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第三十四章

『私じゃない違う名前…』

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 ジョンは夢の中に居た。

・・・・・・・・・・・・・

 ジョンは斧を何度も何度も振り落としていた。

 ジョンの顔は血吹雪で真っ赤に染まっていた。

 目の前に横たわる黒い物体に対して、何の感情も抱くことはなく、ただひたすら斧を振り落としていた。

 その黒い物体は熊のようであった。

 ジョンは熊が絶命したかどうか熊の頭も数回、足で蹴り、微動だにしないことを確認すると、腰元からナイフを取り出して、熊の口を開くと、その凶暴な牙をくり抜いた。

 そして、ジョンは完全に死体と化した熊を見遣りながら、その側の倒木の上に腰掛けた。

 胸元のポケットからタバコを取り出し、ジッポライターで火をつけた。

 タバコの煙は、まるで白蛇のように空気中を重たく蛇行した。

 倒木の向こう側の藪の中から動物の鳴き声がした。

 ジョンはタバコの吸殻を藪の中に放った。

 すると、慌てて二匹の小熊が飛び出して来た。

 小熊らはジョンの存在に怯えることもなく、ジョンの足元に擦り寄って来た。

 ジョンは小熊に言った。

『俺じゃない。お前らの母親はそっちだ。』と

 だが、小熊らが母熊に擦り寄る様子はなかった。

『お前ら、もう母親が役に立たないことを分かってるのか。』

『お前ら、悲しいくないのか。母親を殺されて何とも思わないのか。』

 ジョンは足元に擦り寄る小熊らにそう言うと、一匹の小熊を両手で掴み、小熊の小さい眼を見つめながら、こう言った。

『俺もお前らと同じだ。母親の死体に何の感情も抱かなかった。ただ、生き延びようと泣き喚いていただけだ。

 本能は愚かなもんだ。

 生き延びようなど…

 あの時、死んでいれば、何の苦しみも味わずに済んだのに。』と、

 ジョンは小熊を降ろすと、母熊の死体に突き刺したままであった斧を取りに行き、斧を抜き取ると、小熊らに近寄った。

『生き延びる必要はないんだ。生き延びて何になるんだ。苦しむだけだ。』

 ジョンは小熊でなく自分自身に言い聞かせるよう呟くと、小熊に斧を振り落とした。

・・・・・・・・・・・・・

「あっ!」と悲鳴のような声を上げ、ジョンは目を覚ました。

「ジョン。大丈夫よ。もう大丈夫。」

 ジョンの視界に浩子の顔が飛び込んで来た。

「此処は…」

「病院よ。サンタフェに着いたのよ。」

「小熊は…、二匹の小熊は…」

「小熊…?、ジョン、夢を見たのね。」

 浩子はジョンの額に滲む汗をタオルで拭うと、病室から出て、廊下のソファーに居るバーハム神父にジョンの意識が戻ったことを伝え、ナースセンター室にもその旨を伝えに行った。

 バーハムが病室に入って来た。

「バーハム神父…」とジョンは言いながら起きあがろうとした。

 バーハムはジョンに近寄り、「起き上がらなくてもよいから。」と言い、椅子に腰掛けた。

「ジョン、大変な休暇となったな。私がジープをあげたばっかりにこんな事になってしまって。」
 
「いえ、僕がうかつだったんです。
無謀でした。」

「浩子からは旅の経緯は聞いたよ。」

「いろいろな真実が分かりました。」

「ジョン、本当は君は知らなくても良かったんだよ。」

「……………」

「まぁ、急ぐでない。暫くは、此処で静養するんだ。」

「神学校の入学式には…」と言いながら、ジョンは起きあがろうとしたが、両腕から激痛がした。

 ジョンは慌てて自分の両腕を見ると、包帯で巻かれていた。

「ジョン、入学式は無理だよ。腕よりも左脚の方が重症だ。」

 ジョンは左脚を動かそうとしたが、全く動かなかった。

 その時、病室に浩子に伴い主治医と看護師が入って来た。

「意識が戻りましたか!良かった!」と言い、主治医はジョンに近寄り、胸元を開き、聴診器を当てた。

「心臓の鼓動も正常です。臓器障害の恐れはないでしょう。」

 そして、主治医はジョンにこう言った。

「ブラッシュさんは、左太腿からの出血で3日間、意識を失っていたんですよ。」と

 ジョンは主治医に尋ねた。

「あの…、左脚が動かないんです。」と

 主治医は『やはり』と言う表情でジョンにこう説明した。

「左大腿部の筋肉損傷、いや、筋肉断裂です。全治3か月です。その他、両腕にも咬まれた深い損傷があります。」と

「脚は動くようになるんですか?」

「……、時間が掛かります。神経も断裂していますから、感覚が戻るまで1か月は掛かると思います。」

 それを聞いたジョンは何かを諦めたように目を閉じた。

 主治医は看護師に抗生物質の点滴の取り替えを指示し、そうしてジョンにこう説明した。

「ブラッシュさん、今から意識障害の検査を行います。私が質問するので答えてください。」

 ジョンは目を閉じたまま頷いた。

 浩子とバーハムが席を立とうとしたが、主治医は一緒に立ち会って欲しいと2人を引き留めた。

 主治医はジョンに質問した。

「貴方は熊に襲われた時の事を覚えていますか?」

「覚えています。」

「思い出す事が怖くないですか?」

「怖くはないです。」

「襲われた時の状況を説明してください。」

「分かりました。」

 ジョンは一部始終を正確に説明した。

 主治医はそんなジョンに不思議な違和感を抱いた。

『意識障害は見られない。PDSTの精神障害も全くない。熊に襲われた恐怖の微塵も感じさせない。
ある意味、普通ではない…』と

 主治医はジョンの説明を聞き終わると、

「ブラッシュさん、大量失血による意識障害も大丈夫です。

 後は、傷口の化膿止めとして、暫く抗生物質の点滴を投与します。

 2週間は安静にしておいてください。」と今後の治療方針を説明した。

 主治医が病室を出ると看護師がジョンにこう言った。

「ブラッシュさん、何かご不便なことがありましたら、このブザーでナースステーションを呼んでください。」

 ジョンは頷きながら、脚を動かそうとしていた。

 それに気付いた看護師は、

「ブラッシュさん、ベットから起き上がる時は右足から動かし、この松葉杖を使ってください。」と言い、ベットサイドに立て掛けている松葉杖を指差した。

「動いていいんですね?」

「意識障害が無いので大丈夫ですよ。ただ、両腕の痛みが引かないと松葉杖を持つこともできないと思いますので、2、3日は無理せずに、何かあれば、私を呼んでください。」

 そう言うと看護師は病室を後にした。

「ジョン、良かったわ。大事にならなくて…」と浩子が微笑みながら言った。

「浩子が僕を助けてくれたのかい?森の中から…」

「うん、凄い声が聞こえたから外に出たの。そしたら、ベガが怯えていたの。私、ジョンに何かあったと思って…、森に入ったら、ジョンが木に寄りかかって…、」

「そうか…、此処にはどうやって?」

「森林保安官、あの湖であった2人が助けに来てくれて、救助ヘリを呼んでくれたの。」

「そうか、あの森林保安官が…」

「ジョンはずっと意識を失っていたの。意識が戻って良かった…」

「浩子、ごめんね。心配かけて。これで旅行も台無しだ。」

「いいの!ジョンが無事だったから、それだけでいいの!」

 浩子の瞳に涙が溢れていた。

 バーハムがジョンに今後の事を説明した。

「ジョンは主治医が許可するまで、此処にいるんだよ。
 浩子は私と一緒にシアトルに戻るよ。」

 ジョンはこくりと頷き、

「ありがとうございます。何から何までご迷惑をお掛けして。」とバーハムにお礼を言った。

「無事で良かった。浩子の電話を受けた時は慌てたよ!浩子は泣いてばかりでね。」

 浩子がうつむき加減にこう囁いた。

「私…、ジョンが良くなるまで、此処に居たい。」と

 ジョンが浩子に言った。

「浩子、僕はもう大丈夫さ。直ぐに退院してシアトルに戻るよ。」と

 浩子は、やはりうつむき加減で何も言わず頷くだけであった。

 浩子は何か不安な感じを抱いていた。
 ジョンと離れたら、2度とジョンが戻って来ないような、そんな不安を抱いていた。

 バーハムがジョンに言った。

「浩子のことは心配要らない。私が一緒だからね。それと、神学校の講師の件も私から事情を説明しておくので。」と

 ジョンはバーハムに重ねてお礼を言った。

 そして、浩子に思い出したように尋ねた。

「浩子、馬は、ベガは?」

 浩子は「あっ」と顔上げ、泣顔から笑顔になり、こう言った。

「そうそう!ベガね!森林保安官のビリーさんとマリアさんが当分預かってくれるんだって!」

「森林保安官、マリア…」

「そんなんだよ。ジョンのお母さんと同じ名前なのよ。」

「そんなんだ。」

「ちゃんと世話をしておくから、良くなったら迎えに来て下さいと言っていたわ。」

「そっか」とジョンは安心したように呟いた。

「私、明日も来るから。ジョン待っててね。」

「うん、待ってるよ。」

 そう言うと、ジョンは目を閉じた。

「ジョンは疲れたみたいだ。浩子、そろそろ、我々もホテルに戻ろう。明日も来れば良いから。」とバーハムが浩子を促した。

 浩子も頷き、椅子から立ちあがろうとした。

 その時、ジョンが小さく囁いた。

「マリア…、マリア…か」と

「えっ?」と浩子はジョンに何と言ったのか、確認しようとしたが、ジョンは眠っていた。

 浩子は再度、バーハムに促され、病室を出ようとしだが、もう一度、ジョンを見つめ直した。
 ジョンの囁いた言葉が気になっていた。

『ジョンが2回も同じ名前、私じゃない、他の名前を…』と
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