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第1部:はじまりの種と、絆の芽吹き
第2話:ソル、という名前
翌朝も、五時前に目が覚めた。
農家になってから、目覚まし時計はほとんど使っていない。身体が自然と、「起きる時間だ」と教えてくれるようになった。布団の中でぼんやりしながら天井を見上げて、昨日の出来事を頭の中で整理する。ダンジョンが生えた。協会に通報した。調査員は三日後に来る。
順番通りに動いた。やることはやった。
だから今日は、普通に農作業をするだけだ。
布団を跳ねのけて起き上がった瞬間、台所の方からぷるぷると小さな音がした。
「起きてるのか、お前」
バケツの縁からソルがひょこっと顔を出していた。青白い体が朝の薄暗がりの中でほんのり光っている。昨日より動きがはっきりしていて、俺の声に反応して体全体がぷるんと揺れた。
なんとなく、「おはよう」と言われた気がした。
***
朝の作業を一通り終えて、台所でコーヒーを淹れながら、俺はソルのことを考えた。
バケツの中で草と水を敷いて入れてやったのが昨日の朝で、その日の夕方には体の光が少し強くなっていた。今朝は動きもはっきりして、弱っていた時の「ぷるぷる、ぷるぷる」という震えが、元気な「ぷるっ、ぷるっ」に変わっている。
回復しているのは間違いなかった。
ただ、「このまま回復したらどうするか」を、俺はまだ決めていなかった。
スライムはダンジョン内に生息するモンスターだ。本来は、勝手に保護しちゃいけないかもしれない。でも昨日の協会の担当者は「後ほど別途確認します」と言ったきり、具体的な指示は来ていない。現状は「グレーゾーン」ということになる。
グレーゾーンにいる間は、目の前にいる生き物を世話するのが正解だろう。
コーヒーカップを両手で包みながら、俺はバケツの中のソルを見た。ソルはバケツの縁に体を乗せて、俺の方をじっと見ている。目に当たる光の粒が二つ、ちょこんとこちらを向いていた。
「名前、どうしようかな」
独り言のつもりで言ったが、ソルは体をぷるんと揺らした。
「名前を聞いてるつもりで言ったわけじゃないぞ」
ぷるぷる。
「……まあ、でも、呼び名はあった方が楽だな」
俺はコーヒーを一口飲んだ。苦味と香りが喉を通って、頭が少し覚醒する感じがする。
朝の光の中で、ソルの体が青白く光っている。その光の色が、ちょうど昨日の朝に見た朝靄の色に似ていた。霧の向こうに太陽が透けて見える時の、青白くて柔らかい光。
「ソル、でどうだ」
ぷるっ。
言った瞬間、なんとなく「それだ」という感覚があった。言葉にするのが難しい感覚だが、名前というのは「しっくりくる」か「こない」かの問題だと思う。「ソル」はしっくりきた。
「ソル。気に入ってくれたか」
バケツの中で、ソルがぴょこんと跳ねた。
着地した時の「ぷるっ」という音が、どういうわけか嬉しそうに聞こえた。
***
その日の昼すぎ、俺は改めてソルの体を観察した。
農業用のトレーを洗って水を張り、バケツから移してやると、ソルは水の中で気持ちよさそうにぷよぷよと動いた。半透明の体の内側に、かすかに青い光の核のようなものが見えた。スライムの核というのは、魔物としての「命」の中心部に当たると何かで読んだことがある。
「そこが核か」
ぷるっ。
核の周りに薄い魔力の流れのようなものが見えた気がした。いや、「見えた」というより「感じた」の方が正確かもしれない。なんというか、ソルの存在が自分の手のひらの延長みたいに、ぼんやりと感じ取れる気がする。
不思議な感覚だった。
農業で土を触っていると、土の状態が手のひらに伝わってくる感覚がある。この土は水分が多い、この土は固まっている、ここはまだ肥料が足りない——経験を積むうちに、感触だけで分かるようになる。それに近い感覚が、ソルを触っている時にあった。
「お前、今は何を感じてるんだ」
ぷるるん。
「聞いてもわからないか」
ぷるっ。
「まあ、今はゆっくりしてろ」
ソルは水の中でひとしきりぷよぷよした後、トレーの端に寄ってきて、俺の指先をそっと触った。ひんやりした、柔らかい感触。
なんだろう、この感じ。
「ありがとう」とか「いてくれてよかった」とか、そういう言葉に変換できるような気がする感触だった。もちろんスライムに感情があるかどうかは分からない。でも、俺はその時、ソルと「通じてる」という気がした。
それが勘違いだとしても、悪い気持ちじゃなかった。
***
夕方、畑の水やりを終えて戻ってきた時、不意に胸の中で何かが「動いた」気がした。
動いた、というのも表現が難しい。痛みじゃない。驚きでもない。何か温かいものが胸の奥から浮き上がってきたような、そういう感覚だ。
俺は立ち止まって、自分の胸に手を当てた。
何も変わっていない。心拍は普通だ。体調もおかしくない。ただ、胸の中に「何かが在る」という感覚が、さっきより明確になっていた。
台所に戻ると、ソルがトレーの中でぷるぷると俺の方を向いていた。
「お前のせいか」
ぷるっ。
「違うのか」
ぷるるん。
どちらでもない、みたいな返事だった。
その夜、眠りにつく前に、俺はもう一度その「感覚」を確かめてみた。ソルの方に意識を向けると、微かに温かい何かが手のひらの方向に感じられる気がする。ソルから離れると、それが薄くなる。
「テイム、みたいなことが起きてるのかな」
ぷるぷる。
正確な答えは分からないが、何かが始まっているのは確かだった。
***
三日目の朝。
協会の調査員が来る当日だ。
俺は早めに身支度を整えて、納屋の前で待った。ソルは肩の上に乗せていた。調査員に「降ろせ」と言われたら降ろせばいい。でも「降ろせ」と言われるまでは、連れていることにした。
十時ちょうどに、軽トラックが一台、畑の脇の細道に入ってきた。
降りてきたのは、四十代くらいの男性と、二十代半ばと思われる女性の二人組だった。男性の方は白い腕章に「協会調査部」と書いてあって、女性の方は大きなアタッシェケースを持っている。
「木村蒼太さんですね。調査部の深沢と申します。こちらは補助の安田です」
深沢と名乗った男性は、俺の肩のソルをちらりと見たが、特に何も言わなかった。プロは余計なことを言わないものだ、と俺は思った。
「よろしくお願いします。こちらです」
納屋に案内すると、深沢さんはすぐに仕事モードになった。アタッシェケースから測定器のような機器を取り出し、穴の周囲に設置し始める。安田さんはスマートフォンで各方向から動画を撮りながら、手元のタブレットに何かを入力している。
二人の動きはてきぱきしていて、邪魔しない方がいいと判断した俺は、扉の近くで黙って見ていた。
測定が始まってから十分ほどで、深沢さんの手が止まった。
タブレットの画面を見て、それから俺を見た。その顔に「困った」と「驚いた」が混じったような表情が浮かんでいた。
「木村さん、少々お時間よろしいですか」
「どうぞ」
「測定結果について、ご説明いたします」
深沢さんはタブレットを俺に向けた。数値がいくつか並んでいたが、俺には意味が分からなかった。ただ、一番上の段に赤文字で表示されている二文字は、はっきり読めた。
「EX級……?」
「はい」
深沢さんは静かに、でもはっきりと言った。
「木村さんの納屋に発生したダンジョンは、等級測定の結果、EXランクと判定されました」
俺はしばらく、タブレットの画面を見つめた。
「EXって、世界に三ヶ所しかないやつですよね」
「現在確認されている範囲では、そうです。日本国内では富士山麓の地下深部に一ヶ所が確認されています。それが今日まで国内唯一のEXランクダンジョンでした」
「なるほど」
俺は納得の声を出した。深沢さんが少し目を丸くした気がした。もっと驚くと思っていたのかもしれない。
「つまり、俺の納屋が二ヶ所目ってことですか」
「……そうなります」
「で、それは国が管理するやつですよね」
「通常であれば、そうなります。ただ」
深沢さんは、ここで少し言葉を切った。何を言うべきか選んでいるような間だった。
「このダンジョンには、通常のEXランクにはない特性が一つあります。測定器が示しているのですが——このダンジョン、ブレイクの発生リスクがゼロなんです」
「ゼロ?」
「通常、どのランクのダンジョンも、一定期間放置するとブレイクが発生します。内部の魔力が飽和して、外に溢れ出す現象です。ですがこのダンジョンは、その飽和の概念が存在しないようで……内部の魔力が、常に安定した状態を保っています」
安田さんが補足するように、タブレットをこちらに向けた。波形のグラフが表示されていて、一定のリズムで穏やかに揺れていた。ソルの鳴き方に似た周期だ、と俺は思った。
「つまり、放置しても危険はないってことですか」
「現在の測定値では、そういう結論になります。前例がないので断言はできませんが」
「それって、要するにどういう扱いになるんですか」
深沢さんはまた少し間を置いた。
「正直に申し上げます。前例がないため、今の法令では明確な規定がありません。本来はEXランクですから国管理が原則ですが、ブレイクリスクがゼロとなると、緊急接収の根拠が薄くなります。現時点では、木村さんに仮管理権を付与した上で、協会が定期的にモニタリングを行う形が現実的かと思われます」
「仮管理権があれば、中に入ってもいいですか」
沈黙があった。
「……探索者資格の取得を条件として、という形になりますが」
「探索者の資格、持ってません」
「存じております」
「取れますか」
「取れます。試験は月に二回、最寄りの協会支部で受けられます。次回は来週末です」
俺はソルを肩から手のひらに移して、ぷるんとした体をそっと包んだ。
「じゃあ受けます」
深沢さんは何か言いかけて、止めた。そして静かに頷いた。
「わかりました。詳細は後ほど書面でお送りします」
帰り際、深沢さんが立ち止まって振り返った。
「木村さん、一つだけ」
「はい」
「EXランクダンジョンは、理論上は底なしです。どこまで続くか、今の技術では測定できません。探索される場合は、くれぐれも無理をしないでください」
「わかりました」
「それと——その子は」
深沢さんの視線が、俺の手のひらのソルに向いた。
「そのスライムは、このダンジョン出身ですか」
「おそらく。土の中から出てきたので」
「EXランクダンジョン出身のモンスターを、個人が保護している例も、前例がありません」
「そうですか」
「……モニタリングの対象に含めさせていただいてもいいでしょうか」
「ソルがいやと言わなければ」
俺が言うと、ソルはぷるっと鳴いた。
深沢さんは少し口元を緩めて、「では、またご連絡します」と言って軽トラックに乗り込んだ。
***
調査員が帰った後、俺は縁側に腰を下ろして、しばらく畑を眺めた。
EXランク。
世界に四ヶ所目になった、前代未聞のダンジョン。それが俺の納屋の下にある。
「すごい話だな」
ぷるっ。
「お前がそこから来たって考えると、なんか不思議だな」
ぷるるん。
ソルは俺の膝の上でぷよぷよと動いていた。弱っていた昨日おとといとは比べ物にならないくらい、動きが活発になっている。核の光も強くなって、体全体の青白さが増した気がする。
俺はソルを指先で軽く触れた。
その瞬間、また「動いた」。
今度は昨日より明確だった。胸の中から湧き上がってくる温かい何か。それがソルの方向に向かって流れていく感覚。川が海に向かうみたいに、自然に、抵抗なく。
「これって、スキルかな」
ぷるっ。
「俺、スキル持ってたんだろうか。調べたことなかったけど」
探索者でもなかったし、協会に登録もしていなかったから、自分のスキルを正式に確認したことがなかった。職業鑑定というのは、探索者登録の際に行われるのが一般的で、一般市民が自発的に受けに行くケースは少ない。
「来週、資格試験受けたら分かるか」
ぷるぷる。
「それまで待とう。まあ、分かっても分からなくても、今やることは同じだしな」
ソルがまた、俺の指先にそっと触れた。
その感触が、今日は昨日より少しだけ温かく感じられた。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃない気もする。
どちらでもいい。
今この瞬間、俺はソルとここにいる。それで十分だった。
***
夜、布団に入る前に、ソルのトレーの水を替えながら俺はぼんやりと考えていた。
EXランクダンジョンが生えた。世界唯一の「ブレイクしないダンジョン」が、自分の納屋にある。探索者資格を取れば、中に入ることができる。
それは確かに「大事件」のはずなのに、俺の中にあるのはそれほど大きな驚きじゃなかった。むしろ、「こういうこともあるか」という静かな受け入れに近かった。
たぶん、農家だからだと思う。
農業をやっていると、自分の予測を超えたことが毎日起きる。撒いたはずの種が出ない。出るはずのない場所から芽が出る。雨が来るはずの日に晴れる。晴れるはずの日に嵐が来る。自然は人間の予測通りには動かない。それに慣れると、「予測を超えたこと」を怖れる感度が下がってくる。
ダンジョンが生えた。では次に何をするか。
それだけだ。
ソルが水の中でぷよぷよと動いている。その光が、暗い台所の中で静かに揺れていた。
「ソル、名前、気に入ってくれたか」
ぷるっ。
「良かった」
俺はトレーの縁を軽く叩いて、おやすみ、と言った。
ソルはぷるりと一度鳴いて、それから水の中でおとなしくなった。
寝るのか、と思いながら俺も布団に入った。
目を閉じると、胸の中にあの温かい感覚があった。ソルが近くにいる、という感覚。離れていても、繋がっている、という感覚。
それがスキルなのか、思い込みなのか、まだ分からない。
でも翌朝目が覚めて、ソルが「ぷるぷる」と起こしに来た時、俺はその感覚が夢じゃなかったことを確かめた。
名前をつけた相手が、ちゃんとそこにいた。
それだけで、朝が少し明るかった。
農家になってから、目覚まし時計はほとんど使っていない。身体が自然と、「起きる時間だ」と教えてくれるようになった。布団の中でぼんやりしながら天井を見上げて、昨日の出来事を頭の中で整理する。ダンジョンが生えた。協会に通報した。調査員は三日後に来る。
順番通りに動いた。やることはやった。
だから今日は、普通に農作業をするだけだ。
布団を跳ねのけて起き上がった瞬間、台所の方からぷるぷると小さな音がした。
「起きてるのか、お前」
バケツの縁からソルがひょこっと顔を出していた。青白い体が朝の薄暗がりの中でほんのり光っている。昨日より動きがはっきりしていて、俺の声に反応して体全体がぷるんと揺れた。
なんとなく、「おはよう」と言われた気がした。
***
朝の作業を一通り終えて、台所でコーヒーを淹れながら、俺はソルのことを考えた。
バケツの中で草と水を敷いて入れてやったのが昨日の朝で、その日の夕方には体の光が少し強くなっていた。今朝は動きもはっきりして、弱っていた時の「ぷるぷる、ぷるぷる」という震えが、元気な「ぷるっ、ぷるっ」に変わっている。
回復しているのは間違いなかった。
ただ、「このまま回復したらどうするか」を、俺はまだ決めていなかった。
スライムはダンジョン内に生息するモンスターだ。本来は、勝手に保護しちゃいけないかもしれない。でも昨日の協会の担当者は「後ほど別途確認します」と言ったきり、具体的な指示は来ていない。現状は「グレーゾーン」ということになる。
グレーゾーンにいる間は、目の前にいる生き物を世話するのが正解だろう。
コーヒーカップを両手で包みながら、俺はバケツの中のソルを見た。ソルはバケツの縁に体を乗せて、俺の方をじっと見ている。目に当たる光の粒が二つ、ちょこんとこちらを向いていた。
「名前、どうしようかな」
独り言のつもりで言ったが、ソルは体をぷるんと揺らした。
「名前を聞いてるつもりで言ったわけじゃないぞ」
ぷるぷる。
「……まあ、でも、呼び名はあった方が楽だな」
俺はコーヒーを一口飲んだ。苦味と香りが喉を通って、頭が少し覚醒する感じがする。
朝の光の中で、ソルの体が青白く光っている。その光の色が、ちょうど昨日の朝に見た朝靄の色に似ていた。霧の向こうに太陽が透けて見える時の、青白くて柔らかい光。
「ソル、でどうだ」
ぷるっ。
言った瞬間、なんとなく「それだ」という感覚があった。言葉にするのが難しい感覚だが、名前というのは「しっくりくる」か「こない」かの問題だと思う。「ソル」はしっくりきた。
「ソル。気に入ってくれたか」
バケツの中で、ソルがぴょこんと跳ねた。
着地した時の「ぷるっ」という音が、どういうわけか嬉しそうに聞こえた。
***
その日の昼すぎ、俺は改めてソルの体を観察した。
農業用のトレーを洗って水を張り、バケツから移してやると、ソルは水の中で気持ちよさそうにぷよぷよと動いた。半透明の体の内側に、かすかに青い光の核のようなものが見えた。スライムの核というのは、魔物としての「命」の中心部に当たると何かで読んだことがある。
「そこが核か」
ぷるっ。
核の周りに薄い魔力の流れのようなものが見えた気がした。いや、「見えた」というより「感じた」の方が正確かもしれない。なんというか、ソルの存在が自分の手のひらの延長みたいに、ぼんやりと感じ取れる気がする。
不思議な感覚だった。
農業で土を触っていると、土の状態が手のひらに伝わってくる感覚がある。この土は水分が多い、この土は固まっている、ここはまだ肥料が足りない——経験を積むうちに、感触だけで分かるようになる。それに近い感覚が、ソルを触っている時にあった。
「お前、今は何を感じてるんだ」
ぷるるん。
「聞いてもわからないか」
ぷるっ。
「まあ、今はゆっくりしてろ」
ソルは水の中でひとしきりぷよぷよした後、トレーの端に寄ってきて、俺の指先をそっと触った。ひんやりした、柔らかい感触。
なんだろう、この感じ。
「ありがとう」とか「いてくれてよかった」とか、そういう言葉に変換できるような気がする感触だった。もちろんスライムに感情があるかどうかは分からない。でも、俺はその時、ソルと「通じてる」という気がした。
それが勘違いだとしても、悪い気持ちじゃなかった。
***
夕方、畑の水やりを終えて戻ってきた時、不意に胸の中で何かが「動いた」気がした。
動いた、というのも表現が難しい。痛みじゃない。驚きでもない。何か温かいものが胸の奥から浮き上がってきたような、そういう感覚だ。
俺は立ち止まって、自分の胸に手を当てた。
何も変わっていない。心拍は普通だ。体調もおかしくない。ただ、胸の中に「何かが在る」という感覚が、さっきより明確になっていた。
台所に戻ると、ソルがトレーの中でぷるぷると俺の方を向いていた。
「お前のせいか」
ぷるっ。
「違うのか」
ぷるるん。
どちらでもない、みたいな返事だった。
その夜、眠りにつく前に、俺はもう一度その「感覚」を確かめてみた。ソルの方に意識を向けると、微かに温かい何かが手のひらの方向に感じられる気がする。ソルから離れると、それが薄くなる。
「テイム、みたいなことが起きてるのかな」
ぷるぷる。
正確な答えは分からないが、何かが始まっているのは確かだった。
***
三日目の朝。
協会の調査員が来る当日だ。
俺は早めに身支度を整えて、納屋の前で待った。ソルは肩の上に乗せていた。調査員に「降ろせ」と言われたら降ろせばいい。でも「降ろせ」と言われるまでは、連れていることにした。
十時ちょうどに、軽トラックが一台、畑の脇の細道に入ってきた。
降りてきたのは、四十代くらいの男性と、二十代半ばと思われる女性の二人組だった。男性の方は白い腕章に「協会調査部」と書いてあって、女性の方は大きなアタッシェケースを持っている。
「木村蒼太さんですね。調査部の深沢と申します。こちらは補助の安田です」
深沢と名乗った男性は、俺の肩のソルをちらりと見たが、特に何も言わなかった。プロは余計なことを言わないものだ、と俺は思った。
「よろしくお願いします。こちらです」
納屋に案内すると、深沢さんはすぐに仕事モードになった。アタッシェケースから測定器のような機器を取り出し、穴の周囲に設置し始める。安田さんはスマートフォンで各方向から動画を撮りながら、手元のタブレットに何かを入力している。
二人の動きはてきぱきしていて、邪魔しない方がいいと判断した俺は、扉の近くで黙って見ていた。
測定が始まってから十分ほどで、深沢さんの手が止まった。
タブレットの画面を見て、それから俺を見た。その顔に「困った」と「驚いた」が混じったような表情が浮かんでいた。
「木村さん、少々お時間よろしいですか」
「どうぞ」
「測定結果について、ご説明いたします」
深沢さんはタブレットを俺に向けた。数値がいくつか並んでいたが、俺には意味が分からなかった。ただ、一番上の段に赤文字で表示されている二文字は、はっきり読めた。
「EX級……?」
「はい」
深沢さんは静かに、でもはっきりと言った。
「木村さんの納屋に発生したダンジョンは、等級測定の結果、EXランクと判定されました」
俺はしばらく、タブレットの画面を見つめた。
「EXって、世界に三ヶ所しかないやつですよね」
「現在確認されている範囲では、そうです。日本国内では富士山麓の地下深部に一ヶ所が確認されています。それが今日まで国内唯一のEXランクダンジョンでした」
「なるほど」
俺は納得の声を出した。深沢さんが少し目を丸くした気がした。もっと驚くと思っていたのかもしれない。
「つまり、俺の納屋が二ヶ所目ってことですか」
「……そうなります」
「で、それは国が管理するやつですよね」
「通常であれば、そうなります。ただ」
深沢さんは、ここで少し言葉を切った。何を言うべきか選んでいるような間だった。
「このダンジョンには、通常のEXランクにはない特性が一つあります。測定器が示しているのですが——このダンジョン、ブレイクの発生リスクがゼロなんです」
「ゼロ?」
「通常、どのランクのダンジョンも、一定期間放置するとブレイクが発生します。内部の魔力が飽和して、外に溢れ出す現象です。ですがこのダンジョンは、その飽和の概念が存在しないようで……内部の魔力が、常に安定した状態を保っています」
安田さんが補足するように、タブレットをこちらに向けた。波形のグラフが表示されていて、一定のリズムで穏やかに揺れていた。ソルの鳴き方に似た周期だ、と俺は思った。
「つまり、放置しても危険はないってことですか」
「現在の測定値では、そういう結論になります。前例がないので断言はできませんが」
「それって、要するにどういう扱いになるんですか」
深沢さんはまた少し間を置いた。
「正直に申し上げます。前例がないため、今の法令では明確な規定がありません。本来はEXランクですから国管理が原則ですが、ブレイクリスクがゼロとなると、緊急接収の根拠が薄くなります。現時点では、木村さんに仮管理権を付与した上で、協会が定期的にモニタリングを行う形が現実的かと思われます」
「仮管理権があれば、中に入ってもいいですか」
沈黙があった。
「……探索者資格の取得を条件として、という形になりますが」
「探索者の資格、持ってません」
「存じております」
「取れますか」
「取れます。試験は月に二回、最寄りの協会支部で受けられます。次回は来週末です」
俺はソルを肩から手のひらに移して、ぷるんとした体をそっと包んだ。
「じゃあ受けます」
深沢さんは何か言いかけて、止めた。そして静かに頷いた。
「わかりました。詳細は後ほど書面でお送りします」
帰り際、深沢さんが立ち止まって振り返った。
「木村さん、一つだけ」
「はい」
「EXランクダンジョンは、理論上は底なしです。どこまで続くか、今の技術では測定できません。探索される場合は、くれぐれも無理をしないでください」
「わかりました」
「それと——その子は」
深沢さんの視線が、俺の手のひらのソルに向いた。
「そのスライムは、このダンジョン出身ですか」
「おそらく。土の中から出てきたので」
「EXランクダンジョン出身のモンスターを、個人が保護している例も、前例がありません」
「そうですか」
「……モニタリングの対象に含めさせていただいてもいいでしょうか」
「ソルがいやと言わなければ」
俺が言うと、ソルはぷるっと鳴いた。
深沢さんは少し口元を緩めて、「では、またご連絡します」と言って軽トラックに乗り込んだ。
***
調査員が帰った後、俺は縁側に腰を下ろして、しばらく畑を眺めた。
EXランク。
世界に四ヶ所目になった、前代未聞のダンジョン。それが俺の納屋の下にある。
「すごい話だな」
ぷるっ。
「お前がそこから来たって考えると、なんか不思議だな」
ぷるるん。
ソルは俺の膝の上でぷよぷよと動いていた。弱っていた昨日おとといとは比べ物にならないくらい、動きが活発になっている。核の光も強くなって、体全体の青白さが増した気がする。
俺はソルを指先で軽く触れた。
その瞬間、また「動いた」。
今度は昨日より明確だった。胸の中から湧き上がってくる温かい何か。それがソルの方向に向かって流れていく感覚。川が海に向かうみたいに、自然に、抵抗なく。
「これって、スキルかな」
ぷるっ。
「俺、スキル持ってたんだろうか。調べたことなかったけど」
探索者でもなかったし、協会に登録もしていなかったから、自分のスキルを正式に確認したことがなかった。職業鑑定というのは、探索者登録の際に行われるのが一般的で、一般市民が自発的に受けに行くケースは少ない。
「来週、資格試験受けたら分かるか」
ぷるぷる。
「それまで待とう。まあ、分かっても分からなくても、今やることは同じだしな」
ソルがまた、俺の指先にそっと触れた。
その感触が、今日は昨日より少しだけ温かく感じられた。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃない気もする。
どちらでもいい。
今この瞬間、俺はソルとここにいる。それで十分だった。
***
夜、布団に入る前に、ソルのトレーの水を替えながら俺はぼんやりと考えていた。
EXランクダンジョンが生えた。世界唯一の「ブレイクしないダンジョン」が、自分の納屋にある。探索者資格を取れば、中に入ることができる。
それは確かに「大事件」のはずなのに、俺の中にあるのはそれほど大きな驚きじゃなかった。むしろ、「こういうこともあるか」という静かな受け入れに近かった。
たぶん、農家だからだと思う。
農業をやっていると、自分の予測を超えたことが毎日起きる。撒いたはずの種が出ない。出るはずのない場所から芽が出る。雨が来るはずの日に晴れる。晴れるはずの日に嵐が来る。自然は人間の予測通りには動かない。それに慣れると、「予測を超えたこと」を怖れる感度が下がってくる。
ダンジョンが生えた。では次に何をするか。
それだけだ。
ソルが水の中でぷよぷよと動いている。その光が、暗い台所の中で静かに揺れていた。
「ソル、名前、気に入ってくれたか」
ぷるっ。
「良かった」
俺はトレーの縁を軽く叩いて、おやすみ、と言った。
ソルはぷるりと一度鳴いて、それから水の中でおとなしくなった。
寝るのか、と思いながら俺も布団に入った。
目を閉じると、胸の中にあの温かい感覚があった。ソルが近くにいる、という感覚。離れていても、繋がっている、という感覚。
それがスキルなのか、思い込みなのか、まだ分からない。
でも翌朝目が覚めて、ソルが「ぷるぷる」と起こしに来た時、俺はその感覚が夢じゃなかったことを確かめた。
名前をつけた相手が、ちゃんとそこにいた。
それだけで、朝が少し明るかった。
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カクヨム、なろうにも投稿しております。
カクヨムの方が進んでおります。もし続きを読みたいと思っていただけましたら、是非カクヨムまでどうぞ!
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当然、視聴者はいない――はずだった。
しかしその日、コメント欄に突然現れたのは。
【古代龍バハムート】
「左に避けろ」
半信半疑で動いた瞬間、
そこには即死トラップが発動していた。
さらにコメントは続く。
【魔王ゼルディア】
「その魔物は核を狙え」
【精霊王シルフィード】
「回復しておけ」
――気づけば、配信のコメント欄は
古代龍、魔王、精霊王、神々で埋まっていた。
どうやら彼らは退屈しのぎに、
この人間の配信を観戦しているらしい。
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だが人間たちはまだ知らない。
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・世界観・設定の管理補助
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・作者による執筆後の校正