十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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47 決戦の時

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第十三章 決戦の時

第一話 最弱 最狂の珠 丑の器

 廃村へ向かう街道は、灰に沈んでいた。

 踏みしめるたび、乾いた粉が舞い、朝の光を鈍く曇らせる。
 杉木立は葉を落とし、風の音だけが空洞みたいに鳴っていた。

 列の先頭――馬上にいるのは、佐野ではない。

 加藤成弘だった。

 黒い馬の首が呼吸のたびに上下し、蹄が灰を砕く。
 加藤の背は揺れない。
揺れないからこそ、異様だった。

 武士の背ではない。
獣の背だ。
 殺気が、皮膚の外に滲み出ている。
近づこうとする気配すら拒む。

 列の者たちは無意識に距離を空け、馬の歩幅まで合わせてしまう。

 佐野政親は、その背を半頭ぶん後ろから眺めていた。
 ふつうなら、主君が先頭を行く。

 だが――今はそれが出来ない。
出来ないのではない。
したくないのだ。
 あの男の背中に、手を伸ばしたくない。

 左門が、控えめに口を開いた。
「殿。先に行った虎之進殿と奴ら……既に接触しているやもしれませぬ」

 佐野は視線を前から外さず、淡々と返す。
「……そうか」

 左門は、口角を少しだけ上げた。
笑みというより、“見立て”だ。

「武蔵殿もお蘭殿もおりますれば――もう片がついていても不思議ではないかと」

 前方で加藤の肩が、微かに動いた。
聞いている。
 だが振り向かない。
振り向く必要がない、とでも言うように。

 佐野は、左門の言葉の軽さが気に入らなかった。
そういう時だけ、妙に古い冷たさが滲む。

「そんな簡単な連中には……儂には見えなかったがな」

 左門の笑みが引っ込む。
佐野の声には、戦場の匂いを嗅いだ者の重みがあった。

 列の後方――伊賀衆が、影のように散っている。
武士たちは黙って歩く。
 誰も声を出さない。
出した瞬間、加藤の殺気に喉を押さえつけられそうだった。

 佐野は、馬上で手綱を軽く引いた。
馬が小さく鼻を鳴らす。
「……まあよい」

 一拍。
「加藤が加わった。もう心配はいらぬ」

 その言葉は、誰に言ったものでもない。
自分に言い聞かせるようでもあった。

 佐野は、前の背中へ向けて言葉を投げる。
「なあ、加藤」

 加藤は歩みを緩めない。
馬の耳だけが、佐野の方へぴくりと動いた。

 やがて、加藤は短く言った。
「お任せくだされ」
 声は低い。

 感情がない。
だが、その短さが逆に――怖い。

 左門は、その声を聞いて、背筋を微かに正した。

 (この男は……もう、武士ではない)

 そんな思いが喉元まで来て、飲み込む。

 佐野は、加藤の背を見ながら、ほんの僅かに目を細めた。

 ――丑の器。

 丑の珠を置いた瞬間から、加藤の空気は変わった。
いや、変わったのではない。

 “増えた”のだ。

 加藤の周りに、目に見えない者たちが寄り添っている。
 明るくなりきった空の下でも、暗闇の隙間から、無数の視線が覗いている。

 それが佐野には分かった。
分かってしまうから、背中が冷える。

 加藤は馬上で、ふと首を傾けた。
何かを聞いているような仕草だった。
 列の誰も、言葉を発していない。
それでも――加藤の耳には声がある。

 もっと。
 もっと。
 こっちへ。
 寄こせ。
 ――連れてこい。

 加藤の口元が、わずかに歪んだ。
 佐野は、その歪みを見た瞬間、胸の奥が嫌にざわつく。

 武寛を斬った男の口元に、あんな歪みが乗るのは――

 早すぎる。
佐野は内心で舌打ちした。
 あれほどの魂が、もう染まるか。

 加藤は突然、馬の首を少し振らせた。
まるで鬱陶しい虫を払うように。

 そして低い声で、誰にともなく呟いた。
「……黙れ」

 列の空気が一瞬、凍る。
伊賀衆の気配すら、薄くなる。

 左門が息を呑む。
佐野は動じないふりをした。
 だが、胸の奥にひとつ確信が落ちる。

 ――この男は、もう“制御”の範囲ではない。

 武蔵の暴れ方とは違う。
お蘭の毒とも違う。
虎之進の静けさとも違う。
 別種の災厄。

 佐野は、ゆっくりと息を吐いて言った。
「加藤」

「……虎之進がやられていても構わぬ。珠を取り戻せ」
「巫女と、珠持ちを――必ずこちらへ」

 加藤は返事をしない。
返事を必要としないように、ただ首を少しだけ縦に振った。

 その動きだけで、列の誰もが理解する。

 ――了承した。
 ――そして、約束ではなく、命令として“遂行”する。

 薄い雲が日を遮り、世界が一段白くなる。
 廃村の方角から、風がひゅう、と鳴いた。
 その音が、人の泣き声に似ていた。

 佐野は、村の奥を見据える。
「……あの廃村…。
何が待っているかは分からぬが」

 一拍。
「血が要る日になりそうだな」

 加藤の背中が、わずかに震えた。
 笑いでも怒りでもない。
“喜び”に近い震えだった。

 そして列は、灰の道を進む。
廃村の奥へ。
 すでに忠壽たちが踏み込み、虎之進が交わり、清十郎と金之助が合流した場所へ。

 その先で待つのは――

 戦いではない。
 “狩り”だ。

 廃村に入った瞬間、佐野政親は馬を止めた。
 足元の灰が、ふわりと舞う。
家が潰れ、柱が倒れ、井戸だけが口を開けたまま――

 人の気配のない村だ。

 だが。
村の中央だけが、妙に目を引く。
 大きな焚火があった名残が、灰の山になって残り、燻る熱だけが、薄い煙を立ち上らせていた。

 火の粉はもう飛ばない。
だが、炭の赤い点だけが、時折、息をするように光る。
灰と混ざって、淡く散った。

「……やけに静かだな」
 左門が、低い声で言った。

 静かすぎる。
風の音も、鳥の声もない。
 燻りがはぜる音だけが、妙に大きく響く。

 左門は灰の向こうを睨み、続ける。
「武蔵殿も……虎之進殿も、おらぬようです」

 佐野は返事をしない。
煙の揺れの向こうに、何かがいるようで――

 いないようで。
その“空白”が気持ち悪い。

「調べろ」
短い命令だった。

 左門が頷き、伊賀衆へ手を振る。
音もなく、影が散った。
廃屋の隙間へ。
 崩れた塀の向こうへ。
瓦礫と煙の間へ、忍びの網が張られる。

 燻る灰だけが揺れる。
佐野の馬が小さく鼻を鳴らした。

 ――何も起きない。
 その沈黙が、逆に不気味だった。
 佐野は、手綱を握る指に力が入っているのを自覚する。

 そして――
 遠くで。

 ひとつ、悲鳴が上がった。
短い。
 喉を切られたように、途中で途切れる悲鳴。

 佐野の目が、鋭く細くなる。
左門が即座に刀へ手をかけた。
 
 次の瞬間、別方向から――
「ぐあッ!!」
断末魔が重なる。

 煙の中で、伊賀衆が次々と“消えていく”音。
 刃が肉を裂く湿った音が、燻りのはぜる音に混じる。

「――何だ!」
左門が叫びかけた瞬間、燻る灰の向こうから、影が歩いてきた。

 煙を背負うように、ゆっくりと。
 その姿が明るみに出た瞬間、左門の顔色が変わった。

 鉄之介だった。

 大槌を肩に担ぎ、灰を浴びながら、
 まるで散歩帰りみたいな顔で、灰の輪を跨いで出てくる。

「おせえんだよ」
鉄之介が、鼻で笑った。
「もう完全にお天道様あがっちまったじゃねぇか」

 左門が一瞬、言葉を失う。
目の前の現実が噛み合わない。

「……貴様ッ!」
左門の声が裏返った。

 その瞬間――さらに奥で、また伊賀衆の断末魔。
左門は歯を食いしばり、叫ぶ。

「戻れ! 戻――」
 言い切る前に、灰の周りの影が動いた。

 複数の影。
そして、それは“敵”ではなく――
 煙の薄い光の中へ、ゆっくりと歩いて出てきた。

 中心にいるのは忠壽。

 血の乾いた跡が頬に残り、目だけが冷たい。
 その歩みは落ち着いている。
まるで、ここが戦場ではなく、庭先であるかのように。

 忠壽の左右に、金之助と清十郎が並ぶ。
金之助は脇差を握り、呼吸は整っている。

 昨日までの震えがない。
芯が太くなったような立ち方だ。

 清十郎は――静かだった。
風のように、刃のように、感情を見せずに立っている。

 だが、その目の奥には、何かが潜んでいる。
 煙に照らされるたびに、ふっと影が差す。

 そして。
最後に出てきた影を見て、左門の瞳が大きく揺れる。

 鷲尾 虎之進だった。

 佐野の側にいるはずの男。
先に向かった男。
 その虎之進が、いま、忠壽たちと並んで立っている。

 左門の頭に、最悪の可能性が閃く。
「……虎之進殿……まさか、寝返ったのか…?」

 虎之進は何も言わない。
ただ、煙の薄い光を受けて、目だけが静かに冷たく光る。

 佐野政親は、馬上からゆっくりと周囲を見渡した。

 灰の輪の外。
 家々の影。
 瓦礫の隙間。

 伊賀衆が、倒れている。
気配が、消えている。

 佐野の唇が僅かに歪む。
「……なるほど」
声は静かだった。

 静かだからこそ、底が知れない。
「おびき寄せたつもりが――先に待たれていたか」

 忠壽が、前へ一歩出た。
煙の薄い光が刀の柄を照らす。
 その後ろで、金之助が一瞬だけ目を伏せる。

 “来た”――という確信が胸の奥で鳴っている。
 清十郎は、燻る灰を見下ろしながら、ゆっくりと息を吐いた。
 胸の奥で、寅の鼓動が一拍、強く鳴る。

 “もっと”
誰にも聞こえない声が、清十郎の内側だけに触れる。

 清十郎の指が、ほんの僅かに震えた。
だがそれを、すぐ礼の形で押し殺す。

 鉄之介が、佐野に向けて言った。
軽口のようで、目は笑っていない。

「なあ、佐野の殿さんよ」

 一拍。
「武蔵とお蘭の首、探しに来たのか?」

 その言い方が、燻りよりも熱を生む。
 佐野の背後の家臣がざわめき、刀に手がかかる。

 左門が叫ぶ。
「黙れッ!! その口を――」

 忠壽が、それを遮るように口を開いた。

 声は低い。
「ここは貴様らの舞台ではない」
「……この村は、もう俺たちの場だ」

 燻る灰が、ぱち、と小さく鳴る。

 佐野政親が、馬上からゆっくり笑った。

 声には出さない。口元だけの笑み。
「……面白い」

 そして、灰の輪の外。
家の影の奥で、何かが動いた。

 重い馬の蹄。
 そして、混じる異様な殺気。
 空気が変わる。
 燻りの煙が、一瞬だけ沈む。

 忠壽の目が、影へ向けて細くなる。
 金之助の辰の珠が、胸元でどくん、と鳴った。

 清十郎のこめかみに、細い痛みが走る。

 ズキン。
 ――来る。

 佐野の列だけではない。
もっと厄介な“何か”が、この灰の輪へ近づいている。

 お菊は、遠くの廃屋の影に身を潜めていた。
斎藤と吉村がその前に立ち、息を殺す。

 灰の輪の中で、忠壽たちは動かない。
ただ、来るものを迎え撃つ構えだけを、静かに整えた。

 影の奥から――
馬の影が、ゆっくりと煙の薄い光へ踏み出した。

 その背に乗る者の輪郭が淡い光に照らされて、
人ではないもののように見えた。

 加藤成弘。

 丑の器。

 そして、彼の後ろに――佐野政親が続く。

 廃村の燻りは、“戦い”ではなく、“忍神の珠の決着”を燃やし始めていた。

第二話 魔王 加藤成弘

 影の奥から――
馬の影が、ゆっくりと煙の薄い光へ踏み出した。
 その背に乗る者の輪郭が淡い光に照らされて、人ではないもののように見えた。

 加藤成弘。

 丑の器。

 そして、彼の後ろに――佐野政親が続く。

 廃村の燻りは、“戦い”ではなく、“すべての終わり”を燃やし尽くしていた。

 灰が崩れる音が、一度、大きく鳴った。

 その瞬間。

 煙が揺れただけなのに、
誰も動けなかった。

 ――いや。
動けないのは、煙が美しいからではない。
 馬の背の加藤から溢れてくる“圧”が、この場の空気を、目に見えない鎖に変えていた。

 忠壽が、刀の柄に手をかけたまま硬直する。
 鉄之介は大槌を握り直そうとして、握り直せない。
指が、痺れる。

 金之助は、胸元の巾着を押さえた。
 辰の珠が――今までになく暴れていた。

 熱ではない。
 恐怖に近い脈。

 清十郎は無言のまま、加藤を見ている。

 目が細い。
その眼光だけが、かろうじて“武士の形”を保っている。

 虎之進が、喉を鳴らした。
あの虎之進が、息を呑んだ。

 加藤は馬上から、ゆっくりと灰の輪の中を見下ろした。
 その瞳は、焦点が合っている。
狂っているようには見えない。

 ――だが、正常でもない。

 まるで、
「人を見ている」よりも、
「魂の数を数えている」ような眼だった。

 佐野が静かに馬を進める。
加藤より半歩遅れて。
 主従が逆だと誰もが気づくのに、誰も口に出せない。

 なぜなら――
今の加藤は、誰の“家臣”でもないからだ。

 加藤は馬を止めた。
その瞬間、馬の鼻息すら止まったように感じた。

 加藤が、片手を上げる。
ただそれだけ。
 たったそれだけなのに、
燻る煙が一瞬だけ“沈んだ”。

 煙が揺れたのではない。
沈んだ。
熱が奪われたように、燻りが伏せる。

 そして次の瞬間、
灰の奥で残っていた熾が、倍の勢いで赤く息をした。

 鉄之介が唾を飲んだ。
額から汗が伝い落ちる。
「……なんだよ、あれ」

 声が震えるのを、鉄之介は歯で止めた。
 茶化す言葉が出てこない。
出せない。

 忠壽も、目を細めたまま低く言った。
「……珠が、力が…違う」

「丑の珠は“適合しやすい”と聞いていた。だが――
 これは、適合などという次元ではない」

 一拍。
「器が珠を使っているのではない。
 珠が器を……使っている」

 金之助の背中が冷たくなる。
なぜなら、その言葉は――正しいと直感したからだ。

 加藤は馬上で、ゆっくりと首を傾けた。
 耳を澄ませるように。
――誰かの声を聞いている。

 灰が崩れる音ではない。
風でもない。もっと湿った、人の喉から出るはずのない声。

 加藤の口元が、わずかに歪んだ。
 笑ったのではない。
“聞こえた”から反応しただけだ。
 加藤の肩のあたりで、丑の珠が鈍く光った。

 その光は眩しくない。
むしろ暗い。
暗いのに、目を離せない。

 金之助の視界の端で、
燻る煙が何度も“人の形”に揺らいだ。

 黒屍人の形。

 いや――違う。
あれは黒屍人ではない。
もっと生々しい。

 死んだ者の“影”だ。
加藤の背後に、幾つもの影が重なって見える。

 男。女。老人。子供。
首が落ちた影。腹を裂かれた影。

 手を伸ばして、
こちらを“招いて”いる影。

 ――さみしい。
 ――もっと。
 ――こっちへ。

 聞こえたのは、金之助だけではない。

 お菊が、息を呑んだ。
 斎藤が、顔色を変える。
 吉村は唇を噛み、黙って震えを堪えた。

 清十郎だけが、微動だにしない。
 ただ、目の奥が静かに燃えている。

 加藤が、馬から降りた。
音がしない。
 土を踏んだはずなのに、
落ちたはずの重みが、耳に届かない。

 加藤は一歩、灰の輪へ近づく。
燻る煙が、また沈む。
 そして息をする。
煙が、加藤を恐れている。

 加藤の足元で、土が“鳴った”。
 ミシ、と。

 石畳でもない土が、
圧だけで軋む。

 鉄之介が無意識に半歩下がった。
その足が止まる。

 忠壽が、鉄之介の肩を掴み、押しとどめる。
 逃げるな――ではない。
“今動けば、殺される”と悟ったからだ。

 加藤が、忠壽たちへ視線を向ける。
その目が、淡い光を受けて――
まるで獣の眼のように光った。

 佐野が、後ろから静かに言う。
「……ほう」
 感心したような声。

「集まっておるな。
 珠も、巫女も、器も」

 一拍。
「儂の用意した舞台に、
 よく揃ったものだ」

 金之助が眉をひそめる。
だが反論できない。
 揃ったのだ。
揃ってしまった。

 加藤が、ゆっくりと刀へ手を伸ばした。
 抜く気配はない。
見せつける気配もない。

 ただ――
触れただけで。
 空気が裂けた。
ヒュ……と。

 何かが通った音だけが、
遅れて耳に届く。
 加藤は抜いていない。
刀はまだ鞘の中だ。
なのに、灰の向こうの倒壊した家屋の柱が、斜めに――すっと落ちた。

 切断面は滑らかだった。
誰も言葉を失う。
 加藤は、ただ刀の柄を押さえただけ。

 それだけで、
空気の刃が飛んだ。

 忠壽が、喉の奥で息を漏らす。
「……範囲が……違う」

 鉄之介の目が、見開かれた。
「刀抜いてねえぞ……」

 清十郎が、低く言った。
「抜く必要がないのだろう」
言葉の温度が、氷のように冷たい。

 虎之進は、口の中で呟いた。
「示現流でも……あそこまで“重い”気配は出せぬ」

 その呟きに、
加藤の口元が僅かに動く。

 聞こえたらしい。
加藤はゆっくりと顔を上げ、清十郎を見る。

 目が合った瞬間、
清十郎のこめかみが、ズキ、と鳴った。

 清十郎は眉一つ動かさない。
だが金之助には分かった。
 ――清十郎の中の何かが、反応している。

 加藤が、初めて口を開いた。
「……声が、増える」

 声は低い。
 落ち着いている。

 だが、言葉の意味が狂っている。
「増えれば……強くなる」

 一拍。
「お前たちが……増やすか?」

 燻る灰が、ぱち、と鳴る。
その音が合図のように、全員が一斉に構えた。

 忠壽が一歩前に出ようとする。
だが、清十郎がそれを制した。
剣先を、ゆっくりと上げる。

 清十郎の声が、静かに落ちる。
「……佐野政親」

 名前を呼ぶだけで、
場の空気がさらに薄くなる。
「貴様の切り札は分かった」

 佐野は笑う。
「そうか、なら止めてみよ」

 その言葉のあと、
加藤の足元の影が――
淡い光に引き伸ばされて、獣の形になった。

 そして。
その獣が、灰の輪の中から、ゆっくりと立ち上がった。

 戦う前から、もう勝敗が決まっているような圧。

 だが――
金之助の胸の奥で、辰の珠が強く脈打った。

 恐怖ではない。
怒りだ。
 呼ばれているのではない。
引きずられているのでもない。

 ――ここで、止めろ。
その鼓動が告げていた。

 燻りは、“終わり”ではない。

 “地獄の入口”を、燃やし始めていた。
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