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17 館林城
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第七章 館林城
第一話 屋敷にて
戦いの熱と灰の匂いがまだ肌に残るなか、お菊に導かれ、一行は館林城へ向かった。
城といっても、ここ館林は天守のそびえる要塞ではない。
広い御殿と長屋を連ねた“屋敷城”。
藩の政も、日々の暮らしも、この屋敷の中枢で動く――はずだった。
だが、門をくぐった途端、金之助たちは足を止めた。
目の前に広がるのは、城とは思えぬ惨状だった。
瓦は半ば崩れ、雨樋は折れ、黒い梁がむき出しになっている。
柱には浅い亀裂が幾筋も走り、いつ倒れてもおかしくない。
広がる庭は、本来なら夏の緑で瑞々しいはずなのに、松も草も灰をかぶって白く沈み、まるで冬の枯野のようだ。
踏みしめるたび、乾いた灰がさらりと舞い、足跡だけが黒く残る。
障子は破られ、敷居には引きずられたような黒い痕がある。
廊下の角には、半ば乾いた血糊がこびりつき、誰かがここで倒れたことを黙って告げていた。
遠くの長屋からは、まだ消えぬ呻き声や、どこかで瓦が落ちる音がときおり響き、屋敷全体が生きたまま死にかけているようだった。
鉄之介が鼻を鳴らす。
「……城がこんな有様かよ。こりゃ、外の地獄と変わらねえな」
忠壽は何も言わず、ただ目を細めて進んだ。
こういう時、余計な言葉を差し挟まぬ男である。
お菊は振り返らず、静かに言った。
「……殿は、この奥におられます」
声は疲れていた。それでも足取りは乱れない。
彼女は屋敷の惨状を見ても、怯えるのではなく――まるで“ここを立て直すために戻ってきた”者の背だった。
いくつもの障子を抜け、広間へ辿り着く。
灯りは薄く、座敷の空気は重い。
その最奥、上段に一人の男が縮こまるように座していた。
館林藩主・松平武寛(まつだいら たけひろ)
本来なら威儀を正し、家臣に命じ、藩を束ねる者。
だが今、彼の姿からはその重みが抜け落ちていた。
緋の裃こそ身につけているものの、顔色は死人のように蒼白。
額には汗が浮き、扇を握る手は落ち着きなく震えている。
周囲の家臣が何人も控えているのに、彼だけが深い穴に落ちたように孤立して見えた。
外の騒乱に一度も出ず、門を固め、鼓動だけを聞き、この広間の陰で怯え続けてきた男の姿だった。
「お……お菊……!」
妻の白衣が視界に入った瞬間、武寛の目が見開かれた。
立ち上がろうと身を乗り出し――しかし足が縺れるように腰が崩れ、また座に沈む。
「よ、よくぞ無事で……! ほんとうに……!」
安堵と恐怖が混じった声がぶるぶると揺れ、眼差しは子供のように彼女へ縋るばかりだ。
お菊は小さく頭を下げた。
「殿……」
その声は柔らかい。
だが、瞳の底には哀しみが沈んでいるのがはっきりわかった。
そこへ忠壽が静かに一歩進み出る。
礼節に足を置き、背筋を伸ばしたまま深く一礼した。
「拙者、白河藩士・本多忠壽と申します。
主君・松平定信公の命により、お菊様の安否を確かめに参上いたしました」
その名を聞いた武寛が、びくりと肩を跳ねさせる。
「な……定信殿の……? 白河から、わざわざ……!」
扇で口元を隠し、落ち着かぬ仕草で何度も扇を開閉する。
そしてぽろりと、怯えた問いをこぼした。
「で、では……城下は……ど、どうなっておる?
外は……まだ、あの黒い屍どもが……?」
忠壽は容赦なく、だが誇張もなく答える。
「城下はすでに蹂躙され、惨状にございます。
民の多くは逃げ惑い、あるいは灰と化しました。
黒屍人はなお増え、城を取り囲んでおります」
武寛の呼吸が浅くなる。
「ひ、ひぃ……!」
喉が鳴り、指先が震えた。
そして、まるで助けを求める幼子のようにお菊へ滲む目を向ける。
「で、では……わしは……ど、どうすればよい……?
外には出られぬ……出れば、喰われる……!
誰か……誰か、どうにかせよ……!」
その手が、お菊の袖に伸びかけた。
お菊は、そっとその手を押さえた。
拒んだのではない。
“縋る先が違う”と、静かに教えるように。
「殿」
声が少しだけ強くなる。
「民はまだ、生きるために戦っております。
城主たるあなた様が姿をお見せになれば、どれほど人々の心が救われるか……
どうか、御身をもってお示しくださいませ」
広間の空気が、ぴんと張った。
家臣たちが息を止めるのがわかった。
――今こそ、主君が立つべき刻。
誰もがそう思っている。
だが武寛は、視線を床に落としてうつむいた。
肩を小さく震わせ、子供のように首を振る。
「む、無理だ……!
わしには……そんな勇気はない……!
外に出たら……死ぬ……死んでしまう……!」
沈黙が落ちた。
灰より重い沈黙だった。
忠壽は黙って頭を垂れた。
金之助も言葉を失い、唇を噛む。
鉄之介だけが、堪えきれず鼻で笑って低く吐き捨てた。
「……これが藩主ってもんかよ」
家臣の一人が顔を引きつらせる。
だが忠壽は軽く片手を挙げ、鉄之介を制した。
「……よい」
言葉は短い。
その奥に、冷えた判断が滲んでいた。
(……この御仁には、この国難を背負う器はない)
(……真に立つべき者は、ここにいる)
忠壽の視線が、自然とお菊へ落ちる。
灰と血にまみれた館林で、門前に立ち続け、祈り続け、民を動かし続けた女。
主君が座に沈むいま、
この屋敷で最も“城主らしい背”を持つのは、誰か。
広間の燭火が揺れ、お菊の横顔をかすかに照らした。
その瞳は疲れてなお、澄んでいた。
そして誰よりも、前を向いていた。
第二話 別室にて
お菊に案内され、一行は屋敷の奥の一室へ入った。
戸を閉めた途端、外の地獄が少しだけ遠のいた気がした。
それでも、闇は完全には遮れない。
火山灰が屋根をざらざらと叩く音が、薄い雨のように途切れなく降り続けている。
ときおり、どこかの石垣か屋根が崩れるのだろう、鈍い轟きが腹の底に響き、そのたび畳がかすかに震えた。
風はないのに、空気がざらついている。灰が隙間から入り込んでくるのだ。
四人は囲炉裏もない広間の座を囲むように落ち着いた。
誰も、すぐには口を開けなかった。
鉄之介は落ち着かずに膝の上へ大槌を横たえ、指で柄を叩く。
槌頭に食い込んだ酉の珠は、赤黒い鼓動をこちらに伝えてきて、まるで“まだ戦わせろ”と催促しているようだ。
金之助は短刀を膝の前に置き、刃先についた灰を拭いながら、朱の珠が胸の奥で脈を打つ感覚を押さえ込んでいた。
忠壽は背筋を正し、口を閉ざしたまま刀の午の珠の鼓動を確かめている。
珠の力を使ったときに襲う、あの不気味な無音の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
お菊は三人を見渡し、いったん唇を結んだ。
言うべきか、言わざるべきか――その迷いが、ほんの一呼吸ぶんだけ表情を曇らせる。
やがて彼女は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……本当は、語るべきではないのです」
声はかすれていたが、揺れていない。
外の喧騒とは別の重みが、一言目から座敷に沈んだ。
「けれど、ここにいるあなた方のように“珠を持つ者”が、何も知らぬまま命を落とすのは……あまりに理不尽だと思いました」
金之助が顔を上げた。
鉄之介も、柄を叩く指を止める。
「理不尽って……どういうことだ?」
お菊は膝の上で両手を重ね、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……私に伝えられてきたのは、代々の言い伝えにすぎません。
確かなことと断じられるものではない。けれど、聞いてください」
灯りの乏しい座敷で、彼女の瞳だけがはっきり光っていた。
「忍神の珠――それは十二支に応じて十二あり、ひとつひとつが人ならざる力を宿すといわれています。
けれど、その力は強大すぎる。
“器”とならぬ者が触れ、抱き、使えば……必ず代償を払うことになるのです」
鉄之介の眉がぴくりと動く。
思い当たる節がありすぎた。
「命、理性、感覚……何が削られるかは珠ごとに違う。
そして一度削られたものは、戻りません」
お菊は声を落とし、続けた。
「忍神は、決して慈悲深いものではありません。
それでも人が求めれば、あの力は容赦なく差し出される。
だからこそ――封じる者が必要だったのです」
忠壽が脇に置いた午の珠を宿す刀を見つめた。
黄色い光は焚き火もない闇に淡く滲み、揺れる。
「……午の珠。力を使うたび、音が消える。
耳の奥が塞がれ、世界が無音になる。
あれが……代償だというのか」
お菊は頷いた。
「はい。
忠壽様は、午の器として選ばれたのでしょう。
けれど器であっても、完全に適合しなければ代償は免れません」
鉄之介が、低く息を吐く。
「やっぱりな……。
体の芯が削られていく感じが、気のせいじゃなかったわけだ」
金之助は朱の珠を押さえるように胸に手を当てた。
自分が使った瞬間の、あの熱と、身体が勝手に動いた感覚が蘇る。
お菊は、今度は鉄之介をまっすぐ見つめた。
「……あなたの酉の珠は……使えば使うほど…命を削ります。
寿命が縮むのです。
だから――なるべく使わないように…」
座敷の空気が一瞬、固くなった。
金之助は咄嗟に鉄之介を見る。
忠壽の家臣たちなら、ここで動揺して声をあげたかもしれない。
でも鉄之介は、あっけらかんと笑った。
「……ああ、それがどうした? 寿命がどうした!
俺には関係ねえ話だ」
「鉄之介!」
金之助の声が鋭く響く。
お菊も顔を曇らせた。
「でも、あなたの命が……!」
鉄之介は片手を振り、いつもの調子で笑い飛ばす。
「お姫様が気にしてくれるのはありがてぇ。
だが、これは俺の命だ。
削れるなら削れ。俺が勝手に使う」
槌の柄を軽く叩き、にやりとする。
「この力、気に入ったんでな。
それに――さっきのあの化け物を倒すには、こいつが要るだろ?」
金之助は言葉を失った。
けれど、その横顔の覚悟が軽口ではないこともわかってしまう。
忠壽が、静かにそれに重ねる。
「拙者も同じだ。
耳がどうなろうと構わぬ。
お菊様を守り、白河へお連れできるなら、それでよい」
お菊は、ゆっくり首を振った。
「……いいえ。私は白河には戻りません」
忠壽の呼吸が止まる。
「なに……?」
お菊は視線を逸らさず、はっきりと言った。
「私は巫女の血を継ぐ者。
忍神の珠の均衡を守る役目を、代々背負ってきました。
館林に嫁いでも、その宿命は変わらない。
……ここで逃げれば、民の心は折れ、珠は悪しき手に渡る」
疲れ切った声なのに、決意だけが刺のように強い。
「だからこそ、ここで人々の支えとならねばなりません。
命を捧げる覚悟も……最初から、できていました」
鉄之介の笑みが消え、金之助の喉が鳴った。
忠壽も、何か言いかけて唇を結ぶ。
朱、紅、黄――三つの珠の光が同時に脈打ち、座敷の闇を押し返すように揺らめく。
外の地獄はまだ終わっていない。
けれど、この一室には、確かに“進むべき道”が生まれつつあった。
灰が屋根を叩く音の向こうで、黒屍人の遠い呻き声がまたひとつ伸びた。
それに重なるように、三つの珠が静かに、しかし確かに呼応した。
第一話 屋敷にて
戦いの熱と灰の匂いがまだ肌に残るなか、お菊に導かれ、一行は館林城へ向かった。
城といっても、ここ館林は天守のそびえる要塞ではない。
広い御殿と長屋を連ねた“屋敷城”。
藩の政も、日々の暮らしも、この屋敷の中枢で動く――はずだった。
だが、門をくぐった途端、金之助たちは足を止めた。
目の前に広がるのは、城とは思えぬ惨状だった。
瓦は半ば崩れ、雨樋は折れ、黒い梁がむき出しになっている。
柱には浅い亀裂が幾筋も走り、いつ倒れてもおかしくない。
広がる庭は、本来なら夏の緑で瑞々しいはずなのに、松も草も灰をかぶって白く沈み、まるで冬の枯野のようだ。
踏みしめるたび、乾いた灰がさらりと舞い、足跡だけが黒く残る。
障子は破られ、敷居には引きずられたような黒い痕がある。
廊下の角には、半ば乾いた血糊がこびりつき、誰かがここで倒れたことを黙って告げていた。
遠くの長屋からは、まだ消えぬ呻き声や、どこかで瓦が落ちる音がときおり響き、屋敷全体が生きたまま死にかけているようだった。
鉄之介が鼻を鳴らす。
「……城がこんな有様かよ。こりゃ、外の地獄と変わらねえな」
忠壽は何も言わず、ただ目を細めて進んだ。
こういう時、余計な言葉を差し挟まぬ男である。
お菊は振り返らず、静かに言った。
「……殿は、この奥におられます」
声は疲れていた。それでも足取りは乱れない。
彼女は屋敷の惨状を見ても、怯えるのではなく――まるで“ここを立て直すために戻ってきた”者の背だった。
いくつもの障子を抜け、広間へ辿り着く。
灯りは薄く、座敷の空気は重い。
その最奥、上段に一人の男が縮こまるように座していた。
館林藩主・松平武寛(まつだいら たけひろ)
本来なら威儀を正し、家臣に命じ、藩を束ねる者。
だが今、彼の姿からはその重みが抜け落ちていた。
緋の裃こそ身につけているものの、顔色は死人のように蒼白。
額には汗が浮き、扇を握る手は落ち着きなく震えている。
周囲の家臣が何人も控えているのに、彼だけが深い穴に落ちたように孤立して見えた。
外の騒乱に一度も出ず、門を固め、鼓動だけを聞き、この広間の陰で怯え続けてきた男の姿だった。
「お……お菊……!」
妻の白衣が視界に入った瞬間、武寛の目が見開かれた。
立ち上がろうと身を乗り出し――しかし足が縺れるように腰が崩れ、また座に沈む。
「よ、よくぞ無事で……! ほんとうに……!」
安堵と恐怖が混じった声がぶるぶると揺れ、眼差しは子供のように彼女へ縋るばかりだ。
お菊は小さく頭を下げた。
「殿……」
その声は柔らかい。
だが、瞳の底には哀しみが沈んでいるのがはっきりわかった。
そこへ忠壽が静かに一歩進み出る。
礼節に足を置き、背筋を伸ばしたまま深く一礼した。
「拙者、白河藩士・本多忠壽と申します。
主君・松平定信公の命により、お菊様の安否を確かめに参上いたしました」
その名を聞いた武寛が、びくりと肩を跳ねさせる。
「な……定信殿の……? 白河から、わざわざ……!」
扇で口元を隠し、落ち着かぬ仕草で何度も扇を開閉する。
そしてぽろりと、怯えた問いをこぼした。
「で、では……城下は……ど、どうなっておる?
外は……まだ、あの黒い屍どもが……?」
忠壽は容赦なく、だが誇張もなく答える。
「城下はすでに蹂躙され、惨状にございます。
民の多くは逃げ惑い、あるいは灰と化しました。
黒屍人はなお増え、城を取り囲んでおります」
武寛の呼吸が浅くなる。
「ひ、ひぃ……!」
喉が鳴り、指先が震えた。
そして、まるで助けを求める幼子のようにお菊へ滲む目を向ける。
「で、では……わしは……ど、どうすればよい……?
外には出られぬ……出れば、喰われる……!
誰か……誰か、どうにかせよ……!」
その手が、お菊の袖に伸びかけた。
お菊は、そっとその手を押さえた。
拒んだのではない。
“縋る先が違う”と、静かに教えるように。
「殿」
声が少しだけ強くなる。
「民はまだ、生きるために戦っております。
城主たるあなた様が姿をお見せになれば、どれほど人々の心が救われるか……
どうか、御身をもってお示しくださいませ」
広間の空気が、ぴんと張った。
家臣たちが息を止めるのがわかった。
――今こそ、主君が立つべき刻。
誰もがそう思っている。
だが武寛は、視線を床に落としてうつむいた。
肩を小さく震わせ、子供のように首を振る。
「む、無理だ……!
わしには……そんな勇気はない……!
外に出たら……死ぬ……死んでしまう……!」
沈黙が落ちた。
灰より重い沈黙だった。
忠壽は黙って頭を垂れた。
金之助も言葉を失い、唇を噛む。
鉄之介だけが、堪えきれず鼻で笑って低く吐き捨てた。
「……これが藩主ってもんかよ」
家臣の一人が顔を引きつらせる。
だが忠壽は軽く片手を挙げ、鉄之介を制した。
「……よい」
言葉は短い。
その奥に、冷えた判断が滲んでいた。
(……この御仁には、この国難を背負う器はない)
(……真に立つべき者は、ここにいる)
忠壽の視線が、自然とお菊へ落ちる。
灰と血にまみれた館林で、門前に立ち続け、祈り続け、民を動かし続けた女。
主君が座に沈むいま、
この屋敷で最も“城主らしい背”を持つのは、誰か。
広間の燭火が揺れ、お菊の横顔をかすかに照らした。
その瞳は疲れてなお、澄んでいた。
そして誰よりも、前を向いていた。
第二話 別室にて
お菊に案内され、一行は屋敷の奥の一室へ入った。
戸を閉めた途端、外の地獄が少しだけ遠のいた気がした。
それでも、闇は完全には遮れない。
火山灰が屋根をざらざらと叩く音が、薄い雨のように途切れなく降り続けている。
ときおり、どこかの石垣か屋根が崩れるのだろう、鈍い轟きが腹の底に響き、そのたび畳がかすかに震えた。
風はないのに、空気がざらついている。灰が隙間から入り込んでくるのだ。
四人は囲炉裏もない広間の座を囲むように落ち着いた。
誰も、すぐには口を開けなかった。
鉄之介は落ち着かずに膝の上へ大槌を横たえ、指で柄を叩く。
槌頭に食い込んだ酉の珠は、赤黒い鼓動をこちらに伝えてきて、まるで“まだ戦わせろ”と催促しているようだ。
金之助は短刀を膝の前に置き、刃先についた灰を拭いながら、朱の珠が胸の奥で脈を打つ感覚を押さえ込んでいた。
忠壽は背筋を正し、口を閉ざしたまま刀の午の珠の鼓動を確かめている。
珠の力を使ったときに襲う、あの不気味な無音の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
お菊は三人を見渡し、いったん唇を結んだ。
言うべきか、言わざるべきか――その迷いが、ほんの一呼吸ぶんだけ表情を曇らせる。
やがて彼女は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……本当は、語るべきではないのです」
声はかすれていたが、揺れていない。
外の喧騒とは別の重みが、一言目から座敷に沈んだ。
「けれど、ここにいるあなた方のように“珠を持つ者”が、何も知らぬまま命を落とすのは……あまりに理不尽だと思いました」
金之助が顔を上げた。
鉄之介も、柄を叩く指を止める。
「理不尽って……どういうことだ?」
お菊は膝の上で両手を重ね、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……私に伝えられてきたのは、代々の言い伝えにすぎません。
確かなことと断じられるものではない。けれど、聞いてください」
灯りの乏しい座敷で、彼女の瞳だけがはっきり光っていた。
「忍神の珠――それは十二支に応じて十二あり、ひとつひとつが人ならざる力を宿すといわれています。
けれど、その力は強大すぎる。
“器”とならぬ者が触れ、抱き、使えば……必ず代償を払うことになるのです」
鉄之介の眉がぴくりと動く。
思い当たる節がありすぎた。
「命、理性、感覚……何が削られるかは珠ごとに違う。
そして一度削られたものは、戻りません」
お菊は声を落とし、続けた。
「忍神は、決して慈悲深いものではありません。
それでも人が求めれば、あの力は容赦なく差し出される。
だからこそ――封じる者が必要だったのです」
忠壽が脇に置いた午の珠を宿す刀を見つめた。
黄色い光は焚き火もない闇に淡く滲み、揺れる。
「……午の珠。力を使うたび、音が消える。
耳の奥が塞がれ、世界が無音になる。
あれが……代償だというのか」
お菊は頷いた。
「はい。
忠壽様は、午の器として選ばれたのでしょう。
けれど器であっても、完全に適合しなければ代償は免れません」
鉄之介が、低く息を吐く。
「やっぱりな……。
体の芯が削られていく感じが、気のせいじゃなかったわけだ」
金之助は朱の珠を押さえるように胸に手を当てた。
自分が使った瞬間の、あの熱と、身体が勝手に動いた感覚が蘇る。
お菊は、今度は鉄之介をまっすぐ見つめた。
「……あなたの酉の珠は……使えば使うほど…命を削ります。
寿命が縮むのです。
だから――なるべく使わないように…」
座敷の空気が一瞬、固くなった。
金之助は咄嗟に鉄之介を見る。
忠壽の家臣たちなら、ここで動揺して声をあげたかもしれない。
でも鉄之介は、あっけらかんと笑った。
「……ああ、それがどうした? 寿命がどうした!
俺には関係ねえ話だ」
「鉄之介!」
金之助の声が鋭く響く。
お菊も顔を曇らせた。
「でも、あなたの命が……!」
鉄之介は片手を振り、いつもの調子で笑い飛ばす。
「お姫様が気にしてくれるのはありがてぇ。
だが、これは俺の命だ。
削れるなら削れ。俺が勝手に使う」
槌の柄を軽く叩き、にやりとする。
「この力、気に入ったんでな。
それに――さっきのあの化け物を倒すには、こいつが要るだろ?」
金之助は言葉を失った。
けれど、その横顔の覚悟が軽口ではないこともわかってしまう。
忠壽が、静かにそれに重ねる。
「拙者も同じだ。
耳がどうなろうと構わぬ。
お菊様を守り、白河へお連れできるなら、それでよい」
お菊は、ゆっくり首を振った。
「……いいえ。私は白河には戻りません」
忠壽の呼吸が止まる。
「なに……?」
お菊は視線を逸らさず、はっきりと言った。
「私は巫女の血を継ぐ者。
忍神の珠の均衡を守る役目を、代々背負ってきました。
館林に嫁いでも、その宿命は変わらない。
……ここで逃げれば、民の心は折れ、珠は悪しき手に渡る」
疲れ切った声なのに、決意だけが刺のように強い。
「だからこそ、ここで人々の支えとならねばなりません。
命を捧げる覚悟も……最初から、できていました」
鉄之介の笑みが消え、金之助の喉が鳴った。
忠壽も、何か言いかけて唇を結ぶ。
朱、紅、黄――三つの珠の光が同時に脈打ち、座敷の闇を押し返すように揺らめく。
外の地獄はまだ終わっていない。
けれど、この一室には、確かに“進むべき道”が生まれつつあった。
灰が屋根を叩く音の向こうで、黒屍人の遠い呻き声がまたひとつ伸びた。
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人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
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