16 / 21
15章
しおりを挟む
牢に拘束されて、もう1週間が経とうとしている。
冷たい石の床に座り込み、サイラスは日数を指で数えた。食事が運ばれる回数で時間を把握するしかない日々だったが、確実に一週間は過ぎている。
牢の中での生活に変化はない。薄汚れた藁が敷かれた床で眠り、一日二回の質素な食事を摂り、後は考え事をして過ごすばかりの日々だ。
自分では何も能動的な行動が取れないことに、焦燥感はある。
だが、何もなければおそらく、自分の拘束はあと数日ほどで解かれるだろう。
その根拠は、先日面会に来たエドガーからの報告にある。
先日の初めての面会依頼、エドガーはあれから毎日、自分に面会に来てくれている。そのため、サイラスは彼からずいぶんと外の情勢について情報を得ることができるようになっていた。
それによると、エドガーは屋敷にいるアランと協力し、国の中枢に向けてある文書を送付したという。その内容は、領民による反乱と領主の不当な拘束が行われている現状を報告するものだった。
領主を拘束した領民たちの主張は、誤った認識によるものだ。自分は決して拘束されなければならないような罪は犯していない、と。
恐らく、反乱を起こした領民たちも、同じように国に自分の不正について陳情を行ったに違いない。
だが、彼らの陳情と違い自分の訴えには根拠がある。領民に重い税を課したのは、この領地の防衛を高めるためだ。購入した品物の内訳はすべて書類に残しているし、購入元は王都でも影響力の高い商家のひとりであるアランだ。書類にも説得力がある。
冷たい床で足を組み直す。
だが、懸念は残る。
それは、やはり隣国の動向についてだ。エドガーからの報告では自分が拘束されてからまだ目立った動きはないようだが、彼らからすれば領主である自分が拘束されている今がまさに攻める好機といえる。むしろ、拘束されてから1週間もなんの動きもないほうが逆に不気味といえるほどだ。
このまま、隣国が動かずすべては杞憂でいてくれればいいと思う。
……しかし、そう物事はうまく進まないだろう。
ため息をついた時、記憶の底から嫌な思い出がよみがえってきた。
かつて、この牢屋の中のように薄暗い場所で、自分を性奴隷のように扱った男のこと。この領地で略奪を繰り返し、先代領主だった父を苦しめ、そして今ではこの国を探る密偵をしているという男のことを。
サイラスは思考が暗くなっていくのを感じ、すぐさま頭を振って男のことを頭から叩き出した。
その時、牢屋の外で話声が聞こえた。
見張りの男の漏れ聞こえる話からすると、どうやら自分に面会を求める人物が来たらしい。
サイラスはエドガーかと思ったが、すぐに違うなと思い直した。エドガーは既に見張りを懐柔している。わざわざ長々と交渉する必要などないはずだ。
しかし、見張りの男は面会を求める人物と、どうやら長々と話し込んでいる様子で、それを見て恐らくエドガーではないと結論づけた。
それでは、一体誰が自分に面会に来たのか。
胸騒ぎがした。 理由はわからない。だが、何か──何か、とても悪いことが起ころうとしている気がする。
考えを巡らせていると、ほどなくして見張りの男が何者かを引き連れて自分の前までやってきた。
その人物の影が、蝋燭の薄暗い光を受けて牢の壁に大きな黒い影を作った。サイラスはその人物を見上げて、言葉を失う。
その人物はかなりの大男だった。サイラスを見下ろし、下卑た笑みを浮かべている。そして最も特徴的なのは、右手の手首の先がないことだった。断手刑の跡──主に窃盗などの罪に問われた者が、見せしめとして受ける刑罰だ。
「久しぶりだね、迎えに来たよ」
その声色に、サイラスはかつて、彼にありとあらゆる屈辱的な辱めを受けた記憶が想起され、ぞわりと背中が粟立つのを感じた。
薄暗い小屋で、この男の下卑た笑い声が響いていた日々。屈辱と恐怖で満たされた、悪夢のような時間。体に刻まれた痛みと屈辱が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。
だが、顔には出さない。恐怖を見せれば、男の思う壺だ。
サイラスは必死に平静を装い、できるだけ冷たい声で問いかけた。
「……久しぶりだな。まさか、お前が直接ここに来るとは思わなかったが」
しかし、サイラスは内心で舌打ちする気持ちを抑えられなかった。
(──最悪だ)
まさかこの男が、直接自分の元へ来るとは予想外だった。
冷たい石畳の感触が腰から背中に伝わってくる。
サイラスは後ろ手に縛られた状態で床に座らされ、目の前の椅子に腰かけた男を見上げていた。
月明かりと、男が持ち込んだランタンの明かりだけが、廃虚となった工房跡地を薄ぼんやりと照らしている。天井の朽ちた梁が影となって床に落ち、まるで牢獄の鉄格子のように見えた。
男はどうやら、教会の牢の見張りと何かしら裏取引をしたのだろう。サイラスは見張りが開けた牢から、ほとんど引きずられるように外に連れ出された。そして手を縛られたまま、夜闇の中をこの因縁の場所まで連行されたのだ。
あの時と同じだ。三年前、この場所で味わった屈辱と恐怖が、鮮明に蘇ってくる。だが、それを表情に出すわけにはいかない。
サイラスは男を見上げ、できるだけ不遜な態度で問いかけた。
「こんなところに私を呼び出して、何の用だ」
男はその言葉を聞いて、なぜか笑顔を浮かべた。
「そんなに喧嘩腰になるなよ、サイラス。俺はお前に、とっておきの有益な取引をしたいと思っているんだ」
……取引?
男の言う交渉などろくでもないことは分かりきっていたが、内容を確かめないわけにはいかない。
「……ほう? なんだその取引とやらは。何を企んでいる」
その問いかけを受け、男はおもむろに椅子から立ち上がった。そしてサイラスの傍に近づき、切断されていないほうの手でサイラスの頬を撫でる。ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「ああ、お前は三年前から変わらず美しいな。このきめ細やかな肌……当時と変わらない」
嫌悪感で吐き気がこみ上げてくる。だが、それが表情に出ないよう必死で感情を抑える。
男はサイラスの頬から手を離すと、底知れぬ笑みを浮かべて続けた。
「お前は今、領民どもに反乱を起こされて、この町の地下牢に閉じ込められていたのだろう? 俺の要求を呑んでくれたら、俺はお前を領民たちから助け出してやってもいい」
その言葉を聞いて、サイラスは薄く笑った。
「何を言っている。あの反乱は、大方お前たち隣国の人間が領民を扇動した結果だろう。自分たちであの反乱を引き起こしておいて助けるとは、ずいぶんと都合のいいことを言うのだな」
そんなサイラスの態度を見て、男は片眉を上げた。
「へぇ、そこまで情報を掴んでいたのか。……あの嗅ぎまわってた商人の入れ知恵か」
男は少し感心したような顔をして、さらに続けた。
「そこまで情報を掴んでいるなら話は早い。どうせ、俺が今、この国でいろいろと嗅ぎまわっていたことも知っているんだろう。……そうだ、俺は今、お前の領地についての状況を、国に報告する義務がある」
男の声が、ぐっと低くなった。
「加えて、次に俺が国にお前の領地の現状を報告したら、すぐに軍が動く手筈になっている。お前ならこの意味が分かるだろう。つまり、戦争が始まるんだ」
戦争──その言葉に、一瞬だけ怯みが生じた。だがすぐに冷静さを取り戻す。
(待て、落ち着け。この男の言葉を整理するんだ)
サイラスは必死に思考を巡らせた。
男は今、「次に報告したら」と言った。 つまり──まだ報告していないのだ。 だから、隣国の軍も動かず、事態が停滞している。
なるほど。そういうことか。そのことに気づき、サイラスの目に光が宿った。
なるほど、この最悪の状況は、考えようによってはチャンスかもしれない。
サイラスは男を挑発するように睨みつけて、問うた。
「なら、とっとと家に帰って軍を動かせばよかったではないか。ただでさえ防衛力のない領地のうえ、今では領主である私が領民に囚われている。今こそ絶好の機会ではないか」
すると男は、なぜか困ったような顔をしてサイラスに告げた。
「そうなんだけどな……もし今お前の領地を侵略して領地を奪った場合、きっと家族はこう言うだろう」
男は、どこか諦めたような、不満そうな声で言葉を続けた。
「『領地の領主は必ず殺せ』と」
その言葉を聞いて、サイラスは冷静に答えた。
「それは当然だろう。侵略した土地の権力者など、生かしておいても面倒なだけだ。お前の家族の言葉はもっともだな」
だが、男はなおも納得がいかないような顔で続ける。
「でも、俺はお前を殺したくはないんだ」
その時、男の目に底知れない執着の光が宿ったように見えた。
「俺は三年前、お前と過ごした日々をとても気に入っていた。あの時のお前──俺に屈辱を与えられながらも、必死に誇りを保とうとする姿。恐怖に震えながらも、決して屈しようとしない瞳。……ああ、あれは本当に美しかった」
男の声が、徐々に熱を帯びていく。
「家族はお前を殺せと言う。だが、俺の心はそれを拒んでいる。お前を殺すなんて、そんなもったいないことできるはずもない」
男は身を乗り出し、サイラスの顎を掴んだ。
「だから、できることならお前をもう一度、今度はちゃんとした形で手に入れたいと思ったんだ。俺のものとして、俺だけのものとして──」
その顔に浮かんだ狂気じみた笑みを見て、本能的な怯えが走る。
だが同時に、サイラスは内心で確信した。
(……この男は、完全に狂っている)
任務よりも、家族の命令よりも、自分への執着を優先している。 それは、密偵としては致命的な弱点だ。 そして──利用できる弱点でもある。
男は再びサイラスに近づき、今度はその顎を乱暴に掴んで身体を引き上げた。無理やりサイラスを立たせ、向き合うような姿勢にさせる。
「──だから、俺と取引しよう」
男の息が顔にかかり、吐き気がこみ上げてくる。
「お前が俺のものとなると、この場で約束してくれればいい。そうすれば、俺はお前の領地に侵略しないよう国に進言してやる。今ならまだ、戦争は回避できる」
男は掴んだ顎に力を込め、獰猛な笑みを浮かべた。
「……どうだ、実にいい取引だろう?」
苦しい。顎に食い込む力が痛む。だが、ここで怯んではいけない。
サイラスは男を挑発するように睨み、言い放った。
「この場で約束するだけでいいのか? そんな口約束でいいならいくらでもしてやるが」
その言葉を聞いて、男はサイラスから手を放した。途端に身体のバランスを崩して、床に崩れ落ちる。背中を強く打ち、痛みが走った。
それを見下げながら、男は歪んだ笑みを浮かべて続けた。
「ああ、口ではいくらでも言えるからな。お前が本当に俺のものとなる気があるのかどうか、今から1週間、この場所でじっくり確かめさせてもらう」
男の声は不気味な愉悦に満ちていた。
「少しでも俺に反抗的な態度を取ったら契約はなしだ」
サイラスは床にたたきつけられた衝撃でむせ込みながらも、男の言葉を聞いて内心でほくそ笑んだ。
(……なるほど。この男は、自分への執着という私欲から、戦争のきっかけを先延ばしにしているということか)
しかも、こいつは自分が本当に従うかどうか確かめるため、1週間も猶予を与えると言っている。
これは明確なチャンスだ。
この男をできるだけ長くこの場にとどめておければ、それだけ戦争が起こるタイミングを遅らせることができる。その間に、エドガーとアランが動いてくれるはずだ。
サイラスはその内心を悟らせないように、できるだけしおらしい態度をとって告げた。
「……わかった。言うことに従う」
その返事を聞き、男が満足そうに口角を上げた。
月明かりに照らされたその顔は、まるで獲物を得た獣のように不気味に見えた。
冷たい石の床に座り込み、サイラスは日数を指で数えた。食事が運ばれる回数で時間を把握するしかない日々だったが、確実に一週間は過ぎている。
牢の中での生活に変化はない。薄汚れた藁が敷かれた床で眠り、一日二回の質素な食事を摂り、後は考え事をして過ごすばかりの日々だ。
自分では何も能動的な行動が取れないことに、焦燥感はある。
だが、何もなければおそらく、自分の拘束はあと数日ほどで解かれるだろう。
その根拠は、先日面会に来たエドガーからの報告にある。
先日の初めての面会依頼、エドガーはあれから毎日、自分に面会に来てくれている。そのため、サイラスは彼からずいぶんと外の情勢について情報を得ることができるようになっていた。
それによると、エドガーは屋敷にいるアランと協力し、国の中枢に向けてある文書を送付したという。その内容は、領民による反乱と領主の不当な拘束が行われている現状を報告するものだった。
領主を拘束した領民たちの主張は、誤った認識によるものだ。自分は決して拘束されなければならないような罪は犯していない、と。
恐らく、反乱を起こした領民たちも、同じように国に自分の不正について陳情を行ったに違いない。
だが、彼らの陳情と違い自分の訴えには根拠がある。領民に重い税を課したのは、この領地の防衛を高めるためだ。購入した品物の内訳はすべて書類に残しているし、購入元は王都でも影響力の高い商家のひとりであるアランだ。書類にも説得力がある。
冷たい床で足を組み直す。
だが、懸念は残る。
それは、やはり隣国の動向についてだ。エドガーからの報告では自分が拘束されてからまだ目立った動きはないようだが、彼らからすれば領主である自分が拘束されている今がまさに攻める好機といえる。むしろ、拘束されてから1週間もなんの動きもないほうが逆に不気味といえるほどだ。
このまま、隣国が動かずすべては杞憂でいてくれればいいと思う。
……しかし、そう物事はうまく進まないだろう。
ため息をついた時、記憶の底から嫌な思い出がよみがえってきた。
かつて、この牢屋の中のように薄暗い場所で、自分を性奴隷のように扱った男のこと。この領地で略奪を繰り返し、先代領主だった父を苦しめ、そして今ではこの国を探る密偵をしているという男のことを。
サイラスは思考が暗くなっていくのを感じ、すぐさま頭を振って男のことを頭から叩き出した。
その時、牢屋の外で話声が聞こえた。
見張りの男の漏れ聞こえる話からすると、どうやら自分に面会を求める人物が来たらしい。
サイラスはエドガーかと思ったが、すぐに違うなと思い直した。エドガーは既に見張りを懐柔している。わざわざ長々と交渉する必要などないはずだ。
しかし、見張りの男は面会を求める人物と、どうやら長々と話し込んでいる様子で、それを見て恐らくエドガーではないと結論づけた。
それでは、一体誰が自分に面会に来たのか。
胸騒ぎがした。 理由はわからない。だが、何か──何か、とても悪いことが起ころうとしている気がする。
考えを巡らせていると、ほどなくして見張りの男が何者かを引き連れて自分の前までやってきた。
その人物の影が、蝋燭の薄暗い光を受けて牢の壁に大きな黒い影を作った。サイラスはその人物を見上げて、言葉を失う。
その人物はかなりの大男だった。サイラスを見下ろし、下卑た笑みを浮かべている。そして最も特徴的なのは、右手の手首の先がないことだった。断手刑の跡──主に窃盗などの罪に問われた者が、見せしめとして受ける刑罰だ。
「久しぶりだね、迎えに来たよ」
その声色に、サイラスはかつて、彼にありとあらゆる屈辱的な辱めを受けた記憶が想起され、ぞわりと背中が粟立つのを感じた。
薄暗い小屋で、この男の下卑た笑い声が響いていた日々。屈辱と恐怖で満たされた、悪夢のような時間。体に刻まれた痛みと屈辱が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。
だが、顔には出さない。恐怖を見せれば、男の思う壺だ。
サイラスは必死に平静を装い、できるだけ冷たい声で問いかけた。
「……久しぶりだな。まさか、お前が直接ここに来るとは思わなかったが」
しかし、サイラスは内心で舌打ちする気持ちを抑えられなかった。
(──最悪だ)
まさかこの男が、直接自分の元へ来るとは予想外だった。
冷たい石畳の感触が腰から背中に伝わってくる。
サイラスは後ろ手に縛られた状態で床に座らされ、目の前の椅子に腰かけた男を見上げていた。
月明かりと、男が持ち込んだランタンの明かりだけが、廃虚となった工房跡地を薄ぼんやりと照らしている。天井の朽ちた梁が影となって床に落ち、まるで牢獄の鉄格子のように見えた。
男はどうやら、教会の牢の見張りと何かしら裏取引をしたのだろう。サイラスは見張りが開けた牢から、ほとんど引きずられるように外に連れ出された。そして手を縛られたまま、夜闇の中をこの因縁の場所まで連行されたのだ。
あの時と同じだ。三年前、この場所で味わった屈辱と恐怖が、鮮明に蘇ってくる。だが、それを表情に出すわけにはいかない。
サイラスは男を見上げ、できるだけ不遜な態度で問いかけた。
「こんなところに私を呼び出して、何の用だ」
男はその言葉を聞いて、なぜか笑顔を浮かべた。
「そんなに喧嘩腰になるなよ、サイラス。俺はお前に、とっておきの有益な取引をしたいと思っているんだ」
……取引?
男の言う交渉などろくでもないことは分かりきっていたが、内容を確かめないわけにはいかない。
「……ほう? なんだその取引とやらは。何を企んでいる」
その問いかけを受け、男はおもむろに椅子から立ち上がった。そしてサイラスの傍に近づき、切断されていないほうの手でサイラスの頬を撫でる。ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「ああ、お前は三年前から変わらず美しいな。このきめ細やかな肌……当時と変わらない」
嫌悪感で吐き気がこみ上げてくる。だが、それが表情に出ないよう必死で感情を抑える。
男はサイラスの頬から手を離すと、底知れぬ笑みを浮かべて続けた。
「お前は今、領民どもに反乱を起こされて、この町の地下牢に閉じ込められていたのだろう? 俺の要求を呑んでくれたら、俺はお前を領民たちから助け出してやってもいい」
その言葉を聞いて、サイラスは薄く笑った。
「何を言っている。あの反乱は、大方お前たち隣国の人間が領民を扇動した結果だろう。自分たちであの反乱を引き起こしておいて助けるとは、ずいぶんと都合のいいことを言うのだな」
そんなサイラスの態度を見て、男は片眉を上げた。
「へぇ、そこまで情報を掴んでいたのか。……あの嗅ぎまわってた商人の入れ知恵か」
男は少し感心したような顔をして、さらに続けた。
「そこまで情報を掴んでいるなら話は早い。どうせ、俺が今、この国でいろいろと嗅ぎまわっていたことも知っているんだろう。……そうだ、俺は今、お前の領地についての状況を、国に報告する義務がある」
男の声が、ぐっと低くなった。
「加えて、次に俺が国にお前の領地の現状を報告したら、すぐに軍が動く手筈になっている。お前ならこの意味が分かるだろう。つまり、戦争が始まるんだ」
戦争──その言葉に、一瞬だけ怯みが生じた。だがすぐに冷静さを取り戻す。
(待て、落ち着け。この男の言葉を整理するんだ)
サイラスは必死に思考を巡らせた。
男は今、「次に報告したら」と言った。 つまり──まだ報告していないのだ。 だから、隣国の軍も動かず、事態が停滞している。
なるほど。そういうことか。そのことに気づき、サイラスの目に光が宿った。
なるほど、この最悪の状況は、考えようによってはチャンスかもしれない。
サイラスは男を挑発するように睨みつけて、問うた。
「なら、とっとと家に帰って軍を動かせばよかったではないか。ただでさえ防衛力のない領地のうえ、今では領主である私が領民に囚われている。今こそ絶好の機会ではないか」
すると男は、なぜか困ったような顔をしてサイラスに告げた。
「そうなんだけどな……もし今お前の領地を侵略して領地を奪った場合、きっと家族はこう言うだろう」
男は、どこか諦めたような、不満そうな声で言葉を続けた。
「『領地の領主は必ず殺せ』と」
その言葉を聞いて、サイラスは冷静に答えた。
「それは当然だろう。侵略した土地の権力者など、生かしておいても面倒なだけだ。お前の家族の言葉はもっともだな」
だが、男はなおも納得がいかないような顔で続ける。
「でも、俺はお前を殺したくはないんだ」
その時、男の目に底知れない執着の光が宿ったように見えた。
「俺は三年前、お前と過ごした日々をとても気に入っていた。あの時のお前──俺に屈辱を与えられながらも、必死に誇りを保とうとする姿。恐怖に震えながらも、決して屈しようとしない瞳。……ああ、あれは本当に美しかった」
男の声が、徐々に熱を帯びていく。
「家族はお前を殺せと言う。だが、俺の心はそれを拒んでいる。お前を殺すなんて、そんなもったいないことできるはずもない」
男は身を乗り出し、サイラスの顎を掴んだ。
「だから、できることならお前をもう一度、今度はちゃんとした形で手に入れたいと思ったんだ。俺のものとして、俺だけのものとして──」
その顔に浮かんだ狂気じみた笑みを見て、本能的な怯えが走る。
だが同時に、サイラスは内心で確信した。
(……この男は、完全に狂っている)
任務よりも、家族の命令よりも、自分への執着を優先している。 それは、密偵としては致命的な弱点だ。 そして──利用できる弱点でもある。
男は再びサイラスに近づき、今度はその顎を乱暴に掴んで身体を引き上げた。無理やりサイラスを立たせ、向き合うような姿勢にさせる。
「──だから、俺と取引しよう」
男の息が顔にかかり、吐き気がこみ上げてくる。
「お前が俺のものとなると、この場で約束してくれればいい。そうすれば、俺はお前の領地に侵略しないよう国に進言してやる。今ならまだ、戦争は回避できる」
男は掴んだ顎に力を込め、獰猛な笑みを浮かべた。
「……どうだ、実にいい取引だろう?」
苦しい。顎に食い込む力が痛む。だが、ここで怯んではいけない。
サイラスは男を挑発するように睨み、言い放った。
「この場で約束するだけでいいのか? そんな口約束でいいならいくらでもしてやるが」
その言葉を聞いて、男はサイラスから手を放した。途端に身体のバランスを崩して、床に崩れ落ちる。背中を強く打ち、痛みが走った。
それを見下げながら、男は歪んだ笑みを浮かべて続けた。
「ああ、口ではいくらでも言えるからな。お前が本当に俺のものとなる気があるのかどうか、今から1週間、この場所でじっくり確かめさせてもらう」
男の声は不気味な愉悦に満ちていた。
「少しでも俺に反抗的な態度を取ったら契約はなしだ」
サイラスは床にたたきつけられた衝撃でむせ込みながらも、男の言葉を聞いて内心でほくそ笑んだ。
(……なるほど。この男は、自分への執着という私欲から、戦争のきっかけを先延ばしにしているということか)
しかも、こいつは自分が本当に従うかどうか確かめるため、1週間も猶予を与えると言っている。
これは明確なチャンスだ。
この男をできるだけ長くこの場にとどめておければ、それだけ戦争が起こるタイミングを遅らせることができる。その間に、エドガーとアランが動いてくれるはずだ。
サイラスはその内心を悟らせないように、できるだけしおらしい態度をとって告げた。
「……わかった。言うことに従う」
その返事を聞き、男が満足そうに口角を上げた。
月明かりに照らされたその顔は、まるで獲物を得た獣のように不気味に見えた。
63
あなたにおすすめの小説
結婚間近だったのに、殿下の皇太子妃に選ばれたのは僕だった
釦
BL
皇太子妃を輩出する家系に産まれた主人公は半ば政略的な結婚を控えていた。
にも関わらず、皇太子が皇妃に選んだのは皇太子妃争いに参加していない見目のよくない五男の主人公だった、というお話。
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
聖女召喚の巻き添えで喚ばれた「オマケ」の男子高校生ですが、魔王様の「抱き枕」として重宝されています
八百屋 成美
BL
聖女召喚に巻き込まれて異世界に来た主人公。聖女は優遇されるが、魔力のない主人公は城から追い出され、魔の森へ捨てられる。
そこで出会ったのは、強大な魔力ゆえに不眠症に悩む魔王。なぜか主人公の「匂い」や「体温」だけが魔王を安眠させることができると判明し、魔王城で「生きた抱き枕」として飼われることになる。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
Sランク冒険者クロードは吸血鬼に愛される
あさざきゆずき
BL
ダンジョンで僕は死にかけていた。傷口から大量に出血していて、もう助かりそうにない。そんなとき、人間とは思えないほど美しくて強い男性が現れた。
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる