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第一章 ダフネはアポロンに恋をした
18 フェアリーゴッドマザーの魔法
しおりを挟む「責任をとるよう求めた。父親としての当然の主張だ」
昨夜の魔法はとけてしまった。フェアリーゴッドマザーの魔法はいつでも12時までと決まっている。
父親? あなたがあたしの父親であったことなど、あっただろうか。父親の仮面を被ってはいた。魔王のはりぼての上に。
それなのに魔法のとけたあたしはいつも通りこう答える。「はい」それだけ。
「賢治兄さん、それはいつのこと?」
「昨夜だ。充くんが医局で待っていた。蘭くんとともに。院長の兄が許可したそうだ。兄もいた」
「蘭さんも……?」
「当然だろう。君江を害したのは蘭くんだ」
叔父さんは複雑そうに頷いた。
叔父さんはあたしを可愛がってくれている。だから殴られたこと、そのこと自体には叔父さんも叔父さんとして憤ってくれている。だけどそれ以外。過去の恋を忘れられないロマンティストな一人の男としては、蘭さんを許し、救い出したいのだろう。茨の城から。さっそうと剣で絡まるツタを払いのけ、眠れる森の美女のもとへと。おとぎ話のように。
「それで、責任とはどういうことだい?」
責任。独身の女に対する、独身の男が求められる責任。父は男に迫ったのだろうか。脅迫の末の結婚だなんて。目の前が真っ暗になる。
そんなものは望んでいない。この先の未来が余ったクレヨンで塗りつぶされた始まりだなんて、どうして受け入れられるものか。
カラカラに干からびた口の中。息を吸い込むと、小さくひゅっと間抜けな音を生じた。
父が鋭くあたしを一瞥した。
「責任を取れと言ったまでだ」
「……つまり自分で考えろと」
眉をひそめる叔父さんに、険しい顔つきの父が頷く。
「充くんは『俺が君江さんの耳になります』と宣言した」
涙すら出ない。
脅して強制した誓約が嬉しいと? 男の制約にあたしが喜ぶと?
だいたい、耳の怪我など手術をすれば聴覚は戻るだろう。たとえ後遺症が残ったところで、男の人生を賭けるに値しない。だってあたしはちっとも幸せじゃない! この先、男のすべての真心が見せかけなのか本当なのか、のべつ疑って心配して、びくびくと卑屈に怯える人生だなんて!
絶望がひたひたと心のプールを満たして、ぞっとするような冷たい、おぞましい臭気を放つ液体がたぷたぷと揺れている。体中、指のツメの先、髪の毛の先まで呪われた血液が巡っているのだ。震える唇を噛みしめる。
冥王ハデスの目を見てはならない。そうすれば、あたしはまた「はい」と言う他にない。
「…………どうしてですか」
「なに?」
うつむいて父の顔を見ないようにして、震える二の腕を反対の手で握りしめる。ツメをたててきつく、痛みを刻みつける。
「責任なんて、取ってほしくありませんでした。彼を束縛するつもりもありませんでした。謝罪してほしくありませんでした。だって彼のせいではないんです」
男はあんなに神経質に気を配っていてくれた。楽観視して、油断して、最後にバカなことをやらかしたのはあたしで、男にはなんの責任もない。巻き込まれただけなのに。そうだ。男は生まれたときからずっと巻き込まれただけだった。
「つまり君江――あなたは、責任を取るよう求めたことを撤回してほしいと?」
「はい」
「そうか」
父が頷くのがわかった。ほっと安堵する。父が了承してくれた。「ではそのように伝えよう」と。
「ちょっと待って!」
叔父さんの焦った声に顔をあげる。まるで今にも飛び降り自殺をしそうな思いつめた顔つきの若い女の子がそこにいて、ビルの屋上でフェンスにしがみついて引き留めようとしているかのように、切羽詰まった顔つきをしていた。
「彼にどう伝えるつもりなんだ?」
「責任を取る必要はないと。君江が望んでいたと伝える」
「違うよ! そんなことを言ったら、ますますこじれてしまう! どうして兄さんはいつもそうなんだ!」
父はあからさまに機嫌を害した。ぶんぶんとうるさいコバエを睨みつけて『この世界から消えてなくなれ』と心から望んでいるような目で叔父さんを睨みつける。
「いつだって私は娘の望むようにさせている。なぜか? 自分がそうでなかったからだ」
思わぬ言葉にうっかり反論が口から飛び出た。真っ昼間だったけれど、フェアリーゴッドマザーの魔法がわずかに残っていた。
「それならば、なぜ大学を受験させたのですか?」
父は虚を突かれたように目を丸くしたが、眉間の皺は変わらず険しい。
「受験し不合格したという結果がなければ、あなた自身が諦めなければいけない理由を作れなかっただろう。不合格という形で、あなたと周囲と双方納得させることができた」
一族の目だけを気にして受験させたわけではなかったのか。父の眉間に刻まれた皺のうち、あたしのために深くなったものはどれだろう。
「お父さんの気持ちはわかりました。伺ってよかったです。誤解をしていました。これまでの態度を謝罪します。娘として褒められたものではありませんでした」
「あなたは悪くない。すべて私がいけなかった。伝える努力を怠っていたことにようやく気がついた。あなたの望みを叶えているつもりでいたが――」
「君江と呼んでください。『あなた』では寂しいです」
「そうか。君江の望むことはなんだろうか。私は君江と会話をしたい」
「はい。あたしも、お父さんと会話をしたいです」
厳格な表情は変わらず、いつものように威圧的に頷く父。
いつか父と向かい合うだけでなく、ソファーで肩を並べてコーヒーマグを手に、お互いのマグから立ち上る湯気を、お互いの息で揺らすことができるだろうか。父の大事にしていたドーリー・ウィルソンの『アズ・タム・ゴーズ・バイ』のLPレコードを壊したのが、あたしではなく、実は母だったのだと打ち明ける日がくるだろうか。
いつか母に、祖母から譲り受けたルビーとダイヤの指輪を手渡すことが、できるだろうか。
父が母に婚約指輪として贈り、結婚生活が破綻した後に母が祖母に預けた指輪。あれは母にとって、人質だったのだ。
「私達は会話が少なかった。家に戻ってくるか?」
「いいえ。あのアパートで彼を待ちたいと思います」
「そうか。では先ほどの、撤回するという話はどうすればよいだろうか」
「責任を取ってほしくないと。そう望んでいるとお伝えください」
「わかった。そうしよう」
叔父さんは呆れたように首を振った。あたし達に聞かせるように、大きなため息をついて。
翌日の手術は無事成功した。
少しして叔父さんは蘭さんと復縁した。伯母さんは呆れていた。父は何も言わなかった。叔父さんから男がホストを辞めたことを聞いた。蘭さんから謝罪の申し出があったけれど断った。
男は戻らなかった。
しばらくして再び難聴と平衡障害とめまいを覚え、耳鼻咽喉科を受診したところ、外リンパ瘻ではないかと言われた。入院して安静による保存的治療をと担当医師に勧められ、再度入院した。症状の改善が見られず、手術に踏み切ることになった。
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