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45 音のない世界で
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第七話 音のない世界で
攻略が見えた。
そう思った瞬間だった。
忠壽の世界から――音が、消えた。
焚き火の爆ぜる音も、鉄之介の荒い息も、自分の心臓の鼓動さえも。
すべてが、真綿を詰めたように遠のいて――
次の刹那、完全な無音が訪れた。
忠壽は、目を細める。
(……来たか)
頭のどこかで冷静に理解した。
だが身体が、それに追いつかない。
虎之進が消える。
――いや、消えたのではない。
“聞こえない”だけで、そこにいる。
足音がない相手を追うのに、
最後の頼みはわずかな空気の裂け目と、灰の揺れ。
だが――それだけでは足りない。
耳がある時は、音の“ない”場所が読めた。
今はそれすらない。
忠壽の刀が、ほんの僅か遅れる。
その遅れは、虎之進にとっては“止まっている”に等しい。
次の瞬間。
忠壽の左肩が裂けた。
痛みは遅れて来る。
赤が、夜に散る。
虎之進の刃は止まらない。
忠壽の脇腹。
腿。
腕。
肋。
致命を外している。
――殺さない。
いや、正確には――
“殺さずに刻む”。
忠壽が弱っていくのを見て、
鉄之介が一瞬だけ目を見開いた。
「……忠壽!?」
声が出たが、忠壽には届かない。
届かないと分かっているのに、
鉄之介は叫んでしまった。
忠壽の動きが、奇妙だった。
刀が、受けるべき場所にない。
半歩のズレが、命取りになる。
鉄之介は、自分の目の前の刃を弾きながら、忠壽を見た。
助けたい。
だが助けに行けば、鉄之介自身が裂かれる。
虎之進の二刀は、二人の呼吸を完全に分断してくる。
忠壽は、刻まれていく。
倒れない。
だが、削られていく。
血が落ちる。
足元の灰が、忠壽の血を吸って黒くなる。
鉄之介の歯が軋む。
(くそ……!
俺が――どうにか――)
だが次の瞬間、鉄之介の視界の端から虎之進が消えた。
鉄之介の首筋に、本命の刃。
反射で大槌を上げる。
――ガギン!!
受けた。
受けたが、肘が痺れた。
虎之進の目が、鉄之介の顔のすぐ近くにある。
冷たい。
そして、容赦がない。
虎之進は、鉄之介を切り裂くより先に――
忠壽を“終わらせる”つもりだ。
忠壽が、よろけた。
耳が聞こえない。
呼吸が乱れる。
虎之進が消える。
忠壽の背後に、本命の刃。
忠壽は気配を感じられない。
間に合わない。
鉄之介の目が見開かれる。
(……終わる)
その刹那――
轟音が来た。
音ではない。
衝撃だ。
空気が割れた。
虎之進の本命の刃が、忠壽の背へ落ちる寸前――
横から、眩い閃光が叩き込まれた。
――ドンッ!!
虎之進の身体が、弾き飛ばされた。
地面を滑り、灰を巻き上げ、崩れた家の柱に叩きつく。
忠壽が膝をついた。
鉄之介が、息を呑む。
そこに立っていたのは――
霧島 清十郎。
刀を抜き切った姿で、静かに前に出ている。
さっきまでの“揺れ”が嘘みたいに、その背中は一本の鋼だった。
清十郎の刀身が、淡く橙朱を帯びている。
寅の珠。
忠壽は地面に片膝をついたまま、清十郎を見上げる。
耳が聞こえない。
だが、清十郎の声は“形”として分かった。
「……遅れた」
鉄之介が、血だらけの顔で笑った。
「……やっと来やがったか」
虎之進が、柱を背にしてゆっくり立ち上がる。
その目が、清十郎を捉える。
そして――
僅かに、眉が動いた。
驚きでも、恐れでもない。
“警戒”。
虎之進は、清十郎を知っている。
清十郎は、虎之進を知らない。
だが刃が交わる前から、互いの格を理解していた。
そこへ遅れて――
足音が駆けて来る。
灰を蹴り、息を切らし、それでも迷いなく。
陸奥の金之助。
脇差を握った手が、以前よりも確かに強い。
その柄が、微かに光を帯びている。
辰の珠。
清十郎の刀と、金之助の脇差が、同じ拍で脈打つ。
どくん。
どくん。
夜の廃村の闇に、二つの鼓動が重なる。
鉄之介が、喉の奥で笑った。
「……来たな」
忠壽は血を吐きながらも、唇を歪めた。
耳は聞こえない。
だが目で分かる。
双子が揃った。
龍虎が――揃った。
虎之進が、二刀を構える。
清十郎が刀を正眼に据える。
金之助が一歩前へ出る。
その瞬間――
空気が変わった。
さっきまで“狩る側”だった虎之進が、初めて“狩られる側”の気配を感じた。
鉄之介が忠壽の肩を支えながら、低く言う。
「……忠壽。
今からは、あいつらの番だ」
忠壽は答えない。
答えられない。
だが――
その目は、笑っていた。
そして清十郎が、虎之進へ静かに言った。
「貴様が鷲尾 虎之進か」
虎之進が、冷たく返す。
「……霧島 清十郎」
一拍。
「来るのが遅い」
清十郎の口元が、僅かに上がった。
「悪かったな」
金之助の脇差が、橙朱の光と呼応する。
焚き火のない廃村の闇で、
双子の鼓動だけが、世界を照らした。
――ここからが本当の死闘だった。
忠壽のもとへ、遅れて駆け込んできた影があった。
お菊。
斎藤。
吉村。
夜の灰を踏み荒らし、息を切らしながら――それでも迷いなく、倒れかけた忠壽へ膝をつく。
「殿、大丈夫ですか。……ただちに手当さしあげます」
斎藤の声は低く、落ち着いていた。
焦りは胸の内に押し込み、手だけが早い。
忠壽の肩。脇腹。腕。腿。
深くはない。
だが切り刻まれた傷口は多く、血が全身を濡らしている。
斎藤は迷わず、布を裂き、圧をかける。
止血の位置を一瞬で見極め、傷を覆い、締め、押さえる。
お菊がその横へ寄り、忠壽の顔を覗き込む。
「忠壽様……」
声が震えた。
怯えではない。
痛みに耐える忠壽を見て、胸が締めつけられている震えだ。
忠壽は目を動かした。
お菊の唇が動いているのは見える。
斎藤の指が布を締めるのも見える。
吉村が何かを叫んでいるのも分かる。
――だが、音がない。
忠壽の世界に流れているのは、かすかな耳鳴りだけだった。
キィ――……
キィ――……
骨の奥を擦るような、細い音。
忠壽はそれを聞きながら、ゆっくりと息を吸った。
痛みを飲み込むためではない。
自分が“崩れない”ための呼吸だった。
そこへ、鉄之介がよろけながら戻ってくる。
左腕を押さえ、血が指の隙間から落ちていた。
忠壽ほどではない。
だがこちらは一太刀が深い。
「鉄之介殿!」
吉村が即座に手拭いを取り出し、鉄之介の腕を掴む。
二の腕を一気に縛り上げる。
力加減が容赦ない。
血を止めるための縛りだ。
「……っ、ぐ……!」
鉄之介が歯を食いしばる。
吉村は結び目を締め、ようやく言った。
「鉄之介殿、これで血は止まるかと」
鉄之介は息を吐き、乱暴に笑った。
「ありがてえ……恩にきるぜ」
だが笑いの奥に、悔しさが滲んでいる。
忠壽が刻まれ、己も斬られた。
それでも虎之進を止められなかった。
そして――
その間も、廃村の中心では、三人が動かなかった。
虎之進。
清十郎。
金之助。
睨み合い。
灰が舞い、崩れた家の影が伸び、空気だけが硬く凍っている。
誰かが一歩でも踏み出せば、
次の瞬間には誰かの首が飛ぶ。
金之助は喉を鳴らした。
あの虎之進は――速い。
速いだけじゃない。
“間合いの取り方”が異常だった。
そこへ清十郎が、低く口を開いた。
「金之助」
金之助は反射で、清十郎を見る。
清十郎の目は動かない。
虎之進を捉えたまま、言葉だけが落ちる。
「ここは俺に任せてくれ」
一拍。
「忠壽のもとへ行け」
「しかし……」
金之助が言いかけた瞬間――
清十郎は、言葉を待たなかった。
「お前はまだ、完全な辰の器になっておらぬ」
声音は静かだ。
だがそこに、拒絶が混じっていた。
清十郎の言葉は続く。
「この男は、それでは倒せん」
一拍。
「足手まといになられては困る」
金之助の胸が、ぎゅっと縮んだ。
耳の奥に、辰の鼓動が強く響く。
悔しさで熱くなる。
だが――反論できない。
清十郎の言う通りだ。
今の自分が前に出れば、清十郎の剣筋を乱す。
虎之進の速度の中で、ほんの一瞬の乱れが命になる。
金之助は唇を噛む。
「……う」
言葉が出ない。
清十郎は金之助を見ない。
見ずに言う。
「お前は守れ」
その一言が、余計に刺さった。
“守れ”と言われたのに、“退け”と同じ意味に聞こえた。
金之助は、拳を握った。
脇差の柄を握った指が、白くなる。
――強くなったと思っていた。
双子が繋がった。
あの光を浴びて、何かが変わった。
それなのに。
この距離、この空気、この相手の前では――
まだ、足りない。
金之助はゆっくりと息を吐いた。
そして、清十郎の背中を見た。
清十郎は微動だにしない。
背中が、ひどく遠い。
虎之進が、わずかに笑った。唇だけで。
「……そうか」
虎之進の声が落ちる。
「貴様ひとりでやるのか…。 拙者は何人でも相手するぞ」
その言葉に、金之助の腹が熱くなる。
だが清十郎は、虎之進から目を逸らさずに答えた。
「黙れ」
短い。
刃のように短い。
清十郎の刀身が、微かに橙朱を帯びる。
寅の珠の鼓動が、喉の奥にまで響いているようだった。
金之助は、ゆっくり一歩下がった。
悔しい。
だが――いまは、守るべきものがある。
忠壽の耳が死んでいる。
鉄之介の腕が裂けている。
お菊がここにいる。
金之助は歯を食いしばり、踵を返す。
そのとき、清十郎の声がもう一度だけ落ちた。
「……金之助」
呼びかけは低い。
さっきより少しだけ、柔らかい。
だが次の言葉は――冷たい。
「目を離すな」
金之助は頷いた。
頷くしかなかった。
そして、忠壽のもとへ走りながらも――
背中の奥で感じていた。
清十郎の“気配”が、さっきまでと違う。
静かすぎる。
まるで、怒りを押し殺しているような――
いや。
怒りが、そこに“いる”ような。
虎之進が二刀を持ち上げる。
清十郎が一歩、前へ出た。
その一歩に、廃村の空気が沈む。
そして清十郎が、虎之進へ言った。
「……来い」
虎之進の目が細くなる。
「いいだろう」
灰が舞った。
焚き火もない廃村の闇の中で、寅の橙朱だけが、刃の輪郭を浮かび上がらせた。
――清十郎、ひとり。
虎之進を受け止めるために。
攻略が見えた。
そう思った瞬間だった。
忠壽の世界から――音が、消えた。
焚き火の爆ぜる音も、鉄之介の荒い息も、自分の心臓の鼓動さえも。
すべてが、真綿を詰めたように遠のいて――
次の刹那、完全な無音が訪れた。
忠壽は、目を細める。
(……来たか)
頭のどこかで冷静に理解した。
だが身体が、それに追いつかない。
虎之進が消える。
――いや、消えたのではない。
“聞こえない”だけで、そこにいる。
足音がない相手を追うのに、
最後の頼みはわずかな空気の裂け目と、灰の揺れ。
だが――それだけでは足りない。
耳がある時は、音の“ない”場所が読めた。
今はそれすらない。
忠壽の刀が、ほんの僅か遅れる。
その遅れは、虎之進にとっては“止まっている”に等しい。
次の瞬間。
忠壽の左肩が裂けた。
痛みは遅れて来る。
赤が、夜に散る。
虎之進の刃は止まらない。
忠壽の脇腹。
腿。
腕。
肋。
致命を外している。
――殺さない。
いや、正確には――
“殺さずに刻む”。
忠壽が弱っていくのを見て、
鉄之介が一瞬だけ目を見開いた。
「……忠壽!?」
声が出たが、忠壽には届かない。
届かないと分かっているのに、
鉄之介は叫んでしまった。
忠壽の動きが、奇妙だった。
刀が、受けるべき場所にない。
半歩のズレが、命取りになる。
鉄之介は、自分の目の前の刃を弾きながら、忠壽を見た。
助けたい。
だが助けに行けば、鉄之介自身が裂かれる。
虎之進の二刀は、二人の呼吸を完全に分断してくる。
忠壽は、刻まれていく。
倒れない。
だが、削られていく。
血が落ちる。
足元の灰が、忠壽の血を吸って黒くなる。
鉄之介の歯が軋む。
(くそ……!
俺が――どうにか――)
だが次の瞬間、鉄之介の視界の端から虎之進が消えた。
鉄之介の首筋に、本命の刃。
反射で大槌を上げる。
――ガギン!!
受けた。
受けたが、肘が痺れた。
虎之進の目が、鉄之介の顔のすぐ近くにある。
冷たい。
そして、容赦がない。
虎之進は、鉄之介を切り裂くより先に――
忠壽を“終わらせる”つもりだ。
忠壽が、よろけた。
耳が聞こえない。
呼吸が乱れる。
虎之進が消える。
忠壽の背後に、本命の刃。
忠壽は気配を感じられない。
間に合わない。
鉄之介の目が見開かれる。
(……終わる)
その刹那――
轟音が来た。
音ではない。
衝撃だ。
空気が割れた。
虎之進の本命の刃が、忠壽の背へ落ちる寸前――
横から、眩い閃光が叩き込まれた。
――ドンッ!!
虎之進の身体が、弾き飛ばされた。
地面を滑り、灰を巻き上げ、崩れた家の柱に叩きつく。
忠壽が膝をついた。
鉄之介が、息を呑む。
そこに立っていたのは――
霧島 清十郎。
刀を抜き切った姿で、静かに前に出ている。
さっきまでの“揺れ”が嘘みたいに、その背中は一本の鋼だった。
清十郎の刀身が、淡く橙朱を帯びている。
寅の珠。
忠壽は地面に片膝をついたまま、清十郎を見上げる。
耳が聞こえない。
だが、清十郎の声は“形”として分かった。
「……遅れた」
鉄之介が、血だらけの顔で笑った。
「……やっと来やがったか」
虎之進が、柱を背にしてゆっくり立ち上がる。
その目が、清十郎を捉える。
そして――
僅かに、眉が動いた。
驚きでも、恐れでもない。
“警戒”。
虎之進は、清十郎を知っている。
清十郎は、虎之進を知らない。
だが刃が交わる前から、互いの格を理解していた。
そこへ遅れて――
足音が駆けて来る。
灰を蹴り、息を切らし、それでも迷いなく。
陸奥の金之助。
脇差を握った手が、以前よりも確かに強い。
その柄が、微かに光を帯びている。
辰の珠。
清十郎の刀と、金之助の脇差が、同じ拍で脈打つ。
どくん。
どくん。
夜の廃村の闇に、二つの鼓動が重なる。
鉄之介が、喉の奥で笑った。
「……来たな」
忠壽は血を吐きながらも、唇を歪めた。
耳は聞こえない。
だが目で分かる。
双子が揃った。
龍虎が――揃った。
虎之進が、二刀を構える。
清十郎が刀を正眼に据える。
金之助が一歩前へ出る。
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空気が変わった。
さっきまで“狩る側”だった虎之進が、初めて“狩られる側”の気配を感じた。
鉄之介が忠壽の肩を支えながら、低く言う。
「……忠壽。
今からは、あいつらの番だ」
忠壽は答えない。
答えられない。
だが――
その目は、笑っていた。
そして清十郎が、虎之進へ静かに言った。
「貴様が鷲尾 虎之進か」
虎之進が、冷たく返す。
「……霧島 清十郎」
一拍。
「来るのが遅い」
清十郎の口元が、僅かに上がった。
「悪かったな」
金之助の脇差が、橙朱の光と呼応する。
焚き火のない廃村の闇で、
双子の鼓動だけが、世界を照らした。
――ここからが本当の死闘だった。
忠壽のもとへ、遅れて駆け込んできた影があった。
お菊。
斎藤。
吉村。
夜の灰を踏み荒らし、息を切らしながら――それでも迷いなく、倒れかけた忠壽へ膝をつく。
「殿、大丈夫ですか。……ただちに手当さしあげます」
斎藤の声は低く、落ち着いていた。
焦りは胸の内に押し込み、手だけが早い。
忠壽の肩。脇腹。腕。腿。
深くはない。
だが切り刻まれた傷口は多く、血が全身を濡らしている。
斎藤は迷わず、布を裂き、圧をかける。
止血の位置を一瞬で見極め、傷を覆い、締め、押さえる。
お菊がその横へ寄り、忠壽の顔を覗き込む。
「忠壽様……」
声が震えた。
怯えではない。
痛みに耐える忠壽を見て、胸が締めつけられている震えだ。
忠壽は目を動かした。
お菊の唇が動いているのは見える。
斎藤の指が布を締めるのも見える。
吉村が何かを叫んでいるのも分かる。
――だが、音がない。
忠壽の世界に流れているのは、かすかな耳鳴りだけだった。
キィ――……
キィ――……
骨の奥を擦るような、細い音。
忠壽はそれを聞きながら、ゆっくりと息を吸った。
痛みを飲み込むためではない。
自分が“崩れない”ための呼吸だった。
そこへ、鉄之介がよろけながら戻ってくる。
左腕を押さえ、血が指の隙間から落ちていた。
忠壽ほどではない。
だがこちらは一太刀が深い。
「鉄之介殿!」
吉村が即座に手拭いを取り出し、鉄之介の腕を掴む。
二の腕を一気に縛り上げる。
力加減が容赦ない。
血を止めるための縛りだ。
「……っ、ぐ……!」
鉄之介が歯を食いしばる。
吉村は結び目を締め、ようやく言った。
「鉄之介殿、これで血は止まるかと」
鉄之介は息を吐き、乱暴に笑った。
「ありがてえ……恩にきるぜ」
だが笑いの奥に、悔しさが滲んでいる。
忠壽が刻まれ、己も斬られた。
それでも虎之進を止められなかった。
そして――
その間も、廃村の中心では、三人が動かなかった。
虎之進。
清十郎。
金之助。
睨み合い。
灰が舞い、崩れた家の影が伸び、空気だけが硬く凍っている。
誰かが一歩でも踏み出せば、
次の瞬間には誰かの首が飛ぶ。
金之助は喉を鳴らした。
あの虎之進は――速い。
速いだけじゃない。
“間合いの取り方”が異常だった。
そこへ清十郎が、低く口を開いた。
「金之助」
金之助は反射で、清十郎を見る。
清十郎の目は動かない。
虎之進を捉えたまま、言葉だけが落ちる。
「ここは俺に任せてくれ」
一拍。
「忠壽のもとへ行け」
「しかし……」
金之助が言いかけた瞬間――
清十郎は、言葉を待たなかった。
「お前はまだ、完全な辰の器になっておらぬ」
声音は静かだ。
だがそこに、拒絶が混じっていた。
清十郎の言葉は続く。
「この男は、それでは倒せん」
一拍。
「足手まといになられては困る」
金之助の胸が、ぎゅっと縮んだ。
耳の奥に、辰の鼓動が強く響く。
悔しさで熱くなる。
だが――反論できない。
清十郎の言う通りだ。
今の自分が前に出れば、清十郎の剣筋を乱す。
虎之進の速度の中で、ほんの一瞬の乱れが命になる。
金之助は唇を噛む。
「……う」
言葉が出ない。
清十郎は金之助を見ない。
見ずに言う。
「お前は守れ」
その一言が、余計に刺さった。
“守れ”と言われたのに、“退け”と同じ意味に聞こえた。
金之助は、拳を握った。
脇差の柄を握った指が、白くなる。
――強くなったと思っていた。
双子が繋がった。
あの光を浴びて、何かが変わった。
それなのに。
この距離、この空気、この相手の前では――
まだ、足りない。
金之助はゆっくりと息を吐いた。
そして、清十郎の背中を見た。
清十郎は微動だにしない。
背中が、ひどく遠い。
虎之進が、わずかに笑った。唇だけで。
「……そうか」
虎之進の声が落ちる。
「貴様ひとりでやるのか…。 拙者は何人でも相手するぞ」
その言葉に、金之助の腹が熱くなる。
だが清十郎は、虎之進から目を逸らさずに答えた。
「黙れ」
短い。
刃のように短い。
清十郎の刀身が、微かに橙朱を帯びる。
寅の珠の鼓動が、喉の奥にまで響いているようだった。
金之助は、ゆっくり一歩下がった。
悔しい。
だが――いまは、守るべきものがある。
忠壽の耳が死んでいる。
鉄之介の腕が裂けている。
お菊がここにいる。
金之助は歯を食いしばり、踵を返す。
そのとき、清十郎の声がもう一度だけ落ちた。
「……金之助」
呼びかけは低い。
さっきより少しだけ、柔らかい。
だが次の言葉は――冷たい。
「目を離すな」
金之助は頷いた。
頷くしかなかった。
そして、忠壽のもとへ走りながらも――
背中の奥で感じていた。
清十郎の“気配”が、さっきまでと違う。
静かすぎる。
まるで、怒りを押し殺しているような――
いや。
怒りが、そこに“いる”ような。
虎之進が二刀を持ち上げる。
清十郎が一歩、前へ出た。
その一歩に、廃村の空気が沈む。
そして清十郎が、虎之進へ言った。
「……来い」
虎之進の目が細くなる。
「いいだろう」
灰が舞った。
焚き火もない廃村の闇の中で、寅の橙朱だけが、刃の輪郭を浮かび上がらせた。
――清十郎、ひとり。
虎之進を受け止めるために。
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(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
江戸情話 てる吉の女観音道
藤原 てるてる
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。
本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。
江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。
歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。
慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。
その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。
これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。
日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。
このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。
生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。
女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。
遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。
これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。
……(オラが、遊女屋をやればええでねえか)
てる吉は、そう思ったのである。
生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。
歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。
いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。
女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。
そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。
あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。
相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。
四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。
なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に……
てる吉は、闇に消えたのであった。
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