或る男の余生。

夏生槇

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1.近所のおっさん失踪事件

1-11. ひだまりの人

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「……美味かった。ご馳走様」
 人よりゆったりとしたペースで、時に臨席の男と言葉を交わしながら食事を進めていたカナチカがフォークを置いた頃には、店内の喧騒もあらかた落ち着いていた。
 女性客の合間を縫うようにすわっていた男性客も大半は職場へと戻っていて、店内にはカナチカと、一人の老齢男性、若いカップルの片割れくらいしか残っていない。

「お口にあって何より。コーヒー?」
「んー、お願い」

 カロリーを摂取しいくらか回復したらしいカナチカは、表情をへにゃりと和らげスミを見上げた。そういう表情をすると、本当に幼い。
 これは絶対に禁句だろうから口にはしないが――可愛いと感じるのは不可抗力だろうと心から思う。

「ていうかさ、さっきから気になってたんだけど」
「うん?」
「チルは?」

 その言葉に一瞬、ケトルを持つ手が止まってしまったのだけれど。

「来てないねえ」

 なんてことないですよ、とアピールをすべくすぐに作業を再開した。
 そう。チルは朝から一度も店に顔を出していない。所謂無断欠勤という状態だ。
 よりによって、カスガから不満を聞いたその日のそれ。カナチカが来るとわかっている上での「まさか」に、胃がちくりと痛む。

「――ふうん。まあ、家に直接行けばいいか」
「場所わかるの?」
「行ったことある。近いよ」

 すっぽかされた形になったカナチカだが、今ここでそれをとやかく言うつもりはないらしい。だが思うことはありありとあるのだろう。
 落ち着きたまえ、の気持ちを込めて差し出したお茶請けのクッキーをぽりっと一口かじる、その表情は難しげだ。

(さすがにこれは、よくない。よくないよ、チルさん)
(――俺もいこうかなあ。……てか、いくべきでは?)

 幸いにも、ピークタイムは終わり。少しすれば手間のかかるランチの客は捌け、ティータイム、そしてほんの30分程の休憩時間が待っている。
 カナチカには「一時間店を離れるのは難しい」と言ったが、目的地は近所。その時間をうまく利用すれば、カスガへの迷惑を最小限に抑えることも不可能ではないのではないだろうか。

「――カナ」
「うん?」

 自分も同行しよう。
 そう言いかけた瞬間、ガシャンっという大きな音が店内に鳴り響いた。
 ぱっと顔を上げ音のした方を見ると、十歳くらいの男の子が青い顔をして立ち尽くしている。
 足元に転がるのは先程提供したばかりのオレンジジュースが入っていた器だ。
 割れた様子はないが、ものの見事にぶちまけてしまったらしい。

「すぐに行きます」

 気にするな、と今にも泣き出しそうな子供に手を振って、モップを片手にカウンターから出る。
 しかしまるでドミノが連続して倒れるように――今度は別のテーブルで、赤ん坊がわあと叫び声に近い泣き声をあげた。

「ギャアアアアアアアアアアン」
「うわあああああああん」

 赤ん坊の声に驚き、男の子の涙腺も決壊。
 強烈な二人のハーモニーが、穏やかだった空気を切り裂く。

(……まじか。)

 この店に来て――いや、この仕事についてからはじめて遭遇する地獄絵図に、スミはおもわず体を強張らせた。
 人より少し出来がいいとはいえ、スミとて二十歳の若造だ。この手の修羅場に対しての経験値など、あるわけがない。

「おい、うるせぞ!ガキなんてつれてくるんじゃねえ!」

 険しい顔をしてそう叫んだのは、残っていた老齢の男性だった。
 この惨状だ。文句をつけたくなる気持ちはわかるが、自分も極めて迷惑な騒音スピーカーになっていることに気づいていない。

(――どうしよう)

 泣く子供が二人。怒鳴る老人が一人。
 一番に対処すべきは誰だと、神経を張り巡らせる。

 だがその時。――スミが動くより先に、カナチカが動いた。
 しっぶい顔をして立ち上がったかと思うと、赤ん坊を連れた女性の元へと歩いていく。
 そしてベビーバスケットの中から抱え上げられ、それでも泣き止む様子のない赤子の顔を覗き込み。

 「ちょっとびっくりしちゃったんだよなあ?」

 ふわりと笑った。
 その微笑みの美しさに、その場に居合わせた大人たちは一瞬で目を奪われる。
 そして母親の腕の中の赤子も――呆気にとられたように、止まった。

「お、なんだ。この顔が好きか。やめとけー?いいことないぞー?」

 ニコニコと笑いながら、自虐なのか自慢なのかいまいち測りかねる言葉を口にするカナチカに、他のテーブルの客がたまらずふっと笑みをこぼした。
 カナチカを好みの基準にしてしまうのはまずい。
 そりゃあそうだわな。と、皆どことなく納得顔だ。  

「あ、あの、すみません、ご迷惑を」

 一瞬至近距離での美形に気を取られた後、母親がぺこりと頭を下げた。
 この悪夢のような状況に泣きたかったのは母親だっただろう。その声は震えていて、目には薄い水分の膜ができている。

「なーんも悪くないですよ。な?」
「きゃあ!」

 カナチカがそっと人差し指を差し出すと、赤ん坊はころりと表情を変え、嬉しそうにその指を掴んだ。
 やっぱりこの子供、ド面食いなのかもしれない。
 その微笑ましい光景に、店内の雰囲気が目に見えて和らぎ始める。

「――かわいいなあ。俺、子供あやすのすっごく得意なんです。よければ、抱かせてもらえませんか」
「もちろん。この子も、喜びそうだし」
「初恋もらっちゃったかな」
「男の子ですよ?」
「まあよくあるパターンなので」
「カナ。」

 なにやらとんでもないことをいっている。
 思わずストップをかけたスミに、カナチカは意味ありげな笑みを寄越した。
 だがすぐに目を逸らし、母親の手からその小さな命を受け取る。

「おお、結構重い。健康でなによりだ」
「……本当に慣れてるんですね。だっこ。」

 重みにも柔らかさにも惑わされることなく、正しい姿勢で赤ん坊を抱くカナチカに、母親は感心したように呟いた。

「弟妹が多いんですよ。……俺、このままそこの椅子に座ってるんでゆっくり食事をしてください。まだちゃんと食べれてないみたいだし」
「え……でも」
「お母さんも息抜きは大事ですよ。そのためにきたんでしょう?」
「きゃあ!」
「ほら、この子もそう言ってる」
「まあ」
「よしよし。君は母親思いのいい子だね」

 母親の了承を得たカナチカは、穏やかな笑みを浮かべたまま、母親から見える位置にある椅子へと向かった。
 見ると最初にジュースをこぼしていた男の子には、カスガが優しく手を差し伸べている。
 怪我はなかったかと頭を撫でる。
 その姿に、自分がはじめに確認すべきはそれだったかとスミは後悔と自己嫌悪のため息をついた。
 では、残る不安要素はというと――

「おっさん、勢いで怒鳴ってどうしたらいいかわからなくなってるだろ」
「……うるさい」

 隣の席に座ったカナチカに絡まれていた。
 おいおいよりよってそこかとぎょっとするが、男性の顔からはすっかりと毒気が抜けてしまっている。

「まーなかなか凶悪なハーモニーだったからなあ。気持ちはわからなくない」
「嘘つけお前」
「俺は別に聖人じゃないよ。子供好きだからちょっと我慢きくかなってくらい」
「……俺だって、普段ならもう少しくらい」
「あ。もしかして二日酔い? そらきついわ」

 赤ん坊の背中を撫でるような柔らかさで叩きながら、目線で「こっちにこい」の合図をよこすカナチカに素直に従う。
 ちなみに活躍のタイミングを失ったモップは流れるようにカスガに奪われてしまった。
 すれ違いざま、励ますようにぽんと叩かれた背中が少しだけ痛い。

「スミ、俺のコーヒー後回しで大丈夫?」
「勿論」
「あとこのおっさんに、なんかスッキリする飲み物あげてよ。会計はこっちにつけていいから」
「お、おい」
「スッキリ……ソーダとか?」
「いいね。それに欲をいうなら……はちみつレモン?」
「なるほど。あると思う」
「じゃあそれでお願い。……ね、見て。可愛いぞ、赤さん」
「……うん」

 美人のだっこにすっかりご機嫌な赤ん坊は、刻まれる規則的なリズムとほっとする声色につられうとうととまどろみ始めている。
 それでも顔を覗き込むスミに、ふにゃあと嬉しそうに笑ってくれる。
 モンスターのようにしか思えなかったのに。こうしていると、まるで天使だ。

「こいつ、まじで面食いだな」
「ははっ」
「スミ」

 近くにあったカナチカの唇が、スミの耳元に擦り寄るようにして近づいた。
 控えめな香水の香りが届く距離感。
 ふわりと、甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

「もう大丈夫。おつかれ」

 そしてそっと囁かれたその声に――どうしようもなく、ほっとしてしまった。





 力の抜けた身体をどうにか動かし、カウンターの内側へと戻る。

(はちみつと、レモンと……)

 入ったばかりのオーダーのレシピを復唱しつつ、すっかり穏やかさを取り戻した店内を見渡す。
 赤ん坊の母親は、笑顔で食事をしていた。
 ジュースを落とした男の子は、カナチカの腕の中の赤ん坊に興味津々。赤ん坊はおそらく夢の中だろう。
 そしてカナチカは。
 店内中の視線と意識を攫いながら、小さな命に深い慈愛の笑みを浮かべている。

「……なんだか、お日様みたいな人ね」

 隣に並んだカスガの表情も、優しい。

 嵐のあとには、晴れがくる。
 新緑の目を持つ人が齎したのは、木漏れ日のような空間だった。
 
 
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