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17 エマージェンシー
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「Appy ……急性虫垂炎だね、多分」
「うぅ……」
五十嵐の頼りになる専属医師は、冷静にそう診断した。
5分
10分
15分……
バスルームに篭って一向に応答しない五十嵐に、本田はドアの外から何度も呼びかけた。ドンドンとノックしても梨の礫。鍵のかかったドアはびくともしない。
中で動いている気配はするので蹴破るわけにもいかず、本田が気を揉むこと20分。ようやくバスルームの鍵を開けて出てきた五十嵐の顔色は、見事なぐらい土気色だった。
「圭吾?! ちょ、腹痛? どこが痛い?」
「腹……ここ……右の脇腹……」
「ここ?」
「う゛っ」
的確に痛みのあるところを軽く押されて離された途端、五十嵐の顔が苦痛に歪む。
「あー……」
本田が悟ったように顔を上げた。そうして続けて言ったことが、「Appy ……急性虫垂炎だね、この位置だと。これは病院に行かなきゃ」だった。
「嘘だろ……」
五十嵐は信じられない思いだった。シャワーを浴びる前から腹に感じていた違和感が、まさか興奮のせいではなく、病気の初期症状だったなんて。
もう今では。痛みに波がなくて、ずっと刺すように痛い。痛いから吐き気がするのに、痛すぎて吐けない。さっき便器を抱えて頑張ったが無理だった。
119番しようとする本田に待ったをかけ、五十嵐は弱々しくリビングのローテーブルを指差した。
「スマホ、取って、くれ」
体を丸めて床に転がりながら、男は渡してもらった携帯電話で一番上にある発信履歴をリダイヤルした。
「あの騒ぎから、まだたったの2週間ですよ。何度もそうそう救急車を呼ぶわけにはいきません。何かあるのではと、店のイメージが悪くなります」
ものの1分もせずに店から上に上がって来た逢坂は、事態を把握するなり無情にもそう言った。
「ほら、本田先生。そっちからオーナーの体を支えてください。地下に私の車がありますから、それで貴方の病院に行きますよ」
「え? 私の病院?」
「当たり前でしょ。救急で行かないんだから、確実に診てもらえる医者のいるところに行かないと。貴方、外科でしょ? まさか盲腸だけ専門外なんてことあるんですか?」
「え、いや、もちろん消化器も診れるけど……え、本当に?」
狼狽える本田にも逢坂は容赦がない。
「ええ。ああ、でもその前に服は着た方がいいですね。流石にその格好だと病院に行くどころか、ここから一歩も外に出られませんし」
「うわ」
言われて、本田は慌てて寝室に引っ込んだ。直前までいい雰囲気だったので、五十嵐を追ってベッドから出る時に辛うじて身につけた、ボクサーパンツ一枚の姿だったのだ。
「あれだけ邪魔をするな。今夜はずっとバーに張りついて見守ってろって電話寄越しておいて、このザマですか?」
「ぐ……」
本田が着替えている間、逢坂の嘲笑うような言葉が五十嵐の弱った心に突き刺さる。畜生……と腹が立つが、激痛に蹲る今の状態では呻き声しか出なかった。
ヘンリーネックのシャツにチノパンだけのカジュアルな服を速攻で着込んできた本田は、ついでにリビングに転がっていた五十嵐のTシャツも持ってきてくれた。
「とりあえず急ごう。本当に Appy だったら、炎症がこれ以上進むのはマズい」
言うなり本田は五十嵐の脇の下に肩を入れて、労るようにゆっくりと地下へと移動した。
逢坂の車で病院に駆けつけ、1時間ほどかけて色々と調べた結果。
「やっぱり急性虫垂炎だね」
血液検査と腹部CT検査の結果を受けて、本田は医者の顔でそう最終的な診断を下した。今は点滴を通して抗生剤と痛み止めが効いてきたので、五十嵐の症状は大分落ち着いている。病室として通された部屋は本田が手配してくれたのか、シャワー、トイレ付きの個室だった。
「このまま抗生剤で治す方法もあるけど、私はこのまま入院して、手術して取ることをお勧めするよ。白血球の数値が18000近くあるし、CRPも12.5と異常に高い。圭吾の状態をみる限り初期症状から痛みの移動が少し早いようだし、破裂して穴でも空いたら大変だ。それに、残しておいてもしょうがないしね」
白衣を着ている本田はなんだか新鮮だ。本当にドクターなんだなと、改めて思う。
何だか卑猥だな……
そんなくだらないことを心の中で考えながら、五十嵐はぼんやりと本田の説明を聞いていた。手術方法は腹腔鏡──、入院期間は通常なら4日、順調なら3日で──などなど、大体の手順を述べられる。
「じゃあこの後、お昼前にちょうど手術室が空いているから、それで手配するけど。それでいい?」
「ああ」
念押しして確認され、五十嵐は頷いた。だがふと疑問に思う。日付が変わって今日、確か本田は休日のはずだ。では一体誰が自分の手術を担当するのか……?
「誰が執刀するんだ?」
「え、それは虫垂炎だし、多分、消化器外科の研修ぃ……」
ジロリと睨みつけると、はっと息を飲んで押し黙った。
「俺の主治医は? Darling?」
「あーー……ソウデスネ。私がヤらせて、いただきマス……」
カタコトの日本語が返ってくる。本田はへらりと笑って、誤魔化すように五十嵐の髪にキスを落とした。頬に添えられた手が、優しく耳下を撫でてくる。
「ごめんごめん。そうだね、虫垂炎なんて本来は研修医の経験に回すべき手術なんだけど、大切な圭吾の体だもの。もちろん私が執刀しよう。傷も目立たないように努力するからね」
ダーリンと語尾を強くして呼びかけたからか、少し茶化されたが、総じて甘く聞こえるその言葉に免じて機嫌を直す。本田はさらに続けて言った。
「この後、朝になったら薬剤師と麻酔科医がこれから使う薬について説明に来るから。手術の同意書にもサインしてもらわないといけないし。その間、私は一旦家に帰って、色々と入院に必要な着替えとかを持ってくるよ。ちょっと仮眠も取りたいし。何か特に持ってきて欲しいものある?」
「ノートパソコン。いつも仕事で使っているやつ。あといつも使っているハンズフリーのイヤフォンも頼む」
「分かった。じゃあ5時間ほど……そうだね、朝の8時には戻ってくるから。あ、逢坂さんはさっき、検査に時間がかかるならって言って、一度バーに帰ったけど。すぐにまた来るからって」
「あー……」
迷惑をかけたと自覚しながらも、出来ればもう会いたくないと思ってしまう五十嵐だった。
はっきり言って、入院生活はゆっくりと傷を癒すどころではなかった。
「五十嵐さーん。朝の検温お願いします」
まず、この病室棟の担当になっている女看護師の色目がひどい。
「昨夜はちゃんと眠れましたかぁ? 何か困ったことがあったら、すぐナースコール押してくださいね♡」
「……どうも」
「この後、本田先生が回診に来られます。そこで詳しい説明をされると思いますけど、食事の許可が出たらすぐお持ちしますので。お腹、空いてないですか?」
「特には」
「そうですかぁ。お水も、先生の許可が出るまでもうちょっと我慢してくださいね。あ、血圧測りますね。右腕失礼します」
「はい」
「ところであの、五十嵐さんは本田先生とお知り合いなんですよね? どういったご関係なんですか?」
矢継ぎ早に質問をしてくるが、全て具合が優れないフリで聞き流していく。
術後目が覚めた時から、始終この調子だった。若い女の看護師が入れ替わり立ち替わり、病状を見にくるのだ。術後すぐの患者を気にかけることは、看護師として当然なのかもしれない。だが少し、頻繁過ぎないか?
内臓を切ったことによる下腹部の鈍痛と、動きのとれない寝たきりでの背中の痛みに弱っているのに、これは辛い。手術後しばらく経って、また自分の『休日』に戻った本田が病室に来てくれたから助かったものの、全然気が休まらなかった。
「本当は家族以外は面会時間が決まっているんだけどね。まあ、医者特権で特別だよ。個室だしね」
そう言って柔らかに笑う本田だけが唯一の癒しだった。初日だけ泊まり込んでずっと傍に居てくれ、夜中に少し熱が出た時も、適切に看病してくれた。
そして術後1日目、朝からばっちり化粧した女看護師に突撃されたというわけだ。早く次の患者の元に行けと思うが、なかなかどうして、『白衣の天使』はこれでもかとその優しさを振り撒いてくれる。
「午後には清拭……体を拭くお手伝いに来ますね。きっとさっぱりしますよー」
「……」
「じゃあまた後で♡」
やっと出て行ってくれた。
自分の見た目が良いことは自覚している。恐らく会社経営者という肩書きも知られているのだろう。だがそれにもまして、Dr. 本田の親密な──彼が休みの日にわざわざ手術を行うほど親密な知り合いという事実が、病院ではことさらに注目されているように思う。
「圭吾、体調はどう?」
ようやく唯一の心の癒しが姿を見せてくれた。五十嵐は横たわったまま、手術中に喉に入れられた管のせいで違和感の残る喉から声を振り絞った。
「最悪だ。早く帰りたい」
「はは。でもかなり腫れていたからね、昨日のうちに切って良かったよ。ドレーンも入れずに済んだしね。明日中に痛みが緩和されて、順調なら明後日の朝には帰れるから。じゃ、ちょっとお腹見せて。……うん、大丈夫そう。じゃあ今から癒着しないように、どんどん歩いていって。あと、水を飲んでも違和感がなかったら、昼に流動食から始めるから。それも大丈夫そうなら、夜は粥食ね。あ、その前にカテーテルを抜かないと。これも看護師に言いつけておくから──」
「今、抜いっ! ぐっ……」
勢いよく起き上がったので傷口が痛んだ。本田が慌てて支えてくれる。
「圭吾! そんな風に急に起き上がっちゃダメだよ」
「カテーテルって、これ、だろ。この、尿のための」
「そうだけど?」
きょとんと首を傾げる本田は何も分かっていない。意識のない時ならいざ知らず、明確に目が覚めている今、自分の股間を先程の肉食獣のような女達に曝け出すのは絶対に嫌だった。
「自分で抜くから……いや、ショウが今すぐ処理してくれ。早く!」
鬼気迫る五十嵐の迫力に押され、本田がびっくりしている。
「えーー」
だがすぐさま苦笑して、「 Oh boy 」と呟きながらも、
「まったく、しょうがないなぁ……」
使い捨てのグローブを両手に填めて、本田は、五十嵐が術前から付けられているT字帯と呼ばれる使い捨てのパンツに手をかけた。
日頃から運動もしていて体力があったからか、五十嵐の回復は順調だった。入院3日目にして本田から、無理は禁物だけどもう退院して大丈夫と太鼓判をもらう。本当は昨日の夕方には歩ける距離もかなり増えて、体の痛みも改善されていたのだが、この病院は午前中退院が基本なこともあり大事を取ったのだ。
「アメリカなら術後数時間で帰宅させるところなんだけど。まあ、ここは日本だしね。さて、脱腸を避けるために最低2週間は絶対に激しい運動や、重いものを持つのも禁止ね。その後は軽い運動から開始して、まあ、1ヶ月ほどは Easy に様子みながら、徐々に通常に戻していって。あと2週間後を目処に、一度外来受診してもらうんだけど……これはいいや。私が家で診れるから」
主治医からの心強い言葉をもらって、五十嵐は意気揚々と迎えに来た逢坂の車に乗り込んだ。本田はこの後、いつも通り就業時間をこなすという。
「無事退院おめでとうございます。いやー、良かったですね。恋人に親身になって看病……どころか治療そのものをしてもらって。すみません、私はあまりお役に立てなくて」
「……」
これはあれだ。深夜の搬送とか入退院手続きとか、入院中の仕事の調整とか。色々したのに何のお礼もないので当てこすっているのだ。
「迷惑をかけたな。助かった」
ここで黙っていたら逆に何だか負けてしまうと、五十嵐はぶっきらぼうながらも素直に礼を言った。現にこうして迎えにも来てもらっているし、随分と助けてもらったことに変わりはない。
「いいえ、どういたしまして。それにしても本田先生、とても人気のあるお医者さんですね」
午前中の比較的空いている道をスイスイと車で飛ばしながら、逢坂が感心したように病院での出来事を振り返った。
「本田先生に話しかけられるだけで、女性医療関係者の声のトーンが1オクターブ変わっていましたよ。いやはや、医者ってネームバリューはすごいもんです」
「そうだな」
それは五十嵐も十分肌で感じたことだった。入院中、五十嵐自身を気に入って色目を使う女看護師も多かったが、それよりも自分を介して、何とか本命の本田に取り入ろうとしているのが透けて見えたのだ。
「知っていますか? 人気のある医者ともなると、宿直の時とか、当直室に看護婦が忍び込んでくることがあるそうですよ」
「は? 何だそれ?」
つまり病院でセックスしているってことか?
「あくまで一般論です」
「誰が言ってたんだ?」
「ネットの掲示板です」
「お前……」
逢坂のくだらない戯れ言に、五十嵐は一気に力が抜けて助手席のシートに深く凭れ掛かった。
「うぅ……」
五十嵐の頼りになる専属医師は、冷静にそう診断した。
5分
10分
15分……
バスルームに篭って一向に応答しない五十嵐に、本田はドアの外から何度も呼びかけた。ドンドンとノックしても梨の礫。鍵のかかったドアはびくともしない。
中で動いている気配はするので蹴破るわけにもいかず、本田が気を揉むこと20分。ようやくバスルームの鍵を開けて出てきた五十嵐の顔色は、見事なぐらい土気色だった。
「圭吾?! ちょ、腹痛? どこが痛い?」
「腹……ここ……右の脇腹……」
「ここ?」
「う゛っ」
的確に痛みのあるところを軽く押されて離された途端、五十嵐の顔が苦痛に歪む。
「あー……」
本田が悟ったように顔を上げた。そうして続けて言ったことが、「Appy ……急性虫垂炎だね、この位置だと。これは病院に行かなきゃ」だった。
「嘘だろ……」
五十嵐は信じられない思いだった。シャワーを浴びる前から腹に感じていた違和感が、まさか興奮のせいではなく、病気の初期症状だったなんて。
もう今では。痛みに波がなくて、ずっと刺すように痛い。痛いから吐き気がするのに、痛すぎて吐けない。さっき便器を抱えて頑張ったが無理だった。
119番しようとする本田に待ったをかけ、五十嵐は弱々しくリビングのローテーブルを指差した。
「スマホ、取って、くれ」
体を丸めて床に転がりながら、男は渡してもらった携帯電話で一番上にある発信履歴をリダイヤルした。
「あの騒ぎから、まだたったの2週間ですよ。何度もそうそう救急車を呼ぶわけにはいきません。何かあるのではと、店のイメージが悪くなります」
ものの1分もせずに店から上に上がって来た逢坂は、事態を把握するなり無情にもそう言った。
「ほら、本田先生。そっちからオーナーの体を支えてください。地下に私の車がありますから、それで貴方の病院に行きますよ」
「え? 私の病院?」
「当たり前でしょ。救急で行かないんだから、確実に診てもらえる医者のいるところに行かないと。貴方、外科でしょ? まさか盲腸だけ専門外なんてことあるんですか?」
「え、いや、もちろん消化器も診れるけど……え、本当に?」
狼狽える本田にも逢坂は容赦がない。
「ええ。ああ、でもその前に服は着た方がいいですね。流石にその格好だと病院に行くどころか、ここから一歩も外に出られませんし」
「うわ」
言われて、本田は慌てて寝室に引っ込んだ。直前までいい雰囲気だったので、五十嵐を追ってベッドから出る時に辛うじて身につけた、ボクサーパンツ一枚の姿だったのだ。
「あれだけ邪魔をするな。今夜はずっとバーに張りついて見守ってろって電話寄越しておいて、このザマですか?」
「ぐ……」
本田が着替えている間、逢坂の嘲笑うような言葉が五十嵐の弱った心に突き刺さる。畜生……と腹が立つが、激痛に蹲る今の状態では呻き声しか出なかった。
ヘンリーネックのシャツにチノパンだけのカジュアルな服を速攻で着込んできた本田は、ついでにリビングに転がっていた五十嵐のTシャツも持ってきてくれた。
「とりあえず急ごう。本当に Appy だったら、炎症がこれ以上進むのはマズい」
言うなり本田は五十嵐の脇の下に肩を入れて、労るようにゆっくりと地下へと移動した。
逢坂の車で病院に駆けつけ、1時間ほどかけて色々と調べた結果。
「やっぱり急性虫垂炎だね」
血液検査と腹部CT検査の結果を受けて、本田は医者の顔でそう最終的な診断を下した。今は点滴を通して抗生剤と痛み止めが効いてきたので、五十嵐の症状は大分落ち着いている。病室として通された部屋は本田が手配してくれたのか、シャワー、トイレ付きの個室だった。
「このまま抗生剤で治す方法もあるけど、私はこのまま入院して、手術して取ることをお勧めするよ。白血球の数値が18000近くあるし、CRPも12.5と異常に高い。圭吾の状態をみる限り初期症状から痛みの移動が少し早いようだし、破裂して穴でも空いたら大変だ。それに、残しておいてもしょうがないしね」
白衣を着ている本田はなんだか新鮮だ。本当にドクターなんだなと、改めて思う。
何だか卑猥だな……
そんなくだらないことを心の中で考えながら、五十嵐はぼんやりと本田の説明を聞いていた。手術方法は腹腔鏡──、入院期間は通常なら4日、順調なら3日で──などなど、大体の手順を述べられる。
「じゃあこの後、お昼前にちょうど手術室が空いているから、それで手配するけど。それでいい?」
「ああ」
念押しして確認され、五十嵐は頷いた。だがふと疑問に思う。日付が変わって今日、確か本田は休日のはずだ。では一体誰が自分の手術を担当するのか……?
「誰が執刀するんだ?」
「え、それは虫垂炎だし、多分、消化器外科の研修ぃ……」
ジロリと睨みつけると、はっと息を飲んで押し黙った。
「俺の主治医は? Darling?」
「あーー……ソウデスネ。私がヤらせて、いただきマス……」
カタコトの日本語が返ってくる。本田はへらりと笑って、誤魔化すように五十嵐の髪にキスを落とした。頬に添えられた手が、優しく耳下を撫でてくる。
「ごめんごめん。そうだね、虫垂炎なんて本来は研修医の経験に回すべき手術なんだけど、大切な圭吾の体だもの。もちろん私が執刀しよう。傷も目立たないように努力するからね」
ダーリンと語尾を強くして呼びかけたからか、少し茶化されたが、総じて甘く聞こえるその言葉に免じて機嫌を直す。本田はさらに続けて言った。
「この後、朝になったら薬剤師と麻酔科医がこれから使う薬について説明に来るから。手術の同意書にもサインしてもらわないといけないし。その間、私は一旦家に帰って、色々と入院に必要な着替えとかを持ってくるよ。ちょっと仮眠も取りたいし。何か特に持ってきて欲しいものある?」
「ノートパソコン。いつも仕事で使っているやつ。あといつも使っているハンズフリーのイヤフォンも頼む」
「分かった。じゃあ5時間ほど……そうだね、朝の8時には戻ってくるから。あ、逢坂さんはさっき、検査に時間がかかるならって言って、一度バーに帰ったけど。すぐにまた来るからって」
「あー……」
迷惑をかけたと自覚しながらも、出来ればもう会いたくないと思ってしまう五十嵐だった。
はっきり言って、入院生活はゆっくりと傷を癒すどころではなかった。
「五十嵐さーん。朝の検温お願いします」
まず、この病室棟の担当になっている女看護師の色目がひどい。
「昨夜はちゃんと眠れましたかぁ? 何か困ったことがあったら、すぐナースコール押してくださいね♡」
「……どうも」
「この後、本田先生が回診に来られます。そこで詳しい説明をされると思いますけど、食事の許可が出たらすぐお持ちしますので。お腹、空いてないですか?」
「特には」
「そうですかぁ。お水も、先生の許可が出るまでもうちょっと我慢してくださいね。あ、血圧測りますね。右腕失礼します」
「はい」
「ところであの、五十嵐さんは本田先生とお知り合いなんですよね? どういったご関係なんですか?」
矢継ぎ早に質問をしてくるが、全て具合が優れないフリで聞き流していく。
術後目が覚めた時から、始終この調子だった。若い女の看護師が入れ替わり立ち替わり、病状を見にくるのだ。術後すぐの患者を気にかけることは、看護師として当然なのかもしれない。だが少し、頻繁過ぎないか?
内臓を切ったことによる下腹部の鈍痛と、動きのとれない寝たきりでの背中の痛みに弱っているのに、これは辛い。手術後しばらく経って、また自分の『休日』に戻った本田が病室に来てくれたから助かったものの、全然気が休まらなかった。
「本当は家族以外は面会時間が決まっているんだけどね。まあ、医者特権で特別だよ。個室だしね」
そう言って柔らかに笑う本田だけが唯一の癒しだった。初日だけ泊まり込んでずっと傍に居てくれ、夜中に少し熱が出た時も、適切に看病してくれた。
そして術後1日目、朝からばっちり化粧した女看護師に突撃されたというわけだ。早く次の患者の元に行けと思うが、なかなかどうして、『白衣の天使』はこれでもかとその優しさを振り撒いてくれる。
「午後には清拭……体を拭くお手伝いに来ますね。きっとさっぱりしますよー」
「……」
「じゃあまた後で♡」
やっと出て行ってくれた。
自分の見た目が良いことは自覚している。恐らく会社経営者という肩書きも知られているのだろう。だがそれにもまして、Dr. 本田の親密な──彼が休みの日にわざわざ手術を行うほど親密な知り合いという事実が、病院ではことさらに注目されているように思う。
「圭吾、体調はどう?」
ようやく唯一の心の癒しが姿を見せてくれた。五十嵐は横たわったまま、手術中に喉に入れられた管のせいで違和感の残る喉から声を振り絞った。
「最悪だ。早く帰りたい」
「はは。でもかなり腫れていたからね、昨日のうちに切って良かったよ。ドレーンも入れずに済んだしね。明日中に痛みが緩和されて、順調なら明後日の朝には帰れるから。じゃ、ちょっとお腹見せて。……うん、大丈夫そう。じゃあ今から癒着しないように、どんどん歩いていって。あと、水を飲んでも違和感がなかったら、昼に流動食から始めるから。それも大丈夫そうなら、夜は粥食ね。あ、その前にカテーテルを抜かないと。これも看護師に言いつけておくから──」
「今、抜いっ! ぐっ……」
勢いよく起き上がったので傷口が痛んだ。本田が慌てて支えてくれる。
「圭吾! そんな風に急に起き上がっちゃダメだよ」
「カテーテルって、これ、だろ。この、尿のための」
「そうだけど?」
きょとんと首を傾げる本田は何も分かっていない。意識のない時ならいざ知らず、明確に目が覚めている今、自分の股間を先程の肉食獣のような女達に曝け出すのは絶対に嫌だった。
「自分で抜くから……いや、ショウが今すぐ処理してくれ。早く!」
鬼気迫る五十嵐の迫力に押され、本田がびっくりしている。
「えーー」
だがすぐさま苦笑して、「 Oh boy 」と呟きながらも、
「まったく、しょうがないなぁ……」
使い捨てのグローブを両手に填めて、本田は、五十嵐が術前から付けられているT字帯と呼ばれる使い捨てのパンツに手をかけた。
日頃から運動もしていて体力があったからか、五十嵐の回復は順調だった。入院3日目にして本田から、無理は禁物だけどもう退院して大丈夫と太鼓判をもらう。本当は昨日の夕方には歩ける距離もかなり増えて、体の痛みも改善されていたのだが、この病院は午前中退院が基本なこともあり大事を取ったのだ。
「アメリカなら術後数時間で帰宅させるところなんだけど。まあ、ここは日本だしね。さて、脱腸を避けるために最低2週間は絶対に激しい運動や、重いものを持つのも禁止ね。その後は軽い運動から開始して、まあ、1ヶ月ほどは Easy に様子みながら、徐々に通常に戻していって。あと2週間後を目処に、一度外来受診してもらうんだけど……これはいいや。私が家で診れるから」
主治医からの心強い言葉をもらって、五十嵐は意気揚々と迎えに来た逢坂の車に乗り込んだ。本田はこの後、いつも通り就業時間をこなすという。
「無事退院おめでとうございます。いやー、良かったですね。恋人に親身になって看病……どころか治療そのものをしてもらって。すみません、私はあまりお役に立てなくて」
「……」
これはあれだ。深夜の搬送とか入退院手続きとか、入院中の仕事の調整とか。色々したのに何のお礼もないので当てこすっているのだ。
「迷惑をかけたな。助かった」
ここで黙っていたら逆に何だか負けてしまうと、五十嵐はぶっきらぼうながらも素直に礼を言った。現にこうして迎えにも来てもらっているし、随分と助けてもらったことに変わりはない。
「いいえ、どういたしまして。それにしても本田先生、とても人気のあるお医者さんですね」
午前中の比較的空いている道をスイスイと車で飛ばしながら、逢坂が感心したように病院での出来事を振り返った。
「本田先生に話しかけられるだけで、女性医療関係者の声のトーンが1オクターブ変わっていましたよ。いやはや、医者ってネームバリューはすごいもんです」
「そうだな」
それは五十嵐も十分肌で感じたことだった。入院中、五十嵐自身を気に入って色目を使う女看護師も多かったが、それよりも自分を介して、何とか本命の本田に取り入ろうとしているのが透けて見えたのだ。
「知っていますか? 人気のある医者ともなると、宿直の時とか、当直室に看護婦が忍び込んでくることがあるそうですよ」
「は? 何だそれ?」
つまり病院でセックスしているってことか?
「あくまで一般論です」
「誰が言ってたんだ?」
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