5 / 21
本編
第五話 アーニャの旅立ち
ようやくガルボーイ王国国内が落ち着いたのは、アンナが十八歳になった春のこと。
ガルボーイ王国国王はゲルプ王国国王、グリューンドルフ公爵に厚く謝辞を示し、アンナを国元へ戻すと告げた。
アンナに恋い焦がれるバルドゥールは、ガルボーイ王国の情勢を常に気にかけていた。そのため、ガルボーイ王国国王がアンナを国に戻す判断を下す時期がきたことを、少し前から察していた。
わかってはいたが、恋心はそれについていかない。
これまでのように気軽には会えなくなってしまう。悲しみに胸が引き裂かれそうだった。
が。しかし。
この六年間。バルドゥールは無為に過ごしてきたわけではない。
会える日は常にアンナに愛を囁いてきたし、アンナからの反応も上々。
それにゲルプ王国としてはガルボーイ王国に多大なる協力をした、と思う。
何しろガルボーイ王国王位継承権第一位である第一王女を、十八年もの間匿ってきたのだ。
ちょっとくらいの無理はきくだろうし、おそらくガルボーイ王国側としても、内乱がおさまったとはいえ、まだまだ国内に目を光らせる必要のある現状、今が狙い目とばかりに他国からの侵略を防ぐためにも。友好の証として、ゲルプ王国の第三王子であるバルドゥールがアンナの婿となるのは、願ったり叶ったりだろう。
そう。だから楽観視していた。
バルドゥールとアンナは結ばれてしかるべきだと。
「バル。わたしはガルボーイ王国に戻ることとなったわ」
「うん。アーニャ。とても寂しくなるよ。しばらく君に会えないなんて」
切なげにアンナの髪を撫でるバルドゥールに、アンナは眉を顰めた。
「あら。それだけ?」
「それだけって……?」
戸惑うバルドゥールに、アンナは溜息をついた。
「いえ、なんでもないわ。忘れて」
何か不穏なものを感じたバルドゥールは、アンナに縋った。
「なんでもないなんてことはないでしょ? 気になるよ。アーニャのことはなんでも知りたい。なんなの? 教えて」
真剣な目でアンナを見つめるバルドゥールにアンナはたじろぎ、視線を彷徨わせる。
バルドゥールの中で徐々に不安が募っていく。
――いや、大丈夫。僕以上にアーニャに相応しい男はいないじゃないか。
アンナはしばらく逡巡すると、決意したようにバルドゥールの目を見た。
「バルは『海を渡ったアーニャ』を読んだことはある?」
突然ガルボーイ王国の絵本を話題に出され、バルドゥールは面食らった。
「いや……残念ながらないな」
アンナが国に戻ることと幼児向けの絵本と、何の関係があるのだろう? バルドゥールは首をひねった。
アンナは重い溜息をついて、視線を下に向けた。
「あの絵本は、ガルボーイ王国の建国にまつわる逸話を描いたものなの」
そういえば、ガルボーイ王国の初代国王は女王だった。
バルドゥールは思い出す。確か、冒険女王アーニャの名で親しまれていたとか……。
そこまで思い出すと、バルドゥールは目を剥いた。
「まさか……!」
「そのまさかなのよ」
重々しく頷くアンナ。
「ガルボーイ王国の王女が女王になるには、ふざけた慣習があるの」
ここ二百年余り、ガルボーイ王国は女王が立つことがなかった。それだから愛しいアンナの国であるガルボーイ王国について詳しく学んでいたバルドゥールも知らなかった。
そもそもゲルプ王国に在住するガルボーイ王国の歴史家すら、知らなかったのだろう。
「今のガルボーイ王国に、私以外の王族直系はいないの。王家への忠誠厚い傍流の者なら数名いるけど、今の情勢で傍流の者を王に立てるのは、危険すぎるわ」
だいたいガルボーイ王国は初代国王が女王なくらいで、女王に寛容な国だ。
というより、この危機的状況をなんとか乗り越えた今。伝説の初代女王と同名のアンナは、国民から誰より即位を望まれている王女である。
「王女が女王になるために乗り越える試練があって……。もうっ! この状況下で、呑気に冒険なんてしている場合じゃないのに!」
アンナが憤懣やるかたないといった様子で唇を噛みしめる。
ふっくらと愛らしいアンナの唇が傷つくことを恐れたバルドゥールは、そっと親指でアンナの唇をなぞった。
途端にアンナはびくりと肩を揺らし、真っ赤に染め上げた顔でバルドゥールを見上げる。
――なんて可愛いんだろう。
何度繰り返し愛を囁いても。幾度となく触れても。
いつまでも初々しく頬を染めるアンナに、バルドゥールはたまらずアンナの全てを奪ってしまいたくなる。
これまでアンナの身の上を明かせずにいたため、確たる約束を交わせずにいたが、今なら堂々とガルボーイ王国を通じて正式に婚約を申し込める。
既に父であるゲルプ王国国王には承諾を得ている。でもその前に。
「アーニャ、僕の最愛。君が女王になるための旅に、どうか僕も共に連れて行ってくれないか」
アンナは目を見開いた。
バルドゥールはアンナの頬を撫で、唇にそっと口づける。
触れるだけの口づけ。柔らかく甘いアンナの唇に、もっと、もっと、と深く酔い痴れたくなる欲望を理性で押さえつける。
「ねえアーニャ。僕はきっと役に立つよ。これでも剣の腕は立つんだ。各国の地理や文化にもそれなりに通じているし、複数言語も王族として習得してる。まあこれはアーニャも同様だろうけど……」
義理の兄フルトブラントとは違い、アンナがこれまでガルボーイ王国王女として、相応しい教養知識を積み重ねていた。バルドゥールはよく知っている。
だけど。
「ゲルプと国交のある国ならば、僕の名は利用価値があると思うんだ」
つい最近まで不安定な政情にあったガルボーイ王国の王女が、自国の護衛騎士と共にあるだけより。
ここ数十年大きな争いもなく、それなりに豊かで、落ち着いたゲルプ王国。その第三王子たるバルドゥールが加われば、アンナの冒険はずっと楽になるに違いない。
バルドゥールは確信していた。
それに。何よりも。
大好きなアンナと共に世界中を冒険出来るなんて、わくわくする!
王子として王城の執務室に籠って事務仕事に時間を費やすことに比べ、なんて魅力的なことだろう!
少年の頃、夢中で読みふけった冒険譚をまさか王子の身にありながら経験することができるなんて!
バルドゥールは期待に満ちた目で、アンナからの肯定を待つ。
――さあアーニャ! 僕と一緒に旅立とう!
ガルボーイ王国国王はゲルプ王国国王、グリューンドルフ公爵に厚く謝辞を示し、アンナを国元へ戻すと告げた。
アンナに恋い焦がれるバルドゥールは、ガルボーイ王国の情勢を常に気にかけていた。そのため、ガルボーイ王国国王がアンナを国に戻す判断を下す時期がきたことを、少し前から察していた。
わかってはいたが、恋心はそれについていかない。
これまでのように気軽には会えなくなってしまう。悲しみに胸が引き裂かれそうだった。
が。しかし。
この六年間。バルドゥールは無為に過ごしてきたわけではない。
会える日は常にアンナに愛を囁いてきたし、アンナからの反応も上々。
それにゲルプ王国としてはガルボーイ王国に多大なる協力をした、と思う。
何しろガルボーイ王国王位継承権第一位である第一王女を、十八年もの間匿ってきたのだ。
ちょっとくらいの無理はきくだろうし、おそらくガルボーイ王国側としても、内乱がおさまったとはいえ、まだまだ国内に目を光らせる必要のある現状、今が狙い目とばかりに他国からの侵略を防ぐためにも。友好の証として、ゲルプ王国の第三王子であるバルドゥールがアンナの婿となるのは、願ったり叶ったりだろう。
そう。だから楽観視していた。
バルドゥールとアンナは結ばれてしかるべきだと。
「バル。わたしはガルボーイ王国に戻ることとなったわ」
「うん。アーニャ。とても寂しくなるよ。しばらく君に会えないなんて」
切なげにアンナの髪を撫でるバルドゥールに、アンナは眉を顰めた。
「あら。それだけ?」
「それだけって……?」
戸惑うバルドゥールに、アンナは溜息をついた。
「いえ、なんでもないわ。忘れて」
何か不穏なものを感じたバルドゥールは、アンナに縋った。
「なんでもないなんてことはないでしょ? 気になるよ。アーニャのことはなんでも知りたい。なんなの? 教えて」
真剣な目でアンナを見つめるバルドゥールにアンナはたじろぎ、視線を彷徨わせる。
バルドゥールの中で徐々に不安が募っていく。
――いや、大丈夫。僕以上にアーニャに相応しい男はいないじゃないか。
アンナはしばらく逡巡すると、決意したようにバルドゥールの目を見た。
「バルは『海を渡ったアーニャ』を読んだことはある?」
突然ガルボーイ王国の絵本を話題に出され、バルドゥールは面食らった。
「いや……残念ながらないな」
アンナが国に戻ることと幼児向けの絵本と、何の関係があるのだろう? バルドゥールは首をひねった。
アンナは重い溜息をついて、視線を下に向けた。
「あの絵本は、ガルボーイ王国の建国にまつわる逸話を描いたものなの」
そういえば、ガルボーイ王国の初代国王は女王だった。
バルドゥールは思い出す。確か、冒険女王アーニャの名で親しまれていたとか……。
そこまで思い出すと、バルドゥールは目を剥いた。
「まさか……!」
「そのまさかなのよ」
重々しく頷くアンナ。
「ガルボーイ王国の王女が女王になるには、ふざけた慣習があるの」
ここ二百年余り、ガルボーイ王国は女王が立つことがなかった。それだから愛しいアンナの国であるガルボーイ王国について詳しく学んでいたバルドゥールも知らなかった。
そもそもゲルプ王国に在住するガルボーイ王国の歴史家すら、知らなかったのだろう。
「今のガルボーイ王国に、私以外の王族直系はいないの。王家への忠誠厚い傍流の者なら数名いるけど、今の情勢で傍流の者を王に立てるのは、危険すぎるわ」
だいたいガルボーイ王国は初代国王が女王なくらいで、女王に寛容な国だ。
というより、この危機的状況をなんとか乗り越えた今。伝説の初代女王と同名のアンナは、国民から誰より即位を望まれている王女である。
「王女が女王になるために乗り越える試練があって……。もうっ! この状況下で、呑気に冒険なんてしている場合じゃないのに!」
アンナが憤懣やるかたないといった様子で唇を噛みしめる。
ふっくらと愛らしいアンナの唇が傷つくことを恐れたバルドゥールは、そっと親指でアンナの唇をなぞった。
途端にアンナはびくりと肩を揺らし、真っ赤に染め上げた顔でバルドゥールを見上げる。
――なんて可愛いんだろう。
何度繰り返し愛を囁いても。幾度となく触れても。
いつまでも初々しく頬を染めるアンナに、バルドゥールはたまらずアンナの全てを奪ってしまいたくなる。
これまでアンナの身の上を明かせずにいたため、確たる約束を交わせずにいたが、今なら堂々とガルボーイ王国を通じて正式に婚約を申し込める。
既に父であるゲルプ王国国王には承諾を得ている。でもその前に。
「アーニャ、僕の最愛。君が女王になるための旅に、どうか僕も共に連れて行ってくれないか」
アンナは目を見開いた。
バルドゥールはアンナの頬を撫で、唇にそっと口づける。
触れるだけの口づけ。柔らかく甘いアンナの唇に、もっと、もっと、と深く酔い痴れたくなる欲望を理性で押さえつける。
「ねえアーニャ。僕はきっと役に立つよ。これでも剣の腕は立つんだ。各国の地理や文化にもそれなりに通じているし、複数言語も王族として習得してる。まあこれはアーニャも同様だろうけど……」
義理の兄フルトブラントとは違い、アンナがこれまでガルボーイ王国王女として、相応しい教養知識を積み重ねていた。バルドゥールはよく知っている。
だけど。
「ゲルプと国交のある国ならば、僕の名は利用価値があると思うんだ」
つい最近まで不安定な政情にあったガルボーイ王国の王女が、自国の護衛騎士と共にあるだけより。
ここ数十年大きな争いもなく、それなりに豊かで、落ち着いたゲルプ王国。その第三王子たるバルドゥールが加われば、アンナの冒険はずっと楽になるに違いない。
バルドゥールは確信していた。
それに。何よりも。
大好きなアンナと共に世界中を冒険出来るなんて、わくわくする!
王子として王城の執務室に籠って事務仕事に時間を費やすことに比べ、なんて魅力的なことだろう!
少年の頃、夢中で読みふけった冒険譚をまさか王子の身にありながら経験することができるなんて!
バルドゥールは期待に満ちた目で、アンナからの肯定を待つ。
――さあアーニャ! 僕と一緒に旅立とう!
あなたにおすすめの小説
イリス、今度はあなたの味方
さくたろう
恋愛
20歳で死んでしまったとある彼女は、前世でどハマりした小説、「ローザリアの聖女」の登場人物に生まれ変わってしまっていた。それもなんと、偽の聖女として処刑される予定の不遇令嬢イリスとして。
今度こそ長生きしたいイリスは、ラスボス予定の血の繋がらない兄ディミトリオスと死ぬ運命の両親を守るため、偽の聖女となって処刑される未来を防ぐべく奮闘する。
※小説家になろう様にも掲載しています。
【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜
井上 佳
恋愛
婚約者に裏切られた侯爵令嬢は、
嘆くことも、復讐に走ることもなかった。
彼女が選んだのは、沈黙と誇り。
だがその姿は、
密かに彼女を想い続けていた第三王子の心を動かす。
「私は、国よりも君を選ぶ」
婚約破棄、王位継承、外交圧力――
すべてを越えて選び取る、正統な幸福。
これは、
強く、静かな恋の物語。
2026/02/23 完結
ある日、私は事故で死んだ───はずなのに、目が覚めたら事故の日の朝なんですけど!?
ねーさん
恋愛
アイリスは十六歳の誕生日の前の日に、姉ヴィクトリアと幼なじみジェイドと共に馬車で王宮に向かう途中、事故に遭い命を落とした───はずだったが、目覚めると何故か事故の日の朝に巻き戻っていた。
何度もその日を繰り返して、その度事故に遭って死んでしまうアイリス。
何度目の「今日」かもわからなくなった頃、目が覚めると、そこにはヴィクトリアの婚約者で第三王子ウォルターがいた。
「明日」が来たんだわ。私、十六歳になれたんだ…
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。