【完結】悪徳領主の一途な偏愛

大河

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4章

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 行為の余韻が冷めつつある中、サイラスは机の上からゆっくりと身を起こした。窓の外は、すでに深い藍色に染まり始めており、室内はずいぶん暗くなっている。

 サイラスは沈黙の中、近くの卓上に置かれたオイルランプに自ら火を灯した。小さな炎は、やがて部屋の中心に柔らかな光を広げ始める。

 その光の下で、サイラスは気負うことなく悠然と衣服を整え始めた。乱れたシャツのボタンを一つずつ留め、シワになったズボンを伸ばしていく。その一連の動作は、まるで何事もなかったかのように淡々としていた。

 対するエドガーは、乱れた着衣を整えた後も、サイラスが何食わぬ様子で衣服を羽織るどこか茫然と見つめていた。その表情には、つい先ほどまでの狂おしい熱はなく、代わりに、後悔にも似た影が落ちている。

 ――ああ、この男は。

 サイラスは内心で苦笑する。

 自分が貴族に手を出したという事実に、今さらながら恐れを抱いているのだろう。あの熱に浮かされた瞬間には理性を失い、情欲に身を委ねていたくせに、冷静さを取り戻すと途端にこれだ。その愚直さが、またたまらなく愛おしいのだが。

「……さて」

 サイラスは机の縁に腰を預け、エドガーを見上げた。

「お前は私の望みを実に理想的な形で叶えてくれたわけだが……この一回をもってお前の望みを聞いてやるには、いささか不平等だな」

 エドガーがはっとしたように顔を上げる。

「と、言いますと……?」

 戸惑ったように尋ね返す彼に対し、サイラスはニヤリと笑みを浮かべた。

「そうだな……。少なくとも、あと一ヶ月はこれからもこうして、夜に我が屋敷を訪れ、私の欲望を叶えろ。そうすれば、お前の言う通り、税の軽減を考えてやろう」
「それは……」

 エドガーが言葉を詰まらせる。その様子を楽しむように、サイラスは続けた。

「なんだ、お前にとっても悪い条件ではないだろう。さっきまでのお前の興奮を考えれば、お前だって楽しんでいたのは明らかだからな」

 からかうような声音に、エドガーはいたたまれないような表情を浮かべる。

「そ、それですから、困るのです。これでは……俺にとって、条件が良すぎます」

 その言葉に、サイラスは声を上げて笑った。

「いいじゃないか、これは間違いなく私の望みであるし、お前もまんざらではないのだったら」

 笑いを収め、サイラスはより真剣な表情になって続ける。

「それに、お前がたった一度屋敷を訪ねただけで税を下げていては、他の領民に見くびられてしまう。対してお前が一ヶ月の間、私の屋敷にずっと通い続けた末に税を下げたのであれば、お前が苦労して私の意見を曲げたという言い訳が立つ」

 その説明を聞いて、エドガーは納得したような、まだ何か言いたそうな顔をした。しかし彼はそれ以上サイラスの意図を追究するようなことはせず、小さく息をついた。

「……分かりました。それでは明日も、今日と同じくらいの時間に訪れる形でよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい」

 サイラスは頷く。その返事を受け、エドガーはどこか騎士を思わせる丁寧なお辞儀をした。

「それでは、また」

 そのまま執務室から静かに出ていく。扉が閉まる音が小さく響き、執務室に静寂が戻る。先ほどまでの倒錯的とも言える濃厚な時間を思い出し、サイラスは思わず笑みをこぼした。

 ──まさか、ここまでうまくいくとは。

 税を下げるために自分を抱けなど、自分でも荒唐無稽な命令だったと思う。普通なら、その場で憤慨して立ち去るか、侮辱されたと怒りを露わにするだろう。だが、彼はそれを受け止め、想像を超える形でそれを実行してくれた。

 サイラスは自身の唇に手をやる。つい先ほど、この唇に彼の唇が重なっていた。甘いキスだった。まるで恋人同士のような──そんな錯覚を覚えるほどに優しく、暖かなキス。

 これから一ヶ月、彼がこうやってこの屋敷に自分を抱きに通ってくる。その事実があまりにも自分に都合が良すぎて、現実味がなく感じられてしまう。

 サイラスは内心で苦笑を浮かべながら、窓から外に目をやった。

 そして、彼の姿が闇に溶けて完全に見えなくなるまで、じっとその場で立ち尽くしていた。



 エドガーに初めて出会ったのは、三年前のことだ。

 あの日、サイラスはたまたま王都から領地に帰郷していた。だが、時期は最悪だった。領内では賊による襲撃が相次ぎ、父はその対応に追われていた。書斎に籠もりきりで会議に明け暮れ、領民たちからの報告に耳を傾ける日々。そんな時にのこのこ戻ってきた息子を、父は快く思わなかったのだろう。まともな挨拶すらなく、あからさまにサイラスを無視した。

 父にとって、息子であるサイラスは厄介事でしかなかったのだ。むしろ、こんな非常時に王都から戻ってきたことを迷惑に思っているのが、その冷たい視線から痛いほど伝わってきた。

 腹を立てたサイラスは屋敷に戻らず、あてもなく領地をさまよった。苛立ちを抱えたまま歩き続けたその背を、賊たちが目ざとく捉えていたことなど知らずに。

 気がついた時には賊に身柄を拘束され、村外れにあった無人の廃屋に連れていかれていた。どうやら賊たちはその廃屋を根城に活動していたらしい。

 彼らは攫ってきた身なりのいい人間が領主の息子と知るや、すぐに父に身代金を要求した。

 だが、父は払わなかった。あの立派で誇り高い領主は、たった一人の息子のために賊に金を渡すような愚行はしなかったのだ。

 賊たちは口封じに殺そうとしてきた。必死に生き延びようとしたサイラスは、あらゆる手段で彼らに媚び、奉仕することで命を繋いだ。

 だが、それは生き残るための地獄の始まりだった。昼も夜も終わりなく、乱暴な行為に身も心も削られていく。

 その上、父に見捨てられたという事実が、さらに重くのしかかった。

 ――自分には、生きる価値などあるのだろうか。

 そんなことを考えながら、ただ生にしがみついていた。

 変化が訪れたのは、そんな日々の果てだった。父が雇った傭兵団が廃屋を突き止め、賊を討ったのである。

 そのときサイラスは、廃屋の隅で身を縮め、息を殺していた。服も髪もぼろぼろで、とても貴族の子息には見えなかっただろう。震える身体を壁に押し付け、賊に見つからないようにと必死に存在を消していた。

 そんなサイラスに気づき、近づいてきた一人の傭兵がいた。

「……大丈夫か?」

 低く、しかし優しさの滲む声だった。大きな手が、サイラスの手を取って引き起こしてくれる。その手は温かく、確かな力強さがあった。

 だが、彼はサイラスの姿を見下ろして、ハッとしたようにその眉をひそめた。

 まともな衣服すら身に着けていないサイラスの姿を見て、彼はすぐにその青年の身に起きたことを察したのだろう。その瞳に浮かんだのは、憐れみでも軽蔑でもなく、深い憤りと悲しみだった。

 次の瞬間、強く抱き寄せられ、耳元に低い声が落ちた。

「……辛い思いをしたのだな。もう、大丈夫だ」

 その瞬間、胸の奥に奔流のような感情が走った。

 誰からも──実の父からすら見捨てられた自分を、この男は抱きしめてくれた。守ろうとしてくれた。その温もりが、凍てついた心を溶かしていく。

 世界が反転したように思えた。涙が堰を切り、彼の胸で声をあげて泣いた。

 ああ、自分は本当は、こうして誰かに大切にされることを望んでいたのだ。

 彼にとっては、サイラスを助けたことなど傭兵としての仕事のうちのほんの一つにすぎなかったのだろう。報酬を得るための任務の一環で、特別な意味などなかったに違いない。

 けど、そんなことはサイラスにとって重要ではなかった。

 彼に助けられたこと、彼に優しく抱きしめられたことは事実なのだから。

 その日から、サイラスの生きる理由は変わった。

 彼──エドガーのために、生きようと。

 ほどなくしてサイラスは、亡くなった父に代わって辺境伯の地位を継いだ。まったく気乗りのしない仕事ではあったが、サイラスにはひとつだけ、希望があった。それは、エドガーがこの土地に領民として定住していることを知ったからだ。

 領主になって最初に調べたのは、彼の居場所だった。彼が農地を得てこの土地で暮らしていると知った時の言いようのない喜びは、今でも鮮明に覚えている。

 サイラスはそれから、辺境伯としての仕事に真面目に向き合うようになった。退屈だった政務も、面倒だった領地経営も、すべてが意味を持つようになった。

 すべては、彼の居場所を守るために。

 そして──彼を、この地に縛りつけておくために。
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