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嵐と共に訪れた男
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――嵐の去った、そのあとにあるものを知っているかい?
『嵐の去った、そのあとに』
年に一度、この街には嵐がやってくる。
その間住人たちは一切外出せず、嵐が去るのをただ待つのだそうだ。
「いやぁ、だからお兄さんが来てくれたのはありがたいけど、今日の夕方帰るのは厳しいと思うよ。うちも昼過ぎには上がろうかと思っとるしね」
駅前で拾ったタクシーの運ちゃんが心配そうに話しかけてくる。
俺は「そうですか」と答えながら、自分のツキのなさに内心溜め息を吐いた。
俺は或る電機メーカーで働くメンテナンス員だ。高校卒業後から働き始めて、今年で8年目になる。
うちの会社では空調設備から発電機、監視カメラ等幅広い商材を取り扱っていて、今日は数年前に納入した旅館のボイラーの調子があまり良くないということで、上司からの指示でメンテナンスに来ていた。
正直、仕事を楽しいと感じたことはない。故障すればすぐさま飛んで行き、不具合があればお客に怒鳴られながら直さなければならないし、同期入社で辞めていったやつらも何人かいた。
それでも、他に何ができるわけでもないので、俺は今日も働いている。
ターミナル駅から特急に乗り、その後電車を乗り継いでこの街まで来たのは良いが、段々と目的地に近付くにつれ、窓の外の様子が怪しくなっていった。
最初は少し風が強いかなという程度だったが、ローカル線に乗り換える頃には樹木がゆらゆらと揺れ始め、駅に着くと明るかったはずの空もどんよりとグレーに染まっている。
ここで引き返せば良かったのかも知れないが、お客さんも少しでも早く直してほしいだろうし、正直なところもう一度ここまで来る気にもなれなかった。
――ということであれば、行くしかない。
覚悟を決めて、停まったタクシーを降りる。
目の前には、こぢんまりとした旅館が、荒天に健気に立ち向かうようにひっそりと佇んでいた。
「横井さん、本日はこの天気の中お越し頂き、ありがとうございます。ここまでいらっしゃるのも大変だったでしょう」
挨拶をしたところで、今日の空模様よりも深いグレーの着物を上品に着こなした女性に、恐縮した様子で声をかけられた。
俺がイメージしていた『女将さん』より見た目は幾分か若いが、その物腰は落ち着いていて、厳かささえ感じられる。
意志の強そうな眉の下できらきらと光る瞳に一瞬見惚れてしまい――俺ははっと我に返って口を開いた。
「いえ、大丈夫ですよ、お気になさらないでください。早速ですが、ボイラーの様子を確認させて頂きます」
「はい、ご案内いたします」
そして女将さんは俺をボイラー室へと案内する。歩く所作もどことなく優雅で、つられた俺もついかしこまった歩き方で彼女に付いて行った。
***
一連のメンテナンス作業を終えて時計を見ると、14時を少し回ったところだった。早く帰りたい一心での作業が功を奏したのか、当初の完了見込み時間より早く終わらせられてほっとする。これなら、ギリギリ帰れるかも知れない。
しかし、そんな俺の淡い期待は、ボイラー室を出た瞬間に脆くも崩れ去った。
廊下の窓から見える外の風景は、それこそ嵐の真っ只中だ。
木々は強風に煽られて大きく揺れ、横殴りの雨がものすごい勢いで視界を白く染める。とても外に出られるような状況ではない。
呆然と俺が立ち尽くしていると「横井さん、すみません」と背後から声がした。
振り返ると、そこには女将さんが立っている。
「ご覧の通りの嵐で、今日は電車が運休になりました」
「えっ」
思わず声が出た。
間に合わなかったか。タクシーの運ちゃんの言った通り、昼過ぎがギリギリだったのだろう。
特急が停まる駅まで何とか戻ることができれば、特急は動いているかも――いや、仮に止まっていたとしても、ビジネスホテルくらいは見付かるかも知れない。
まぁ――そこまで行ければ、の話だが。
俯いて悶々と考えていると、「あの、横井さん」と女将さんの声がすっと割り込んでくる。
きっと情けない顔をしていたのだろう――顔を上げた俺を見て、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くし、そして優しい笑みを浮かべた。
「この状況ですから、よろしければ本日は泊まっていかれませんか?」
上司の塚越さんに電話をすると、思ったよりもすんなりとOKが出る。いつもは色々と厳しいのに、珍しいこともあるものだと思った。
「天気予報見て心配してたんだよ、無事なら良かった。この後いつ嵐が過ぎ去るかもわからないし、この機会に明日も休んだら?」
「いえ、でも明日の昼と夕方にそれぞれ点検作業が入ってますし――」
「俺が行ってくるよ。宿泊料金は別途会社に請求してもらうようにするから、女将さんによろしく伝えておいて」
「わ、わかりました」
思いがけない朗報に、俺は電話を切って一人ガッツポーズをする。
ここのところ忙しかったので、休みの日も外に遊びに行く気にもならず、だらだらと家で過ごすだけだった。
旅館に泊まるなんていつぶりだろう。
フロントに戻って上司の許可を得た旨を報告すると、女将さんが丁寧に宿泊案内をしてくれた。
「お部屋は2階で、お食事処と大浴場は1階です。夕食は18時で、朝食は明日の7時から9時までの間になりますので、そのお時間にお食事処までいらしてください」
「――あ、すみません。その……申し訳ないんですが、素泊まりにできますか?」
少し恥ずかしい気持ちになりながらも、俺はそう伝える。
会社に全額支払ってもらえるのはあくまで宿泊料金であり、規則上食事代は支給される上限金額が決まっていた。
この旅館の食事料金がいくらかはわからないが、決して懐に余裕があるわけではない俺からすれば、飯は売店か自販機でカップラーメンでも買い、できるだけ出費を抑えたい。
すると、女将さんは穏やかに微笑んだ。
「お食事のお代は結構ですよ。実は急遽キャンセルのお客様がいらしたので、食材を無駄にするわけにもいかず困っていたのです。人助けだと思って是非召し上がってください」
何ということだろう、今日の俺は珍しくついているようだ。
俺はもう一度、今度は心の中でガッツポーズをした。
――そして俺は、浴衣に身を包んで食事処に来ている。
こうなったからには割り切って楽しもうと夕食前に風呂にも入り、体がポカポカして良い気分だ。
食事代がかからない分何か飲もうか悩んでいると、女将さんがジョッキに入った生ビールを運んできた。
「こちらはサービスです」
「えっ、いいんですか?」
歓びを隠せない俺の声に、女将さんが優しく微笑む。ジョッキとあての入った小皿をテーブルに置きながら、彼女は穏やかな声で続けた。
「勿論です。お客様にお風呂やお食事を楽しんで頂けるのも、横井さんがメンテナンスをして下さったお蔭ですから。本当に大変な中お越し頂いて、ありがとうございました」
その台詞に――思わず胸が熱くなる。
俺たちの仕事は何も問題が起こらないことが当たり前とされている。
トラブルが起こって怒られることはあっても、面と向かってお礼を言われることなんてほとんどない。体力的にきついことも多いし、辞めたくなることだってこれまでに何度もあった。
それでも、自分なりに何かしらのやりがいを見出し、日々何とか頑張っていて――女将さんの一言で、そのすべてが報われたような気がした。
「――それじゃあ、遠慮なく頂きます」
ジョッキを手に取り、生ビールを喉に流し込む。
風呂で温まった体の中を爽快さが駆け抜けていき、俺はその心地良さに身を委ねた。
きっとこのビールは、これまでの人生で飲んだどんなビールよりもおいしい。
ほのかに柚子の香りがするいかの塩辛をつついていると、料理が次々と運ばれてくる。
彩り豊かで見るからに新鮮そうな刺身盛り、自家製ソースが添えられたローストビーフ、きのこや海老や銀杏などが顔を出す茶碗蒸し、この辺りで獲れるというめひかりの天ぷらや、それ以外の小鉢に至るまで――どの料理からも丁寧な仕事振りが伝わってきて、俺は夢中でそれらを味わった。
俺の仕事が誰かに繋がっていて、その誰かの仕事がまた他の誰かを幸せにする。
そんな世の中の仕組みも捨てたもんじゃないなんて柄にもなく思ったのは、きっと俺が酔っ払っていたからだろう。
――でも、不思議とそんな自分が嫌じゃなかった。
最後の赤だしと白ごはんまでおいしく頂き、俺は部屋に戻る。
窓の外の風の音が、心なしか少し落ち着いてきているように聴こえた。
***
「それじゃあ、お世話になりました」
「こちらこそありがとうございました。よろしければ、今度はプライベートでもいらしてくださいね」
私がそう言うと、横井さんが「はい!」と元気良く返事をする。素直なその様子が微笑ましくて、私は自然と笑顔になっていた。
嵐は無事に昨晩この街を通り過ぎたようだ。電車も朝から運行を開始している。
いつも通りの生活が戻ってきたことに、私はほっと胸を撫で下ろした。
お見送りのために一緒に外に出ると、横井さんが足を止めて空を見上げる。
つられて私も顔を上げると、そこには昨日と打って変わって、青く澄み渡る空が広がっていた。
「――綺麗ですね」
ぽつりと横井さんが呟く。
その眼差しは、昨日ここを訪れた時よりも随分と輝いて見えた。
「――えぇ、嵐のあとは、いつもこうなんですよ」
駅までの送迎のために呼んだタクシーが、私たちの姿を見て近付いてくる。
横井さんを乗せたタクシーの後ろ姿を見送ってからフロントに戻った。全員チェックアウトは終わっている。スタッフたちも各部屋の清掃や準備を始めていた。
不意に、フロントの電話が鳴る。
出てみると、受話器の先からお得意様の声がした。
「お電話ありがとうございます、塚越さま。先程横井さん帰られましたよ」
『そんな頃だろうと思いました。女将さん、今回は面倒なことを頼んですみませんね』
「とんでもございません。塚越さまは大切なお客様ですから」
『ありがとうございます。横井の宿泊料金は会社宛に、食事料金は私宛に請求をお願いします』
「はい、すぐに手配させて頂きます」
『横井の様子、どうでした?』
「私の目からは、ゆったりとくつろいで頂けたように見えました」
『それは良かった。彼、仕事が忙しくてあまりリフレッシュできていなさそうだったから、荒療治ですが強制的に休ませようと思いまして……本当に色々とご協力頂き、ありがとうございました』
「こちらこそ、ありがとうございます。塚越さまも、是非またご家族でいらしてくださいね」
電話を切って、私は窓の外を眺める。
見れば見る程、昨日とは別世界だ。
じっと空を見上げる横井さんの横顔が、瞼の裏によみがえる。
「――また、来年ね」
そう一人呟いて、私は小さく笑みを浮かべた。
(了)
『嵐の去った、そのあとに』
年に一度、この街には嵐がやってくる。
その間住人たちは一切外出せず、嵐が去るのをただ待つのだそうだ。
「いやぁ、だからお兄さんが来てくれたのはありがたいけど、今日の夕方帰るのは厳しいと思うよ。うちも昼過ぎには上がろうかと思っとるしね」
駅前で拾ったタクシーの運ちゃんが心配そうに話しかけてくる。
俺は「そうですか」と答えながら、自分のツキのなさに内心溜め息を吐いた。
俺は或る電機メーカーで働くメンテナンス員だ。高校卒業後から働き始めて、今年で8年目になる。
うちの会社では空調設備から発電機、監視カメラ等幅広い商材を取り扱っていて、今日は数年前に納入した旅館のボイラーの調子があまり良くないということで、上司からの指示でメンテナンスに来ていた。
正直、仕事を楽しいと感じたことはない。故障すればすぐさま飛んで行き、不具合があればお客に怒鳴られながら直さなければならないし、同期入社で辞めていったやつらも何人かいた。
それでも、他に何ができるわけでもないので、俺は今日も働いている。
ターミナル駅から特急に乗り、その後電車を乗り継いでこの街まで来たのは良いが、段々と目的地に近付くにつれ、窓の外の様子が怪しくなっていった。
最初は少し風が強いかなという程度だったが、ローカル線に乗り換える頃には樹木がゆらゆらと揺れ始め、駅に着くと明るかったはずの空もどんよりとグレーに染まっている。
ここで引き返せば良かったのかも知れないが、お客さんも少しでも早く直してほしいだろうし、正直なところもう一度ここまで来る気にもなれなかった。
――ということであれば、行くしかない。
覚悟を決めて、停まったタクシーを降りる。
目の前には、こぢんまりとした旅館が、荒天に健気に立ち向かうようにひっそりと佇んでいた。
「横井さん、本日はこの天気の中お越し頂き、ありがとうございます。ここまでいらっしゃるのも大変だったでしょう」
挨拶をしたところで、今日の空模様よりも深いグレーの着物を上品に着こなした女性に、恐縮した様子で声をかけられた。
俺がイメージしていた『女将さん』より見た目は幾分か若いが、その物腰は落ち着いていて、厳かささえ感じられる。
意志の強そうな眉の下できらきらと光る瞳に一瞬見惚れてしまい――俺ははっと我に返って口を開いた。
「いえ、大丈夫ですよ、お気になさらないでください。早速ですが、ボイラーの様子を確認させて頂きます」
「はい、ご案内いたします」
そして女将さんは俺をボイラー室へと案内する。歩く所作もどことなく優雅で、つられた俺もついかしこまった歩き方で彼女に付いて行った。
***
一連のメンテナンス作業を終えて時計を見ると、14時を少し回ったところだった。早く帰りたい一心での作業が功を奏したのか、当初の完了見込み時間より早く終わらせられてほっとする。これなら、ギリギリ帰れるかも知れない。
しかし、そんな俺の淡い期待は、ボイラー室を出た瞬間に脆くも崩れ去った。
廊下の窓から見える外の風景は、それこそ嵐の真っ只中だ。
木々は強風に煽られて大きく揺れ、横殴りの雨がものすごい勢いで視界を白く染める。とても外に出られるような状況ではない。
呆然と俺が立ち尽くしていると「横井さん、すみません」と背後から声がした。
振り返ると、そこには女将さんが立っている。
「ご覧の通りの嵐で、今日は電車が運休になりました」
「えっ」
思わず声が出た。
間に合わなかったか。タクシーの運ちゃんの言った通り、昼過ぎがギリギリだったのだろう。
特急が停まる駅まで何とか戻ることができれば、特急は動いているかも――いや、仮に止まっていたとしても、ビジネスホテルくらいは見付かるかも知れない。
まぁ――そこまで行ければ、の話だが。
俯いて悶々と考えていると、「あの、横井さん」と女将さんの声がすっと割り込んでくる。
きっと情けない顔をしていたのだろう――顔を上げた俺を見て、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くし、そして優しい笑みを浮かべた。
「この状況ですから、よろしければ本日は泊まっていかれませんか?」
上司の塚越さんに電話をすると、思ったよりもすんなりとOKが出る。いつもは色々と厳しいのに、珍しいこともあるものだと思った。
「天気予報見て心配してたんだよ、無事なら良かった。この後いつ嵐が過ぎ去るかもわからないし、この機会に明日も休んだら?」
「いえ、でも明日の昼と夕方にそれぞれ点検作業が入ってますし――」
「俺が行ってくるよ。宿泊料金は別途会社に請求してもらうようにするから、女将さんによろしく伝えておいて」
「わ、わかりました」
思いがけない朗報に、俺は電話を切って一人ガッツポーズをする。
ここのところ忙しかったので、休みの日も外に遊びに行く気にもならず、だらだらと家で過ごすだけだった。
旅館に泊まるなんていつぶりだろう。
フロントに戻って上司の許可を得た旨を報告すると、女将さんが丁寧に宿泊案内をしてくれた。
「お部屋は2階で、お食事処と大浴場は1階です。夕食は18時で、朝食は明日の7時から9時までの間になりますので、そのお時間にお食事処までいらしてください」
「――あ、すみません。その……申し訳ないんですが、素泊まりにできますか?」
少し恥ずかしい気持ちになりながらも、俺はそう伝える。
会社に全額支払ってもらえるのはあくまで宿泊料金であり、規則上食事代は支給される上限金額が決まっていた。
この旅館の食事料金がいくらかはわからないが、決して懐に余裕があるわけではない俺からすれば、飯は売店か自販機でカップラーメンでも買い、できるだけ出費を抑えたい。
すると、女将さんは穏やかに微笑んだ。
「お食事のお代は結構ですよ。実は急遽キャンセルのお客様がいらしたので、食材を無駄にするわけにもいかず困っていたのです。人助けだと思って是非召し上がってください」
何ということだろう、今日の俺は珍しくついているようだ。
俺はもう一度、今度は心の中でガッツポーズをした。
――そして俺は、浴衣に身を包んで食事処に来ている。
こうなったからには割り切って楽しもうと夕食前に風呂にも入り、体がポカポカして良い気分だ。
食事代がかからない分何か飲もうか悩んでいると、女将さんがジョッキに入った生ビールを運んできた。
「こちらはサービスです」
「えっ、いいんですか?」
歓びを隠せない俺の声に、女将さんが優しく微笑む。ジョッキとあての入った小皿をテーブルに置きながら、彼女は穏やかな声で続けた。
「勿論です。お客様にお風呂やお食事を楽しんで頂けるのも、横井さんがメンテナンスをして下さったお蔭ですから。本当に大変な中お越し頂いて、ありがとうございました」
その台詞に――思わず胸が熱くなる。
俺たちの仕事は何も問題が起こらないことが当たり前とされている。
トラブルが起こって怒られることはあっても、面と向かってお礼を言われることなんてほとんどない。体力的にきついことも多いし、辞めたくなることだってこれまでに何度もあった。
それでも、自分なりに何かしらのやりがいを見出し、日々何とか頑張っていて――女将さんの一言で、そのすべてが報われたような気がした。
「――それじゃあ、遠慮なく頂きます」
ジョッキを手に取り、生ビールを喉に流し込む。
風呂で温まった体の中を爽快さが駆け抜けていき、俺はその心地良さに身を委ねた。
きっとこのビールは、これまでの人生で飲んだどんなビールよりもおいしい。
ほのかに柚子の香りがするいかの塩辛をつついていると、料理が次々と運ばれてくる。
彩り豊かで見るからに新鮮そうな刺身盛り、自家製ソースが添えられたローストビーフ、きのこや海老や銀杏などが顔を出す茶碗蒸し、この辺りで獲れるというめひかりの天ぷらや、それ以外の小鉢に至るまで――どの料理からも丁寧な仕事振りが伝わってきて、俺は夢中でそれらを味わった。
俺の仕事が誰かに繋がっていて、その誰かの仕事がまた他の誰かを幸せにする。
そんな世の中の仕組みも捨てたもんじゃないなんて柄にもなく思ったのは、きっと俺が酔っ払っていたからだろう。
――でも、不思議とそんな自分が嫌じゃなかった。
最後の赤だしと白ごはんまでおいしく頂き、俺は部屋に戻る。
窓の外の風の音が、心なしか少し落ち着いてきているように聴こえた。
***
「それじゃあ、お世話になりました」
「こちらこそありがとうございました。よろしければ、今度はプライベートでもいらしてくださいね」
私がそう言うと、横井さんが「はい!」と元気良く返事をする。素直なその様子が微笑ましくて、私は自然と笑顔になっていた。
嵐は無事に昨晩この街を通り過ぎたようだ。電車も朝から運行を開始している。
いつも通りの生活が戻ってきたことに、私はほっと胸を撫で下ろした。
お見送りのために一緒に外に出ると、横井さんが足を止めて空を見上げる。
つられて私も顔を上げると、そこには昨日と打って変わって、青く澄み渡る空が広がっていた。
「――綺麗ですね」
ぽつりと横井さんが呟く。
その眼差しは、昨日ここを訪れた時よりも随分と輝いて見えた。
「――えぇ、嵐のあとは、いつもこうなんですよ」
駅までの送迎のために呼んだタクシーが、私たちの姿を見て近付いてくる。
横井さんを乗せたタクシーの後ろ姿を見送ってからフロントに戻った。全員チェックアウトは終わっている。スタッフたちも各部屋の清掃や準備を始めていた。
不意に、フロントの電話が鳴る。
出てみると、受話器の先からお得意様の声がした。
「お電話ありがとうございます、塚越さま。先程横井さん帰られましたよ」
『そんな頃だろうと思いました。女将さん、今回は面倒なことを頼んですみませんね』
「とんでもございません。塚越さまは大切なお客様ですから」
『ありがとうございます。横井の宿泊料金は会社宛に、食事料金は私宛に請求をお願いします』
「はい、すぐに手配させて頂きます」
『横井の様子、どうでした?』
「私の目からは、ゆったりとくつろいで頂けたように見えました」
『それは良かった。彼、仕事が忙しくてあまりリフレッシュできていなさそうだったから、荒療治ですが強制的に休ませようと思いまして……本当に色々とご協力頂き、ありがとうございました』
「こちらこそ、ありがとうございます。塚越さまも、是非またご家族でいらしてくださいね」
電話を切って、私は窓の外を眺める。
見れば見る程、昨日とは別世界だ。
じっと空を見上げる横井さんの横顔が、瞼の裏によみがえる。
「――また、来年ね」
そう一人呟いて、私は小さく笑みを浮かべた。
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すごく嬉しいですv
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あたたかいご感想をありがとうございました。
うわあ、最後で「そうだったのか!」となりました。
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