奇跡な男(ひと)

仁木 羽陽

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「オーナー!」

 かぶり付いていたサンドイッチを慌てて皿に戻し、白石拓巳は口の中のものを必死に飲み込んだ。

「お疲れ、さまっす」

 きちんと咀嚼しないうちに喋るから、言葉がモゴモゴとしている。
 五十嵐はそんな青年の媚びた態度を冷めた目で受け流し、疲れたようにドサリと向かいのベンチシートに腰を下ろした。

「圭吾。おかえり」

 今度は隣から、労わるように声をかけられる。同じようにサンドイッチに齧り付いている本田だ。

「このサンドイッチ、美味しいよ。Pastramiパストラミ と厚切りのハムが交互に挟んであるんだって。Sauerkrautザワークラウト  と  Gruyèreスイスチーズ も入っていて、この塩気が癖になるね」

 至極幸せそうだ。キッチンから顔を覗かせるシェフに合図して、五十嵐も自分用に一つ頼んだ。

「ショウは思ったより早く終わったんだな」

「うん。昨夜、結局5人ほど担ぎ込まれてきて、全然眠れなかったんだ。今日は引き継ぎできる医師フェローもいるし、少しだけ雑務を片付けたら帰らせてくれた。圭吾こそ遅かったね。結構前に、もう帰るって連絡くれていたのに」

「急遽、人に会う予定が出来たから寄ってたんだ。あと、帰り道の途中で、雨でスリップしたらしいバイクと軽が事故って道を塞いでた」

 昨日の朝から先程まで、本田は24時間以上ほぼ働き詰めで、五十嵐は五十嵐で、昨日の夕方から今まで外に出ていた。どちらも疲れた顔をして、ブランチのサンドイッチを頬張る。

 こうして家の階下のバーで、気兼ねなくプロの作った食事を食べられることは、本当に便利だった。特に今日はたまたま同席している白石が、その恩恵を一番に受けている。

「お前、今日は授業ないのか?」

「今日はこれから、3限と4限なんです。これ食ったら行きます」

「さっきちょっと話していたんだけど、白石さん……くんは、圭吾の部屋のインテリアを担当したんだってね」

「あっ、拓巳でいいスっよ。もう一人ここで働いている白市しらいちさんと紛らわしいで。俺、本当にラッキーでした。担当したって言っても、技術的なことはまったくの素人でしたけどね。でもまだ大学の1年生だったのに、ネットで調べた俺の提案、馬鹿にせずちゃんと聞いてもらえたんです。実際、椅子とかテーブルとか、細々したのは俺が選んだんスよ」

 えへんと胸を張る白石は、まるで尻尾をブンブンと振る子犬のようだ。喋りながらもしっかり、付け合わせのフライドポテトにたっぷりとケチャップをつけて、立て続けに口に運んでいる。

「俺、将来的に、建築環境の方向を目指してるんですよね」

「建築環境?」

 聞き慣れない言葉に、本田が首を傾げた。

「自然に配慮、みたいな?」

「あ、そうですね。うん? ちょっと違うかも。えっと、環境・設備系っていって、建物の照明とか音響とか。空調も考えて、建物をいかに快適にするかを追求するっていうか。簡単に言うと、窓の位置ひとつ決めるのも風の通り道とか陽の光の入り方とか考えて、断熱性と防音性も高めて……って感じですかね。まあ大きく言えば自然との調和も目的のひとつなんで、配慮してることになるのかな?」

 自分の好きなことを語るのが楽しいのか、白石のはしゃぎようが半端ない。

「もちろん、インテリアにもすげー興味があるんスよ。だからオーナーがこのビルに部屋を作るって言った時、参加させてくださいって土下座する勢いでお願いしたんス。本当の現場に興味があったし、プロの職人さんとも話してみたかったし。実際、すげー勉強になりました。内装一つで、見た目って全然変わるやないっスか。ほら、その人のイメージもあるし。俺、オーナーは絶対ブルックリンが似合うと思ったから、海外の部屋の間取りとか寸法いっぱい調べて、いっぱい提案したんスよ!」

「寸法?」

 その言葉に本田が反応して、サンドイッチから顔を上げた。

「ああ、そうか! だからか。全てのサイズが日本の標準とちょっと違うんだ」

 種明かしをされてようやく、本田はずっと不思議だった、なぜ五十嵐の部屋がこんなにも居心地がいいのか、その秘密の一因を解明した気がした。小さい頃から慣れ親しんでいる家の作りと同じだからだ。キッチンの作業台の高さひとつ比較してみても、アメリカの方が基本的に5cmほど高い。

「そうです、そうです。オーナー、特に背が高いですしね。でね、庶民的な雰囲気がでないように、バスルームとかも拘ってみたんスよ。だからまるで高級ホテルみたいでしょ? トイレと風呂場が同じ場所にあるの、人によって好き嫌いが別れますけど、かわりにそんなところに洗濯機なんかあったら台無しなんで、それは専用の家事室を設けて隠したんスよ。いやー、ほんとあの時、オーナーに任せてもらえて凄く嬉しかったなあ」

 当時を思い出したのか、白石の目にうっすらとハートマークが浮かんでいる。いくら五十嵐飼い主に、

「細かいことに興味がなかっただけだ。それにお前が建築家になりたいって話、口先だけじゃないって知りたかったしな。何もお前を最初から信頼して任せたわけじゃない」

 けんもほろろな態度を取られても、子犬は一向にめげる様子がなかった。本田は再び聞き役に回って、シェフが次のメニューに載せようと試作した特製パストラミサンドイッチを引き続き堪能している。

「ほんと、俺はラッキーでした。オーナーは俺の命の恩人スっよ。俺、絶対に大学に行きたかったんですけど、家に金なくて。高校卒業して関西からこっちに出て来たはいいものの、やっぱ、自分で生活費も学費も稼ぐのって大変じゃないスか。ホストだったら短期間でちょー稼げるって聞いたから、結構不安だったけど応募したんスよ。そしたらオーナーに出会えて。あの時オーナーに拾ってもらえなかったら、俺、今も大学に行けてないっス」

 キラキラとした目を向けられて、五十嵐は居心地が悪そうだ。

「お前、絶対に倍にして返せよ」

「もちろんっス! いん出たらバリバリ働いて、ちゃんと恩返ししますから。ということで、出世払いするために学校に行ってきます」

 まるで敬礼するように立ち上がって、白石は律儀に頭を下げた。ちゃんと自分の食べ終わった食器を持ってキッチンに消えていくあたり、教育が行き届いている。

「院? Grad school 大学院 ?」

 本田が首を傾げて隣の男を見る。五十嵐は肩を竦めて肯定した。

「ああ、行きたいんだとさ。よく分からないが、建築業界の中じゃ、大卒だけじゃ箔が足りないらしい。学部卒じゃどうしても小さい仕事しか回ってこなくて、あいつのやりたい、でかい設計が難しいんだってさ」

「へえ。で、圭吾がまたお金を出してあげるんだ?」

「……別に。勉強したいって意欲があって、前向きに将来なりたいものがあるなら行けばいいさ。なんとなくで流されて、惰性で大学に行く奴らより有意義だろ」

 何でもないことのように五十嵐は吐き捨てるけれど。本田は目を丸くして、次に「ふふ」と小さく忍び笑いを洩らした。

「何だよ?」

「いや。やっぱり圭吾は優しいなと思って」

「言ったろ。あいつはそれなりに才能も、根性もあるからな。将来、きっちり取り立てるから今はいいんだよ。先行投資だ」

 照れ隠して不機嫌そうに眉を顰める五十嵐を、本田はそれ以上揶揄うことはせず、ただ穏やかに残りの食事を楽しんだ。



 昨夜の寝不足を解消するように二人で抱き合って眠り、次に五十嵐と本田が目を覚ましたのは、夕方の5時過ぎだった。

「4時間ほどは眠れたか?」

「そうだね。結構頭がスッキリした」

 さらには最近ろくに体を動かせていないからと、1時間ほど軽くトレーニングルームで汗を流し、五十嵐が夕飯の用意に取りかかったのが、午後7時半ごろ。

「外は雨が降っているし、今さら出掛けるのも面倒臭いだろ。簡単なものになるけど、このまま部屋で食べようぜ」

「賛成。あ、でもお昼のサンドイッチが結構がっつりしていたから、あっさりしたものがいいな」

「オッケー」と言いながら五十嵐が手早く作ってくれたものは、レモンガーリックバターのとてもシンプルなパスタと、グレープフルーツとルッコラのサラダだった。
 ピリッとした僅かな辛味と苦味のルッコラに混ざって、グレープフルーツの爽やかな甘み。生ハムが乗っているので塩気も合わさって、とても美味しい。ドレッシングとして上からバルサミコ酢を煮詰めた甘酸っぱい『バルサミコリダクション』が掛かっているのが、また良いアクセントになっていた。
 開けたボトルは軽い食事に合わせて、爽やかなイタリアの発泡酒スプマンテ

「圭吾と一緒にいると、そのうち体重が2倍になりそうだよ。気をつけなきゃ」

 くるくると器用にスパゲッティをフォークに巻き付けて、本田が口に運ぶ。五十嵐は少しだけ片眉を上げ、ニヤリと笑った。

「でもショウは食べるの好きだろう?」

「嫌いな人いる?」

 食欲は生き物の本能。拒否する人間なんてそうそういない。

「はは、確かに。でも拘りがあるというか、美味いものに貪欲だよな。結構な食通グルメだと思う」

「もちろん食べるなら美味しいものを食べたいからね。でも Gourmet って何だよ? 何も毎日 Fancy高級  なレストランに行っているわけじゃないし。一人の時は結構、コンビニのおにぎりとかだけで済ますよ。流石にコンビニ Bento 弁当  は買わないけど。あ、コンビニといえば、たまごサンド美味しいよね」

「そうなのか?」

「食べたことないの?」

 意外だ。日本人で食べたことがない人間がいるなんて。

「ないな。学生の頃はあったと思うけど。てか、コンビニに行く用事がない」

「信じられない……」

 五十嵐の衝撃のお貴族様発言に、本田は目を見開いた。

「言っておくけど日本のコンビニは凄いよ! 唐揚げも美味しいし、デザートも凝っていて、あの値段であの質はアメリカじゃ信じられない。何だよ、圭吾こそグルメじゃないか! お腹空いたら下のバーでいつでも食べられるし、自分で料理するにしても、そこからいい食材ばかり持って上がってきて使うんだから」

「便利だろ? 何のために、俺が自社ビルの中に自分の部屋を作ったと思っているんだ?」

 澄まして答えれば、これまた笑い声が返ってくる。

「Yeah  yeah」

 本田は肩を揺すって楽しげに、チューリップ型のワイングラスに手を伸ばした。

 すっかりお腹も満たされた後は、ソファに移動して映画鑑賞。
 この夏新作が公開されるとネットの至る所で騒いでいたので、「それなら」と1作目を見始めたのだが。これがどうも二人の好みには合わなくて、早々に飽きがきてしまった。

「最近、こういう映画ばっかりだな。元がアメコミってやつ」

「American comics?」

「そう。あと童話の映画化とか」

「ああ、もう題材がないのかもね。今は現実的な犯罪集団が暗躍するアクション映画を作って、下手に Hateヘイト を煽りたくないみたいだし」

 最近の傾向を思い出して、本田が冷静に分析した。事実、一昔前に流行っていたテロリストがアメリカに報復するみたいな映画は、極端に減ったように思う。

「なるほどな。それにしてもこの映画、Black humorブラックユーモア と Sarcasm皮肉 が酷いな」

「……前から思っていたけど、圭吾って、けっこう英語が喋れるね?」

 五十嵐自身がはっきりと喋っているところを聞いたことはないけれど。
 映画には日本語の字幕が付いているから分かるにしても、本田が電話でアメリカの仕事仲間と話し終わった直後など、偶にその会話の内容について言及してくることがあるのだ。

 五十嵐は少し考え込んで、そう思われる理由を探した。

「まあ、普段からそれなりに喋っているからな。うちのナイトクラブ、スタッフの半数近くが外国人なんだ」

「へえ」

「それに、もともと中学の頃から英語は好きだったんだ。当時、オーストラリアから来た英語教師が良い人で」

 言いながら、五十嵐はすっかり画面モニターに興味を無くしていた本田を引き寄せた。

「わっ、もー……」

 少し慌てながらも、大人しく腕の中に収まってくれる。ここ数日のスキンシップで、本田もそれなりに慣れてきたらしい。

「小学、中学と、本当に毎日が楽しくなくて。自分の周りのこと全てに嫌気がさしてたんだ」

 お水の子。
 父親が誰かも分からない。
 男を取っ替え引っ替えする、ふしだらな女の息子だから──

 そう言って同級生はおろか、教師の多くにも軽んじられた。そんな中で、オーストラリア人のその教師だけは孤立する圭吾を気にかけてくれたのだ。彼にしたら日本の差別がよく理解出来なかっただけかもしれない。それでも未熟だった当時の圭吾にしたら、数少ない救いだった。
 彼のお陰で、もし英語を話せたら、こんな窮屈な人生から抜け出し、もっと広い世界で、今とは違う自分になれるかもしれない。そう夢見ることができた。
 それからは意図して洋画を英語のまま観たり、学校の図書室で色々な洋書を借りて読んでみるようになった。

 あの頃の自分が何を目指していたのかもう知る由はないけれど。とりあえず今は金に困っていないので、惨めだった子供時代とは訣別できたように思う。

「今となってはその教師に感謝しかないな」

「へえ、本当に良い先生だったんだね」

「ああ。まあ実際は教師が本職じゃなくて、日本には旅行感覚で来てみたかっただけらしいけど。でも教えるのは上手かったと、少なくとも俺は感じたな。とにかく喋れって、よく言ってた。文法が間違っているとか、発音が可笑しいって笑われることを恐れるなって。言葉は所詮道具だから、とにかく単語だけでも並べて意思疎通する努力をしろと」

 失敗を恐れて黙っていると、一生、人と交流することは叶わないままだ。

「ショウ……」

 失敗を恐れて立ち止まっていると、一生、先に進めないから。

 五十嵐は本田の眼鏡をすくい取ると、それをローテーブルに避難させた。
 少し体重をかけてソファに押し倒し、唇を重ねる。下唇を甘噛みして軽く吸うと条件反射のように口を開けてくれるようになったのは、ここ最近の成果だろう。さらに舌を絡めると必死に応えようとしてくるので、五十嵐も遠慮なく彼の口腔を弄った。

「はあ……」

 誰かがキスは、粘膜が接触する最高の前戯だと言っていた。口内にも性感帯があって、それだけでイキそうになることもあると。
 五十嵐はそんなことあるかとこれまで馬鹿にしていたが、今なら分かる。好きな相手とするキスは格別だった。

 キス一つでこんなにも、脳天が痺れるほど気持ちが良いなんて。

「んんっ、ん」

 本田も同じように感じてくれているだろうか。合わせた下半身、布越しに彼の昂りを感じた。

「圭吾……」

 上擦った声で名前を呼ばれ、五十嵐は優しく脇腹を撫でていた手をさらに大胆に動かした。彼のTシャツの裾をグイッと捲り上げ、剥ぎ取ろうとする。自ら手を抜いて軽く頭を起こしてくれたので、作業はスムーズに終わった。
 そして自分もせっかちに脱ぎ捨てると、再び裸の男と肌を重ねた。女のような柔らかさはないが、ほどよく鍛えられたハリのあるしなやかな筋肉が逆に気持ちいい。

「ショウ」

 濡れた唇にキスをして、顎、首元へと啄むようにキスを降らせていく。胸元を弄っていた左手で小さな突起を何度も擦り上げ、やがて、揶揄うように強く親指で押し潰した。

「んぅ……」

 鼻から抜けるような鳴き声と共に、本田の腰が揺れる。反対側を舌で転がすと、頭に添えられた指で優しく髪の毛を掻き混ぜられた。

「け、ーご」

 どこか責めるような、縋るような声に懇願されて、ジワジワと右手を下半身に伸ばしていく。すっかり硬くなったソコを服の上からひと撫ですると、あからさまに背中が跳ねた。大きな掌を上下に動かして、しばらく弄ぶ。
 我慢できないとばかりに猛りを手に押し付けてきたので、五十嵐がズボンを脱がせようとゴムに指を掛けた……その時だった。

 ドンドンドンドン。

 けたたましくドアを叩く音に、五十嵐と本田はギョッとして目を見合わせた。
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