち上がって本田に手を貸した。
「ありがとう」
手首を持って引き起こし、そうして改めて、二人はこの突然降って湧いた悲劇を見渡した。
白を基調にした居心地の良かった店内は、テーブルや椅子がなぎ倒されて完全に破壊されていた。磨かれてゴミ一つ落ちていなかったカウンター周りのタイル床には、並べられていたコーヒー豆が、割れたキャニスターから溢れて散らばっている。
その先にあるのは、大きな黒い鉄の塊だ。
通りに面した一面のガラス窓を突き破って喫茶店に突進してきた暴走車は、無惨にもフロント部分が大破して、今もタイヤが空回りしていた。
「大丈夫かい?」
自分を守ってくれた五十嵐の身体に怪我がないか素早く見廻しながら、本田が心配そうに声をかけてきた。
「あ、ああ……」
五十嵐は一瞬眩暈を感じたが、それが自分でも知らずに受けた物理的な衝撃のせいなのか、それともこの地獄絵図のような惨状によるストレスのせいなのかはわからなかった。
「もし動けるようなら手伝ってくれないか」
このような非常時でも、何故か本田は妙に冷静だった。取り乱すことなく五十嵐に声をかけ、派手に散らばった障害物を避けて躊躇なく車に近づいて行く。そうしながら彼は、よく通る声で狼狽えるばかりの店内の人間に指示を飛ばした。
「ウエイター、すぐに119番して救急車を要請して。その後で110番通報。あと消火器を出してください。出来れば近隣の店からもかき集めて。AEDは近くにある? あるなら持ってきて」
「は、はい」
「他、動ける人は今すぐ店から出て。念の為、外で救急車を待ってください。目に見えて酷く裂傷している人は、その箇所を綺麗なハンカチかナプキンで強く押さえてまず止血。もし移動が無理そうなら、無理に動かずその場で待機。独りで立てないほど体のどこかが痛む人も、内臓損傷を疑って動かないでください。とにかく下手に動いて怪我を悪化させないように」
こんな時、迷いのない態度でリーダーシップを発揮してくれる人が一人いると、その場は一応の落ち着きを取り戻す。突然の惨事に混乱し、そして苦痛に呻いていた人も、素直に本田の言葉に従い始めた。幸いなことに、車の下に巻き込まれたり、直接跳ねられたりした人はいない。本田の彼女──元カノ? も、さすがに一言も発することが出来ずに、黙って他の客と共に退去して行った。
どうやらそこまで酷い怪我人は、店の客からは出なかったようだ。協力し合って出口に向かう全ての客を尻目に、五十嵐は本田に並んで全面がひしゃげた車の中を覗き込んだ。作動した白いエアバックに顔が隠れているので、運転手の状況がよくわからない。
「じゃあ悪いけど、このドライバーを出すのを手伝ってくれる?」
不幸中の幸いなのか、最小限の被害だった運転席側のドアは、鍵も掛かっていなかったので大した苦労もなく開けることが出来た。まず男の足をアクセルから離してエンジンを切り、シートベルトを外す。エアバックに埋もれていた中年の男を二人して車から引き摺り出すが、気を失っている上に腹回りがかなり豊かな男だったので、少しばかり苦労した。
「ゆっくり、なるべく頭を動かさないように気をつけて」
慎重に、男を出来る限り車体から離して地べたに横たえる。これといって、特に目立った外傷はないようだが──
「ゴホっ、ゴホっ。死んでいるのか?」
万が一にと、本田が店のスタッフに指示して事故車のエンジンルームと、煙が出始めていたタイヤ周りを中心に消火器を撒かせたので、少し空気が悪い。
難しい顔をしたまま、本田は慣れた手つきで運転手の顎を持ち上げて気道を確保した。同時に首元の脈を指2本で押して確かめ、顔を顰める。次に、彼の持っていたセンスのいい大きな黒のビジネスリュックから聴診器が出てきた時には、五十嵐は「やっぱりな」と納得する思いだった。これで医療関係者じゃなかったら驚きだ。
「 Stroke or Heart attack ……とにかく気を失ったから運転不能になったみたいだね。脈がない、CPR」
「えっ?」
呟くなり本田は、鞄からもう一つ、吸入マスクの付いたポンプ……いわゆる人工呼吸器を引っ掴んで、五十嵐に押し付けてきた。ここまでの彼の動作に、一切の無駄はない。
「君はあたま側に回って。で、横から空気が漏れないように、こんな風に隙間が出来ないように抑えて。私がこれから胸骨圧迫をするから、中断した時に、あまりポンプを強く押し過ぎずに2回押して、肺に空気を送ってくれ。ところでAEDは見つかった?」
「わ、わかりません。まだうちの一人が探してますが、この辺りに公共施設はないし、大きな商業ビルも少し離れていて……」
喫茶店の責任者らしいスタッフが、オロオロと返事をする。本田はそれならばと手を上下に重ねて指を組み、リズミカルにグッグッと、ドラマでよく見るように運転手の胸の真ん中を押し始めた。
胸骨圧迫を続け、定期的に脈を確かめるの繰り返し。どれぐらいそうしていたのか──
遠くから複数のサイレンが近づいてくるのが聞こえた時、五十嵐は「やっと来たか」と安堵した。
ベージュ色の防火服と、オレンジ色やグレーの活動服を着込んだ男達がバタバタと店になだれ込んでくる。少し遅れて、警察官の姿もあった。
「え、ショウ先生?!」
「あ、本当だ。本田先生、またあんたですか……」
どうやら駆けつけてきた救命士の二人は、本田と顔見知りらしかった。既に無線で連絡が入っていたのか、持ち込んだAEDの装置を手際良く本田の隣で広げる。だが本田が電極パッドを付けるために要救助者の胸元を大きく裸にしたところで、胸部が小さく上下していることに気づいた。
「あ、蘇生しましたね。じゃあ、このまま病院に搬送します」
そこからは目まぐるしく事態が動いた。二人の救命士がテキパキと、事故を起こした運転手の頸椎を守るためにネックカラーを装着し、ストレッチャーに乗せる。そして準備を整えて去り際、若い方の一人が、五十嵐が手にしていたポンプを本田に返す姿を見やって、小さく失笑した。
「そのアンビュー、ショウ先生の私物ですか? すごいですね、そんなモノまで携帯しているドクター、他にいないですよ」
「まあ、色々と事情があってね……」
「はっはっ。あっ、このまま乗っていきます?」
共に店の外に出ながら、救命士が救急車を顎でしゃくった。
「いや、後は君たちに任せるよ。出来れば経過だけ気になるから、搬送先の病院にうちに連絡くれるよう伝えてくれると助かります」
「わかりました。じゃ、申し送りしときますね」
どうやら無事に搬入先の病院も見つけられたらしく、怪我人を乗せた救急車はサイレンの音も高らかに走り去っていった。
事故現場となった喫茶店の周りには既に黄色いテープが貼られ、立ち入り禁止になっている。現場を封鎖していた警察官の一人がすかさず寄ってきて、実況見分をしたいから少しだけここに残るようにと伝えてきた。殆どの当事者は既に病院に搬送されるなり解散を言い渡されて、店のスタッフ以外、もうここには居ない。
担当の警察官が来るのを待っている間、本田が近くの自販機で水のペットボトルを買ってきた。一本を五十嵐に差し、その水で軽く手を洗うように促してくる。残りは二人とも飲み干した。
「さっきは手伝ってくれてありがとう。えーっと……」
「五十嵐。五十嵐圭吾。本田先生?」
先生のところを少し強調して五十嵐が戯けてみせれば、本田ははにかんだように笑った。
「はは。そう、ドクター。本田翔だよ。でも皆には大概、ショウって呼ばれているかな」
名前を名乗りあったのも束の間、すぐに警察官がやってきて、事情聴取が始まった。
「いやー。お時間を取らせてすみませんね。じゃあ、事故の時の状況を少し教えていただけますか?」
警察官には二人は元から知り合いと思われているのか、同時に話を聞かれた。そうして知った、お互いのこと。
本田翔。都内でも有名な総合病院に勤める外科医で、今は主に胸部外科を専門にしているらしい。
五十嵐圭吾。都内に複数の飲食店を持つ実業家。いわゆる夜の店だが、今回は無関係なことなので深く追及はされなかった。もちろん聞かれても五十嵐は答えなかっただろうが。
「ふむふむ。じゃあ先生の見立てでは、車を運転していた男性は何かしらの発作を起こしたから運転不能になったと……運転席から助け出した時、既に心肺停止だったんですね。わかりました」
既に他の目撃者からも話を聞き終えているので、目新しい情報は何もなかったことだろう。警察官は一通りの経緯と二人の連絡先を書類に書き留めると、早々に話を切り上げた。
「それにしても今回は災難でしたね。ですが不幸中の幸いと言いますか、たまたま先生がいてくれて助かりました。何より死者が出ませんでしたからね。じゃあ、今日のところはもう帰っていただいて結構ですよ。ですが、もしかしたら後日、警察から連絡がいくかもしれません。特に先生には事故当事者の救命をしていただいたので、ご足労いただくこともあるかもしれませんが、その時はまた、よろしくお願いしますね。ではご協力、ありがとうございました」
まだまだ後処理が山積みなのだろう。礼を言いながら警察官は軽く敬礼をして、慌しくパトカーの方へと戻って行った。
「不幸中の、幸いねぇ……」
確かに心肺停止からすぐにCPRができたのは幸いだったかもしれない。けれど助かっても、このあと多額の賠償が待っていることを思うと……また心臓が止まってしまうのではないかと要らぬ推測をしてしまう。
けれどまあ。ようやくこのドラマのような非日常の終わりが見えて、五十嵐と本田は大きくため息を吐いた。どちらからともなく顔を見合わせて、
「さて……っと」
1時間ほど前までは顔も知らぬ赤の他人だった二人だ。つい奇妙な空気が流れてしまった。
本田は人の良さそうな微笑を見せて、「よっ」とビジネスリュックを左肩に担ぎ直し、
「じゃあ、私もこれで。君も何か体に異変を感じたら、念のため病院に行くようにね」
「ああ……」
「じゃあ」
本田が背を向ける。五十嵐は慌てて男を呼び止めた。
「本田先生!」
「ん?」
「このあと暇なら飯に行かないか?」
「え?」
ポカンと呆気に取られる本田に、五十嵐は言い募った。
「ほら、色々あったからさ、このまま独りで放り出されると消化不良というか……」
咄嗟に、そんな誘い文句が口をついて出てきた。不思議そうに首を傾げる本田に、さらに畳み掛ける。
「なんていうか超大作の映画を一人で観た後みたいな? なのに分かち合う人がいないと虚しいじゃないか」
ここまで言ってようやく、本田も合点がいったのか、思案しながらも小さく「確かに」と呟いた。
「まあ、時間はあるけど……」
「じゃあ決まり」
本当に、今日はとんだ災難だった。けれど、
「あ、こっち。俺、車で来てるから」
今は謎の達成感がある。
「えーっと、まずは服を着替えにいこうか。ほら、少し汚れてしまったし。それで、何食いたい?」
五十嵐にしては珍しく上機嫌で、ズボンのポケットから取り出したBMWの鍵をクルリと軽快に指で回して見せた。
図らずも五十嵐が身を挺して庇うかたちになった男──本田は、覆い被さっている男の肩越しに店内に目を向けて、小さく唸った。
衝撃で倒れ込んでしまった二人だったが、幸いにも大きな怪我はないようだ。ズレた眼鏡を本田が押し上げ、次に五十嵐と目を合わす。だが言葉が出ないまま申し合わせたように二人してゆるゆると身を起こし、まずは上にいた五十嵐が立ち上がって本田に手を貸した。
「ありがとう」
手首を持って引き起こし、そうして改めて、二人はこの突然降って湧いた悲劇を見渡した。
白を基調にした居心地の良かった店内は、テーブルや椅子がなぎ倒されて完全に破壊されていた。磨かれてゴミ一つ落ちていなかったカウンター周りのタイル床には、並べられていたコーヒー豆が、割れたキャニスターから溢れて散らばっている。
その先にあるのは、大きな黒い鉄の塊だ。
通りに面した一面のガラス窓を突き破って喫茶店に突進してきた暴走車は、無惨にもフロント部分が大破して、今もタイヤが空回りしていた。
「大丈夫かい?」
自分を守ってくれた五十嵐の身体に怪我がないか素早く見廻しながら、本田が心配そうに声をかけてきた。
「あ、ああ……」
五十嵐は一瞬眩暈を感じたが、それが自分でも知らずに受けた物理的な衝撃のせいなのか、それともこの地獄絵図のような惨状によるストレスのせいなのかはわからなかった。
「もし動けるようなら手伝ってくれないか」
このような非常時でも、何故か本田は妙に冷静だった。取り乱すことなく五十嵐に声をかけ、派手に散らばった障害物を避けて躊躇なく車に近づいて行く。そうしながら彼は、よく通る声で狼狽えるばかりの店内の人間に指示を飛ばした。
「ウエイター、すぐに119番して救急車を要請して。その後で110番通報。あと消火器を出してください。出来れば近隣の店からもかき集めて。AEDは近くにある? あるなら持ってきて」
「は、はい」
「他、動ける人は今すぐ店から出て。念の為、外で救急車を待ってください。目に見えて酷く裂傷している人は、その箇所を綺麗なハンカチかナプキンで強く押さえてまず止血。もし移動が無理そうなら、無理に動かずその場で待機。独りで立てないほど体のどこかが痛む人も、内臓損傷を疑って動かないでください。とにかく下手に動いて怪我を悪化させないように」
こんな時、迷いのない態度でリーダーシップを発揮してくれる人が一人いると、その場は一応の落ち着きを取り戻す。突然の惨事に混乱し、そして苦痛に呻いていた人も、素直に本田の言葉に従い始めた。幸いなことに、車の下に巻き込まれたり、直接跳ねられたりした人はいない。本田の彼女──元カノ? も、さすがに一言も発することが出来ずに、黙って他の客と共に退去して行った。
どうやらそこまで酷い怪我人は、店の客からは出なかったようだ。協力し合って出口に向かう全ての客を尻目に、五十嵐は本田に並んで全面がひしゃげた車の中を覗き込んだ。作動した白いエアバックに顔が隠れているので、運転手の状況がよくわからない。
「じゃあ悪いけど、このドライバーを出すのを手伝ってくれる?」
不幸中の幸いなのか、最小限の被害だった運転席側のドアは、鍵も掛かっていなかったので大した苦労もなく開けることが出来た。まず男の足をアクセルから離してエンジンを切り、シートベルトを外す。エアバックに埋もれていた中年の男を二人して車から引き摺り出すが、気を失っている上に腹回りがかなり豊かな男だったので、少しばかり苦労した。
「ゆっくり、なるべく頭を動かさないように気をつけて」
慎重に、男を出来る限り車体から離して地べたに横たえる。これといって、特に目立った外傷はないようだが──
「ゴホっ、ゴホっ。死んでいるのか?」
万が一にと、本田が店のスタッフに指示して事故車のエンジンルームと、煙が出始めていたタイヤ周りを中心に消火器を撒かせたので、少し空気が悪い。
難しい顔をしたまま、本田は慣れた手つきで運転手の顎を持ち上げて気道を確保した。同時に首元の脈を指2本で押して確かめ、顔を顰める。次に、彼の持っていたセンスのいい大きな黒のビジネスリュックから聴診器が出てきた時には、五十嵐は「やっぱりな」と納得する思いだった。これで医療関係者じゃなかったら驚きだ。
「 Stroke or Heart attack ……とにかく気を失ったから運転不能になったみたいだね。脈がない、CPR」
「えっ?」
呟くなり本田は、鞄からもう一つ、吸入マスクの付いたポンプ……いわゆる人工呼吸器を引っ掴んで、五十嵐に押し付けてきた。ここまでの彼の動作に、一切の無駄はない。
「君はあたま側に回って。で、横から空気が漏れないように、こんな風に隙間が出来ないように抑えて。私がこれから胸骨圧迫をするから、中断した時に、あまりポンプを強く押し過ぎずに2回押して、肺に空気を送ってくれ。ところでAEDは見つかった?」
「わ、わかりません。まだうちの一人が探してますが、この辺りに公共施設はないし、大きな商業ビルも少し離れていて……」
喫茶店の責任者らしいスタッフが、オロオロと返事をする。本田はそれならばと手を上下に重ねて指を組み、リズミカルにグッグッと、ドラマでよく見るように運転手の胸の真ん中を押し始めた。
胸骨圧迫を続け、定期的に脈を確かめるの繰り返し。どれぐらいそうしていたのか──
遠くから複数のサイレンが近づいてくるのが聞こえた時、五十嵐は「やっと来たか」と安堵した。
ベージュ色の防火服と、オレンジ色やグレーの活動服を着込んだ男達がバタバタと店になだれ込んでくる。少し遅れて、警察官の姿もあった。
「え、ショウ先生?!」
「あ、本当だ。本田先生、またあんたですか……」
どうやら駆けつけてきた救命士の二人は、本田と顔見知りらしかった。既に無線で連絡が入っていたのか、持ち込んだAEDの装置を手際良く本田の隣で広げる。だが本田が電極パッドを付けるために要救助者の胸元を大きく裸にしたところで、胸部が小さく上下していることに気づいた。
「あ、蘇生しましたね。じゃあ、このまま病院に搬送します」
そこからは目まぐるしく事態が動いた。二人の救命士がテキパキと、事故を起こした運転手の頸椎を守るためにネックカラーを装着し、ストレッチャーに乗せる。そして準備を整えて去り際、若い方の一人が、五十嵐が手にしていたポンプを本田に返す姿を見やって、小さく失笑した。
「そのアンビュー、ショウ先生の私物ですか? すごいですね、そんなモノまで携帯しているドクター、他にいないですよ」
「まあ、色々と事情があってね……」
「はっはっ。あっ、このまま乗っていきます?」
共に店の外に出ながら、救命士が救急車を顎でしゃくった。
「いや、後は君たちに任せるよ。出来れば経過だけ気になるから、搬送先の病院にうちに連絡くれるよう伝えてくれると助かります」
「わかりました。じゃ、申し送りしときますね」
どうやら無事に搬入先の病院も見つけられたらしく、怪我人を乗せた救急車はサイレンの音も高らかに走り去っていった。
事故現場となった喫茶店の周りには既に黄色いテープが貼られ、立ち入り禁止になっている。現場を封鎖していた警察官の一人がすかさず寄ってきて、実況見分をしたいから少しだけここに残るようにと伝えてきた。殆どの当事者は既に病院に搬送されるなり解散を言い渡されて、店のスタッフ以外、もうここには居ない。
担当の警察官が来るのを待っている間、本田が近くの自販機で水のペットボトルを買ってきた。一本を五十嵐に差し、その水で軽く手を洗うように促してくる。残りは二人とも飲み干した。
「さっきは手伝ってくれてありがとう。えーっと……」
「五十嵐。五十嵐圭吾。本田先生?」
先生のところを少し強調して五十嵐が戯けてみせれば、本田ははにかんだように笑った。
「はは。そう、ドクター。本田翔だよ。でも皆には大概、ショウって呼ばれているかな」
名前を名乗りあったのも束の間、すぐに警察官がやってきて、事情聴取が始まった。
「いやー。お時間を取らせてすみませんね。じゃあ、事故の時の状況を少し教えていただけますか?」
警察官には二人は元から知り合いと思われているのか、同時に話を聞かれた。そうして知った、お互いのこと。
本田翔。都内でも有名な総合病院に勤める外科医で、今は主に胸部外科を専門にしているらしい。
五十嵐圭吾。都内に複数の飲食店を持つ実業家。いわゆる夜の店だが、今回は無関係なことなので深く追及はされなかった。もちろん聞かれても五十嵐は答えなかっただろうが。
「ふむふむ。じゃあ先生の見立てでは、車を運転していた男性は何かしらの発作を起こしたから運転不能になったと……運転席から助け出した時、既に心肺停止だったんですね。わかりました」
既に他の目撃者からも話を聞き終えているので、目新しい情報は何もなかったことだろう。警察官は一通りの経緯と二人の連絡先を書類に書き留めると、早々に話を切り上げた。
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まだまだ後処理が山積みなのだろう。礼を言いながら警察官は軽く敬礼をして、慌しくパトカーの方へと戻って行った。
「不幸中の、幸いねぇ……」
確かに心肺停止からすぐにCPRができたのは幸いだったかもしれない。けれど助かっても、このあと多額の賠償が待っていることを思うと……また心臓が止まってしまうのではないかと要らぬ推測をしてしまう。
けれどまあ。ようやくこのドラマのような非日常の終わりが見えて、五十嵐と本田は大きくため息を吐いた。どちらからともなく顔を見合わせて、
「さて……っと」
1時間ほど前までは顔も知らぬ赤の他人だった二人だ。つい奇妙な空気が流れてしまった。
本田は人の良さそうな微笑を見せて、「よっ」とビジネスリュックを左肩に担ぎ直し、
「じゃあ、私もこれで。君も何か体に異変を感じたら、念のため病院に行くようにね」
「ああ……」
「じゃあ」
本田が背を向ける。五十嵐は慌てて男を呼び止めた。
「本田先生!」
「ん?」
「このあと暇なら飯に行かないか?」
「え?」
ポカンと呆気に取られる本田に、五十嵐は言い募った。
「ほら、色々あったからさ、このまま独りで放り出されると消化不良というか……」
咄嗟に、そんな誘い文句が口をついて出てきた。不思議そうに首を傾げる本田に、さらに畳み掛ける。
「なんていうか超大作の映画を一人で観た後みたいな? なのに分かち合う人がいないと虚しいじゃないか」
ここまで言ってようやく、本田も合点がいったのか、思案しながらも小さく「確かに」と呟いた。
「まあ、時間はあるけど……」
「じゃあ決まり」
本当に、今日はとんだ災難だった。けれど、
「あ、こっち。俺、車で来てるから」
今は謎の達成感がある。
「えーっと、まずは服を着替えにいこうか。ほら、少し汚れてしまったし。それで、何食いたい?」
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