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14章
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冷たい石の床が頬に触れ、サイラスは意識を取り戻した。
(この場所で過ごすのも、もう何日目だろうか……)
身体を起こすと、関節が軋むような音を立てる。どれほど眠っていたのだろう。鉄格子のかかった小さな窓から差し込む光はもうなく、外は完全に夜の闇に包まれていた。
湿った空気がかび臭い匂いを運んでくる。息を吸うたび、肺の奥に不快な湿気が纏わりついた。硬い床に長時間横たわっていたせいか、身体の至る所が痛む。
牢屋の外にいる見張りが、自分が目覚めたことに気づいたようだ。しかし、彼はちらりと視線を投げてきたものの、すぐにバツが悪そうに目を逸らしてしまった。
その様子から察するに、恐らく見張りを任されているのは領地の民だろう。貴族である自分を拘束したことに、今さらながら後ろめたさを感じ始めているのかもしれない。
ここは領地内の教会にある、罪人を一時的に閉じ込めておくための牢屋だ。サイラスは、屋敷に押し寄せてきた領民たちの反乱により、もう何日も前からここに監禁されている。
溜息をつくのと同時に、サイラスの脳裏にあの日の光景が否応なく脳裏に蘇った。
屋敷の門前に集まった領民たちは、武器や農具を手にしていた。彼らは領主の屋敷を取り囲むように立ち並び、口々に大きな声で叫んでいた。
「悪徳領主よ、この土地から出ていけ!」
「重税で民を苦しめる暴君を許すな!」
それはまさしく、領民たちによる領主への反乱だった。数十人はいるだろうか。農具を手にした男たち、憤怒に歪んだ顔の女たち。普段なら自分に頭を垂れる者たちが、今や殺気立った目で屋敷を睨みつけている。
彼らがサイラスに突きつけた罪状はこうだった。──領主は国の定める税を大幅に上回る重税を課して農民たちを苦しめ、さらには国庫に納めるべき税を着服して私腹を肥やしている、と。
しかし、サイラスには彼らの行動がどうにも解せなかった。長年、税を上げられても唯々諾々と従っていた領民たちが突如として集団で反乱を起こすなど、どう考えても違和感がある。
(……これは、誰かに扇動されているな)
サイラスは冷静に状況を分析していた。領民たちの動きには、明らかに不自然な点があった。あまりにも統率が取れすぎている。武器の持ち方、屋敷の囲み方、そして何より、彼らを率いる数人の男たちの口調──どれも、農民らしからぬ手慣れたものだった。
恐らくはこの土地に侵入したと思われる密偵が、領民たちの不満を煽り、巧みに操っているのだろう。でなければ、このような事態は起こりえない。
逃げ出すことを考えなかったわけではない。だが、逃げたところで事態はよくならない。逃げれば、領民たちの怒りはさらに燃え上がるだろう。そして何より、自分にも逃げた領主という汚名が残ってしまう。
それに、そのとき屋敷にいたアランからも助言を受けた。とりあえず大人しく捕まって、様子を見たほうが賢明だろうと。
「貴族に実際に危害を加えるほど、領民は愚かじゃないはずだ。だから、大人しく拘束されているふりをして、国からの正式な調査を待てばいい」
サイラスもそれに同意した。 貴族に危害を加えることは、この国では重罪だ。いくら悪徳領主と判断した相手であっても、国の裁判を経る前に直接的な危害を加えることはないだろう。
そう判断して、サイラスは領民たちの前に姿を現した。
「分かった。お前たちの訴えは聞き届けよう」
その言葉を聞いた領民たちは、驚きと戸惑いの表情を浮かべていた。恐らく、もっと抵抗されると思っていたのだろう。
「……ただし」
サイラスは続けた。
「私は無実だ。お前たちが主張するような不正など、一切行っていない。それを証明する機会を与えてもらおう」
その言葉を聞いて、反乱を率いていた男の一人が、複雑な表情で頷いた。
「……承知しました。では、国からの調査が来るまで、貴方には教会の牢に入っていただきます」
そうして、サイラスは大人しく領民たちの拘束を受け入れることになった。
それから、どれほどの時が過ぎただろうか。
正確な日数は分からない。牢の中では昼と夜の境が曖昧で、時の流れを把握することすら困難だった。 ただ一つ確かなことは──エドガーとの契約の期間である一か月は、とうに過ぎてしまっただろうということだけ。
この牢屋は、かつて自分が賊に監禁されたあの工房跡地に似ていた。
冷たい床。埃っぽい空気。狭く閉ざされた空間。そして何より、どこにも逃げ場がないという、あの息苦しさ。
それらが、あの時の記憶を想起させる。その度に頭が鈍く痛むような感覚に襲われる。身体の自由が利かない。誰も味方がいない。外の世界で何が起きているのか分からない。 その不安と孤独が、じわじわと心を蝕んでいく。
自分は何のために、あんなに必死に領地の復興に尽くしてきたのだろう。重税を課し、領民に嫌われることを承知で財政を立て直そうとしてきた。
だが、その結果がこれだ。
領民に裏切られ、牢に閉じ込められている。 誰も自分の真意を理解してくれなかった。
いや、理解させる努力を怠ったのは自分だ。だから、自分はいまこうして独り、冷たい石の床に座り込んでいる。
冷たい石の感触が腰から背中へと染み込んでくる。身体が芯から冷えていくのを感じながら、サイラスは無為に時間が過ぎるのを待つしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。 時間の感覚が曖昧になっていく。昼なのか夜なのかも、次第に判別がつかなくなっていた。
(……エドガーは、どうしているだろうか)
ふと、彼の顔が脳裏に浮かんだ。 だが、彼との契約期間の1ヵ月は、この牢に入れられている間に過ぎてしまった。だから、もう彼には自分に関わる義理はどこにもない。
(……だが)
それでも、彼のことを考えると、胸が締め付けられるような痛みを感じる。
もう一度、会いたい。
もう一度、あの温かな声を聞きたい。
だが、それは叶わぬ願いだろう。
サイラスは、膝を抱えて小さくなった。 この牢の中で、誰にも見られることなく、ただ独り、弱さを曝け出す。
領主としての誇りも、貴族としての矜持も、今はどこにもない。
ただ、孤独な一人の人間が、冷たい石の床の上で、静かに時が過ぎるのを待っている。 それだけだった。
そんな時、牢屋の外で物音がした。 見張りと誰かが小声で話している声が聞こえる。やがて足音が遠ざかり、見張りがどこかへ行ってしまったようだ。
何かあったのだろうか。そんなことを取り留めなく考えていたとき、廊下の奥から一人の男がやってくる。 薄暗い廊下に、蝋燭の明かりが揺れている。 その男の姿を見て、サイラスは息を呑んだ。
それは紛れもなく、エドガーの姿だった。
「サイラス様、ご無事ですか……!」
エドガーは牢に手をかけながら、心配そうに自分を見つめてくる。
(来てくれたのか……本当に、来てくれたのか……)
信じられない思いで、サイラスはエドガーを見つめた。
彼は、本当にここにいる。夢ではない。幻覚でもない。 確かに、エドガーがここに来てくれたのだ。
「お前、どうしてここに……」
声が震えていた。自分でも驚くほどに。
サイラスはエドガーの元に近づこうとして、その場で足がもつれてしまった。長時間、ろくに動いていなかったせいで、足に力が入らなかったせいだ。
「大丈夫ですか、サイラス様!」
エドガーが慌てて支えようと、鉄格子越しに手を伸ばしてくる。その手が、鉄格子の隙間からサイラスの腕を掴んだ。
温かい。
その温もりが、冷え切った心に染み込んでくる。
「大丈夫だ。……それよりお前、どうやってここに来た?」
「アランさんにアドバイスを受けて、なんとか貴方との面会時間を取り付けました」
「……ほう、つまり見張りに金でも握らせたか」
「ええ、アランさんにそれがいちばん手っ取り早いと説明を受けましたので」
思わず笑ってしまう。まさか、あの生真面目なエドガーが、賄賂を使うとは。そして気づく。自分の気持ちが、エドガーがやってきたことでずいぶんと上向きになったことを。
誰も自分を理解してくれないと思っていた。誰も自分の味方はいないと思っていた。
だが、違った。 少なくとも、一人だけは。 この男だけは、自分のことを見捨てなかった。
今までに感じたことのない幸福感が胸に広がり、無自覚に、その瞳から涙が流れ落ちる。
「サイラス様、体調がすぐれないのですか?」
エドガーが慌てだすのを見て、つい噴き出してしまった。
まさかこの状況で、自分が幸せを感じて涙を流しているなど、この男は思いもしないだろう。
サイラスは涙を指で乱雑に拭うと、表情を引き締めて問い返した。
「それで、いま領地はどんな状態になっている」
「領地はずっとピリピリした空気が流れています。見慣れない人物の姿を見かけるようになり、何者かに監視されているような、そんな雰囲気です」
エドガーの説明を聞いて、事態はだいぶ悪い方向に進んでいることを理解した。
こうして指導者である私が捕らえられている状況は、隣国にとってはまさに好都合の展開だろう。いまここでこの領地に攻め込めば、それこそ簡単に決着はついてしまう。
サイラスは鉄格子越しに、エドガーの手を掴んで告げた。
「いいか、我が領地は、おそらく敵国の密偵により侵略される一歩手前まで来ている。私がこうして拘束されたのは、その作戦のひとつだろう」
そして続ける。
「このままこの領地にいては危険だ。お前だけでもこの領地から離れてほしい」
「貴方はどうするのですか」
エドガーがすぐに尋ねてくる。
「私は領民から嫌われ反乱を起こされた悪徳領主だからな。隣国が攻め込めば、領地と共に心中することになるだろう」
軽く答えると、エドガーは私の手を強く握り返し、珍しく声を荒げて告げた。
「貴方を見捨ててここを離れるなど、できるはずがないじゃないですか!」
その声色に、思いがけずエドガーの激情を知り、胸が熱くなる。
「なんだ、私と契約で無理やり身体の関係を結ばされているうちに、情でも沸い……」
からかうように告げようとしたその台詞は、途中でエドガーに鉄格子ごしにキスをされたせいで途切れてしまった。
そのキスは今までの彼らしくない、すべてを奪うようなキスだった。ぐっと腰を強く掴まれ、息をする暇すら与えぬほどの長い口づけに、サイラスは翻弄されていく。
二人の間には鉄格子がある。 だが、それすらも関係ないとでも言うように、エドガーは激しく、深く、サイラスを求めてくる。
ようやく唇が離されたところで、私はエドガーの顔を見て驚いた。
そこには、今までになく感情を昂らせた目つきをした彼がいたからだ。瞳が揺れている。その奥に、強い決意と、抑えきれない想いが燃えているように見えた。
「貴方との関係は確かに契約で始まりましたが、俺は貴方に強く惹かれてます」
エドガーの声が震えていた。
「身分の差があることは自覚しています。貴方が俺のことを都合のいい存在だと思っていても構いません。でも、俺はできたら、貴方の傍にいたい。貴方の傍にいる権利を、どうか自分から奪わないでほしい」
懇願にも似た声で告げられたその告白を受け、私はあまりの出来事に、自分は白昼夢を見ているのではないかという思いすら出てきた。
父に見捨てられ、領民に裏切られ、何の力もなくなった私のもとに、エドガーは来てくれた。
それだけでも嬉しかったのに、さらに加えて彼はこんな自分の傍にいたいという。
その信じられない告白に、自分の瞳からはまた、先ほど拭ったばかりの涙が流れ落ちる。
泣き笑いのような顔で、サイラスは告げた。
「……お前、ずいぶんと私に偉い口を利くようになったな。知っているか。お前との契約の一か月は、もう過ぎているんだぞ」
その言葉に、エドガーの表情がさっと曇る。
「……つまり、もう俺は、貴方の傍にいてはいけないということですか」
サイラスは首を振り、微笑した。
「違う。お前が望むなら──契約は続行だ」
鉄格子越しに、再びその手を強く握る。
「期限は、無期限だ。ずっと……契約が続く限りずっと、私の傍にいろ」
その言葉を聞いて、エドガーは目を見開き──そして、とても嬉しそうな顔で微笑んだ。
(この場所で過ごすのも、もう何日目だろうか……)
身体を起こすと、関節が軋むような音を立てる。どれほど眠っていたのだろう。鉄格子のかかった小さな窓から差し込む光はもうなく、外は完全に夜の闇に包まれていた。
湿った空気がかび臭い匂いを運んでくる。息を吸うたび、肺の奥に不快な湿気が纏わりついた。硬い床に長時間横たわっていたせいか、身体の至る所が痛む。
牢屋の外にいる見張りが、自分が目覚めたことに気づいたようだ。しかし、彼はちらりと視線を投げてきたものの、すぐにバツが悪そうに目を逸らしてしまった。
その様子から察するに、恐らく見張りを任されているのは領地の民だろう。貴族である自分を拘束したことに、今さらながら後ろめたさを感じ始めているのかもしれない。
ここは領地内の教会にある、罪人を一時的に閉じ込めておくための牢屋だ。サイラスは、屋敷に押し寄せてきた領民たちの反乱により、もう何日も前からここに監禁されている。
溜息をつくのと同時に、サイラスの脳裏にあの日の光景が否応なく脳裏に蘇った。
屋敷の門前に集まった領民たちは、武器や農具を手にしていた。彼らは領主の屋敷を取り囲むように立ち並び、口々に大きな声で叫んでいた。
「悪徳領主よ、この土地から出ていけ!」
「重税で民を苦しめる暴君を許すな!」
それはまさしく、領民たちによる領主への反乱だった。数十人はいるだろうか。農具を手にした男たち、憤怒に歪んだ顔の女たち。普段なら自分に頭を垂れる者たちが、今や殺気立った目で屋敷を睨みつけている。
彼らがサイラスに突きつけた罪状はこうだった。──領主は国の定める税を大幅に上回る重税を課して農民たちを苦しめ、さらには国庫に納めるべき税を着服して私腹を肥やしている、と。
しかし、サイラスには彼らの行動がどうにも解せなかった。長年、税を上げられても唯々諾々と従っていた領民たちが突如として集団で反乱を起こすなど、どう考えても違和感がある。
(……これは、誰かに扇動されているな)
サイラスは冷静に状況を分析していた。領民たちの動きには、明らかに不自然な点があった。あまりにも統率が取れすぎている。武器の持ち方、屋敷の囲み方、そして何より、彼らを率いる数人の男たちの口調──どれも、農民らしからぬ手慣れたものだった。
恐らくはこの土地に侵入したと思われる密偵が、領民たちの不満を煽り、巧みに操っているのだろう。でなければ、このような事態は起こりえない。
逃げ出すことを考えなかったわけではない。だが、逃げたところで事態はよくならない。逃げれば、領民たちの怒りはさらに燃え上がるだろう。そして何より、自分にも逃げた領主という汚名が残ってしまう。
それに、そのとき屋敷にいたアランからも助言を受けた。とりあえず大人しく捕まって、様子を見たほうが賢明だろうと。
「貴族に実際に危害を加えるほど、領民は愚かじゃないはずだ。だから、大人しく拘束されているふりをして、国からの正式な調査を待てばいい」
サイラスもそれに同意した。 貴族に危害を加えることは、この国では重罪だ。いくら悪徳領主と判断した相手であっても、国の裁判を経る前に直接的な危害を加えることはないだろう。
そう判断して、サイラスは領民たちの前に姿を現した。
「分かった。お前たちの訴えは聞き届けよう」
その言葉を聞いた領民たちは、驚きと戸惑いの表情を浮かべていた。恐らく、もっと抵抗されると思っていたのだろう。
「……ただし」
サイラスは続けた。
「私は無実だ。お前たちが主張するような不正など、一切行っていない。それを証明する機会を与えてもらおう」
その言葉を聞いて、反乱を率いていた男の一人が、複雑な表情で頷いた。
「……承知しました。では、国からの調査が来るまで、貴方には教会の牢に入っていただきます」
そうして、サイラスは大人しく領民たちの拘束を受け入れることになった。
それから、どれほどの時が過ぎただろうか。
正確な日数は分からない。牢の中では昼と夜の境が曖昧で、時の流れを把握することすら困難だった。 ただ一つ確かなことは──エドガーとの契約の期間である一か月は、とうに過ぎてしまっただろうということだけ。
この牢屋は、かつて自分が賊に監禁されたあの工房跡地に似ていた。
冷たい床。埃っぽい空気。狭く閉ざされた空間。そして何より、どこにも逃げ場がないという、あの息苦しさ。
それらが、あの時の記憶を想起させる。その度に頭が鈍く痛むような感覚に襲われる。身体の自由が利かない。誰も味方がいない。外の世界で何が起きているのか分からない。 その不安と孤独が、じわじわと心を蝕んでいく。
自分は何のために、あんなに必死に領地の復興に尽くしてきたのだろう。重税を課し、領民に嫌われることを承知で財政を立て直そうとしてきた。
だが、その結果がこれだ。
領民に裏切られ、牢に閉じ込められている。 誰も自分の真意を理解してくれなかった。
いや、理解させる努力を怠ったのは自分だ。だから、自分はいまこうして独り、冷たい石の床に座り込んでいる。
冷たい石の感触が腰から背中へと染み込んでくる。身体が芯から冷えていくのを感じながら、サイラスは無為に時間が過ぎるのを待つしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。 時間の感覚が曖昧になっていく。昼なのか夜なのかも、次第に判別がつかなくなっていた。
(……エドガーは、どうしているだろうか)
ふと、彼の顔が脳裏に浮かんだ。 だが、彼との契約期間の1ヵ月は、この牢に入れられている間に過ぎてしまった。だから、もう彼には自分に関わる義理はどこにもない。
(……だが)
それでも、彼のことを考えると、胸が締め付けられるような痛みを感じる。
もう一度、会いたい。
もう一度、あの温かな声を聞きたい。
だが、それは叶わぬ願いだろう。
サイラスは、膝を抱えて小さくなった。 この牢の中で、誰にも見られることなく、ただ独り、弱さを曝け出す。
領主としての誇りも、貴族としての矜持も、今はどこにもない。
ただ、孤独な一人の人間が、冷たい石の床の上で、静かに時が過ぎるのを待っている。 それだけだった。
そんな時、牢屋の外で物音がした。 見張りと誰かが小声で話している声が聞こえる。やがて足音が遠ざかり、見張りがどこかへ行ってしまったようだ。
何かあったのだろうか。そんなことを取り留めなく考えていたとき、廊下の奥から一人の男がやってくる。 薄暗い廊下に、蝋燭の明かりが揺れている。 その男の姿を見て、サイラスは息を呑んだ。
それは紛れもなく、エドガーの姿だった。
「サイラス様、ご無事ですか……!」
エドガーは牢に手をかけながら、心配そうに自分を見つめてくる。
(来てくれたのか……本当に、来てくれたのか……)
信じられない思いで、サイラスはエドガーを見つめた。
彼は、本当にここにいる。夢ではない。幻覚でもない。 確かに、エドガーがここに来てくれたのだ。
「お前、どうしてここに……」
声が震えていた。自分でも驚くほどに。
サイラスはエドガーの元に近づこうとして、その場で足がもつれてしまった。長時間、ろくに動いていなかったせいで、足に力が入らなかったせいだ。
「大丈夫ですか、サイラス様!」
エドガーが慌てて支えようと、鉄格子越しに手を伸ばしてくる。その手が、鉄格子の隙間からサイラスの腕を掴んだ。
温かい。
その温もりが、冷え切った心に染み込んでくる。
「大丈夫だ。……それよりお前、どうやってここに来た?」
「アランさんにアドバイスを受けて、なんとか貴方との面会時間を取り付けました」
「……ほう、つまり見張りに金でも握らせたか」
「ええ、アランさんにそれがいちばん手っ取り早いと説明を受けましたので」
思わず笑ってしまう。まさか、あの生真面目なエドガーが、賄賂を使うとは。そして気づく。自分の気持ちが、エドガーがやってきたことでずいぶんと上向きになったことを。
誰も自分を理解してくれないと思っていた。誰も自分の味方はいないと思っていた。
だが、違った。 少なくとも、一人だけは。 この男だけは、自分のことを見捨てなかった。
今までに感じたことのない幸福感が胸に広がり、無自覚に、その瞳から涙が流れ落ちる。
「サイラス様、体調がすぐれないのですか?」
エドガーが慌てだすのを見て、つい噴き出してしまった。
まさかこの状況で、自分が幸せを感じて涙を流しているなど、この男は思いもしないだろう。
サイラスは涙を指で乱雑に拭うと、表情を引き締めて問い返した。
「それで、いま領地はどんな状態になっている」
「領地はずっとピリピリした空気が流れています。見慣れない人物の姿を見かけるようになり、何者かに監視されているような、そんな雰囲気です」
エドガーの説明を聞いて、事態はだいぶ悪い方向に進んでいることを理解した。
こうして指導者である私が捕らえられている状況は、隣国にとってはまさに好都合の展開だろう。いまここでこの領地に攻め込めば、それこそ簡単に決着はついてしまう。
サイラスは鉄格子越しに、エドガーの手を掴んで告げた。
「いいか、我が領地は、おそらく敵国の密偵により侵略される一歩手前まで来ている。私がこうして拘束されたのは、その作戦のひとつだろう」
そして続ける。
「このままこの領地にいては危険だ。お前だけでもこの領地から離れてほしい」
「貴方はどうするのですか」
エドガーがすぐに尋ねてくる。
「私は領民から嫌われ反乱を起こされた悪徳領主だからな。隣国が攻め込めば、領地と共に心中することになるだろう」
軽く答えると、エドガーは私の手を強く握り返し、珍しく声を荒げて告げた。
「貴方を見捨ててここを離れるなど、できるはずがないじゃないですか!」
その声色に、思いがけずエドガーの激情を知り、胸が熱くなる。
「なんだ、私と契約で無理やり身体の関係を結ばされているうちに、情でも沸い……」
からかうように告げようとしたその台詞は、途中でエドガーに鉄格子ごしにキスをされたせいで途切れてしまった。
そのキスは今までの彼らしくない、すべてを奪うようなキスだった。ぐっと腰を強く掴まれ、息をする暇すら与えぬほどの長い口づけに、サイラスは翻弄されていく。
二人の間には鉄格子がある。 だが、それすらも関係ないとでも言うように、エドガーは激しく、深く、サイラスを求めてくる。
ようやく唇が離されたところで、私はエドガーの顔を見て驚いた。
そこには、今までになく感情を昂らせた目つきをした彼がいたからだ。瞳が揺れている。その奥に、強い決意と、抑えきれない想いが燃えているように見えた。
「貴方との関係は確かに契約で始まりましたが、俺は貴方に強く惹かれてます」
エドガーの声が震えていた。
「身分の差があることは自覚しています。貴方が俺のことを都合のいい存在だと思っていても構いません。でも、俺はできたら、貴方の傍にいたい。貴方の傍にいる権利を、どうか自分から奪わないでほしい」
懇願にも似た声で告げられたその告白を受け、私はあまりの出来事に、自分は白昼夢を見ているのではないかという思いすら出てきた。
父に見捨てられ、領民に裏切られ、何の力もなくなった私のもとに、エドガーは来てくれた。
それだけでも嬉しかったのに、さらに加えて彼はこんな自分の傍にいたいという。
その信じられない告白に、自分の瞳からはまた、先ほど拭ったばかりの涙が流れ落ちる。
泣き笑いのような顔で、サイラスは告げた。
「……お前、ずいぶんと私に偉い口を利くようになったな。知っているか。お前との契約の一か月は、もう過ぎているんだぞ」
その言葉に、エドガーの表情がさっと曇る。
「……つまり、もう俺は、貴方の傍にいてはいけないということですか」
サイラスは首を振り、微笑した。
「違う。お前が望むなら──契約は続行だ」
鉄格子越しに、再びその手を強く握る。
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