奇跡な男(ひと)

仁木 羽陽

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『ごめん』

『何?』

『まだ仕事』
『急変』

『じゃあ焼き鳥は明日だな。遅くなっても来る?』

 短いやり取りが、間隔を空けて続く。どうやら患者の容態が急変したらしい。きちんとした文章が打てないほど、いま本田は忙しいのだろう。

 今日は、戦前の創業当時から守り続けているという秘伝のタレが絶品と評判の焼き鳥屋に、二人で行く予定だった。だがこの調子だとキャンセルになりそうだ。しかし明日は休みと言っていたので、単に日にちを1日ずらせばいいだけのこと。もしくは近所なので、テイクアウトしてきてもいい。だからうちで軽く酒だけでも一緒に呑むかと暗に問えば、

 P ♪

 しばらくして再び、机に伏せていた携帯電話スマホの着信音が鳴った。
 仕事の片手間に五十嵐がそれを持ち上げて見ると、ホーム画面には『行く』の文字。知らず、口角が持ち上がった。

「随分、仲良くなったんですね」

 横から部下の逢坂オウサカ伊吹イブキに冷やかされて、慌てて頬を引き締める。五十嵐はじろりと逢坂の神経質そうな顔を睨みつけた。

 五十嵐が社長を務める株式会社メフィストの事務所は、自社ビルの7階、エレベーターホールを挟んで五十嵐の自宅の向かい側にある。通勤時間に1分もかからない、もちろん傘も要らない好立地の通勤先だ。
 事務所といっても常勤する人間はおらず、会社関係の書類の保管が主で、時々、経理会計業務や雑務をするのに五十嵐と逢坂が利用するぐらい。なのでデスクらしいデスクもなく、6人掛けの会議テーブルが中央に一つ。あとは壁面にキャビネットだけという殺風景さだった。残りの部屋は五十嵐のストレス発散である筋トレ用のトレーニングルームと、倉庫……
 その倉庫も使っているのはほんの一部なので、いつの間にか逢坂が高価なソファベッドを事務用資産として経費で落としていて、彼の仮眠室と化していた。確かに給湯室や簡易シャワーもあるので、寝泊まりするのに困りはしないだろう。階下のバーや近所で仕事をしていて遅くなった時など、偶に利用しているようだった。
 そんな好き勝手を咎めないのは、逢坂にはそれだけの価値があるからだ。

 逢坂は弁護士と公認会計士の資格を持つ有能な男だった。少し曰く付きの経歴の持ち主で、昔からグレーゾーンの仕事ばかり請け負っている。五十嵐と彼が知り合ったきっかけも、初めて自分の店を持つ時に支援してくれたに、何かと役に立つからと紹介されたからだった。
 以来、逢坂は会社のナンバー2として、経営、運営、財務関係をそつなくこなし、さらには顧問弁護士として幅広く五十嵐を支えてくれていた。

「それにしてもいつの間に宗旨替えしたんです?」

 面白がって逢坂が聞いてくる。五十嵐は鼻で笑った。

「何を言っているんだ?」

「彼ですよ。本田……ショウさんでしたっけ? ここ最近、よく会っていますよね。特に店に引き抜くでもない、ただ仲良くされているようですけど」

「……単に気が合っただけだ」

「へえええぇ」

 わざとらしい相槌。最近特に、この手の言及が増えてきて鬱陶しかった。

 五十嵐の会社はホストクラブから始まったので、従業員は男しかいない。とんとん拍子で開いた2店目のナイトクラブ、3店目になるこのビルの階下に入っている高級バーでも、特に女性社員を雇うことはしなかった。ホストクラブは言わずもがな、他の店も全て酒を出す夜の店なので、酔って気の大きくなった客の対応は男の方がいいだろうと判断したからだ。
 なので株式会社メフィストは、いわゆる体育会系、立派な男社会だった。上下関係が物を言う、下位の男が目上の男性を絶対的に敬う社会構造で成り立っている。同性間の結びつきホモソーシャルがまるで男子校のように重要なコアとして順守されていて、だからか、本来なら精神的な『男同士の絆』が、恋愛感情に変化することが往々にしてある。バイ、もしくはゲイだと公言している従業員も数人いるし、逢坂もその内の一人だった。

 事実、目の前の男に五十嵐は過去、「そんなに女に幻滅しているのなら、私が相手してあげましょうか?」とお誘いを受けたことがある。その時は鼻で笑って、

「俺は5歳も年上のおっさんを抱くのも、組み敷かれるのも真っ平ごめんだ」

 と軽く往なしたが、どうも本気で狙われていたらしい。どこか爬虫類めいた目が、「やっぱり同類だったじゃないか」と詰ってきていた……ように見える。

 おっさんと揶揄したものの、逢坂は中肉中背、きちんとセットされたスリックバックの髪型に、服のセンスもいつも気を抜かずにビシッと決めているので、見た目はそんなに悪くはない。ただ目つきが鋭すぎてとっつき難い印象があり、その言動もまるで重箱の隅を突くかのように辛辣なので、とにかく周りの人間からは怖がられていた。弁護士ということもあり常に冷静沈着。何かあれば的確に人の弱点を攻撃してくる。

「女に幻滅しているのなら」

 あの時。逢坂にそう指摘されて、五十嵐は内心はっと息を飲んだ。

 男にだらしがなかったホステスの母親を見限って家を飛び出し、何の目標もなく都会の雑踏を彷徨った。挙句、自分も夜の店で働いて、母親と同じ年頃の女も抱いた。
 これまでの五十嵐の人生の中で、『恋人彼女』という存在がいたことはない。どれだけ性経験があろうとそれは金の為で、感情がいっさい伴わない単なる排泄行為でしかなかった。なので、女に幻滅していると言われても仕方がないのだろう。

 絶対的庇護者であるべきの母親から特に愛されずに育ったので、自立心と警戒心が人並み以上に培われ、その他の感情、特に人を信頼して好意を寄せるという情緒が、五十嵐には物心ついた頃から致命的に欠落していた。

 何事も打算的に考えてしまうのは、五十嵐の悪い癖だった。得にならない人間は、たとえ無害でも時間の無駄と今まで切り捨ててきたのだ。なのに本田とは『異常な状況下』で出会ったからか、彼に対して感じているのは、今のところ好奇心の一言に尽きた。あまりにも自分とかけ離れた世界の人なので、興味が尽きないのかもしれない。

「第一ね。見てる限り、やり方があざといんですよ」

 僅かに苛立ちを滲ませた声で、逢坂がパソコンのモニターを睨みつけたまま吐き捨てた。どれだけ私語を挟もうとも、仕事の手を止めないのは立派だと言えよう。

 五十嵐は呆れて、来月35歳の誕生日を迎える腹心の男を見遣った。

「何の話をしているんだ?」

「あの人ですよ、本田さん。勿体ぶって連絡を返して来ないなんて、ひと昔前に馬鹿な女が嵌った恋愛指南本のルールの一つ、『自分からは連絡を控えること』、そのままじゃないですか」

「……」

 お前、そんなくだらないものを読んでいるのか? とは、あえて突っ込まないでおく。

「忙しかったんだよ」

 疲れたように、五十嵐は言い訳をした。実際、本田が返事を返してこないことはしょっちゅうだった。
 手術中だった。診察中だった。研修医に指導していた。数え出したらキリがない。

 それは、初めて本田が五十嵐の家に泊まった時からそうだった。

 あの日。五十嵐は、本田がその日のうちに必ず連絡を寄越してくると確信していた。なのに3日経っても音沙汰なしで、仕方なく五十嵐の方から連絡を入れる羽目になったのだ。

『服、どうする?』

 メールでそう問い掛ければ、だいぶ経って夜遅く、ようやく本田から電話が掛かってきた。

「圭吾? ごめんごめん、この前はありがとう。ちょっとここ数日、予想外に忙しくてね。ところで服って何?」

「ショウが忘れていった服だよ」

「え?」

 五十嵐自身もすっかり忘れていたのだが、二人はあの事故の後、夕飯を食べに行くために汚れた服を着替えたのだ。近場にあった海外ブランドの店でセーターとズボンを購入し、その直前まで着ていた服は、店員が一纏めにして紙袋に入れてくれた。それをそのまま五十嵐のBMWの後部座席に放置してしまったので、午後、男が所用で車を使うまで忘れ去られていたのだ。
 
「あー、そういえば確かにあの日、着替えたね」

「ああ。ちなみに洗濯はとっくの昔に済んでいるぞ」

「ええー。それはご親切に、どうもありがとう」

 大袈裟に驚いて、本田は歓喜の声を上げた。五十嵐にしたら紙袋を逆さまにして、中身を全部、全自動の洗濯機に放り込んだだけだ。そうして密かにまた会う口実があることにほくそ笑んでいたのに、待てど暮らせど、連絡が一向にこない。仕方なく自分からメールすると、本田はすっかり忘れていたという……

 がっくり肩を落とした五十嵐だったが、「じゃあ、ちゃんとワインのお礼もしなきゃね」と、本田は律儀に、次の非番の日に日本酒を持ってやって来た。

「なんで日本酒?」

「だって本当に良質ものは、やはり本場の日本でしか呑めないんだよ。それにほら、酒のスパークリングなんて、こっちに来て初めて見たよ。Rice wine って呼ばれるのも納得だよね。あとはちゃんとした? 普通の日本酒と、ワインも買ってきたから。飲み比べてみよう」

 1週間ぶりに会った本田は相変わらず気さくで、屈託がなかった。

 実直で、仕事に真面目な裏表のない男。今まで関わることのなかった、普通なら絶対に接点を持つことすらない人種だ。
 互いに金銭的余裕があるのも良かったのだろうが、『上』でも『下』でもなく、全てが『対等』に感じる。

 裏を読まなくていい関係なんて、随分と久しぶりだった。いや、もしかしたら五十嵐の人生の中で初めてかもしれない。

 本田は博識なぶん少し理屈臭いが、交わす会話はバラエティに富んでいて、そして想像の斜め上をいった。

「今日、標本以外で初めて、Tapeworm の大物を見たよ!」

「テープワーム?」

「あー、日本語で何て言うんだっけ? えーっと……そうそう、サナダムシ」

「ぶっ」

 五十嵐は思わず口に含んでいた酒を吹き出してしまった。若干引いている男を置き去りに、本田は得意げに語り続ける。

「本当は腫瘍のためにお腹を開けたんだけど、たまたま見つけてね。あれは10 ft ……3mぐらいあったかな。長いものだと10m以上にもなるらしいけど、それでも私の見たものの中では最長だったね」

 そんな逸話がゴロゴロとある。

 ちなみに五十嵐が連絡を心待ちにしていた間、本田がなぜそんなに忙しかったのかというと、某英語圏の駐日大使の、家族の緊急手術をすることになったからだという。大使直々にご指名されたらしい。
 英語がネイティブなことはもちろんのこと、日本の医者より圧倒的にアメリカ本国で手術実績が多いこともあり、その成功率の高さから、名医としての評判がすこぶる高い。依頼してきた大使もけっして日本の医療技術を軽視してはいないだろうが、日本語が母国語ではない国の人間にしたら、たとえ通訳を通しても意思疎通がスムーズにできるかどうかは、やはり懸念要素だったようだ。

 本田の存在は、その界隈の人達──東京在住の、特級階級の外国人の間では知れ渡っていた。

 無事に手術を成功させて、術後の観察のために病院に寝泊まりもして。そんな忙しい日々を過ごしていたので、本田は脱いだ服のことなんてすっかり忘れ去っていた。

「だからね、それがあざといって言うんですよ」

 逢坂の愚痴が止まらない。

「うっかり忘れてた? 小賢しい計算ですよ、そんなの。あなたに興味ありませんってフリして、男の気を引こうとしているんです」

「……」

 男が男の気を引くって、何だ?

 一体、男相手にしろ女相手にしろ、逢坂はこれまでどんな恋愛経験を積んできたのだろう? 卑屈というか、何というか……

「いいですか。社会人なら返信はこまめにしないと! 私なんて既読したら、遅くても10分以内には返信していますよ」

 逢坂のトンデモ理論に、五十嵐は深いため息を吐いた。

 そんな暇人、どこにいる? 

 もちろん内容によるが、比較的時間に余裕のある五十嵐でもそんなに早く応対することはない。プライベートなやりとりなら尚更のこと。しかも本田は、仕事中は医療用の院内PHSしか持っていない可能性があるっていうのに……

 五十嵐は呆れて、全店舗のマネージャーと話し合って見直した定番のアルコールリストを逢坂に投げて寄越した。

「だから、ショウとはそういうんじゃないって言っているだろう。いい加減、その話はもうやめろ。そんな暇があったら、ほら、これ。来月からこのラインナップでいくから、一応、お前も目を通しておいてくれ」

 広いデスクの上を滑ってちょうど男の手元で止まった紙束を、しかし逢坂はチラリと冷たく見下ろすだけだった。取り上げもせず、逆に違う紙をファイル入れの中から取り出して五十嵐に返す。

「これは二日前に、既に佐々木マネージャーから受け取りました。継続的に在庫を確保するのが難しそうなものがありましたので、数点、差し替えています。あとコストが見合っていないものも除外しました。こちらが新しいリストです」

「……」

 さすがやり手の逢坂、仕事が早い。なら自分の今日の事務仕事は終わりだとばかりに、五十嵐は机の上を片付け始めた。

「あと、4階5階の掃除、もうちょっと根性入れてやれって下の奴らに言っとけ。稲葉のジジイがシーツの汚れがなんとかかんとか、文句言ってたぞ」

「ここ最近は、ほぼ拓巳と松下だけですね、掃除に回っているの。それに、シーツの洗濯は外注です。そのクリーニング店に注意するよう言っておきますが……って、本当にもう行くんですか?」

「もう俺がやることはないからな。後は全部、お前に任せた。家には居るから、何かあったら呼んでくれ」

「わかりました。──まあせいぜい、足掻けばいいですよ」

 ドアノブに手をかける五十嵐の背中に、揶揄うような逢坂の声が追い打ちを掛ける。

「あの手の男は大概鈍いですからね。見た感じ、良いとこのボンボンでしょ。世間の荒波に揉まれていない。頭でっかちなだけで、人の機微には疎そうだ」

 ……男のこういう鋭いところが頼もしい反面、五十嵐は苦手だった。逢坂の挑発を無視して、五十嵐は廊下に出る。

「お手並み拝見といきましょうか。あなたの持つ、『麻薬級のフェロモン』がどこまでノンケ相手に通用するか、をね」

 背後で嘲笑うように何か喚いていたが、五十嵐は聞こえないフリをして、ヤケクソ気味にドアを閉めた。
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